いちばん奥の店の扉に閉店中と書かれた張り紙がしてあるが、無視をして取っ手を掴み、重い扉をひらき身をねじ込む。そこは酒場で、奥にテーブルが二つあり左側にカウンターがあった。先客が二人いる。どちらも見知った顔だった。マフラーを首から外しながら近づくと、片方の女が立ちあがる。
「遅かったね」
「ごめん。少し寝坊しちゃった」
彼女は珍しいねと言いながら壁にかけてハンガーをくれる。待ち合わせには間にあったはずだけど、と思いながらさりげなく腕時計を確認した。
「楽しみで早く来ちゃった」
黒い瞳を細め、この間あったばかりなのにねと笑う。
彼女とは先日、喫茶店で話をした。面倒なことに巻き込んでしまっているとあらためて実感し申し訳なくなる。黒いコートを壁に掛け、上着を脱ぐと体が軽くなった。傍に立てかけておいた刀の入った袋を掴んでカウンターに向かう。
友達を挟んで向こう側には刀がいた。髪が赤くて精悍な顔をした彼は目があうと軽く会釈をする。椅子に座ると同時に何を飲むか聞かれたので、少し悩み目についた焼酎の水割りを選ぶ。カウンターの向こう側にいる女性が、にこやかに頷いて壁沿いに並べられている黒い瓶を取り、とぷとぷとガラスのコップに注ぐ。
「一応、調べてみたんだけど、結果は予想していた通りだったよ」
乾杯の挨拶もそこそこに、友達が数枚の紙を差し出してきた。受け取って読み込む。視線が下に向かうにつれて内容が重くなっていく。
「夜伽って、なんだろう?」
聞きなれない単語あったので思わずつぶやくと、横の男が抑揚のない声で答えた。
「性交のことだ」
予想外の返答にかたまってしまい、カウンターの向こうから「そう珍しいことではないですよ」と静かな声が届く。手を行儀よくそろえながら女性がまっすぐに見つめていた。
「お店の人は信用して大丈夫、口がすごくかたいから」
今日は貸し切りだし、と友達が続ける。
「みんな受け入れていたの?」
疑問をそのまま口にすれば、ふん、と大包平が言った。眉間に皺を寄せている。
「逆らえるわけがないだろう」
男は少々荒い動きでグラスを机に置いた。
「本当に分かっているのか? 俺たちは神だ。不当な扱いを受けて黙っているほど優しくはない。逆恨みだとしても、今後危害を加えられるかもしれない。そうなれば、最悪、死ぬぞ」
大包平はお腹に響くような低い声で、「あまり舐めないほうがいい」と言った。
重い沈黙が落ちて、すぐに友達が男の背中を叩いた。「どうしてそうきつい言い方をするの!」「俺は此奴の為を思って言っている!」と小競り合いが始まる。
ロックグラスに入った氷が溶けてカランと音が鳴った。口に含むとまだ氷が溶け切っていないのか強い香りがする。液体が喉を通り抜けていく。
ぼうっと尖ったグラスの中の氷を見つめていると、ふいに声をかけられた。
「これが男士の名簿ね」
渡された紙にさっと目を走らせる。ざっと八十くらいの名前が書いてあるが、半分以上、名前の横にバツが付いていた。理由を尋ねると、女店主は煙草を取り出して、吸っていいかと聞いた。
「しるしのあるものは、負けた刀みたい」
残っている者の名前を、記憶を頼りに確認していく。しかし、なんど数えても一振り足りなかった。首を傾げていると、大きな声が右側から響く。
「おい! 聞いているのか!」
「あ、えっと。ごめんなさい。全然耳に入ってなかった」
平謝りすると、大包平は不機嫌そうにお酒をあおった。見たことのある銘柄だったが、それ美味しいですよね、などと言える雰囲気でもなく、かたく口を噤む。
「一回は成功したかもしれないが、浄化することなんてそうそう何度もできない。絶対に、余計なことに手を出すな」
「分かっています」
男はむすっとしたまま睨みつけてくる。はらはらとしながらやり取りを見つめていた友達は、弁解するように、こう見えて心配をしているのだと言う。
店内はピアノの曲が流れている。奥にいた店の女主人が出てきて、
「もう話は終わった?」
と言って煙草をふかした。
翌日、肩を揺さぶられて目をさますと、枕元にこんのすけがいた。尻尾がぶんぶんと左右に揺らし、心配そうに顔を覗き込ませる。
「あたま、いたい……」
