夏の夜。田舎の風景が広がっていた。アスファルトの道路に街灯は一つだけ。灯りに群がるように大きな蛾がぐるぐると回り、火に近づきすぎて羽が燃える。紙切れみたいに地面に落ちて、渾身の力を込め体を持ちあげ、再び光へ向かおうとしたけれど、叶わずに息絶えた。
にっかり青江は一部始終を眺めていたが、蛾はまもなくピクリとも動かなくなってしまったので、仕方なくまわりを眺めた。田んぼと、山と、少しの民家。家はどれも平家だった。本丸より何倍も小さいが、こんなものだろうと思う。
立ち止まって少しだけ考えてみた。
そう、あれはほんの数分前のこと。
少しの浮遊感のあと、地面に脚をつけた瞬間から違和感に気がついた。その場にいたのが自分一人だけだった。あれ、と思う。おかしいな。五人いたのに誰もいなくなっている。
夜風が歓迎するみたいに優しく頬を撫でる。行き先――というか、帰り道がまるで分からなかったけれど、なんとなく足を動かした。止まっていても何も始まらないし、景色が動いていた方が、思考がまとまるような気がしたからだ。
散歩をするような気軽さであぜ道を歩く。蛙の声が四方八方からしていた。そして、道路脇に流れる堀がたてる水音。夏の夜はやさしい。夏は青江の一番好きな季節だった。その中でも特に好きなのは、こんな静かな夜だった。
いつまでもこうして彷徨っていたい気もしたけれど、そうも言ってはいられない。己には責務があるからだ。敵を斬ること。たったそれだけ。なんてシンプルでわかりやすい役目なのだろう。
今回の遠征のメンバーに青江が選ばれたのは、敵が一筋縄ではいかなかったからだ。それは、さまざまな怨念をからみとって肥大化した存在だった。土地の力と、周りの魂――所詮幽霊だが、闇を飲み込んでどんどん力を増していった。
「困ったな」
言葉と裏腹に、全く困っていない様子で彼は呟いた。ちょうど分かれ道があった。道は二股になっていて、どちらも闇に飲まれて先が見えない。
なんだか人生に似ているな、と思いながら右側に足を進める。ほとんど直感だった。考えがあって進んでいるわけではない。でもしいて言うなれば――蛍が一匹飛んでいた。それは酷く命の灯に似ていて、心を強く惹かれたのだ。こちら側を選んだ理由は、ただそれだけだった。
歩みを進めると蛍がぽつぽつと増えていく。ふらふらと視界を横切る灯火を目で追うと、道路脇に黒い塊を見つけた。
それまでぼんやりとしていた青江の表情が一瞬で変化した。瞳に力が宿る。隠れていない方の目でじっと塊を見つめながら彼は右手を腰に持っていく。
カチャ、と刀が硬質な音を立てるのと同時に闇が動いた。うずくまっていたものが恐る恐る顔をあげる。そこにいたのは、なんの変哲もない少女だった。
なんだ。拍子抜けしながら刀を鞘に収めた。少女は驚いて口を開けたまま青江を凝視している。暫く見つめあっていたけれど、違和感が体を包んだ。
「僕の姿が、見えているのかい?」
疑問をそのまま口にすると、少女はこくりと頷いた。白い剥き出しの腕に蚊が止まっていたから、傍にしゃがみこんで、ぺち、と肌を叩いた。蚊は一瞬で天に召されて地面に落ちる。さっきの蛾と全く同じふうに死んでいったから、青江はおかしく思って口角をあげた。
「あなたは、お化けなの?」
急に触れられたことに抗議の声もあげずに少女はいった。青江はますます口角をあげる。
「そうだよ。しかも、悪いほうの」
爪の先で刺されたところを軽く引っ掻きながら答える。触ったのは好奇心ではなく、確かめたかったからだ。指がすりぬけるかと思ったが、予想に反して爪は肌に柔らかく食い込み、少女は顔を歪めて「痒くなるからやめて」と言った。
「もう家にお帰り」
青江はたしなめるように言った。辺りの空気が重くなっている。これは良くない兆候だった。
