すくわない(30)

薄く目をあけると、白っぽい壁が目に飛び込んでくる。既視感に襲われて記憶をたどる。ここは病院で、過去に一度来たことがある。ぼんやりとした意識のまま視線を窓のほうに向けると、白い服に身を包んだ女性がいた。カーテンを纏めて端に寄せている。生地の重そうな布をひとまとめにして、タッセルでとめる。流れるような動きで窓の鍵をあけると半分だけひいた。ぼんやりと一連の流れを追っていると目が合い、彼女は驚いたように固まったがすぐに近づいて声をかけてくれる。口が金魚みたいにぱくぱくしているのを眺めて、聴力がまだ戻っていないことを知る。耳に指をあてかすかに首をふる。女性は頷いて部屋を出ていこうとするが、とっさに手をつかんで引きとめた。まだ重要なことを聞いていない。

困ったような顔をしながら女性は手を外す。意図を理解したのか、そしてテーブルにあったメモ用紙にさらさらと文字を書いた。わたされた紙を見て眉をひそめる。刀は無事であるが自分たちの管轄外なので、詳しいことはこんのすけに聞いてほしい――と、そのようなことが書いてあった。滲むような不安が心に沸く。顔をあげると誰もいなくなっていた。軽く起こしたベッドに背中を預けて目をとじる。

 

 

夕方になるとこんのすけが来て(いつもどおり何の前触れもなく空中から現れた)、目が合った瞬間にそっと前足を差し出して、布団のうえに投げ出しいていた腕に押し付けた。抱きあげてお腹に顔をおしつける。ごめんなさい、と口を動かすが彼はなすがままでいてくれた。安堵感に泣きたくなってきたので布団におろして背中をかるく撫でると、こんのすけは何かを思い出したような顔をして、ちいさな前足で何もない空間を叩く。すると空中にモニターが出てきた。なんどか見たことがあるそれは、文字が打てるようなっている。

――ほんとうに、無事なの?

あまり慣れない操作だなと考えながら打つと、こんのすけの顔がこわばった。小さな前足が画面に伸びる。

――厳密にいうと、そうとは言えません。

――どういうこと?

煮え切らない言い方に不安が押し寄せてくる。こんのすけは考えこむようなそぶりを見せたあと、画面を何度か叩いた。すると病院の図が出てきて、層が重なるように複数の画像が浮かんでくる。だいたいどれも上から室内を撮っているような構図で病室が映し出されていた。次から次へと浮かんでくる映像を、これでもないあれでもないと小さな足でスライドさせていく。流れ作業のようになっていた矢先、はじかれそうになっていた映像を横からとめた。画面を二度叩くと映像は拡大される。そこには寝かせられている男がいた。いたるところに包帯が巻かれている。見知った顔に息がとまる。深く眠っているらしい男はぴくりとも動かない。人に使われている部屋とは雰囲気が違い灰色で物が一切なく、不謹慎だが霊安室みたいだと思った。

――生きているの?

――いちおうは

一応とはどういうことだという疑問に答えるように、こんのすけが説明してくれた。

――手入れがうまくできないのです。政府の者が適切に対処したにもかかわらず、傷がふさがらない。意識も戻りません。

どうして手入れがうまくいかないのか、こんのすけにもわからないらしい。体を起こして作務衣に似た病院服の合わせ目の紐を結びなおしながら、文字を打ち込んだ。

――案内して

いまさら行ったところで、何もできないことは分かっていたが、指は流れるように動いた。こんのすけは目を細める。

――かまいません。ですが、あの刀は貴女と会わせないようにと言われています。これがばれたら、こんのすけは廃棄されるかもしれません。

文字を読んだとたん、かなしい気持ちになって、おもわず小さな体を抱きしめる。そんなことさせないと背中に顔を押し付けて呟くと、狐は分かったと言うように鼻先を腕に押し付けてきた。

 

 

そっと病室を抜け出す。見回りしているであろう病院の関係者に見つからないように慎重に歩いた。患者は眠っている時間で、廊下の灯りは限界までしぼられている。従業員と鉢合わせになりそうになると、こんのすけがトイレに押し込んでくれたり、迂回させてくれた。点滴は昼間、眠っている間に外されていたので自由に行動できる。とはいえ体力は完全に戻っていない。歩き疲れると、廊下のいたるところについている手すりにつかまり休憩しながら進んだ。

 

