すくわない(20)

 

 

 

人の悲しみはどうすれば癒えるのだろうと、最近そんなことばかり考える。

静かな朝だった。障子から差し込む光がまぶしい。上体をおこし、ぼんやりと外を眺める。障子はなぜか少しだけ空いていて(本丸では猫を飼っている)、隙間から庭が見えた。初夏の爽やかな空気があたりを満たしている。目を閉じて気配を探ってみたが、主は今日も本丸にいないようで、少なからず自分が落胆していることに気が付くと腹がたった。片手で前髪をわしわしとかく。いてもいなくても結局はおなじなのに。舌打ちをしたくなったが、隣で寝ている国広が起きてしまうのでやめておいた。主は知らないかもしれないが、付喪神は人間とちがうので、気配で本人がいるかどうかなんとなく分かってしまう。本丸に流れる空気が違うのだ。といっても、個々によって不得意、得意があるようで、あまり違いがわかないという仲間もいる。とにかく、主が何日も本丸に来ないと、刀たちの士気は下がるし空気は澱む。それにしてもと、外から響いてきた鳥の声に耳をかたむけながら和泉守は考える。主が本丸に足を踏み入れた瞬間に空気は嘘みたいに澄みわたり、呼吸がしやすくなる。そのときの変化といったら。

さっきまで、なにか壮大な夢を見ていた気がするが起きた瞬間に忘れてしまい思い出せない。手首から浮き出る一本の腱を眺めながらふと思う。あれから早いものでひと月が経ってしまった。ちょうどお盆の時期だったから、夏もおわりかけで、朝の空気が冷たい。

加州清光が散ってからの本丸は、一見すると変わらないように思えたが、何かが少しずつおかしくなっていた。その大部分の原因が主によるものということは、みんな薄々わかっていた。男士たちは最初こそ動揺し、夜に眠れない者もいたが、時間が経つにつれて氷が溶けるように悲しみは薄れていった。受け入れるしかないのだ。それに、破壊――人間の言葉を借りると“死“――は、初めてのことではなかった。刀は武器なので、むしろ生き死には身近なものだ。彼が折れるときに場を満たしていた、雨を吸いこんだような鉄の匂いには懐かしささえあった。

主が人が変わったように無口になり、刀と距離を置くようになったことに関して、皆は一過性のものだと思っていた。しかしそれは間違いで、執務室は本丸の一番奥にあるが、ようすを見に行くたびに障子はしまっていた。晴れた日、いたるところで気持ちよく窓やら障子を開け放たれるなか、執務室だけ閉じられているのはみるからに陰気で、本当に主は居るのかと不審に思った。たまに通りかかったときに耳をすますと、なかからこんのすけの声と、それに答える女の囁きに似た声がして驚く。主が本丸にいるとなんとなく気配で分かるが、声が聞けるとなおのこと存在を実感することができた。姿が見えないと幽霊みたいでまるで現実味がない。だから和泉守だけでなく、ほかの男士たちもたまにこうして確認しにきた。もちろん主には気づかれないように。けして声をかけず遠くから見守る。

 

 

 

仲間が夜中に飲み会をしている所にたまたま通りかかり、一緒に飲まないかと声をかけられた。断る理由もないので畳に座る。数時間もたつと、酔いが回って口が軽くなったのか、話題は自然と主のことになった。

「人の子が悲しみを癒すには、どれくらいの時間がかかるのだろうなぁ」

大きな日本酒の瓶を片手で軽々と傾け升に注ぎながら三日月が呟く。ちょうど朝におなじことを考えていた、と思ったが口には出さなかった。つまみを持ってきた燭台切光忠が目を伏せながら、

「きっと損失の大きさによるよ」

とこたえる。それを聞いていた次郎太刀が高いような低いような複雑な声で、

「そりゃ、うんとかかるだろうねぇ」

と言った。人の死にはそれこそ飽きるほど触れてきたが主には初めての経験だったろう。とりわけ、戦いのなかで仲間を失うということは。どうすれば前に進める? どう励ましてやればいい。おのおのが思いのたけを吐き出したが、結局、見守ることしかできないという結論に達して、行き止まりになる。