布団をかぶりなおしてまるくなる。喋った途端、こめかみに突き抜けるような痛みがはしった。血管の内側を、棘が刺激しているみたい。障子から漏れる光さえ刺激となり、網膜を焼く。
「やけ酒ですか」
「……ちがう」
声がガラガラに掠れている。いつもだったら自制できるのに、知らずのうちに呑みすぎていたらしい。水が飲みたい。そう思い、のそのそと布団から這い出る。身を切るような寒さに鳥肌が立った。
酒臭いとぶつくさ言いながらも、こんのすけは廊下まで律義について来てくれた。朝、というよりむしろ昼に近く、太陽の光があたたかく庭に差し込んでいる。
厨は誰も居なくて、ほっと胸を撫でおろす。二日酔いで弱っているところなんて、絶対に見られたくなかった。食器棚から透明なコップを取り出してお水をそそぐ。
水は冷たくて体に染み渡る。口の端から少しこぼれてしまい、手の甲で拭った。ここは誰も居ないし、恐らく今日も彼らは姿を見せない。こめかみを押さえながら、執務室へ戻る廊下を歩く。突きあたりを右に曲がって暫く歩いていたら違和感に気がついた。まだ慣れていないためか曲がり道を間違えてしまったようで、いつもの道と景色が違う。面倒に思いながら、すこし戻ろうと顔をあげ、視界に映ったものに思考が停止した。廊下の先に人がいる。短い刀を持った男の子だった。白い髪の毛がやわらかそうに跳ねている。背中を向けているが、不思議と、彼が人間の子供ではなく、刀剣男士だとわかった。
先日見たリストを思い出す。――現在、在籍しているものの中に短刀の名は無かったはずだ。子供はまっすぐに前を見つめているが、廊下の先はなにもない。
彼はこちらに気が付いているだろう。なにか言葉をかけようと口を開けたとき、相手に動きがあった。
ぱっ、と何の脈絡もなく走り出し、背中はどんどんと小さくなる。どうしよう――と思ったときには、勝手に体が動いていた。
猫のような身軽さで駆けていく子供を必死で追いかける。みるみるうちに引き離されてしまう。とても脚が早い。二日酔いということもあって、走るたびに胃の中が逆流し、吐き気が襲ってくる。右へ曲がったと思ったら左に曲がって、またさらに角を横切る。そうしているうちに一本道になり、彼はスパートをかけた。
「ちょっと、まって! ぶつかるよ!」
手を伸ばして細い声をあげる。先は壁だった。彼は聞こえていないのか、ますます速度を上げる。
まずい。壁に激突する――吐き気を堪えて足を必死に前に出すと、彼はとうとう壁に突っ込んだ。何もないかのように壁の向こうに消えていく。
速度を落としながら黒い壁に近づく。何の変哲もない、木で出来た壁だった。試しに手を押し当ててみたが当然のようにびくともしない。
「なんだったの……」
吐き気と頭痛はピークに達していた。最後にもう一度だけ壁に触れ変わりがないことを確かめると、ため息をつきながらその場をあとにした。
◇
あの人が望む事だったら、なんでもしてあげたいと思っていた。戦場で流す血も、もともとは主から貰ったものだし――爪だって、服だって――すべては主の為にあった。
主はまだ若い女の子だったから、きっと現実が見えていなかったんだ。嫉妬とか、そんな心の弱さもあったのだと思う。刀を振るい戦う日々。常に勝ちばかりじゃない。負けてしまうこともある。いつからだろう。笑ってくれなくなったのは。
ただ、それだけで良かったのに。貴方が笑ってくれるなら、それだけで、俺たちは幸福でいられたのに。
本丸の一番奥にある部屋は、もう使われていない。襖を引いて静かに中に入る。視界に飛び込んでくるのはマットレスのベッドだった。主は布団が嫌いだった。でも和室には置けないから、これで我慢していた。
雑然とした部屋には、化粧品が机に置いたままになっている。主が消えてしまった日から数か月が経っていたけれど、形も変わらずあることに、加州清光はどこかほっとしつつ、置き去りにされている雑誌をめくった。白っぽい服を着たモデルが満面の笑みを浮かべている。三人の女が歯をむき出すようにして笑っていた。加州清光は、これは嘘の笑顔だと瞬間的に悟った。無理をして笑うと、人は眉間に不自然な皺が寄る。ちょうど、こんなふうに。