「私が何をしていたか聞かないの?」
「興味がないからね。僕にはどうしようも出来ないし」
少女は驚きで瞳を丸くした。青江が立ち去ろうと腰を浮かすと、手首を掴まれてしまう。案外力が強い。
焦って、そして自分自身でも困惑しながら、彼女は口を開いた。
「家に来て」
にっかり青江は特に迷うこともなく頷く。
どうせ行くところもないし、連絡が来るまで待つしかないのだ。
▽
玄関は広くて清潔だった。地面に植木鉢が置かれていて、大きな花が生けてある。履いていたブーツを脱いで端に綺麗に寄せ、おじゃまします、と言いながら式台に足を置いた所で少女は笑った。
「変なの。お化けなのに礼儀正しい」
「おや。偏見は良くないよ」
適当に返すが、彼女は特に疑問を抱かなかったようだ。くすくすと笑っている。
「一人でそうしていると、頭のおかしな子だと思われてしまうよ」
ぴたり、と笑い声がやむ。空気が一段冷え込んだ。
「もう思われているから平気」
能面のような顔をしながらつぶやいた少女は、「こっち」と廊下の奥へ進んでいくので、青江は肩を竦めた。
木の床版は体重をかけるたびにミシミシと音を立てた。
家はまるでお化け屋敷のようだった。広さは庭も合わせて二百坪はありそうだが、どこもかしこも古びてガタガタだった。そして物が多い。いたる所に、よく分からない形の置物や書類が無造作に置いてある。少女はそれらをチラリと見て、「祖母が物を捨てられないたちなの」と呟いた。
青江はそのまま少女の後ろ姿を追った。心なしか足の裏がざらざらとしている気がして、早くもここへ来たことを後悔した。掃除をきちんとしたら幾らかはましになるのに。家自体は古いが、それは何年も歴史を積み重ねできたからで、梁などは立派だった。
そうこうしているうちに少女はある部屋の前で立ち止まり、当然のように障子を引いた。そのまま室内に足を踏み入れたので青江も後に続く。何の変哲もない和室だった。部屋は十畳程度で、室内の真ん中に布団が敷いてある。
少女は部屋の中心まで行くと困ったように青江を見つめた。彼はにっこりと笑って、
「気にしないで。僕は幽霊だから布団はいらないし、適当にそこらで過ごしているから」
と、言った。
少女はあからさまにほっとした表情を浮かべると、布団の端をめくった。そしてするりともぐりこむと、うつ伏せになり、青江を見つめる。
「貴方は刀を持っているけど、それは幽霊でも切れる?」
青江は鼻で笑ってしまいそうになった。僕に幽霊が切れるか、だなんて。切れるに決まっている。自身は女の幽霊を切った逸話を持つ、刀の神なのだから。しかしそんなことを目の前の少女は知りもしないので、青江は意味ありげに笑った。
「さぁ、どうだろう。切れるかもしれないし、切れないかもしれない」
少女は途端に残念そうな顔を浮かべた。そして、布団を巻き付けるようにして眠ってしまう。青江は近くの柱に背を預けながらしゃがみこんだ。ここからは、少女の、形のよいつむじが良く見える。
一息ついて刀を腰から外すと、ぐるりと辺りを見渡した。
室内の構造はいつも暮らしている本丸とよく似ていた。天井は高く、畳が敷かれている。しかし唯一本丸とは違うのは、畳は古びて黄色くなっており、ところどころさかむけて肌をちくちくと刺すことだった。指を這わせると乾いた感触が肌に伝わる。少女の家はあまり裕福ではないのかもしれない。部屋に漂う空気と、少女の身なりからそれを感じた。
遠くの方から虫の声と、蛙の声がしていた。月の光が薄い障子越しに差し込んで、切り絵のような影を作る。青江は置物のように動かないまま畳を見つめた。
時がゆっくりと流れていく。月明かりが少女の頬を青白く浮かび上がらせていた。
その時。不意に室内が暗くなった。月が雲に隠れてしまったのか、端から闇に浸食されていく。畳に映る影の形が変わった。それは人の形をしている。背を屈めた老人のようなシルエットだった。
