闇から出てきたのは異形の頭だった。最初に鼻先、続いてずるずると胴体が押し出されてくる。女を抱えて岩陰に向かった。移動するときに微かに水が跳ねて、化け物がさっとこっちを向く。聴覚があるのかと、脳が意外と冷静に判断した。
化け物はしばらく宙を見つめていたが頭をもどして前進した。わずか数メートル先を長い胴体が横切っていく。腹が一部だけ俵のように膨らんでいた。重そうな体が地面を擦る。にもかかわらず木の葉がかすれるような音しか立たないのが不気味だ。
完全に姿が見えなくなってから、水から抜け出した。化け物が消えた跡を呆然と見つめる。女は神妙な顔をしながら小刻みに震えている。彼女が袖を自分で絞ろうとしたので代わってやった。
「なんだあれは。あんなもん聞いてねぇ。とにかく、さっさとここを出ようぜ」
跪いて袴を軽くたくしあげる。真っ白い足があらわになった。脹脛までにして集めひたすら絞っていると、女がしゃがみこんだ。女の目にはもう恐怖が浮かんでいない。化け物が消えていったほうを指差すと、腰に下げている刀に触れる。
「あれを斬れと?」
女は頷くと刀から手を離した。
「無理だ。オレは妖を斬った逸話なんてないし、アンタも見ただろ」
さっき目にした姿を反芻しながらゆっくりと呟く。審神者はまっすぐに見つめるばかりだった。この女が帰りたがらない理由を考える。化け物の一部分だけ膨らんだ腹を思い出し、即座に首をふる。
「駄目だ」
あまり考えたくないことだが、あの腹に収まっているのが仮に人間だとして、和泉守にとって優先順位はあきらかだった。ひたむきに見つめる瞳と向かい合いしっかりと帰ることを伝える。しかし女は眉を顰めるばかりで動こうとしない。そればかりか腕を伸ばすと男の腕を掴み、袖を捲りあげる。黒い服の上から爪を立てるようにして文字を書いた。痛みに眉を寄せる。内容を見た途端、呆れて自然に口があいた。わたしがおとりになる、と、確かに指が動いた。女はさっとこちらを見ると刀を抜き取ろうとした。遮るように上から手を包む。手の下で女は抵抗するように力を込めたが力の差は歴然だった。この位置からはつむじしか見えない。かがんで目線をあわせると女は少しだけ首を傾げた。力を抜いて、刀を握る女の手のひらを上に向かせる。白くて細い指が並んでいた。ちからを込めたらすぐに折れてしまいそうだった。小指同士を絡ませると、お互いの間に流れる空気が冷たくなった。
「アンタの願いを聴いてやる。……もう一度、縁を繋いでくれるなら」
こぼれ落ちた声は消えそうなくらい小さいものだった。当然のように審神者は答えない。だまったまま地面を見つめている。肩を叩き、無理やりに笑みを作って立ちあがる。出口ではなく、化け物が消えたほうに足を向けた。
一度覚悟を決めた頭はなめらかに戦闘へと切り替わっていた。目は勝手に周囲をさぐる。ここは夜の洞窟で光が少なく足場も悪い。せめて短刀だったら。そもそも斬れる相手なのだろうか。
遅れてよろよろとした動きで審神者が歩いてくる。体を引かれたので横目にみれば鞘を握っている。
「なんだよ。決めたからには最後までやるぜ」
女は鞘を強く握るとぎゅっと目を瞑った。すると遠くのほうで声がした。ずいぶん久しぶりに聞いた気がする。水のなかにいるときみたいに不明瞭だったが、不思議と心が落ち着いた。渡すものがあったことを思い出して懐に入れておいた勾玉を首にかけてやる。女は少し驚いた顔をしてから、かすかに目じりをさげた。
洞窟の中心部は湿った空気が地面を満たしている。前方に人間が立っていることに、それはずっと前から気がついていた。わざと音を立てて移動する。人間の体が強張った。距離にしてかなりある。だが表情はよくわかった。恐怖を押し殺し気丈にも前を向いている。喉の奥が伸縮するような感覚がした。本能的に理解した。あの女は美味しいと。そして霊力もある。どちらも併せ持っている人間は少ないので、本当に運が良かった。先に他の人間を腹に入れてしまったのは過ちだったかもしれない。まだ絶命しきれていないのか暴れており動きづらいことこのうえない。岩に体をこすりつけたら静かになるだろうか。まさにそれを実行しようとしたとき、空気の流れが変化した。喉から突き出た腕が首の後ろにまわる。遅れて男の舌打ちが聞こえた。