目指す部屋は一番地下にあるそうで、それなりの時間をかけて階段をおりると、暗い廊下にでた。一人だったら絶対に来ないであろう道をのろのろと進んでいると、ドアの前でこんのすけが足をとめた。ここだというように尻尾を振る。近くに赤いボタンがあったので押す。ゆっくり扉がひらき、無機質な壁が目に飛び込んできた。薄い光が天井からさしていて、ほとんど夜のように暗かった。足を引きずるようにして真ん中にあるベッドに向かう。横たわる人物の顔を正面から見ることができず、服をめくると肌のほとんどは包帯で巻かれていた。無造作に投げ出された手を握ると、想像していたよりもずっと冷たくて、ぞっとする。

どうすることもできずに立ち尽くしていると、どこからともなくこんのすけが丸い小さな椅子を持ってきてくれて、それに腰掛ける。ベッドに飛び乗ったこんのすけは見聞するように男の腕に鼻を近づけたり、前足で押したりした。氷みたいに冷たい右手を両手で包みこむ。ようすを見守っていたこんのすけは目をあわせると軽くうなずいて、布団の上で丸くなった。

 

 

 

 

 

病室に男のかすれた声が響いた。意識が浮かんだり落ちたりする。腕と腹のあたりが重い。和泉守が首をかたむけるようにして覗き込めば、女が覆い被さるようにして寝ていた。右手を握られている。絡めた指から微かに気力が伝わっていた。静かに体を起こすと内臓が悲鳴をあげているみたいに痛む。まだ表面しか回復していないらしい。やっとのことで体を起こすと、審神者の頭から少し離れた場所でこんのすけが丸くなっていた。息苦しさの原因はこれかと苦笑する。二人はそろって、人の体のうえで寝息を立てていた。審神者の顔にかかった髪をのけてやる。ふれた肌が驚くほどに冷たくて、もしかして、と心のなかで呟く。

「どうしてそこまで」

比較的無事なほうの手で頭を撫でると、さらさらと感触が指先に伝わる。小さな欠伸の声に目を向ければ、起きたばかりのこんのすけと目が合った。

「目が覚めたのですね! 本当によかった……」

「どのくらい寝てた、って、おい」

跳ねるように飛び起きたこんのすけが、男の左手をばしばし叩いた。力は加減されていたが手を引っ込める前だったので、振動が審神者にも伝わってしまう。うめき声とともに女の眉間に皺が寄るのを、和泉守は見ていることしかできなかった。狐はいまだになにか言いながら腕を揺さぶり続けている。そうしているうちに、のっそりと起きた審神者と目が合ったが、気まずさゆえにこちらから逸らした。ボロボロになったこと、ほとんど負けてしまったこと。頭には無様な自分の姿がいくつも浮かんだ。思いがけない助けによってかろうじて命は繋がったが、ほんとうに散々な結果だった。男が自己嫌悪に浸っていると、布団に乗りあげてきた女が手を伸ばす。懐かしい匂いが鼻先をかすめた。白い腕が首をまわって、気がつくと抱きしめられていた。思考がとまってしまう。頬と頬を触れ合わせて、たまに髪の毛を握られる。まわした腕に力がこめられて、飛んでいた意識が戻ってきた。

「主様も、心から心配していたんですよ」

「他人になんて興味ありませんって顔をしているこいつが?」

「意地悪をおっしゃる。この姿を見ればわかるでしょう」

いくらか落ち着いたこんのすけが、座りながら淡々とつげる。瞳の奥には不思議な光があって、状況を楽しんでいるふうさえ感じられた。男のほうは混乱の境地に達していた。女の肩を押してやんわりと遠ざけようとしても、いやいやと首をふりますます抱きついてくる。

「だらしない顔してますよ」

「うるせぇ」

狐はさらに、まんざらでもないくせに、と続けたのでぎっと睨む。「冗談です」とゆるく尾を振るこんのすけを見ているとだんだん緊張がとけて、まあいいかと思えた。腕を女の背中にまわして子供にするようにやさしく叩く。するとタイミングよく扉があいて、驚いた看護師と目が合った。

 

 

 

 

昼だというのに薄暗い部屋には古びた箪笥がひとつだけある。膝より下くらいの小さなものだ。上部を台のかわりにして、白い紙を置き、左手にある鋏を乗せる。食器をくるむ要領で包み、最後は持ってきたテープでとめた。それを、一番上の引きだしの奥にしまう。息をつきながら半分くらい閉めたところで手がとまった。頭のなかで良くない考えが浮かぶ。――もしこれを使って、残りの縁を切ったらどうなってしまうのだろう。記憶を消されて現世に戻される? 政府や誰かの怒りをかって、命を奪われる。いちばん可能性が高いのは、前者のような気がした。

