それから、夜になると決まった時間に和泉守と厨で夜食を作ることが日課になった。だいたい、お風呂に入ってからゆっくりしていると、畳に深い影が伸び、しぶしぶと立ちあがる。軽食を作り、監視されながら食べた。人は水だけでも生きていけるらしい。私自身の行動がそれを裏付けていて、ぼんやりとしているうちに、ほうっておくと何日も食べていないということがあった。ひとりでいるときには、とくに。燃費が悪い体質なのか、そんな生活でも苦労したことはない。だけど、他人からみたら不健康そのものの生き方にみえるので、こうやって正されることは、過去になんどかあった。
二回目からは、男は同じ席にはつかず壁に寄りかかっていた。食事を強要してくるくせに本人は腕を組んで眺めおろすばかりで、気まずいことこのうえない。
そんなことを数日繰り返しているうちに、ある夜、どうしても夜食を用意することが面倒に感じて一歩も動けなくなったしまった。唐突に、そうだ外で食べればいいと考える。さっそく、明日は外食をしようと伝えた。断られるかと思ったけれど、和泉守は紙に書かれた文字を見つめてからゆっくりと頷いた。ありがとう、と続けて書いたあと、紙をくしゃくしゃに握り込むようにして丸める。
そのあと、少しだけ雑用(日報を書いたり、手入れ道具を磨いたり)をした。和泉守は私が大人しく布団にもぐったのを見届けると、いつもの定位置である壁際の、畳に腰を下ろす。隣の部屋で寝たらどうかと伝えたけれど聞いてくれなかった。ついでにいうとこんのすけも、襲われた日から毎日、夜になると枕元にきて丸くなるようになった。いくら鈍くても、護衛をしてくれているとわかる。きっと眠らないで見守るつもりなのだろう。
そんな状態ではまともに眠れることなどできず、反対側を向いて障子を眺めながら朝を待った。不安なのは私もおなじで、外が白んでからやっと眠気がやってきたので、その日は、ほんの少しだけ眠った。
黒いボトムに足を突っ込むようにして穿き、ふわふわとした白いトップスを着る。袖がゆったりとしていたからご飯を食べる場所には不向きかもしれないと思ったけれど、まぁいいかと隣の部屋の襖を叩いた。
のっそりと、機嫌が悪そうに出てきた和泉守が立ちどまる。見慣れない服装に瞬きをひとつしてから、少しだけ眉をよせた。和泉守兼定はいつもの戦装服で、腰には刀がささっている。
廊下を歩いていると何人かの刀とすれ違った。挨拶をしないのもどうかと思ったので軽く会釈をする。それだけで、相手はどこか安心したようにやわらかな空気を出した。すれ違う刀に話しかけられ、答えられない私のかわりに、和泉守がいちいち足を止めて説明してくれた。
外に出ると先日に雪がふったのか地面が白くなっていた。ゲートを出てから河原沿いを黙々と歩く。雪は少し溶けて、道ゆく人々に踏みつけられ汚い色になっていた。畦道から飛び出すようにして生えている芒を軽く叩いたら、雪の粉が舞った。後ろからついてきた男の防具についてしまったけど、すぐに溶けて消えた。彼は私の前を歩かずに必ず半分くらい後ろを歩く。
普段買い物をする通りは、道に沿うように延々と、似たようなお店が続いている。てきとうに食事ができるところへ入ろうと、目に入った店に足を向ける。美味しいかそうでもないのか、見た目ではわからないが早くすませたいという気持ちがあった。そうして一歩を踏み出した瞬間、ふいに腕を握られる。なぜかものすごい恐怖が襲い、驚いて振り返る。和泉守はむずかしい顔をして、口をむすんでいた。
なに? と首を傾けたずねれば、先の道を顎でしゃくる。つかんだ腕はそのままに男は歩き出した。人混みがすごいけれど人にぶつかることはない。先をいく男が盾になってくれているからだ。中心につくと道が規制されていて、何かお祭りをやっている気配がした。
大通りからひとつ道をそれると、途端に人が少なくなったのでほっとする。和服を着た人とたまにすれ違うのでつい目で追ってしまい、揺れる簪を眺めていると男の足が止まった。目の前には定食屋さんがあり、確認するように首を傾げるので、肯定の意味をこめて頷く。
室内はそこまで広くはなかった。左手に木でできたカウンターがあったので、自然と横に並んで座る。椅子に腰をおろした瞬間に緊張が襲ってきて、自分は何をしているのだろうと思う。考えてみれば和泉守とこうして並んでご飯を食べるなんて初めてだった。なんなら外出したことすら、記憶にない。
メニューを渡されたけどよく見もせず適当に指をさしてしまったので、数十分後に唐揚げ定食が来た。男は目を丸くしていた。そんなに食べられるのかと顔に書いている。近侍の加州清光と燭台切光忠だけが知っているのだが、別に私は小食というわけではないから大丈夫だろうと、割り箸をわりながら考える。