空気が一瞬で変わる。優しい夏の夜の雰囲気はなりを潜めて、空気が重くなっていく。
奥からひんやりとした冷気がなだれ込んできて、部屋に人影が現れた。
畳にぼうっと立っていたのは、男の姿をした幽霊だった。彼は少女の枕元まで音もなく移動すると、彼女を一身に見つめて、何かを呟いている。
そして、おもむろに手をかざすと、ぐっと伸びていき、喉元を捉えた。そのまま渾身の力で喉を締める。
赤黒い爪が白いパンのような柔らかい肌に食い込んでいる。幽霊が実際に生身の人間を殺すことはなかなか出来ない。肉体に苦痛を強いているわけではなく、ただ、魂の外側に圧力を込めるように力を加えていく。
喉が潰されて呼吸が出来ない少女が口をあける。真っ赤な舌が覗いた。
男がより一層力を込めようとしたとき、銀色の光が舞った。
気が付くと手首から先が無くなっていた。老人のような男は背を屈めて何か呪詛の言葉を呟いている。空いているほうの手を少女の喉元へと伸ばした。
青江は流れる水のような動きで刀を振るった。下から掬い上げるようにすると、残っていたほうの手が宙に舞う。毬のように放物線を描いて、畳にぼとりと落ちた。
両手を失った男は憎しみの籠った瞳で青江を一瞥すると、缶のビールを開けた時のような音を立て、瞬く間に姿を消した。
「やれやれ」
やっと静寂が戻ってきて、青江はこんどこそ心からリラックスしたように息を吐くと、柱に背を預けてしゃがみ込んだ。少々だらしないかもしれないが、足を伸ばし、片方の膝を立てて抱え込む。
「不運だね。自分で選んだわけでもないのに」
少女は何事も無かったかのように眠っている。安らかな寝顔だった。
朝の光が少しだけ開いた障子から矢のように差し込んでくる。この家は日があまりささず室内が薄暗い。だから、なおのこと、夏の光が眩しく感じられた。
ううん、と唸りながら寝返りを打つと、とうとつに脚が見えた。ぎょっとして起き上がると青年が目を覚まし、
「朝が早いね。僕の主とは大違いだ」
と眠たげな声で言った。
「夢じゃないの……?」
布団から中途半端に体を起こしたままたずねると、彼は面白そうに首を傾げた。そして立ち上がりながら猫のように伸びをして、障子をいっぱいに開ける。朝の爽やかで清潔な空気が辺りを満たした。
「この家には、君以外に誰も居ないみたいだね」
じろじろと観察していた少女はいきなり話しかけられ、驚き肩をすくませる。
「う、うん。お母さんは離婚していなくて、お父さんは出張」
「へえ。じゃあ、僕たち二人きりなんだ」
くすくすと笑いながら男が言う。少女は何となく開いていた胸元のボタンを締めながら――この幽霊はとてもつかみどころが無いと思った。
でも、柱に体を預けるようにして外を見ている姿はとても現実的で、まるで生きているみたいな雰囲気をしている。
遠くで鶏の鳴き声が聞こえて、渋々と腰を上げた。六時半には町内の学生はラジオ体操に行かないといけない。夏休みの期間、毎日欠かさずに。
そう、今は夏休みなのだ。それを思い出して、少女はひとしれず喜びで胸をおどらせた。なつやすみ。なんていい響きなんだろう。
途端にわくわくとした気持ちになって、廊下へと足を踏み入れた。
とりあえず顔を洗って、歯を磨かないといけない。
ラジオ体操から戻った少女は和室に入って愕然とした。
「おかえり」
昨日会った幽霊がだらりと木のテーブルに肩ひじをついて麦茶を飲んでいた。いつの間にかテレビをつけている。ニュースの後に、「今日も都心では最高気温を更新しました」との声が耳に入ってきて、午後からの熱さを思うとげんなりとしてしまう。
てっきり戻ったころには消えていると思った。だって幽霊だから。そんなことを考えながら立ち尽くしていると、青年は気だるげに声を発する。