どうしてそれを分かるのかというと、彼自身がそうだったからだ。主は酷い人だった。毎度、ここへ呼びつけては溜まったストレスをぶつけた。それは暴力といった直接的なものであったり、ときに精神を蝕むものであったりした。傷つくのが分かっているのに、わざと彼女は酷い言葉を口にする。もう要らない、と、たったひとこと言われると、体がバラバラに裂かれるような心地になった。
「どうしてこんな簡単な事もできないの?」
目当ての刀が手に入らなかったとき、主は加州を呼び出して、そこらへんにあった物を掴んで投げた。身を固くして嵐をやり過ごす。物が無くなるまで破壊の限りを尽くしたと思ったら、突然叩かれたりした。上から影が差して、あ、と思った時には頬に衝撃がくる。僕たちにとってはなんてことのない痛みだったけれど、暴力を振るわれるたびに心の柔らかい部分が削られていくような気がした。たまらないのは――彼女が発する言葉だった。主は僕たちを傷つける方法を本能でわかっていて、煮えたような瞳で見つめたあと、静かに口を開く。
「もういらない。どこか別の人のところへ行けば?」
「そんな」
縋るような声を出せばそれすらも怒りの引き金になる。頭に血がのぼった彼女は、咄嗟に近くにあった砂時計を掴んだ。そして、ながれるような動きで腕を振る。くるくる回るガラスで出来た時計は、真っ直ぐに向かい額にぶつかる。ちょうど目のうえに当たってしまったみたいで、すぐに右目があかなくなった。地面に落ちた砂時計はガシャンとけたたましい音を立て、中身が飛び散る。額まで切れてしまったのか世界が赤く濁った。反射的に片手で目を庇いながら、主はどんな顔をしているのだろう、と気になって恐る恐る髪のすきまから覗く。予想に反して、怯えた瞳とかちあった。
良かった――まだ、落ち切っていない。慈悲の心があるならば、救い出すことが出来る。
大丈夫だよ、と伝えようとしたが、耳に届いた声に言葉を失った。
「びっくりした。早く手入れ部屋に行って。すぐに治るんだから、大げさな顔をしないで」
主は散らかった部屋を一瞥すると、「ここも綺麗にしておいてね」と言い放って、さっさと部屋を出ていった。震える指先でガラス片を摘まむ。そこらにあったビニール袋に砂時計の残骸を投げ込んでいると、指先に痛みが走った。尖った欠片で皮膚を切ってしまったらしい。肌に針で刺したような穴から赤い球が生まれて、細い川のように落ちていく。畳ににじむ赤色をぼんやりと眺めた。本当に理不尽で、不可思議だと思うのは――こうまでされても、さっぱり主のことを憎みきれない、自分自身の心だった。
廊下を歩いていると、遠くで走っている女が見えた。見えない何かを追いかけているように、一点を見つめて全力疾走している。彼女は最近やってきた女で素性がしれない。加州清光は柱のそばから一部始終を眺めていた。浴衣から覗く脚がリズミカルに床を蹴る。右から左へと猫のように駆け抜けていったけれど、すぐに植込みの影に隠れて見えなくなった。
あの女が新しい主にならないと聞いて安心した。もしそうなったらどうしようかと思った。流れのままこの本丸に居座ることになったら、本当の主はどうなるというのだろう。
きっと、待っていれば帰ってくる。主の声が心の中で聞こえる。風のうわさで、主はもうこの本丸には戻ってこないと聞いた。だが、加州は現実を受け止めきれない。
赤い傷跡が白い肌に良く似合うねと、主は笑って、なんの前触れも無く右頬を叩く。結構な勢いでぶたれるから、いつも遅れてじわじわと痛みがやってきた。今日は演練で敗戦したから、よほど鬱憤がたまっているに違いないと、加州清光はぺたりと畳に腰を下ろしながら考える。手を頬に持っていくと、内側に熱をもっていた。感情は体と同じようにあとから津波のようにやってきて、溢れる悲しみに打ちひしがれる。
「どうして」
弱弱しい問いかけに無視をして主は肩を押す。簡単に後ろへと倒れ込んでしまった加州は、覆いかぶさってくる女を見てぎょっとした。
「主、何をしようとしているの」
「大好きだよ」