「あの憔悴ぶりは見てられないよ。よりによって初期刀だなんて」

自分が他の刀と違うと感じるのはいつもこんなときだった。主に対して、助けになりたいとは思うが完全に気持ちに寄り添うことができない。部屋からかたつむりのように出てこないのは援護できなかった者への恨みのようにも思えたし、態度はいじけた子供のようでもあった。許せないのは――と、エイヒレを指先で真っ二つに裂きながら考える。どうしようもなく許せないのは、知らないふりをしていることだ。気づいているのに、見なかったこと、無かったことにしていること。だから、手入れ部屋から出てきた主に、お前だけは救えたのだと、つい言ってしまった。それは口にしてはいけない言葉だった。が、後悔はしていない。彼女はまたもや知らんぷりをして通り過ぎたのだが、その光景を思い出すとぶり返したように苛立ちが襲ってきた。エイヒレが美味しいことだけが救いで、感情を飲み下すみたいに日本酒をあおった。

 

飲み会という場でも打ち明けることができなかったが、和泉守は皆に秘密にしていることがあった。少し前のことだ。

夜に寝ていると足音が聞こえる。それは庭のほうからやってきて、迷わず和泉守の部屋まで辿りつき縁側でとまった。隣で寝ている堀川を起こさないようにのそりと上体をおこす。障子を引いて縁側にでると、月が真上にきていて庭を煌々と照らしていた。静かな風が吹いて、顔を横に向ければ折れたはずの加州清光がいた。驚いたのは一瞬で、まじまじと全身を眺めると、加州は片手をあげて困ったように眉を寄せる。

「なんかさ、帰れないんだけど」

案外はっきりと言うので驚いた。肉体が無くなっているのにどこから声が出ているのだろうと不思議に思う。すると、「ちゃんと聞こえてんの?」と眼前で手をひらひらとされたので、うっとうしくて払いのけた。

「あー、ここじゃなんだ。場所を変えるか」

加州は暗い顔で頷いた。縁側の踏み石に誰でも使える外靴が残っていたので庭に出る。足元には名前のわからない青白い花が咲いていて、潰さないように注意して歩いた。

「あれからどのくらい経ったの」

「二ヶ月いかないくらいだな」

ふぅんと言いつつ、バランスをとりながら歩く。池のそばは玉砂利がしかれているので歩きにくい。あまり大きな音を立てると仲間が起きてしまうので慎重に進む。庭をぐるっとまわると本丸の裏に出た。そこには表にあるよりもずっと大きな池があって、奥に行くために赤い橋がかけられている。影になっているから日当たりは悪いが、太陽が出ている間は木漏れ日が落ちて綺麗だった。短刀はあまり寄り付かないが一部の男士はここにきて池の鯉に餌をやっていた。橋の入り口で揃って池を覗き込むが夜のためか鯉はおらず、ただ黒い水が広がっている。

「案外、驚かないんだね」

「まあな」

高覧に腰掛けると、加州も同じように寄りかかった。腰に刺してある刀が地面にぶつかり固い音をたてる。

「見せてみろよ」

手を差し出すと無言で腰から外して鞘を預けてくれる。手前で引いてみると、ギッと擦れるような音を立てて中身が姿をあらわした。想像はしていたがあらためて目の前にすると言葉を失ってしまう。刀身は刃こぼれしてべったり血がついていた。視線をどんどん上へむけていくが、あるはずのものがない。