「ごめんね、勝手に冷蔵庫を開けてしまって」
申し訳なさそうに言いながら、彼は「とても喉が渇いてしまったから」と続けた。
曖昧に頷いて、少し離れた席に腰を落ち着ける。幽霊でも喉が渇いたりするんだ、と思っていると、目の前に麦茶が出てきた。
有難く受け取って口に含むと懐かしい味が口に広がった。夏、という感じがする。
「君、学校は行かないの?」
肩ひじを突きながら尋ねられて、小さく頷いた。
「うん。今日から夏休みなんだ」
「なつやすみ」
口の中で転がすように言いながら、男はななめうえを見つめた。そして、一人でうんうんと頷く。
「いいねぇ。夏休み。僕も休みが欲しいな」
「毎日休みみたいなものでしょう?」
硝子のコップに口を付けながら言うと、彼はとんでもない、と頭を振った。
「非番はあるけどね。主は、なんていうか、ゆるいから。そこのところは不満がないかな。でも何日も休むなんてことは殆ど無いよ」
ふぅん、と相槌を打つ。あるじ、って言った。耳慣れない言葉だ。
それから、暫くだらだらとニュースを見た。そして思い出したように台所へ向かうと、男が影みたいについてきた。
「あなたも朝ごはん食べる?」
卵を二つ取り出しながら聞くと、彼は「僕はいらない」と笑った。
お腹が空かないのかもしれない。そんなところは、幽霊らしい。そんなことを思いながら、鉄のフライパンを取りだして、卵をひとつだけ入れた(残りは冷蔵庫に仕舞った)。
ぱちぱちと油が跳ねる音が響いて、中途半端に焼けた頃に火を止めた。そして、炊き立てのご飯に半熟の卵をのせると、男は不思議そうにたずねる。
「卵、焼いちゃうのかい?」
「うん。生卵、ちょっと苦手なんだ。だから卵かけご飯――じゃなくて、これは卵焼きのせご飯」
「語呂が悪いねぇ」
台所に備え付けられている小さなテーブルに座ってもそもそとご飯を食べた。黄色い気味がご飯と絡んで、ちゃんと美味しい。そして改めて、生卵はやっぱり好きになれないと思った。
家に居ない母との思い出は少しずつ遠くへ行ってしまうが、奇妙なやりとりはよく覚えていた。例えば、卵かけご飯のこと。母は卵かけご飯がとにかく嫌いで、だから一度も朝食に出たことが無かった。鼻水みたいで気持ちが悪い、と言って嫌悪していた。あんまり嫌そうに眉間に皺を寄せるから、刷り込みのように、自分も何となく苦手になった。
食べ終わった食器を軽く洗ってリビングに戻ると畳に寝転がり手あしを伸ばした。急にまっさらな自由が与えられて、少し途方にくれてしまう。
「また寝るの?」
うえから覗き込むようにしながら男が言った。前髪が重力に沿って垂れている。見えていないほうの目が露になって、少女は大きく目を見開いた。オッドアイだ。
風がかすかに動いて、隣に男が寝ころぶと、同じように天井を見つめた。白いシャツに包まれた平たいお腹に手を乗せて、静かに上を向いている。
「今日、何しよう」
迷子の子供のような口調で呟くと、男は片目でこちらを見て、「散歩でもいく?」と言った。とくに断る理由も無いので、頷いて、だらりと体を起こす。
数分後、男と道を歩いていた。玄関を出てすぐに道路があったからとりあえず右に行く。だらだらと、行くあてもなく歩く。夏だし、隣を歩いているのは幽霊だから、お洒落なんてしなくていいと思い、無地のワンピースにした。生成りの、地味だけど汗を吸ってくれる、肌に心地がいい服。
途中で自動販売機があったから飲み物を買った。ここにくるといつも驚いてしまう。田んぼ道に突如あらわれるので、ここだけ切り取られた世界みたいに感じた。
少しだけ休んだら、男が手を引いて、「こっちに行ってみよう」と言った。目をむけると見逃してしまいそうな脇道があった。なだらかな登り坂になっていて、途中から藪に囲まれて良く見えない。少しばかりの不安が体を巡ったが、特に断る理由も無いので頷いた。