和泉守が選んだのは焼き魚の定食で、荒っぽい口調とは反対に、繊細な手つきで魚の身を削り取っていく。そういえば、誰が彼らに箸の使い方を教えるのだろう。自然と仲間うちで指導するのだろうか。私が教えたのはほんとうに最初のころだけで、今は各々勝手に学んでいた。ときどき、私が居なくても完全に回っていくなと考える。それは好ましいことに思えたので、ある日、近侍として仕事を手伝ってくれた加州清光に、
「この本丸、私がいなくても大丈夫だね」
と声をかけたら、彼は絶句した。そして見ているこっちが悲しくなるような顔をして、「そんなこと二度と言わないで」と言った。
うすうす予感はしていたけれど半分くらいでお腹がいっぱいになってしまったので、行儀が悪いかもしれないが、唐揚げをいくつか男のお皿にあげた。好物かどうか聞きたかったが、その術がないので仕方なしに無言で(できるだけていねいに)置くと、相手は驚いて、でも小さく、ありがとうと口を動かす。
これからしばらくこうして外食するようになるのだろうか。気まずいけれどひとりで外出するのは危ないし、きっと許してくれないだろう。本丸の男士たちはもう刀を向けてこない気がするが、確信はもてない。
食事が終わっても外に出る気になれなくて、なんとなくぼんやりと厨房を眺めていた。一緒に来てくれている男も頬杖をつきながらぼうっとしている。眠いのかもしれない。そんなことを思わせる横顔だった。
お店を出てからすこしだけ散歩をすることにした。した、と言っても別に相談するわけでもなく、ぶらぶらと勝手に歩く。すこしはなれて男がついてくる。途中で自然公園のような場所があったので、寄ってみることにした。意外にも通行料がかかるらしく、人がいないと思われた小屋のような建物を通り過ぎようとしたら、にゅっと手がでてきた。なかの人の顔はちょうど影になっていて見えない。もしかしたら人間ではないのかもしれないと、そんなことを考えながら二人分のお金を払う。
ふと、和泉守はこんな場所に興味などないのではと思い振り返る。目があった男は無表情に首を傾げる。自由にふるまいすぎて、怒っているかと思ったけれど、そんなことはなさそうだった。
遊歩道が続いていた。大きな池を横目に黙々と歩く。薄く氷のはった水面を水鳥が一匹だけすべるように泳いでいる。仲間はいないのだろうかと考えていたら、どこからかもう一匹あらわれて合流した。きっと、春に来たらもっと目に楽しい景色になるのだろうと思った。
足音がわからないので、和泉守がちゃんとついてきているか心配になり、振り返ってしまう。そのたびに訝しげな瞳と目が合う。何度かそんなことを繰り返したら、口がゆっくりと開いた。
――なんだよ。
少し機嫌が悪そうな顔だった。この刀は私の前では笑ったところをあまり見せない。なんでもないと首をふる。なんともいえない空気が流れたところで、ちょうど新しい建物がみえたので、そちらで休憩することにした。木が組み合わさったような、六角形の小さな場所だ。そこまではまっすぐな細い橋がかかっている。
椅子に座り、立ったままの男に、隣のあいている場所をぽんぽんと叩いて促せば、遠慮がちに腰を下ろした。やっぱり帰りたいのではないか。それか相手が悪いとか。考えだしたらそうとしか思えなくなって、手を伸ばして袖をひいた。不思議そうに見つめる男に身振り手振りで説明し、なんとか本体を渡してもらう。不審そうに眉を寄せながらも、腰から刀を抜いてくれたので両手で受け取った。握った手に力を込める。貧血のときのような軽い眩暈がして、刀の先から桜の花びらがひとつ落ちる。顕現を解くという行為はあまりやったことがない。逆はたくさんあるのに。
不意に手の中から重みが消えて、だるさを感じながら顔をあげると、怖い顔をした和泉守が本体を手にしている。恐ろしい形相をして立ちあがっていた。怒りを隠さずに舌打ちをする(ように見えた)。
無意識に手を伸ばすと、また本体を取られると思ったのか、刀を抱えたまま遠ざけるように半身を捻ったので、あきらめて手をおろした。ぴりぴりと張り詰めた空気にため息がこぼれる。何か言いたいことがあるのか、睨むようにして眺めおろしてくるので、気がめいった。
息が詰まる感じがして、どうしてこの人を、今回の任務の同行者に選んでしまったのだろうと少しだけ後悔する。
椅子からおりて、出口にむかって歩きながら考える。どうしてこうも、寄り道ばかりしてしまうのか。なぜ、ひとりになりたがるのか。
▽
審神者がいる部屋の隣(おそらくは近侍の部屋として使っていた場所)で、和泉守は刀を抱えたままじっと息を殺していた。暗い闇が広がっている。女の近くは空気が自然と浄化されているのか息がしやすい。だが、離れてみるとどうしても空気が淀んでおもく、自然と気分も落ち込んだ。
