すくわない(6)

 畳で仰向けになり天井をみつめる。お腹ではこんのすけが頭を乗せていた。天井を眺めていると、木目が芸術的な模様のように思えてきて、つい見入ってしまう。だんだんと人の顔に思えてくるので面白い。「これから、どうされますか」「どうしようかな……ちょっとまってて」遮るように小声でつぶやき、静かに障子に向かって歩いた。足音を立てないように気を付けて進み一気に障子を引く。しかし、外には誰も居なかった。あとからついてきた狐が、廊下を覗くようにして鼻を鳴らす。「誰だろう。視線を感じたのに」「打刀かと思われます。ですが、いろんなにおいが混じっていて、わかりにくい」

狐は下を向くと、控えめにくしゃみをした。

「主様、提案があるのですが」

こんのすけが静かに言葉を続ける。

 

 

 

 

男は曲がり角で身を潜めながら、少し離れた場所で執務室のようすをうかがっていた。冬にもかかわらずこめかみに汗が伝う。あの女――と、へし切長谷部は心の中で悪態をつく。近寄ってきた気配がなかった。足音さえも。わざとなのか、それとも意図したのかは分からない。だが、もしあえてそうしたのだとしたら、予想が外れたことになる。男は心臓のあたりを押さえながら深呼吸をする。鼓動がうるさい。脚が早いから良かったものの、他の誰かだったら、きっと反応が遅れ見つかっていただろう。

この数日間、彼はたびたび執務室に足を運んでいた。もちろんそれは好意的な意味ではなく、見張りと偵察のためだった。清潔なハンカチを取り出しながら彼は考える。本当に上手くいくのだろうか。不安が心に影を落とす。しばらく戦場に行っていないし、手合わせもしていない。いつもならこんな状況で汗などでないが、戦場に出なくなってから大分経つ。確実に体力はおちていた。

柱の影から部屋を盗み見ると、女は縁側に出たまま管狐と話をしていた。こんなに離れていては内容が聞き取れない。へし切長谷部は舌打ちをして軽く悪態をつくと無意識に身を乗り出す。次の瞬間、瞳をおおきくひらかせた。

女がこちらを見つめていた。合わさった視線をそらすことができない。存在に気が付いている――と思うと同時に踵を返し、執務室とは逆のほうへ歩く。はや足は駆け足にかわり、さいごは走っていた。充分に離れたところまできてやっと男は膝に手をあてて前かがみになり、呼吸を整える。

女と目があったとき、確かに空気が揺らいだ。主の気が薄くなっている。このまま、本丸が完全にあの女の気で塗りかえられてしまったら――そう思うと足元が抜けていくような、恐ろしい感覚がした。

 

 

 

はじめて肉体を持った日のことを、へし切長谷部は昨日のことのように思い出すことができる。それはよく晴れた春の午後で、桜が満開に咲き、花びらがいくつも風に舞っていた。胸を満たしていたのは、戸惑いと違和感だったが、目の前にいる女性と目が合ったとき、一瞬のうちに役割を理解した。いわば刀剣男士の、本能のようなものだったのだろう。

主はとてもではないが刀を振るえそうになかった。少なからず落胆し、少女と呼んでよさそうな年の女と目を合わせる。

「よく来てくれました」

想像よりもずっと丸く柔らかい声だったので困惑してしまう。どうしていいのか分からず、とりあえず頭に浮かんだ文章を口にする。女は顕現したての刀のようすに慣れているのか、安心させるような笑顔を浮かべながら手を差し伸べた。

戸惑ったがここで手を取らないというのも奇妙だと思い、男はすなおに自身の手を乗せる。

 

 

 

他の本丸で顕現された、同じ刀種の個体は、事務処理能力が高いらしい。それを知ったのは顕現してから一か月が経ったときだった。朝餉をすませ自室に戻ろうとしたところ、主に声をかけられる。

「長谷部、ちょっといい?」

彼女は意味ありげに笑うと、「ここではなんだから」と言って廊下へと向かった。特に反抗する理由も無いので素直についていく。庭には桜の木が沢山あって、いくつかの短刀が子どものような奇声をあげながら駆けていた。前を歩く女の後ろ姿を眺める。最初こそ無意識に比較し落胆したが、数日も経つと受け入れられるようになっていた。

執務室についたが彼女は通り過ぎ、さらに奥へと行ってしまう。障子を開け、さらに進んでいった。ここから先は主の個人的な私室で、続いていいものかと思案していると、離れた場所から名を呼ばれる。

「どうしてこないの?」

「いま、いきます」

慌てて答え、和室へと足を踏み入れた。どうして躊躇ったのかというと――遠慮したというのもあるが、単純に部屋が汚かったからだ。机にはいくつもの菓子の空き箱があり、布団がぐしゃぐしゃになっている。畳に散らばった書類やら、小物やらを踏んでしまわないよう慎重によけながら、そろそろと部屋の中心に向かう。視界のすみで、いつ注いだのか分からない液体の入ったコップの淵に小さな虫が一匹へばりついているのをとらえて、思わず眉をひそめる。