木漏れ日の中を歩く。昇り道は平たい道よりも大変だったけど、コンクリートで舗装された道よりもずっと涼しく感じた。緑色が目に飛び込む。時々、視界の端で小さな虫が飛んだ。
唐突に世界が開けて、二人は何となくため息を吐く。見事な田園が広がっていた。いつの間にか随分と高い所に来てしまったみたいだ。
稲は若く青々としていた。風が吹く度に波のように揺れている。
何となく目くばせし近くの木により、地面から飛び出している根の部分に腰を下ろす。木は途方もなく大きくて、枝が空を覆うように広がっていたから、夏の痛いくらいの日差しを和らげてくれていた。
男は脱力しながら背中を木に預けた。うすく笑いながら遠くを眺めている。この人――というか幽霊は、動作がゆるゆるしている。つかみどころが無いというか、ミステリアスというか。全く無口なわけでもないし、かといってお喋りでもない。その加減が絶妙で、こちらも肩ひじを張らなくてすむ。それはとても好ましいことだと思った。
そのまま、ぼんやりと風景を眺めていた。でも、ひとつだけ聞きたいことがあった。
「貴方は、どうしていつも作り笑いをしているの?」
男が、初めて表面に感情を滲ませた。
「どうして、そう思うの?」
「何となく」
それは直感に近いものだったから、素直に伝えると、彼は感心したように頷いた。
理由は聞かなかった。相手も言うつもりが無いみたいだし、きっと、知ってもお互いに無駄だと、分かっていたから。
ふいに指先が触れて、手を握った。予想に反して温かい手だった。
繋いだ手はそのままにして、草原のように揺れる稲を眺めた。気持ちのいい風が通り過ぎていく。
深夜。青江はぼんやりと、寝ている少女の横顔を眺めていたが、ゆっくり立ちあがった。辺りにぞっとするほどに冷たい視線を向けると、音もなく障子を引く。夏の夜が広がっている。いつも煩いくらいに響いている蛙の声が、今日はまったく聞こえない。
刀に手を掛けると、廊下を右に曲がった。この家は古くからあるのだろう。それも、十年や二十年などではなく、もっと、ずっと昔から。
廊下を歩いていると視界に影が過って、わずかに体を傾けた。すぐ横を腐臭が通る。煙のような影が駆け抜けていった。それが寝室にたどり着く前に、後ろから斬りつける。
悲鳴は聞かなかった。倒れる瞬間も見なかった。切ってしまえば、必ず相手は絶命する。斬った相手の倒れる数秒を見送るなんて、馬鹿のすることだ。
後ろを振り返らずに廊下の先へと足を進める。刀を手に持ったまま、横や、前から飛び出してくる亡者を斬り捨てていく。銀色に光る切先が空を切り、偽りの肉を断つと、血が吹き出て障子に当たった。薄汚れた白が鮮血で鮮やかに彩られる。水の流れは止まらない。切っても切っても湧いて出てくるものたちに半分呆れながら、壁が見えてきたので足を止めた。いつの間にか突きあたりまで来てしまった。
横から伸びてきた手を下から掬いあげるようにして斬り捨てた青江は、くるりと振り返った。今まで歩いてきた廊下が見える。長い廊下は闇に呑まれて先が見えない。一本の道のようだった。
暗闇から異物を排除しようと影が現れる。鼻を覆うような匂いをまき散らしながら、ずぶずぶと湧いて出てくる。
いつの間にか、そこに居るのだ――幽霊というものは。
青江は刀を一度鞘に戻し、重心を低くした。
精神を集中させる。
呼吸を止め、血管の先にまで気をめぐらせ、四肢に力を込めた。
目の前を見据える。廊下は埋めつくすように亡者でひしめいていた。
床板を蹴り上げて、稲妻のように飛び出していき、廊下を一直線に進む。いたるところから手が伸びてきて、男を掴もうとする。
しかし青江は止まらなかった。走りながら腕を振るい、細かい斬撃が飛ぶ。