敷かれている布団には横にならず、畳に胡座をかきながら、こんな場所で眠ることなどできないと考える。自分が寝ている間に、女にもしものことがあったらと想像すると、眠気は自然とどこかへいってしまった。本当は近い場所――できれば視界に収まるくらいの――にいるほうが安心できると分かっていたが、そこまでは求められていないと、従臣よろしく別室に控えている。あたらずさわらず。石のように存在を消さないといけない。そうしなければ、なにが女の琴線に触れるか、わかったものではない。
そこまで考えたところで、男はため息をついた。昼間のひとときを回想する。最初こそ緊張したし、当然のように会話はなかったけれど(仲の良し悪しではなく、主は耳が聞こえていない)いろいろとさしおいても、穏やかに過ごせた。昼飯も美味しかった。あの場所は味に評判があり、遠征帰りによく立ち寄る。
おかずを分けてくれたときのことを思い出し、自然と頬が緩んだ。審神者は知るよしがないのだが、あそこ一帯の店は男士向けに作られているので、量が多い。女は食べきれないと悟ったのか、おかずをそっと、こちらのお皿に静かに置いてから、急いで手を戻す。それがおかしくて、可愛いと感じてしまった。
庭園での出来事を思い出したところで、幸福な気持ちはみるみるうちに萎んでいった。まさか顕現を解かれそうになるとは。あの、力が強制的に抜けていくような、独特の感覚は言葉にしにくい。体の輪郭ごと自分という存在がぼやけるような――断じて、気持ちのいいものではなかった。
自分の行動を振り返っても、どこで女を怒らせたのかわからない。それに至るまでそんなそぶりが一切なかったので、謎は深まるばかりだ。理由を尋ねようにも方法がない。前々から、悲惨なことに彼女とはほとんど会話が無かったので、案外口をきかなくてもさほど問題がないのではと思ったが、それはおおきな間違いだった。
うじうじと悩むことは性に合わない。だけど、どうしても気になるし、悪いところがあるなら改善したい。一人頭を抱えていると、襖の向こうからうめき声がした。
間髪入れず襖を引いて畳を踏む。敷かれた布団にくるまっている女の場所まで大股で近寄ると、上から顔を覗きこんだ。耳をすましたが、あたりには誰もいないようだった。
女は横向きに眠っていて、片手でこめかみのあたりを押さえていた。眉間に皺が寄っている。悪い夢を見ているのだろうか。襲われているわけでは無かったのでとありあえずほっとした。
「おい。どうした」
できるなら起こしたくはない。昼間の行動が尾をひいていた。あの冷えた瞳を向けられるのは、いくら鋼でできた自分でもこたえるものがある。中途半端に伸ばした手をどうすることもできずにいると、女がふいに寝返りをうった。肌にうすく汗がうかんでいて、熱があるのかとぎょっとし、とっさに額に手を置く。予想に反して冷たかった。わずかに眉間の皺がゆるんだような気がしたので、恐る恐る髪の毛を撫でるように手を動かしてみる。呼吸する肺が、規則的に動くのが服の上からわかった。荒々しいそれは段々と落ちついて、最後には穏やかな寝息にかわる。
手を外してみたが起きる気配が無かったので、胡座をかいて膝に手をつき、ようすを観察した。こんなに間近で寝顔を見るのは初めてかもしれない。伸びた前髪が少しだけ目を覆い隠していた。そっと流してみると、意外に優しそうな顔つきをしていた。こんなに穏やかで、安心しきった顔を向けられたことはいままでになく、胸が軋んで嫌な音をたてた。
少しだけ触れた肌は内側から水分をふくんでいるようにしっとりとしていて、あぁ、男と女ではこんなところも違うのだと感心する。無意識に人差し指の背で頬を押してしまう。女はむずがるように身をすくめたので、手を離した。口が薄く開き、なにか言葉を発しようとしているので、息を止めて全身を耳にする。羽虫のまたたくような、小さな声だったが確かに届いた。それは紛れもなく自身の名前で、動揺のあまり手元にあった刀をおとした。
障子のむこうでは静かに雪が降っている。薄い影が動いていて、まるで桜の花びらのようだ。暖房器具などないので、室内はおそろしく冷たい。隙間風が吹き、外にいるのとほとんどおなじだった。足の先は感覚がない。だがちっとも辛く無かった。さきほど聞いた音の羅列を、頭のなかで反芻する。じわじわとした喜びが胸にあふれて体があたたかくなる。
そうしているうちに朝が来て、外が明るくなってきた。青っぽい空気を胸に吸い込む。また新しい一日が始まる。和泉守はいつのまにかずれていた女の布団をかけてやると、隣の部屋へと戻っていった。