※お題箱よりリクエストを頂いた
「甘えたな審神者と歌仙のお話」です。
厨の中は静かだった。蛇口から流れる水の音だけが反響している。台所の洗い場は一般家庭のものよりひとまわり大きくて、ステンレスの受け台には汚れたお皿が入っていた。予洗いしたものを隣の男が受け取り、丹念に、綺麗な水ですすぐ。最後に、見違えるように綺麗になった食器たちを一気に拭いて元の場所に戻したら、それで仕事は終わりだ。
大広間では夕方の早い時間から宴会をしている。今日は主の誕生日で、これからは一緒に酒が楽しめると皆が喜んでいた。
昼の光景を思い出す。廊下を主と二人で歩いていると、すれ違いさま声をかけられた。気のいい仲間が、誕生日おめでとうと祝福の言葉をくれる。しかし当の本人は、どこかぼんやりとしていて、どちらかというと雨上がりの庭に目を奪われていた。初夏で、日によっては夏が来たかと錯覚するような午後。光にあふれた庭の木々。
待てども待てども反応を返さない主に焦れた仲間が肩に手を置く。そうしてからやっと、彼女ははっとし、勢いよく頷いた。その、やっと存在を認識したという態度は、少なからず相手を失望させた。
相手の瞳に影が差したことに気がついた彼女は、取り繕うように笑う。
記憶の波に身を任せていると、出口の方から音がして、一足先に気が付いた燭台切が驚いて手を止める。同じように体を捻って振り返った。
そこにいたのは予想外の人物だった。壁に軽く寄りかかるようにしながら、主がじっと厨の中を見つめている。まず目が奪われたのは白い脚で、いつもは浴衣を着ているのに今日は洋服だった。初夏に差し掛かろうという今の時期は、きまぐれに気温が驚くほどに高くなる。
この本丸で唯一、女の形をしている主は、僕たちの視線を堂々と受け止めながら、ゆったりとした動きで足を交錯させる。隣にいる男の喉が鳴った。彼女はなぜか手に青いラムネの瓶を持っていて、一度だけカラカラと振る。
はっとして意識を戻す。正直に言えば見とれていた。審神者は歌仙と光忠を交互に眺めてから、もう一度瓶を左右に振る。ビー玉が涼しい音を立てた。
「えっと。もう一本欲しいのかな?」
光忠は遠慮がちに尋ねる。声が少し高くなっていた。
主は答えない。ただ、二人の男へ交互に視線を走らせている。
薄い色のティーシャツにショートパンツという服装は、僕らからするとほとんど下着のように見えた。生地が厚いならまだ許せる。だが彼女の身につけているものは違った。手触りが良さそうで、かぎりなく薄い。あれでは何も守れない。体温も、――そして、不躾な視線も。
うろうろと視線を迷わせていた主は一人の男を選んだ。じっと訴えるように見つめる。選ばれたのは光忠で、にじみ出る空気から喜んでいることが伝わった。
小さな炎のようなものが内側に生まれる。単純に面白くなかった。感情は喉元を突き抜け、あるじ、と呼びかけてしまう。
「君は明日も指揮を取らないといけないんだろう? それになんだい、そのはしたない格好は」
予想外に鋭く非難するような声が出てしまい、場の空気が凍る。彼女は驚いたのか目を猫のように丸くしていた。いったそばから後悔し、何か訂正する言葉をと考えている隙に、光忠がさっと半歩前に出て遮るように立つ。
「お腹でもすいたのかな? 君は主役だからゆっくり食べる時間は無かったかもしれないね。簡単なもので良かったら、何か作るよ」
優しい声で光忠が尋ねる。にもかかわらず、彼女は白けたような顔をして「いらない」と呟き、踵を返した。軽い足取りと共に気配が遠くなる。
みるからに落ち込んだ黒い背中を複雑な気持ちで眺める。主のそっけない態度に傷ついた光忠は数秒後には気持ちを持ちなおし、いつもより多く話せたと喜んだ。
すっかり元の調子に戻った僕たちは洗い物の山に向きあう。蛇口から勢いよく水が出ている。シンクの内側に油がべっとりとついていた。たったそれだけのことに、うんざりとしてしまう。早く終わらせ少しだけ宴に顔を出したいと、そんなことを思った。