廊下の端までたどり着いた男は、息を吐きながら刀を鞘に納めた。
金属の硬く尖った音が聞こえ、次の瞬間、屋敷全体に絶叫が響いた。
それは一瞬で、すぐに静寂につつまれる。
「行かないと」
ぽそりと呟くと、青江は玄関口に走り、乱暴にブーツに足を突っ込むと、外へ飛び出した。
庭を突っ切った青江は、切り立った崖を眺めていた。裏側は山になっていて、目の前にあったのは、六メートル程度の穴蔵だった。ぽっかりと口を開けている。戦争中は防空壕としても使われていた場所で、時々中から籠ったような悲鳴が聞こえた。焦げるような匂いもしている。
青江が刀に手を掛けると空気が変わった。押しつぶそうとするかのように重い。柄を握りながら闇を見据える。口元にいつもの笑みは無かった。
ふと壁際に動くものがあって、意識を取られた。壁が動いているように見える。波のように揺れて、前後から前へと押し寄せるような錯覚。それが何か分かったとき、足元から震えが襲ってきた。
壁にひしめいていたのは、何万匹というカマドウマの群れだった。彼らは壁にくっつき、互いを押しあい、押し出された数匹が空中に向かって身を投げていた。あまりに数が多いために壁が動いて見えたのだ。
深く呼吸をすると、青江は鉄砲のように穴蔵に突っ込んだ。入り口に食い込むところで、何もない空間に斜めに刀を振る。
フォークで皿を引っかいたような不快な音が洞窟全体から響いて鼓膜を震わせた。耳に手をあてふらつきながら前を見ると、あれだけいた虫が一匹残らず消えていた。
体を満たすのは安堵と、達成感だった。
落ちてくる前髪を顔の横に流しながら刀を鞘に戻すと、ポン、とシャンパンのはじけるような音をたてて、狐があらわれた。
とんでもない地響きがして、体を跳ねさせるように飛び起きた少女は、さっと辺りを見渡した。
地震だろうかと枕元に置いてあった携帯を覗くが、特に災害の通知がない。時刻は丑三つ時で、物音がしなかった。いつも柱に寄りかかって寝ている青年の姿がなくて、不安に襲われながら外に出る。あたりを見渡し、違和感に気が付いた。あれだけ居た幽霊の姿が消えている。
迷子の子供になったようにきょろきょろとしながら歩く。湿った風が裏庭から吹いていて、引き寄せられるように足を進めると、裏庭の崖の穴蔵の傍に、探していた男がいた。ホッとしながら近寄る。が、すぐに脚が止まってしまった。
一瞬だけ、彼がとても悲しそうな表情をしたからだ。どうしたの、と言おうとした少女より一足先に、男が口をひらいた。
「急で申し訳ないけど、少し散歩をしない?」
いまから? という言葉が喉まで出かかったけれど、すんでの所で飲み込んで、少女はこくりと頷く。
夏の夜は静かで優しい。だから一番好きだった。
群青色に沈んだ田舎道を黙々と歩く。どちらも言葉を発しなかった。ただひたすらに歩く。そうしているうちに川の音が聞こえて、同じ方向へと足を向ける。
暫く水音を目指して歩いていると、視界の隅で光が過った。気を抜いていたら分からなかっただろうほどにひそやかな光だった。じっと目を凝らす。暗闇に浮かびあがってきたのは、無数の蛍の光だった。
そこかしこに小さな粒が揺れている。一瞬だけ強く光って、後はボリュームを落としたように淡くなっていく。
「綺麗だね」
「うん」
少女はこっそりと青年を見た。瞳が髪に隠れて見えなかったが、口元が緩く笑みの形をつくっている。
「君に言わなきゃいけないことがあるんだ。……僕は幽霊なんかじゃない。にっかり青江という、刀の付喪神なんだ」
「あおえ……」
口の中で言葉を咀嚼するような表情を浮かべている少女を横目に、青江は取り繕うように笑った。
「ごめん。嘘を吐くつもりじゃなかった」
「どうして、急に本当のことを教えてくれたの?」