「多分、折れたはずみで切先がどっかに消えたんだ。どこにいっちゃったんだろう。大切なものなのに」

手のなかの刀が急に重みを増した気がした。空気を察してか、加州は顔色をかえる。

「もういいでしょ。かえして」

奪うように刀をとると、加州は慎重な動きで刃を鞘に戻した。尖った音があたりに響く。ぼろぼろの本体を抱くと項垂れ、息をはくように細い声で、

「こんな姿じゃ、主に会えやしない」

と言った。実際、主の前に行くと姿が消えてしまうらしい。主は霊感というか、そもそもの勘が強い人間なので気づいてくれそうなものだが、駄目だったようだ。

おそらく加州の切先は主が持っている。これは和泉守兼定の予想だが、ほとんど確信していた。加州を溶かしたあとに式神が資材の量が足りないと首を傾げていたのだ。嫌な予感がしたが、誰も指摘はしなかった。むしろ、そんなに執着されて羨ましいとさえ漏らすやつもいたくらいで、それを加州に言うべきかどうかしばし悩み、和泉守は結局言わないことにした。これを知っている刀はほんの少数だが、主の手にある傷は切先によるものだ。自傷に使われたと知ったらさぞかし傷つくだろう。心の優しい初期刀なら、なおさらのこと一生戻れないかもしれない。

「還れない原因は、絶対に主だと思うんだ」

いきなり核心をついたことを言うので和泉守は背を伸ばした。加州の横顔をまじまじと見つめる。記憶と同じように白い顔にうっすらと諦めが浮かんでいる。

「だってさあ、俺たち刀だよ。それしかないでしょ」

「あれを見たのか」

ここ数日での彼女の変わりようを頭に思い浮かべながら和泉守は口にして、言ったそばから後悔した。加州は自責の念を感じているようだった。少し押したら崩れてしまいそうな顔をして、「俺のせいだよね、ごめん」と呟く。あまりに痛々しくて、気がつくと手が伸びていた。肩を抱くようにしながら言い聞かせる。

「あんたのせいじゃない」

「だって……」

「だってもくそもねぇって。お前は立派だったよ」

「俺、ちゃんと愛されてたかな?」

「あぁ。それこそ主を見ればわかるだろ。どうでもいいやつに対しては、あんな風にならねぇよ」

「そうかな」

しめった声で加州は答えた。我慢するように口を噤んでいたが、ひきつけをおこすようにしゃくりあげると、堪えきれなくなったのかとうとう泣き出してしまう。

「あれ? 涙、とまんない……。ごめん、すぐとめるから、」

「いい。我慢すんな。全部出しちまえって」

とんとんと背中を押すと、加州は、「あー、だっさ」と呟く。

「いつかはこういう日がくるって知っていたけど、どこかで、もっとずっと、先のことだと思ってた。主と一緒に行きたいとこもあったし、もっとたくさん話したかった」

加州は押し出すようにして言葉を続ける。

「もっと、ちゃんと言葉にすれば良かった。愛してるって、一回も、伝えられなかった」

和泉守はどうしていいかわからず困ったように加州を見つめた。なにか勇気つけられるような言葉をかけられたらと思ったが、何も出てこない。きっと伝わっているさ。あんたは充分頑張った――と、頭に浮かぶのは綺麗ごとばかりで、それらになんの意味もないということはすでに知っていた。飲み込んだ言葉が喉を通り胃に落ちて、嫌なひろがりかたをする。

加州はひとしきり泣くと、ひとりで気持ちをもちなおしたようで、ふーと長く息を吐き空を眺める。

「大丈夫か?」

心配になり声をかけると相手は小さく頷いた。

「あのさぁ、やっぱ俺、このままここにいちゃ駄目だと思う。助けてくれない?」

「……成仏させろってか」

「はぁ? 幽霊みたいに言わないでよ。でもまぁ、だいたいそんな感じかな」

加州が肩を押しのけるようにして小突く。口調に棘があるがそこまで怒ってはいない。

「なにかいい方法がねぇか、考えてみる」

協力しないという選択肢はもちろんなかった。加州は瞳を細くすると、「ありがと」と呟いた。

 

 

 