それは隣の男も同じだったようで、「さっさと終わらそう」と低い声で言い、スポンジを手に取る。
「主って、結構変わっているよね」
「そうかい?」
「ミステリアスだ。でもそこが魅力的かな。何でも素直に表現する女の子より、少し影があって秘密がある子のほうがそそらない?」
思考が止まった。ぱっと、鮮やかな映像が浮かぶ。暗闇の中で黙って僕を見つめている――。
「どうだろう。僕は、美しいものや出来事を共有できる子がいい」
「そっか。歌仙くんらしいね」
大量にあった洗い物も、二人で本気を出せば一瞬だった。
光忠は、熱すぎる湯で赤くなった手を清潔なタオルで拭きながら、じゃあ、と言葉を続けた。
「貰ってもいい?」
驚きで動けなくなる。思考が停止した。ゆっくりと顔を上げ金色の瞳を見つめる。
言葉より目がものを語るというのは真実だった。光忠は真剣に返事を待っていた。嘘などひとつも浮かんでいない。本気だった。
牽制されている。ここでの答えが今後の先行きを決めてしまう。人差し指がぴくりと震えた。
主を好いている男は多い。あるていど予想していたことだった。それなのに。
「おい」
振り返ると仲間の男士がいた。さっきまで主がいた場所にぼうっと黒い影ができている。
「……絡まれている」
面倒臭そうに彼は言う。誰が、と思ったけれど、一足先に正解にたどりついた光忠が声をあげた。
「分かった。今行くよ」
軽い足取りで廊下へ向かう男の背中を眺める。光忠はふと思い出したように振り返り、
「さっきのは冗談でも何でもないから。良かったら今度、返事を聞かせてくれたら嬉しいな。主の保護者代わりである、君の意見を聞きたいんだ」
と言った。待っていた仲間がじれたように「早くいくぞ」と腕を押す。光忠は笑いながら答えて、今度こそ廊下へ消えて行った。
誰もいない厨の中で水音がしている。蛇口を閉め忘れていたらしい。手を伸ばしかけ、ふと思いとどまった。
保護者とは。僕はいつのまに、そんな位置にいたのか。
主はあの通りどこか抜けていて、だから世話を焼き、世に出ても笑われてないように、最低限の教養をつけた。確かにそれは僕の役目だった。
急に体が重くなったように感じ、シンクをつかみながら下を向く。
水はとめどなく流れ続けている。
とても宴会に参加するような気持ちではなくなった。しかし、真っ直ぐに部屋へ戻ろうと思っていたはずなのに、気が付くと大広間へと着いてしまい、障子の前で途方にくれる。大倶利伽羅がわざわざ知らせに来たということは、それほどまでに主は迷惑を被っているのではないか。無理矢理に酒を飲まされている姿が浮かんだが慌てて打ち消す。仲間内の目線になってしまうけれど、ここの本丸の刀は皆優しい。なので、悲惨な状況にはなっていないはずだ。
少しだけ、ほんの少しだけ中の様子を確認してから帰ろう。そう心に決めて障子をあける。
生ぬるい空気が押し出されて、かわりに新鮮な空気がなだれ込んでいく。むっとする匂いに顔を顰めながら畳を踏み締めるとすぐに、ごろんと横になって眠っている男がいて躓きそうになった。自然と眉間に皺がよる。酒には相応の楽しみ方がある。が、この場で小言を口にするほど、無粋ではなかった。
心を無にしていくつかの屍を超えていくと、すぐに目当ての人物がいた。長いテーブルが置かれた間の空いたスペースで、足を伸ばして座っている。ゆるやかに伸びた脚が健康的だった。
「なぁ、俺は君の酔っている姿が見たいんだ」
すぐ横で男が胡座をかきながら不貞腐れたように言う。手を伸ばし主の毛先をくるくるともてあそんでいた。女の髪にこうもたやすく触れるなんてと衝撃を受け、次の瞬間には胸に苦いものが湧いた。
うーん、と気のない返事をしながら、主はコップの中にある透明な水を口に運ぶ。喉が上下してから、ため息と共に「もう酔ってるよ」と言い放った。
「嘘だろ」
「ほんとだって」
「だって普段と同じじゃないか」