「あのね、ほんとうに申し訳ないんだけど」

両手を顔の前で合わせた時点で、次に何を言われるか理解して、息をのんだ。

「部屋の掃除をお願いしたいの」

「……分かりました」

丁寧な口調で返せば、主は目を細くして笑った。内心、自分がやることではないと思ったが、「長谷部にしか頼めないの」と甘えたように言われると、悪い気はしない。

 

部屋の掃除係から近侍へと立場が変わるのに、そう時間はかからなかった。主は非常にのんびりとしており、もう少し厳しい言いかたをすれば、要領が悪かった。何度も書類を確認するのだが、そのたびに必ずミスが見つかり、修正しているうちに次の納期が迫り――というのを繰り返して、どうにもならなくなると長谷部を呼ぶ。

人には得意不得意があるということを、もちろん理解している。長谷部は書類仕事が得意で、主は苦手だった。それならばと、赤字でかえってきた書類をもくもくと修正しながら男は考える。このまま近侍を続けたほうがいいのではないか。現在近侍は固定されておらず、主の気分でころころと変わった。長谷部が永久近侍となったら、いちいち引継ぎをしなくてよくなる。とっさに考え付いたことだが、それはとてもいい発想のように思えて、そのまま主に伝えた。

女は瞳を丸くしたあと、本当に嬉しそうに「それ、いいね」と言った。

「長谷部はほんとうに頭がいい」

ひまわりのように陰りのない笑顔でつげられ、体があつくなる。どうしようもなく気恥ずかしくなり、男もつられるように笑みを浮かべた。

次の日から晴れて固定の近侍となった長谷部は、必然的に主と過ごす時間が多くなり、だんだんと好意を持つようになった。それは愛や恋とはまた別な、もっと落ちついた感情だった。

 

 

 

日課となった主の部屋の掃除をしたあと、執務室へと向かう。するとすでに主は机に向かっていて、なにやら俯いていた。背中を向けているので表情が分からないが、纏う空気が不穏なものだったので少したじろいでしまう。

「主、どうかされましたか……?」

傍に膝をつきながら問いかけると、女は男が近くに来たことを始めて知ったように肩を跳ね上げさせた。顔を勢いよくあげて咄嗟に手に持っていた何かを後ろに隠す。が、男にはそれが何なのか見当がついていた。おそらく定期的に送られてくる成績表だろう。歴史を守ることは我々の使命であるが、同時に仕事でもある。達成すると小判という名目で報酬が送られた。そのため成果は常に政府から評価されるのであった。それは数字という、もっとも残酷な形によって。

「見せてください」

静かに告げると主はしぶしぶとしたようすで、手のなかに隠していた紙を差し出す。受け取りつつ、さっと紙面に目を走らせる。お世辞にも良い数字とは言えなかった。細かい指示を熟読していると、最後の行に”もっと精進すべし”と書いてあった。

「また頑張るよ」

投げやりに言いつつ近くにあった飲み物を手に取った女に、長谷部は静かに言葉をかけた。

「このままでは現状はかわりませんよ。原因をつきとめ対策をしないと」

「だから、頑張るっていってるじゃん」

拗ねたような口調で今度はお菓子の包みに手を伸ばしたので、気付かれないようにため息を吐いた。

「具体的にどうするのですか?」

「え?」

驚いたように見つめる瞳を受け止めていると、女はしかめっ面をつくる。

「長谷部までわたしを責めるんだ」

「違います、主。俺はただ」

「もういいよ。面倒くさい。もう近侍、変えよっかな」

喉が詰まるような感覚がした。どこかで発言を間違えた。どう弁解するか頭を巡らす男を、女は冷たく見据える。

「だって長谷部、煩いんだもん」

「申し訳ありません……」

「いつも偉そうだし」

「そんなつもりでは」

狼狽える男をよそに、主は次々と理由をあげた。正論ばっかり。一緒に居ると息が詰まる。優しくない、などなど――最後のほうはほとんど悪口になっていた。真面目で、言葉をそのまま受け取る気質のある男は、背中を丸くさせる。苦しそうに自身の膝に視線を落としているさまを見て、女はにやりと口角をあげた。

「そう言えば、光忠が近侍やってみたいって言ってたんだ」

他の男の名前が出た途端、長谷部の瞳に炎に似た色が宿る。まぎれもない嫉妬だった。

「俺にやらせてください。なんでもしますから」

「なんでも?」

女は上目づかいになりながら距離を詰めた。今まで嗅いだことのない匂いが鼻を掠め、長谷部は驚いて身を引く。顔を限界まで寄せると、女は猫のように目を細めた。

「長谷部ってさ、結構いい顔してるよね」

「は?」

急に何を言い出すのだろう。限界まで近い場所にいた女は密着させるように体をぐいぐいと寄せてくる。顔を横にそむけながら手を後ろにつけた。心臓がどくどくと内側を叩いている。あまりの激しさに、皮膚を突き破って外に出てきそうに思えた。

「今夜、またここへ来て」

耳に直接吹き込むように言うと、女はぱっと身を引いた。そして何事も無かったかのように立ち上がり、服についた細かい埃を手で払うと、さっさと部屋を出ていってしまう。

急に静かになった部屋で、男は開け放たれたままの障子を茫然と見つめていた。