そっと鞘を握る手に力を込める。ずっと触れているから体温がうつってしまうのではないかと思ったけれど、外にいるせいかいつまでたっても冷たい。
挨拶をした夜、思ったより男士達の態度が大人しかったので、政府の心配は杞憂に終わるのではと思った。でも、すぐにそれは甘い考えだと知る。
先日よりも空気がゆれている。夜はどこからともなく囁き声が聞こえた。実体も無いのに刀を首に当てられるような錯覚に陥ることもあった。例えば廊下を歩いているとき、または執務室で仕事をしているとき。ふとした瞬間に肌に鉄が触れる。
驚いて手で確かめても指はすぐ肌にいきあたる。だけど、名残のように感触が残っていて、夜は決まって悪夢を見た。
夢の中で、私は暗闇を走っている。どうして走っているのかというと、刃物が襲って来るからだ。殺意が地面を撫でて足元をすくわれる。そして無様に転び、振り返るともう終わり。
首を切られるときの感触はおぞましいものだった。銀色の光が彗星のように斜めに振り下ろされる。激痛と、浮遊感。
離れている体を首だけになった状態で見つめている。気が狂いそうになるような痛みと苦痛のなか、地面に近い位置から切っ先が見えた。赤い血が伝って地面に落ちていく。刀を持つ男は日によってさまざまだった。
さすがにまいってしまって、先日こんのすけに相談したら、寝床に刀を置いたらどうかと言われた。彼はさもいいことを閃いたというように瞳を輝かせる。
散々迷ったのち、持ってきた刀を縁側にでる。どうすればいいか分からずに庭を眺めているうちに数時間が経ち、添えているだけの手を動かして、つるつるとした鞘を撫でる。
――なぁ、君はどう思う?
数年前、今よりもずっと無口で、内側ばかりを見ていた私は、まるで取りつかれたように仕事をしていた。夏の日だった。一人きりの執務室は薄暗くて、外では蝉が煩く喚いている。庭にはひまわりが沢山咲いていたけれど、室内は切り取られた世界のように静かだった。
机に置いていた麦茶の氷が溶け涼しい音がひびく。風が動き、人の気配がしたので振り返れば、色素の薄い男がいた。アイスを口にくわえながら柱に背を預けて座っている。片方の足を立てて、その上に腕を置いて、ひとりで楽しそうに小声で歌っていた。何も考えずに眺めていたら、視線がぶつかり相手の口角があがる。何も見なかったことにして、執務に戻った。
「おいおい。そりゃないぜ」
アイスを口に含んだまま、四つん這いみたいな恰好でこっちにこようとするので、来ないでほしいと伝えるが、色素の薄い男――鶴丸は、いっこうにめげない。一定の距離を取り横に座ったので、諦めてペンを置く。
「なにか用ですか?」
コップについた水滴をハンカチで拭きながら訊ねると、鶴丸は不服そうに口をとがらせる。金色の瞳が輝く。それはかくしきれない好奇心に縁どられていた。既に誰とも会話をしなくなっていたので、見えない壁を、最初からなかったようにして飛び越えてくるのは尊敬にあたいする――と、どこか感心しながら麦茶を一口飲む。麦茶はよく冷えていて美味しい。
視線をあわせたまま目を逸らさずにいるとさすがに居心地が悪くなったのか、鶴丸は大げさに咳ばらいをする。外ではやかましく蝉が鳴いている。男はまっすぐに見つめると、小さな声でこう言った。
「君は物が壊れたらどうする?」
なんの脈絡もない問いかけだ。まるで真意が分からないけれど、口は勝手に動く。
「そりゃあ……捨てる、かなぁ」
そうか、と言いながら彼は手を伸ばす。叩かれるのではと思って反射的に身を小さくさせると、鶴丸はなぜか傷付いた顔をした。取り繕うように笑いながら頭に手を置き、流れるような動きで撫でる。
「うん、うん。そうだよな」
自分自身に言い聞かせるように、「正しいことだ」と呟いて男は立ちあがる。薄く笑いながら廊下へと歩いて行った。
あの頃は、どうしてそんなことを言うのだろうと疑問に感じただけで、深く考えることはしなかった。
◇
主は、不慣れながらも指揮を取り、一生懸命に本丸を運営していた。それが変わったのは、演練に行った日のことだった。
ちょうど秋の深まる季節で、銀杏の葉が色づいていた。帰り道を歩いていると声を掛けられる。振りかえると演練相手がいて、彼女は後ろに控えている我々にさっと視線を巡らせる。
「珍しい刀をお持ちなんですね。羨ましいなぁ」
賞賛の言葉が、己に対して言われたことではないと分かっていた。主も誰のことを指しているか分かったらしい。とうの本人は、早く休みたいと思っているのか、そんな会話を意に返さずに斜め上を見つめていた。
それから、演練相手の女はとにかく褒めちぎった。少々言い過ぎではないかと思ったが主は満更でもなさそうで、下を向いた横顔から覗く耳がほんのり赤くなっていた。
どの言葉が主の琴線に触れたのか、わからない。その日を皮切りに無理な進軍が増え、主は珍しい刀を求めるようになった。持ち帰った刀が望みでない物だとあからさまに肩を落とすので、我々の心も痛む。
真っ先に犠牲になってしまったのは短刀たちだった。真ん中からぽきりと折れた残骸を目にした主は、一瞬目を伏せたが、それだけだった。
物はいずれ壊れる。魂の奥深い部分で理解している。真っ当に使われ、役目を終えるのなら本望だ。しかし、心の底でざらざらとした感情が蠢く。それを確かめるため、深夜、皆が寝静まったあと、執務室に足を運んだ。