「顔は熱いよ」
「どれどれ」
男の手が女の頬を両側から挟む。軽く両側から押されて変な顔になった主は目を瞑る。子供の馴れ合いのようだった。それなのに、腹の中でまた醜い炎が生まれる。
しばらくして解放された主は、透明な水を口に持っていった。ラムネを飲むような気軽さでごくごくと飲み下す。
いい飲みっぷりだった。一気に飲み干している。あれは――水、だと思いたい。いやあの豪快な飲み方ならきっと水のはず。疑問はすぐに解消された。近くの場所で、あさってのほうを向いていた大倶利伽羅が、そのくらいにしておけ、とコップを取りあげたのだ。
頭の中で何かが切れた。足は勝手に動いて女の前で止まる。体から怒気が出ているのが自分でもわかる。またちょっかいを出そうと伸びていた手を慌ててひっこめ、鶴丸は取り繕うように笑った。
「あの、これは。……最初に沢山飲んだほうが、耐性がつくらしいぜ」
「どのくらい飲ませたんだ」
気まずそうに目をそらす男どもを順番に睨み付ける。動く影に反射的に目を向けると、主が机を指差していた。そこにあったのは貫禄のある一升瓶で、理性で抑えていた怒りが呆気なく爆発した。
「いい大人が、何を考えて、」
「かせん」
踏み込んだ脚が止まる。呂律の回っていない声に下を向けば、弱々しく手を広げている主がいた。目尻が下がっている。首元が少し赤い。
「はこんで。もう歩けない」
周りには沢山の男がいるのに。疑問は皆の頭を駆け巡る。鶴丸が何か小声で言いながら手を伸ばしたが、主はそっと押し返した。
「かせ、はやく」
内側から喜びが滲んで、怒りと、嫉妬の炎がどんどんと鎮火されていく。名前を言えていないし呂律も回っていないけれど、そんなことどうでもいいと思った。手を伸ばしているところ悪いが背中を向けてしゃがみ込む。前から抱きかかえるのは流石に気が引けた。
主は怠そうにしながらも覆いかぶさる。男たちの残念そうなため息を背中で聞いた。
「主を部屋まで送っていくよ。君たちは飲みすぎないように」
諦めた彼らは新しい酒に手を伸ばす。若干つめたい空気が伝わってきたが知ったことではない。もう日付はとっくに過ぎている。主は女性なのだし最後まで付き合うことはない。
廊下に出るまで何人かに冷やかされた。襲うなよ、と言われ、呆れながらも愛想笑いで流す。
その中でまたもや、保護者という単語が聞こえた。歌仙は親代わりだから大丈夫だと。烙印を押されているように感じる。複雑な気持ちになりながら廊下に出ると、冷たい夜風が頬を撫でた。
「おみず」
「はいはい。お水だね」
主の部屋と厨の場所はまるで反対の位置にあったけれど、そんなことはちっとも気にならなかった。
予想通り、彼女が気持ちよく喉に流し込んでいたのは日本酒だった。厨についたとたん背中から滑り落ちた主は、冷蔵庫からペットボトルに入った水を取り出す。本当に美味しそうに、あっという間に飲みほして「生きかえる」と満足げに言った。
そこからは何故かおんぶされることを嫌がったので、並んで歩いた。しかし、足取りがふらふらで何回か縁側に落っこちそうになったので、強制的に横抱きにして運ぶ。
投げ出された脚がぶらぶらと揺れている。触れている所がどこもかしこも熱い。
無事に送り届けようと思ったのに、見慣れた廊下の角を目にした途端、彼女は酷く暴れた。
「やだ、歌仙の部屋に行こう。まだ寝たくないよ。お話しよう」
「何を馬鹿なことを言っているんだ。頼むから大人しくしてくれ」
「いや!」
なだめすかしてもまるで言うことを聞かない。足をばたつかせるので体制がよろめいて地面に落っことしそうになってしまう。酔っ払いの突発的な行動に若干辟易としながら、仕方なしに方向を変えた。僕の部屋は、彼女の私室よりずっと近い場所にあった。
部屋に着くともう布団は敷かれていたので、抱えていた体をそっと置く。両手がふさがっていたから灯りはつけていない。障子から差し込む月明かりで充分目は見えた。