痛みなど無かった。切られた腕を無造作に体から吐き出して、首の後ろを確認する。薄く刀傷がついていた。前方に視線をやると人間の女を庇うように男が立っている。手に持った刀は血で汚れていた。
刀を構えながら目だけで合図すると後ろにいた審神者が頷いて岩陰に向かった。窪んでいるところに身を寄せるとなんの前触れもなしに笑い声が響く。前にいる化け物からだ。奇妙な造形をしていた。形はどことなく蛇に似ているが、首の下に人間に似た生き物が埋まっている。頭が腹側にあるので男か女か分からなかった。
化け物の頭が突進してくる。避けるついでに刀で鼻の頭を押し返そうとするが刃先が滑った。外表が硬くて、しかもつるつるしている。舌打ちをしたところで上から影がさした。弾かれたように横に飛ぶ。さっきまでいた地面に尾の先がめり込んでいた。ぱらぱらと小石を飛ばしながら化け物は暗闇に消えていこうとする。灰色の皮膚に刃を突き立てた。硬くて弾力があるが力任せに押し込む。先がめり込み、ものすごい悲鳴が洞窟をゆらした。化け物の胴が波のようにうねる。視界が肉で埋まった。
「もうすぐ死ぬね」
頭の中で声がした。足がしびれたように動かない。口を押えて悲鳴を押し殺した。さっきまで戦っていた男の姿は見えず、目の前では蛇に似た胴体がずるずる動いている。一瞬の隙だった。化け物がしなる体をくねらせてからめとって、固くしまった胴体は丸まったまま動かない。
「それあげる」
がらんと音がして、足元を見ると刀が転がっていた。汚れているが折れてはいない。相手は私のことなど脅威と思っていないのだろう。震える手で握るのを、ゆっくりと眺めながら化け物は言葉をつづけた。
「とどめを刺して。まだ息があるみたい」
するすると音を立てながら筋肉がほどけていく。細長い尾がどかされると、地面に顔をつけた男がいた。髪が広がって表情がみえない。どこからか背中を押されて一歩前に出る。横を向くと近い場所に黄色い瞳があった。拒否は許さないと語っている。のろのろと、カタツムリのような速度で歩いた。あまりの遅さに、化け物が尖った尾でしきりに背中を押してくる。とほうもない時間をかけて倒れている男のもとまで行き、髪を後ろに流すと白い首があらわになって吐き気がした。うつ伏せだと思っていたが実際のところ顔は横に向けていて、薄くひらいた口から微かに空気が漏れている。
「恨まれやしないさ。たいして縁もないようだし、大丈夫」
「どうしてそれを?」
「分かるさ」
いつのまにか真横に蛇の顔がある。会話ができていることに疑問は抱かなかった。
「ちゃんと始末をつけられたら、あんたは逃がしてあげる」
無言で首をふると化け物は微笑みさえ浮かべて、
「嘘はつかないよ。こう見えてもね」
と言う。刀を握る手を尾の先でつん、と押され照準が自然と首へ向かった。息がうまく吸えない。隣で放たれる圧力がすさまじくて、体の奥から震えてくる。きっと彼(もしくは彼女)の言うとおりにしなければ、次の瞬間には自分の首がとんでいるだろうという、確信めいた予感があった。それか締め殺される。拷問するかのように、少しずつ、ゆっくりと。
「……そんな死にかた、嫌」
両手で握る柄に力をこめる。合いの手を入れるかのように、化け物がささやいた。
「きっとそいつはあんたのことを疎ましく思っていたよ。お荷物だとね。――あぁ可哀そうに、内臓はずたずた、骨も砕けているね。人間じゃないから中途半端に頑丈で、死ぬにしねない。あんたがここで終わらせてやるんだ」
化け物の言葉に反応するように、男の指がかすかに動いた。呼吸がかすれる。両手で刀を握りなおして頭上にかかげる。心臓が激しく内側を叩いている。
ずっと迷っていた。体は正直で、腕が痙攣したみたいに震えている。