朝の早いうちから目が覚めた和泉守はゆっくり障子のほうを向く。猫が入ってこれそうなくらいの隙間があいていて、そこから太陽の光が室内に差し込み畳に光の道を作っていた。起き抜けの、はっきりとしない頭で考える。昨日のやりとりは夢ではなかったらしい。あれから寝床へ戻るときに障子の隙間をあえて少しだけあけておいた。もし、起きたときにしめられていたなら、変な夢を見たと、堀川と笑おうと思ったのだ。

だんだんと頭が冴えてくるにつれて交わした言葉が耳の奥で響く。腕を瞼のうえにもってきて視界を遮断した。遠くで小鳥が鳴いている。

「いったい、どうしたらいいんだ……」

「兼さん?」

くにひろ、と口のなかだけで言ったのに、相手には伝わったみたいで、なあに、と優しい返事がかえってくる。体を起こしながらもう一度きちんと名前を呼ぶ。堀川国広は一足先に起きていて、畳に正座していた。

「気にすんな。独り言だ」

「そう?」

不安そうに呟く男に笑ってみせる。あたたかい布団から抜け出した。そのままの流れで障子をあけ放つと光が部屋にみちて目を細めた。いつのまにか隣に立っていた国広が、思い出したように呟く。

「昨日、猫でも来たのかな。兼さん気づいた?」

「あぁ」

廊下に出て洗面所へと向かうまでのあいだ、数人の仲間とすれ違った。手をあげたり言葉をかけたりしながら進む。途中で厨の前を通ったら、燭台切が普段使わない色のお膳を用意していた。緊張で顔がひきしまっている。二人に気づいた男は振り返ると取り繕うように笑った。

「今日は、来てるみたいだよ」

心臓が変なふうに跳ねる。誰がとは、あえて聞かなかった。気のない返事をしながらなんとなく胸のあたりをさする。今日の予定を思い出したところで、国広が、あ、と呟く。

「演練の日だからだ。兼さんも部隊に含まれてるよ」

まさか忘れていたわけじゃないよね? と顔を覗き込むようにして続け、和泉守はごまかすように廊下へ目をむける。

そのまさかだった。

 

 

 

 

演練の場所は戦場にかぎりなく近くしてあるようだが、どこか空気が違うと、風に舞う埃に目を細めながら和泉守は思った。きっと心のどこかで無意識に感じているのだ。ここでは折れることがない。あくまで訓練。そんな状態で意味があるのかとときどき疑問に思うが、たとえば経験が少ないものがいきなり戦場に赴くよりはましなのかもしれない。隣では見知らぬ男ふたりが会話をしていた。きっと演練は、審神者同士の交流をもつという側面もおおきい。

腕を組みながら広い会場を眺める。主はというと目の前で繰り広げられている戦闘を眺めていた。もともと物であるから、双子かと見間違えるくらい姿形がそっくりな刀同士が刃をまじえるということはよくある。たまたま自分と同じ姿をした男士が出てきたときに、女はどういう反応をするのだろうとさりげなく確認したが、人形のように前を向いているだけで眉ひとつ動かさない。もしかしたら立ったまま寝ているのではといぶかしんでいると、だらんと垂れた腕の先にある指がぴくと反応する。続けて顔をしかめたので広場に視線を戻すとどちらかの血が半円を描き、地面にびしゃ、と落ちた。刀の姿は煙が凄くてよく分からないが、腕を押さえている影だけおぼろげに映っている。大きさからして太刀かもしれない。

「痛そう」

ぼそ、と隣から小さな声がした。反射的に、

「そりゃ、痛ぇだろうな」

と返してしまい、言ったそばから後悔する。気分を害したかという心配をよそに、女は戦闘に目が釘付けになっている。目が刀の軌道を追って動く。笛が鳴り、次は自分たちの番だという段階になった。まわりの審神者たちが男士に声をかけているが、主は冷ややかな目で一瞥しただけだった。