「大丈夫かい」
主は、布団にごろんと横向きになったまま動かなくなった。さっきまであんなに喚いていたのにと心の中で呟きながらなんとなしに眺める。緩んだ胸元。なげだされた手足。あまりに無防備だ。閉じていた目が開かれて、ぶれていた視線があう。
「では、僕はこれで。今日は近侍部屋で寝るよ」
重い腰を上げたときだった。
腕を物凄い力で引かれる。驚いて咄嗟に受け身を取ることしか出来ない。気がつくと主に覆いかぶさっていた。崩れ落ちそうになる体を、必死に腕で支える。
何が起こった、と思っているうちに下からくすくすと楽しげな笑い声が聞こえた。ため息をつきながら見下ろせば女と目が合う。
「どうしたんだい。君らしくもない」
「行かないで。今日は一緒に寝て」
「それは駄目だ」
「どうして」
彼女は本当に傷ついた顔をした。予想外の反応に焦ってしまう。どうやったらなるべく穏便に伝えることができるだろう。
「前は寝てくれたのに」
「子供のときの話だろう」
「もう嫌いになったの」
心臓に冷たい刃があたる。触れていけない部分を押されたような気がした。指先が冷たくなっていく。
僕の心は、厳重に箱に閉まって鍵をかけている。そうしていれば平穏に毎日を過ごせると知っているからだ。光忠のように、彼女の行動に一喜一憂することもない。
間違っても、開けてはいけない。僕は刀だから。人間ではないのだから。
無理矢理でも体を起こして、怖い顔を作り叱らないといけない。子を思う親のような眼差しで。
頭の中で用意していたセリフを口にしようとしたとき、女が動いた。救いを求めるみたいに両腕が伸ばされる。狼狽えているうちに太もものあたりに刺激が来て変な声をあげそうになってしまう。慌てて確認すれば、主が僕の片足を自分の脚でしっかりと挟んでいた。――袴で良かった。浴衣なら、理性の糸は簡単に切れていた。
「お願い」
甘えるような囁きに答えることができない。今にも中身をぶちまけようと箱が震えている。僅かに空いた隙間から感情が漏れてくる。それは美しくて醜かった。
首元に回った腕、絡みつく脚は信じられないくらいに柔らかい。主は体の力を抜いて安心しきっている。腕でかろうじて自分を支えている今の体制は、ほとんど抱擁に近かった。僕が手を伸ばしたら完璧な形になる。
でも、それはどうしても出来なかった。
保護者、親代わり。そんな言葉が頭の中を駆け巡る。それらが僕を鎖みたいに縛ってくれている。
体をかたくしていると、答える気がないと思ったのか、主は急に夢から覚めたような顔をして腕をはなす。興ざめ、と顔にはっきり書いていた。甘い空気が一転し、拒絶するみたいに、そっと胸板を押される。
「ごめん。嫌な思いさせて。なんだか甘えたい気分だった。飲みすぎちゃったのかも。もうしないから、安心してね」
空いた障子から外の空気が入り込み、冷たい風が通り抜けていく。戻っていいよ、という呟きと同時に足の力が抜ける。拘束が無くなる。布団の上に行儀良く伸ばされた脚を目で追った。
離れていく温度が悲しくて、たまらなく寂しかった。あいてしまった隙間を埋めたい。求められたかと思ったら、急に突き放されて心が切なく軋む。
深呼吸を繰り返しても、体の奥で生まれた炎は消えない。
「あるじ……」
出てきた声は酷く弱々しくて情けないものだった。体を少し落として首筋に顔を埋めると、僕の下で彼女はくすぐったそうに身を捩り笑った。
背中に腕がまわり、力が込められると内側から捩れるような喜びが生まれる。僕が答えると正しいかたちになり、心はあっけなく満たされた。
「一緒に寝よう。でも変なことはしないでね」
「もちろん」
分かっているさ、と心の中で呟く。
君はまだ恋をしらない。だからこんなにも自由になれる。
独り占めしたいとも、同じものを欲しいとも思わない。今はまだ、箱を開ける勇気はない。
しくしくとした胸の痛みには気が付かないふりをして、僕は体を僅かにずらし、髪留めをほどいた。