すくわない(24)

最近の主は張り詰めた糸のようだった。表面上に変わりはないが言葉にできない危うさがある。朝礼以来、仲間はどこか萎縮している。

夜、和泉守は刀の部屋に呼ばれた。彼らは非番のときは基本的に暇なので時間を持てあましている。部屋についてみると妙に騒がしいので顔を顰めた。テーブルには日本酒の瓶がいくつか、でんとしたふうに乗っている。本丸には酒好きな者が多いが和泉守はそんなに飲むほうではなかった。もともと酒に弱く、それに出陣続きで疲れていた。言い訳は、しようと思えばいくらでも出てくる。だけどいちばんは気が滅入っていたのだ。それはここにいる刀たちもそうで、時間が経ち酔いがまわると、誰かが主のことを話題に出す。酒は感情を増幅させてしまう。気付けば酷いことを口にしていた。一度発した言葉は、戻らないというのに。

 

 

水が飲みたくなって外に出ると、廊下の隅に人の姿があった。壁に寄りかかるようにして俯いている。そこにいたのは主だった。何か近くで用事があったのかは不明だが、たまたまそこにいたふうに佇んでいた。ぼうっとする頭で、先ほどの会話を思い出すと、一瞬で酔いが冷めるような心地がした。部屋からは笑い声が廊下まで届いている。

「別に聞く気なかったんだけど。これだけ言いたくて。――私もべつに、自分の刀だと思ってないよ」

ため息に似た吐息がみずからの口からでる。女はゆっくりと体を壁から離した。細い輪郭が闇に溶けていく。

 

 

さっさと部屋に帰ればよかったのに、いてもたってもいられず、追いかけてきてしまった。赴いたところでどうすることもできないのに、その場から足が動かない。執務室から少し離れた、あいている部屋から廊下を見つめる。審神者はすぐに寝てしまうだろうという予想に反して、しっかりと起きていた。一度部屋に戻り、浴衣に着替えると縁側に出てきた。庭に足を投げ出すようにして、ぶらぶらとさせている。膝にはこんのすけを乗せていた。背中を撫でたり眉間を指で押したりを繰り返す女に、普段なら抗議する狐も、じっとされるがままだ。

床板がきしむ音が響いて横目に見ると、刀の姿があった。紅い瞳がまっすぐに女を見つめている。冷たいじゃないか、大変なときには一度も姿を見せなかったのに、と声をかけようとしたとき、穏やかな声が耳にとどく。

「最近、嫌なことばかり」

「良かったら私に教えてください」

こんのすけは目を細める。白い手が黄土色の毛なみをなでていった。狐は体を固くしていたが、女はそれ以上を語る気はないようで、ぼんやりとしていた。こんのすけは意を決したように顔をあげると、

「政府からいただいた加州清光を、顕現させてはどうですか」

と言った。横を見ると、同じ名を持つ刀が目を丸くしている。息をつめ成り行きを見守ると、審神者はうかない顔をして、内緒話をするかのように、狐に顔をよせる。

「おんなじ姿、声なんだよね」

「基本的には」

寒いのか膝のうえで丸くなりながらこんのすけが呟く。背中をなでる手をとめずに女は言葉を続けた。

「自信がない。外側が同じなのに、中身は全然違うんだって、日々落胆すると思う。きっと、名前も呼べない」

「いいじゃないですか」

ぐっと上体を起こしながら狐がこたえる。

「二振りめは、別の呼びかたをすればいい。同じと思わなくていいんです。心を与えられないのなら、無理に愛さなくていいのです」

「貴方がそんなこと言っていいの?」

「私は主様の味方ですから」

女の顔が歪んで目から涙がこぼれ落ちた。こんのすけは黙ってそれを眺めている。黒い硝子玉のような瞳がすこしだけ揺れていた。

「ほんとうは、管狐の立場でこのようなこと、聞いてはいけないですが……貴女はどうして審神者を続けるのですか」

「……約束したから」

泣きながら女は即答する。声は震えていたが芯がこもっていて、意思の強さを感じさせた。こんのすけは感心したように目を細くする。

「大切だったのですね」

審神者は体育座りになった。膝とお腹のすきまにこんのすけを閉じこめると頭を伏せてしまう。

和泉守と加州清光はそっと廊下をあとにした。二人の間に言葉はなかったが、とても部屋に戻る気にはなれない。縁側の下にある平たい石に、誰かが忘れていった下駄がそのままになっていたので、拝借し庭に出ることにした。むかったのは最近良く行く裏庭で、夜の池は大きくて黒かったがとりわけ怖いとは思わなかった。橋に寄ると下から水が跳ねる音がする。鯉が何匹か顔を水面から出していた。欄干に手が置かれる。紅色に塗られた指先が半分透けていた。