一思いに刀を振り下ろす。化け物がはしゃぐように笑った。視界が暗くなる。白い首に刃があたる寸前――、右腕が横に動いた。化け物が瞳を細くする。肉に深く入る、慣れない感触。血が噴き出て地面にぼたぼたと落ちて、数秒後、悲鳴が洞窟をゆらした。
刀が化け物の目に深々と突き刺さっているのを、他人事のように眺めていた。握る手は自分と繋がっている。
相手は呻きながら刀を引き抜こうとする。手首をひねり、押し込むようにするとがむしゃらに頭を振り、むりやり頭を振った。視界がぐるんと回転し、衝撃がくる。地面に落ちたのだ。幸いなことに刀はちゃんと離さずにいられた。起きあがった瞬間風が動いて、体を引いたら、しなる尾が地面をえぐった。目が片方使えなくなったせいか全然位置がつかめていない。
倒れている男を近くの岩陰に寄せる。体が石みたいに重い。化け物は離れた場所で、呪詛をはきながら滅茶苦茶に暴れていた。岩が砕けて振動で上から木の枝が落ちてくる。洞窟が壊れてしまうのではと恐怖した。
「和泉守、起きて」
ほとんど泣きそうな気持ちで声をかける。頬を叩くが反応がない。目は閉じられて、ぐったりと横になったままだ。血は出ていないようだが服はボロボロで、さっきの化け物の言葉が本当なら骨がいくつも折れている。体を揺さぶるのをやめ頬に触れた。血の気がなくなっているが、生きているものの暖かさがあった。
「助けなきゃ」
いつも身に着けている、勾玉のついた首飾りを外して男の首にかける。
岩陰から顔をだして外を確認する。ひとつしかない出口の、その真ん前に化け物がいた。いくらか落ち着きを取り戻したのか、先ほどより動きが遅くなっている。天井に視線を移すと細かい石が絶え間なく落ちてきているのがわかった。残された時間は短い。
岩陰から身を出して、わざと鞘を壁に当てて存在を示すと、化け物がこちらを向いた。牙が顔面に迫る。頭の奥に沸いたのは絶望的な一文字――“死“だ。疲れた。帰りたい。体力がほとんど残っていないし、もう何も考えたくない。化け物は見せつけるように口をあける。とがった牙が上下にびっしり生えていた。巨体がなめらかに移動する。朦朧とする意識のなかでなんとか体をよじる。回り込んで敵の腹に刀を押し込む。
「え?」
面白いくらい刃が通った。薄い桃色の肉がはみ出て、周りの筋肉が伸縮する。男が刺したときは皮膚が硬く苦労していた。困惑をよそに、化け物は体を丸めながら刀を抜こうともがく。両足を地面から踏みしめて抵抗するけどどうしても引きずられてしまう。足が地面をこすっていく。刀が少しずつ抜けていく。もう一度斬るのだ、次は首の後ろを。そう思い柄を握りなおしたときだった。自分じゃない手が包みこむみたいに刀を握る。すぐ近くに感じる体温に顔をあげると、まっすぐに前を向いた男がいた。額から垂れた血で顔の半分が真っ赤だ。内臓が損傷しているのか粘度のある血が口の端から細く垂れていく。
「い、和泉守」
名前を呼ぶが届いていないらしく、男はもう片方の手で柄の下のほうを支えるように握った。女の手と刀をひとまとめにして、彼は力を加える。抜かれそうになった刀を押し戻していく。全身の体重を乗せるようにすると、刀が肉を割いた。このまま胴体を斬り落とそうとしている。残った尾がばたばたと左右に揺れて、体がよろめきそうになる。片方の手を肩に置かれる。振り向くと男はもう限界に近い状態だった。横顔は蒼白で、全身から血が噴き出している。
「し、死んじゃうよ」
男は答えなかった。掴まれた右肩が痛い。刃の背に手を押し付けて、体重をかける。力をかけると刀からバキンと不吉な音が鳴って、手をはなそうとするのに、男が許してはくれない。目の奥が熱くて、地面に落ちた染みにぐっと影が差す。顔をあげると、すぐ近くに蛇の顔があった。蛇は口をあけて笑っている。
「もっと大切にすればよかったのに、ね」
そう呟くと、大きく口をあけた。胴体がうねって、横からものすごい力で突き飛ばされる。地面に転がる間際にしなる鞭のような尾が男を吹き飛ばしたのを見た。目の前がレンズを絞るように狭くなり、端のほうでチカチカと視界が点滅している。二本の牙がせまり肌に届くというところで、完全に意識を手放した。