震えた声が鼓膜を震わせる。困ったな、と思いながら、やっぱり作り笑いを浮かべることしか出来なかった。青江は上手く笑えない。昔からこうだった。いつ、と聞かれると答えられないけれど、初めて主と会った時にすら、作り笑いを浮かべていたような気がする。
「もう、居なくなってしまうの?」
たずねているくせに断定するような口調で、苦笑してしまう。
「僕はね。幽霊切りの刀なんだ。そんな僕から提案があるんだけど、」
首を傾げている少女の前髪を横に流して、黒い瞳を覗き込んだ。奥まで澄んだ、美しい瞳だと青江は感心する。
「幽霊を見えなくしてあげるよ」
カチリ、と金属の音が鳴る。男が刀を手に駆ける。少女は一瞬だけ考え込むようなそぶりを見せて、そしてにっこりと笑った。
「いい。このままで大丈夫」
「どうして? つらいことばかりだろう」
不審げな瞳を向けながら青江が問うと、少女は恥ずかしそうに下を向いた。
「だって、もし幽霊が見えなくなったら、青江のことも分からなくなるでしょう? いつかまた会えた時に、気付かなかったら嫌だから」
青江は大きく目を見開いて、まじまじと少女を見つめた。嘘を言っている風には見えなかった。
胸に溢れる温かいものはなんだろう。その正体が分からなくて、心臓の辺りを握った。少女は頬を染めながら、「やっぱり今の言葉は忘れて」と言った。
「いいや。しばらく覚えているよ」
「悪いほうの幽霊だから?」
少女はくすくす笑いながら答える。蛍の優しい光が顔の近くを照らして、綺麗だった。
▽
遠くで賑やかな話し声が聞こえる。今日は宴会で、そして審神者の就任記念日だった。
本丸に帰ってきた青江を出迎えたのは主と、いつも傍らにいる近侍だった。彼はとても真面目で、青江と目が合った瞬間、瞳を細くして、頭を下げた。その時確かに彼は隊長として遠征に行っていたが、彼だけの責任では無かったから、軽く手を振って今回の件を水に流した。
何となく一人になりたくて喧騒を抜け出し縁側に来た。冷たい風が火照った体を覚ましてくれる。
あれから蛍を見たあと、いちど家に戻って、少女が眠るまで傍に居た。別れを予感しているのか、彼女はなかなか眠ってくれなかった。
「手を握っていて」
細く線を引いたような声でねだられ、断ることも出来ずに小さな指に手を絡ませる。すると少女は安心したように瞳を閉じた。
あれからすぐ、こんのすけに記憶を消されてしまっただろうから、もう僕のことは覚えていないはずだ。さみしさが胸にわき、それをかき消すために、持ってきた日本酒を一気に飲み干した。
そうしているうちにパタパタと軽い音が響いてきて、緩く顔をあげる。主だった。彼女は薄い生地のショートパンツにシャツという気の抜けた格好をしていた。でも、主はいつも余分な力が抜けている人だったから、これが平常運転なのかもしれない。
「青江、本当にごめん!」
怒涛の勢いで謝りながら猫のように隣に座る。なぜか片手にスイカの乗った皿を持っていて、それとなく聞いたら、光忠に貰ったのだという。
「本当にごめんね。見つけるのに時間がかかってしまって。慣れない現世で大変だったでしょう。辛い思いをさせちゃったね」
青江はかすかに顔を傾けて、夜の庭を眺めていた。大変だったかと訊かれたら、そうかもしれない。特に最後の、無数のカマドウマを前にしたときは、気持ちが悪くて、さすがに戦慄した。
視界の隅で光が揺れて、二人はそちらに気を取られた。
「蛍だぁ。きれい」
主が子供のように言い、嬉しそうに身を乗りだす。
青江は同じ光を見つめながら、しかし全く別の光景を見ていた。水の音が聞こえる。優しい夜の空気が体を満たしていく。
ゆっくりと振りかえった青江は小さく頭を振り、主の目を見つめる。そして、にっこりと笑って、こう言った。
「辛くなんてなかった。――とても、いい夏休みだったよ」