足元にすりよってくる猫の毛のような感触に、体がびくとはねた。足元をみると猫ではなく狐がいる。ということは、と視線を外に向けると、柱に背を付けるようにして男が立っていた。庭を見ているので半分背中を向けている。この部屋にはひとりできたのに、いつからいたのだろうと疑問に思った。引き出しを中途半端にしたままでいるので、こんのすけが僅かに眉間に皺をよせている。箪笥に向きなおり、しっかりと閉める。用事がすんだのでさっさと廊下へと向かう。外はよく晴れていて、太陽がさんさんと降り注いでいた。雪はほとんど解けて黒い土がのぞいている。光を遮るように手をかざし温かさを感じていると視線を感じた。腕を組んだ和泉守が静かな瞳でこちらを見ていた。

 

 

 

 

靴を履きかえてから外に出る。地面を踏みしめながら、和泉守は狐に声をかけた。

「ひとつ聞いていいか」

ふりかえったこんのすけが首をかしげる。女は足をとめない。まっすぐに伸びた背中を眺めながら、最近のことを考える。本丸に帰ってから、男士たちがどこからともなく現れ声をかけてくれた。特に鶴丸は、審神者を目にしたとたん、「君! 無事だったのか!」と言って本物の鶴みたいに飛びついてきたので抜刀するところだった。鶴丸は案外女のことを気に入っていたのか、女の頭をぐちゃぐちゃした。撫でられた本人は迷惑そうに眉間にしわをよせる。

「季節が進んでる」

和泉守兼定はぼそりと呟く。空気はあたたかく、流れる風もやさしい。そしてなにより、ちかごろ雪が降っていない。来たときは雪が降らない日がなかったというのに。こんのすけは動物特有の、喉を鳴らすような音を立てた。

「この本丸の景趣は特定の時代と連動しているようです。ですが、いつからか季節が動かなくなってしまいました。それがいまになってなぜ動き出したのかは、私にもわかりかねます」

足元にちいさな花が咲いている。視線を遠くに向けると白い花と青い花が雪を避けるように固まって咲いていた。花びらがかすかに風にゆれている。しばしそれに見とれていたが、いつのまにか審神者がずいぶんと遠くに行ってしまっていたので、駆け足で後を追いかけた。

刀解部屋の近くに石が置いてある。和泉守が追いつくタイミングで、審神者は静かにしゃがんで手を合わせる。丸くてきれいな石が置かれていた。その周りを囲むように小さな花が咲いている。

「刀剣男士殿には内緒にしているのですが、こっそり私と主様で作ったのです。刀解して残った欠片を埋めました」

全部ではありませんが、とこんのすけは申し訳なさそうに告げる。和泉守はなんと言っていいか分からなかった。男士は物であり骨なんて残らない。だが、真摯に祈っている女の前では無駄のひとことで片付けることなんて、とてもできなかった。心の抑え込んでいる部分が揺れる気配がする。足元によってきたこんのすけが小さな声で囁いた。

「主様の故郷ではいまだに、大切に使った物は供養するらしいですよ」

「供養?」

「ええ。なんでも、白い紙で包んだ後に庭に埋めるそうです。感謝の気持ちを込めて」

和泉守は顔をあげると、「またすぐ戻る」と返して小走りで駆けた。ぼうっとしている女の横でいくつか花を分けてもらう。こぼれないように丁寧にまとめると、小屋のほうへと歩いて行った。予想した通り、扉の影に人影があって足をとめる。彼は腕を組みながら、遠くでしゃがみ込む女を眺めている。祈りが終わったのか、女は膝の上にこんのすけを乗せて腹をかき回していた。狐は笑い声を堪えようとして呻き声をあげている。

「一期一振」

声をかけると、男はゆっくりと振り返る。視線が手元に向かう。握りしめた花を差し出すと、彼は拒否するかと思ったが、予想に反して無言で受け取った。指先でくるくるとまわしている。横顔からは何を考えているのか分からない。前髪が風にゆれて、鬱陶しそうに頭を振ると、彼は本丸に戻ろうと足を踏み出した。すれ違う瞬間、和泉守は声をかけた。

「助けてくれてありがとう。審神者は喋れないから、代わりに礼を言う」

洞窟の中で、女は気絶してしまったので最後の瞬間を見ていなかった。和泉守が相打ちに持ち込もうとしたところ、暗がりから飛び出てきた一期一振と膝丸によって敵の首は落とされた。逸話の力は大きいのか、あんなに硬く通らなかった肉が膝丸の手にかかると簡単に両断された。だけど不思議だった。どうして一期一振まで来てくれたのか。その答えが、彼の手に握られている白い花にあるような気がした。

 

 

 