声をかけて障子を引けば主がいた。彼女は、来ると予想していたのか、さほど動揺していない。うながされるまま座布団に座り、単刀直入に告げる。無理な進軍をやめてほしい、せめてもっと考えてくれ、と。
彼女はひとこと、「そうだね」とこたえた。普段とかわらない、まるく、柔らかな声で。
しかし主は物の言葉には耳をかたむけず、仲間はたびたび鉄の欠片となり帰ってきた。ほとんどの仲間は改善を諦めていた。でも私は違う。物だったときには無かった心が、もう耐えられないと叫んでいる。
一日の終わりに土蔵へ足を運ぶことは殆ど習慣となっていた。蔵は庭の遠く端にあるため、それなりに時間はかかってしまうが、一日も欠かすことはなかった。
山の向こうに消えて行く太陽を見つめる。冬の夕日はどうしてこうも優しいのだろう。空は滲むような色で、地平線に影をおとしている。蔵は太陽が落ちると陰の気が増す。しかし一期一振には関係のない事だった。体を引きずるようにして歩く。魂も、土地も、どこもかしこも淀みきっていて、足首に鉛が括られているように重い。
蔵に近づくと頭のなかの声が大きくなり、ぶんぶんと喚くそれらをなだめすかしながら閂を引いて木の扉をあける。中は漆黒だったが、臆することなく足を進める。扉を開け放ったまま、しばし呆然と立ち尽くした。
「元気にしていましたか」
近くに駆け寄ってきた短刀のあたまを撫でる。
「いち兄は元気そうじゃないな」
壁のあたりから声がして、目を向ければ、寄りかかるようにして薬研藤四郎がいた。彼はたしか、数か月前に大太刀に根元からやられて粉々になった。そんなことを思い出しながら曖昧に頷く。
ずるずると地面を這う音がして地面へ目を向ける。明るい色の髪の毛は血で濡れて、片方の目が潰れている。近寄って手を握るがあたり前のように温度は無かった。彼は苦しそうに咳をしながら必死に何かを伝えようとしている。
地面に膝をつきながら顔を寄せる。ひゅうひゅうと風のような音が鳴っていた。裂けた喉から絞り出すようにして彼は声をだす。
「苦しいよ。かなしくて、痛い。どうしたら僕たちは救われるの?」
「もう少し待って。敵を取ってあげますから」
乱藤四郎は下を向いて小刻みに震えている。
泣いているのかと思い、慰めようと空いているほうの手を伸ばすと、地を這うような声が届いた。
「もう手遅れだよ」
顔をあげ外を見る。誰も居ないはずなのに、一定の速度で扉が勝手にしまっていった。地面に伸びている光はだんだんと少なく、糸のように細くなる。
絶望的な音を立て世界は暗闇に包まれる。胸の奥に襲ってきたのは恐怖だった。果てしない闇。蔵の中にいるはずなのに、空間はどこまでも続いているように思える。
視界に一瞬だけ光るものがあり目を凝らす。最初は何か分からなかった。パチ、と石と石をぶつけたような音がして全身が硬直する。火だ。いつのまにか短刀たちの姿は無くなっていた。出口へと走る。思いきり引いてみるが扉は重く、接着されたかのようにびくともしない。
爪ほどの明かりだった火が、もう松明ほどの大きさになっている。なお扉に向かって無駄な努力を続けていると足首に違和感が走った。
視線を下に向けると二つの手があった。肘から下は地面に埋まっている。白い子供のような手が、離さないとばかりに足首を掴んでいる。
振り向けば炎は天井まで届いていた。その手前にいる影を目にして一期は言葉を失った。短刀達が静かにたたずんでいる。何十もの瞳が己を見つめていた。
天井をなめるように這っていた炎が、勢いを増し短刀達を次々と飲み込んでいく。なにもできずにいる間に、炎に包まれて悲鳴をあげた。
早く助けなければ。そう思うのに体は動かない。あの日と同じだ。謀反でもなんでも起こして抵抗すれば良かった。一人、また一人と失われていく。全身を引き絞って叫び出したい。だが肝心の声が出ない。
やがてすべてを飲み込んだ炎が自身を飲み込もうとする。閉じた目の向こう側に熱を感じた。炎に包まれた瞬間、襲ってきたのはものすごい痛みだった。短刀達の悲鳴と怒り。耳元でごうごうと風が鳴る。息が吸えなくて口を僅かにあければ、一瞬のうちに炎が喉を滑り落ちて内臓を焼いた。刀を握ろうとした腕は、焼けただれて果実のような肉がむきだしになる。
苦しい。熱い。くるしい。
「これは僕たちが受けた痛み」
耳元ではっきりと声が聞こえ、乾いた目から押し出されるように、涙がひとつ零れた。
ふっと風が止んだように静かになる。一期一振は地面に蹲っていた。蔵は何事も無かったように静かで、炎は姿を消し闇が世界を満たしている。
「私が、身代わりになればよかった」
襲い来る後悔の波に、虫のように蹲りながら男は泣いている。
夜が明けて太陽が地平線から顔を出すころになってやっと、一期は顔をあげた。
「御免なさい、許してください。私は、間違っていると知っていても、主に刃を向けられなかった。だけど、今は違う」
よろよろと立ちあがった男は扉に手を掛ける。あれだけ力を込めても動かなかったのが嘘のように、何の抵抗もなく扉は開いた。眩しい光の世界に足を踏み出した男は、おもむろに腰にさしてある刀を抜く。
鋼は朝日を受けて輝き、一期一振は眩しそうに刃を見つめた。