なんの前触れもなく耳元でささやかれ、体が震えた。深夜、みんなが寝静まった後に呼び出されたので、また憂さ晴らしをするのだろうかと思っていたけれど、今日は違うようだった。初めてかけられた言葉に、大切にされているのだと知り、体が喜びでねじれてしまう気がした。顎の辺りを撫でられて反射的に首をすくめる。反射的に抵抗すると主の目が変わった。瞳に赤黒い炎がやどる。
「どうして拒否するの? もういい。やっぱりいらないよ、あんたなんて」
「どうして、さっきは好きって言ったじゃん」
「言うことを聞いてくれる人なんて、他にも沢山いるし」
髪を弄りながら主は独り言を呟き、横にある布団を見つめる。そこからは見知らぬ匂いがした。きっと人間には分からないだろうが、神である彼にはピンときた。
「もしかして、他にもこんなことしているの?」
わざとらしくため息をついた女は体を浮かす。焦燥のまま、主を求めて手を伸ばした。
「いいよ、大丈夫。主とその……、続きをしてもいいから」
やっとの思いで口にする。だが女の瞳は曇っていた。
「なにその態度。むかつく」
何が彼女の琴線に触れたのか分からない。もしかしたら言い方が悪かったのだろうか。加州清光は必死で頭を回転させ、絞るような声を出した。
「主の好きにして下さい」
今度の言葉は正解だったようで、女の雰囲気がやわらかくほどける。彼女は返事をするかわりに顔を寄せて左の瞼にキスをした。
女は導火線に火がついた爆弾のようで、楽しそうに笑っていると思ったら、次の瞬間には目をつりあげる。彼女にはいつのまにか触れてはいけないスイッチができていて、それに分からずに押してしまうと、途端に豹変する。一瞬の内に、白から黒へと、まるでオセロのように変化してしまうので、短刀なんかはいつも怯えていた。
それは加州も例外では無かった。彼の場合は体罰も与えられる。痛みに呻いても、彼女は鼻で笑った。そして決まって、人みたいなふりをするなと言った。心底嫌そうに、顔を歪ませて。
あの、虫を見るような目が耐えられなかった。冷たく色を無くした視線に貫かれると体が内側から溶けていくような感覚に襲われる。嫌われたくない一心で主のわがままを受け入れた。それが、お互いにとって良くない事だということは、とっくの昔に気付いていた。
刀としての誇りはどんどんと失われていく。夜、盛大に癇癪をおこした主にしたたかにぶたれながら、加州清光は頭の奥がどんどんと静かになっていくのを感じていた。ときどき、無性にわからせてやりたいと思うことがある。蹲り丸めている背中に向かって拳が振り下ろされる。女の腕は細く、とうてい刀など振るえない。同じ痛みを与えたら理解するだろうか。自身の感じている苦しみを。そして、人間と神の、格の差を。
何度か名前を呼ばれたが、暗い思考の海に潜っていた加州は気が付かなかった。怒った女は、黒い髪の毛を掴んで無理やりに顔を正面に向かせ、赤い瞳を覗き込む。ゆっくりと刻みつけるようにこう言った。
「壊れた物はどうする?」
意識が現実に戻ってくる。突拍子もないことを聞かれて加州清光は固まってしまい反応が遅れる。困惑したまま見つめるばかりの男を嘲笑し、女は言葉を続けた。
「いらないと思ったモノは捨てる。それって当然だよね」
喉から細い音が出る。どこか遠くで縋るような声が聞こえる。捨てないでください、愛してくださいと必死に叫んでいる。みっともない。誰が叫んでいるのだろう。無様な真似はやめろと言いたいが声が出なかった。喉が焼けるように熱い。煩い声を黙らせてやりたいと思うのに、どうすることもできない。
ひとしきり罵倒すると、女はすっきりとした顔をして髪の毛から手を離した。吊られるようになっていた体が重力に沿って崩れ落ちる。ひろがる畳の目を眺めながら、加州清光はほっと胸を撫でおろした。やっと耳の奥の声がやんだ。
これだけ罵倒されて痛めつけられているのは彼だけだった。主はなぜか最後にかならず謝罪の言葉を繰り返す。そして両手で抱きしめるのだった。愛に飢えている加州清光は振り切ることができない。その日は打ちどころが悪かったみたいで、意識が泥の底に沈んでしまった。
女は散々殴られて体が腫れ、虫のように動かなくなった男を一瞥し、懐から一枚の手入れ札を取り出し放ると、何事もなかったように部屋を出ていった。