加州清光の体は最初に会ったときより明らかに輪郭が薄くなっていて、別れが近いのだと悟った。

「ずいぶんと、愛されてるじゃねぇか」

「性格最悪かな。主が俺に囚われていて、二振りめを迎えても愛せないって言ったのが嬉しくて、泣きそう」

ため息をひとつすると、加州は一歩を踏み出す。

「戻るのか」

「まぁねー。もう何も思い残すことないや」

加州清光は急に真面目な顔になり、

「主を頼んだよ」

と言った。心が暗くなる。主との関係は絶望的で、もう二人の間には越えられない溝が生まれている。

「他の奴に言ってくれ。オレにはその約束は、守れない」

「どうしてそう思うの」

「主がいまでもここに置いてるのは、情けがあるからだ」

これからもきっと、己は皆の代弁者になる。これ以上ないというくらいに関係は悪化しているので遠慮なく進言できる。このいびつな本丸で、主に逆らうことは自分にしかできない。誰かが間に立っていないときっと均衡が崩れてしまう。悶々とした気持ちでそんなことを考えていると、加州が間延びした声で言う。

「主はそんな簡単に誰かを嫌ったりしないよ」

「オレが例外かもしれねぇだろ」

「強情」

と笑う刀の姿は、脚は膝から下がほとんど消えてしまっていた。なんだか泣きたくなってしまう。

「ほんとに、お願い。和泉守だけは見捨てないで」

「……あぁ。分かった」

居住まいをなおして初期刀に向きなおる。刀を腰から外して体の前に掲げた。

「主を最後まで守るとここに誓う。この先、なにがあっても」

とっさの行為に驚いていたが、数秒遅れて加州清光が安心したように笑う。手を二度振ると背中を向け、軽い足取りで橋を渡っていった。

 

 

 

 

目をあけると、とても低い場所に天井があって、ここはどこだろうと考える。不思議なタイミングで左から淡い光がさしこみ室内をてらしている。車輪が線路を通る振動がベッドの下から伝わる。あぁそうだ、ここは電車のなかだったと思いだし寝返りをうつと男の背中が目に入った。時間がよくわからないがまだ夜のようで、オレンジの光が部屋を駆け抜けていく。ちょうどトンネルのなかにいるようだった。

男は身長が高いから、狭い寝台で、足をのばしきることができず窮屈そうだった。ずいぶん長い髪だとあらためて思い、そっと寝台を抜け出して近づいてみる。すこし離れた場所から顔を覗き込み驚いた。和泉守は悪い夢でも見ているのか苦悶の表情を浮かべている。気の毒に感じ、起こしたほうがいいだろうかと悩む。めについた、額に張りついている前髪を流すため手を伸ばした瞬間、なんのまえぶれもなくぱちっと目があいた。あっと思う間に、手首がつかまれ世界がぐるんとまわる。いつのまにか男の空いているほうの手に刀が握られていて体が硬直する。圧倒的な人との違いをみせつけられ、恐怖がわいた。

和泉守は起き抜けでぼんやりとしていたが、目が合うと敵ではないと理解した。力を抜いて、くずれるようにベッドへ倒れ込む。手が握られたままなので、引きずられてしまう。どこにも手をつく場所がなくて男の腹に頬をつける。床についた膝が痛い。冷静になってくると腹だと思っていたところはどうやら胸のあたりで、服をとおして心臓の鼓動が伝わってきた。ゆっくり体をおこすと男はまた眠りに落ちたのか目をとじている。抱えられている刀をなでると腕を握る力が抜ける。表情もこころなしか先ほどより穏やかだ。

ほんとうは聞きたいことがあった。どんな夢を見ていたの。どうして泣きそうな顔をしていたの。だけどいまの私は聞くことなどできない。それに、もしちゃんと耳が聞こえていたとしても、たずねることはしないだろう。よこむきに座りなおし、あきらめてふたたび胸に頭をあずけると、やっと男は拘束を解いて、かわりに頭に手をおいた。すると、眠気が急激にやってきて、あらがえずに目をとじる。