 

身支度を整えて外に向かう。男士たちにお別れの宴をしようと誘われたが、審神者ががんとして首を縦に振らなかったのでこのまま帰ることになった。一日くらい遅れてもいいのではないかと思ったし、和泉守ですら玄関を出たときに寂しい気持ちになったのだが、審神者は哀愁を一切感じさせない表情で歩いた。いよいよゲートをくぐる直前という段階になって、審神者はふいに立ち止まる。座標を設定しようとしていた手が止まった。

「どうした」

カバンをごそごそとして赤い布に包まれた何かを取り出すと、必死に手で制するように身振りして後退する。ここにいろということらしい。忘れ物でもしたのだろうか。一人で向かわせるわけにはいかないので途中まで打っていた座標を消していると、後ろで、ごつ、と重い音がした。振り返ると、黒い服を着た男が胸を押さえて下を向いていた。女はおろおろとしている。駆け寄ると、男が弱弱しい声をあげた。

「み、みぞうちにはいった……」

和泉守は気配がまるでしなかったことに驚いていた。目の前で悶絶している男――膝丸は、心配そうにしている女の眼前に手のひらを向け、もう大丈夫だと声をかけている。近くに和泉守が来たことに気付いた審神者は、情けない表情を浮かべて隣によって来る。

「何か用でもあるのか」

和泉守の問いに、膝丸は胸を押さえたまま背筋を伸ばした。

「礼を言いたくて来た」

膝丸は審神者に軽く会釈する。女の視線が自然と腰の刀にいき、口角がほんの少しあがる。

「本人にはあとでちゃんと、オレからも言っておく」

顔をあげた膝丸は、ほっと安堵した顔を浮かべた。金色の瞳が光をうけて輝いている。

「礼を言いいたいのはこっちのほうだ。あんたがいなかったら、確実に死んでいた」

和泉守は自然と右手を差し出していた。膝丸は緊張を解くと、口元に笑み浮かべて手を伸ばす。握手した手を最後に強く握ってから離すと、一部始終を眺めていた女が、あ! と気の抜けた声をあげた。またもや荷物をまさぐっている。女は膝丸の前にでると、ぐっと手に持っていた包みを差し出した。膝丸は驚きながらも受け取る。和泉守にも見えるように袋をひらくが、中にあるものは厳重に布でくるまれていた。

「念のため確認してもいいだろうか」

紫色の包みをひらくと、膝丸は息をのんだ。女は気まずように一歩さがり、一人でゲートのほうに向かってしまった。膝丸が震える手で布をめくると、青いお守りがでてくる。それもひとつやふたつではなく、いくつも重なっていた。

「へぇ。やるな」

覗き込んだ和泉守の口から自然と称賛の言葉がでた。もうひとりの肩は震えている。さりげなく盗み見ると彼の目は潤んでいた。このまま泣きだすのかぎょっとしたが、彼はあともう少しというところでこらえている。

膝丸が何か言い出す前に肩を叩いて、駆け足で出口へ向かう。審神者はゲートの前で静かに待っていた。とっくに準備は終わっているらしい。和泉守がたどり着くと、向こうの景色が光りだす。何度も見てきた転移装置の発動を眺めていると、やっとだ、と思った。女は空間に手を伸ばし、いざ帰ろうという瞬間に後ろを振り返る。姿が見えなくても見送りに来ているだろう刀たちに向かって、ばいばいと小さく手を振った。

 

 

女が設定した座標は本丸直結ではなく少し離れた場所だったので、和泉守は意外に思った。一本道の片側には桜の木が続いている。なんどか通ったことのある道で、本丸までは歩いて数十分程度の場所だった。審神者は一度も振り返らない。若干うつむいて歩くのは女の癖だろうかと、和泉守は考える。

無言で歩いていると、急に現実が押し寄せてくる。こんのすけが言っていたとおり任務は達成できたようだし、めでたしとなったのだろうが、新たに生まれてしまった問題は消えていない。切れてしまった縁は繋ぐことははたしてできるのだろうかと、答えのない問いを延々と繰り返している。戦闘経験があるので刀解はまずないだろうと狐が言っていた。男士を鍛えるにはそこそこの時間がいるのだ。もう一つの道――ほかの本丸に行かせられる、が今のところいちばん可能性が高い。それを思うと足元から暗く影がさしていくようで、せめて姿を目に焼き付けておこうと顔をあげる。ふいにもう自分は“受け入れている”のだと知り絶望する。自覚したらもう一歩も進めず足は自然と止まった。

「本当は、これを通じて声をずっと聞いていた。ただ、認められたかった。憎くて、でも大切で、守りたい」

今はもういない初期刀と話がしたい。審神者はこちらの気も知らずにのんびり桜を眺めている。面白いものを見つけたのか、風にいたずらにあそばれる髪を耳にかけようとしたまま、中途半端にかたまっている。

「あぁ、そうか。オレはやっと、あいつの気持ちが分かったよ」

いろんな気持ちがこみあげ、つい「主」と呼んでしまう。口にだしてから、和泉守はひとりで驚いた。もうずいぶんと彼女を主と呼んでいない。近年は特にそうだった。しかしさらに驚愕したのは、耳のきこえないはずの審神者が振り返ったことだった。目が合った女はゆっくりまばたきすると、

「はい」

と答えた。

驚きのあまり動けない和泉守のもとへ、女は耳のあたりを押さえながら近寄ってくる。眉をよせながら、「急に聞こえるようになった」と報告してきたので、あいまいに頷くことしかできない。挙動不審な男には気付かずに、審神者は「明日病院に行かなきゃ」と呟いた。

「どこまで聞い、」

「さっきなんて言ってたの? ちゃんと聞こえなかった。もう一回言って」

「へ」

体の力が抜けていくようだった。ほっとして息をついていると、女がおもむろに手を伸ばす。刀を貸してほしいというので、何も考えずに渡してしまった。帰りながら異常がないか確認したいと、そんな言葉が耳を素通りしていく。無表情で刀を受け取った女はさっさと先を行ってしまった。あまりのそっけなさに追いかける気にもなれなくて、腕についた桜の花びらをかるく手ではらう。すると、頭のなかでかすかに音が聞こえた。それは何度か聞いたことのあるもので、よく聞こうと目をとじる。

――何も知らなかった。たくさん傷つけてごめんなさい。

――だいすきだよ。あなたは私の、たいせつな刀。

目をあけると、遠くのほうで審神者が刀を抱くようにし柄に額を押し付けている。それは祈りの姿に似ていた。しばらくそうしていたが、ゆっくり顔をあげると目が合い、照れたように笑う。

「ちゃんと聞こえてたんじゃねぇか」

胸の奥が熱くて苦しい。だけど今まで感じてきた苦しさとは意味の違うものだった。止まっていた足を動かす。桜の花びらが雨のように振り続いている道の先で、主が待っている。

 

 

 

 

政府によって紹介された新しい主人は女性だったから、彼らは酷く警戒していた。放棄された本丸の刀をまとめて受け入れる人間がいるということがまず驚きだし、(大体の審神者は自分で鍛刀した個体を好む)性別についてとやかく言いたくはないが、どうしても疑問はぬぐいきれない。慣れてきた頃、本丸の浄化のために来ていた女が推薦した人物だということが判明し納得する。ここの主は霊力が高いのに鍛刀を嫌がり太刀が揃っていなかったから助かったと、近侍である大包平が疲れた顔をしながら告げたのが印象に残っている。

確かに短刀は全員揃っているのに長物がいない。一期一振が来たことで短刀たちは飛び跳ねるようにして喜んでいた。一気に大人数の面倒を任されることになり困惑していた彼も、最近は笑顔を見せている。

桜も散って、夏を感じる気温になってきたころ、来客を知らせる音が鳴った。厨では燭台切光忠、鶴丸、膝丸が夕食の準備をしていた。まだお昼どきで早い気もするが、今日は出陣がなくてとにかく暇だったので、厨でひとり、机に広がっている豆と格闘している光忠を見かけ二人は手伝うことにした。てきぱきというよりはのんびりといった感じで、ときおり雑談を交えながら手を動かしていたところ、主が息を切らしながら厨に駆け込んでくる。

「今から友達がくるんだ。飲みもの作りたいから場所かりていい?」

全員が顔をあげ頷くと、主は礼を言い戸棚をあける。慌ただしく手を動かし茶請けの菓子を探しながら言葉を続けた。

「本当はすぐに帰る予定だったんだけど、無理いって一泊してもらうことにしちゃった」

「無理を言ったの?」

光忠は笑っていたが、いまから訪れる客のためいつも常備しているという珈琲の銘柄を受け取った瞬間、首をかしげた。主は鶴丸に向きなおると、もうそろそろ着くころだから執務室に案内してきて欲しいと言う。光忠がそわそわしながら「僕も一緒にいってもいい?」と尋ね、主は「もちろん。きっと驚くと思うよ」といらずらな子供のような顔でこたえた。膝丸はそんなやりとりを横目に、黙々とそら豆を剥く作業を再開する。

そら豆は、今晩の夕餉に使うのだという。