士気の問題かはたまた単純に実力不足だったのか、こちらの部隊は見事に負けてしまい、晴れやかな空とは対照的に暗い気持ちで元の場所に戻ると主の姿が無かった。ざわざわとした空気が広がるなか、鶴丸だけがのんびりとした口調で、「厠でも行ったんだろ」と言う。

「僕たちが負けてしまったから、先に帰ってしまったんでしょうか」

「そんなわけないさ。ほら、待っていてもなんだから手入れでも行こうぜ」

元気付けるように五虎退の肩に手を置くと、簡易的な建物に向かって歩き出す。鶴丸と燭台切光忠は一瞬だけ目を合わせると短く頷いた。仲間が人込みのほうへ向かうさなか燭台切だけが足を止める。そのまま反対の方角に身を翻したので、黒い背中を追いかけた。後ろから名を呼ばれたが無視をし、黙ったまま横に並ぶ。光忠は目が合うと驚いた顔をした。

「気をつかわせちゃったね。手入れ、受けてきていいよ。僕が主のこと探しておくから」

燭台切は中傷とまではいかないが怪我を負っていた。よく見ると服もよれているし袖には血が滲んでいる。なんならこちらのほうが傷が軽いくらいだった。

「二人で探したほうが早いだろ」

「うん、そっか……ありがとう」

流れる人の群れに目を向ける。演練が終わり混雑していた。注意して歩かないともみくちゃにされてしまう。特に光忠は負傷しているので、さりげなく前に出て間違っても人とぶつからないように配慮した。しばらく進んだがそれらしい姿はなく、分かれ道にたどり着く。先がちょうど二手になっていて、右に行くと出口だ。しかし、いくらなんでも刀たちを置いて先に帰ったとは考えにくい。そろって左に曲がる。おおきな柳の木を過ぎると道が途端に狭くなり脇道になる。大通りでは軽食が売っているのかいい匂いがしている。おだやかな雰囲気のなか、似合わないほどに暗い声で光忠が口をひらいた。

「あまり、今の主を一人にしちゃいけないと思うんだ」

「ショックを受けているだけだろ」

喧騒がぐっと遠のく。足元のあたりで風が吹いた。やけに自分の声が冷たく響いてしまう。だが光忠は意にかえさず神妙な顔で言葉を続けた。

「僕は主が、良くない方向へ自ら行こうとしているようにみえるよ」

「何かあったのか」

道がたいして広いわけではないので、お互い前を向きながら話す。光忠は自分から持ち出した話題に居心地が悪くなっているようで、しきりに前髪を触っていた。光忠は口ごもるばかりで、気長に待っていようと思ったがなかなか言い出さないから、だんだんと苛々してきた。

「もったいぶらずに、早く言えって」

「そうだね……。加州君が戦場で折れたとき、残っていた欠片は全部回収したはずだったんだけど……主が、もっていたんだ。ここからは半分事故みたいなものだと思ってくれていいよ。手を深く斬っちゃって。血が流れてた。たまたま僕が居合わせたから覚えてる。すごく赤くて、いつも戦場で見慣れているはずなのに、いつまでも焼きついて離れない」

光忠の顔が血色をなくしていた。疑問が確信に変わった瞬間だった。案外はやく真実にたどりつけた。もしまた加州に会えたら、このことを言うべきだろうかと少し悩んだ。

「その破片は? 規律に従うなら、資材にまわすべきだろ」

「まだ主が持ってるよ」

少し間をあけて、たぶんね、と光忠が呟く。燭台切の横顔をのぞく。おそらく、彼も同じことを考えている。

加州は嬉しいだろうか。それとも。

「主に何かあったら、僕は」

「しっ」

言葉途中に燭台切の腕を掴んで木の影に引っ張り込む。彼は傷に響いたのかかすかにうめいた。申し訳なく思いながら視線だけで前をしめすと、男は同じほうを見て、あ、と小さく声をあげた。

主がいた。

しかし、一人ではなかった。

 

 

 

木の影に隠れるようにしてようすをうかがう。たまたま身を隠した塀の近くには大きな柳の木があって、ちょうど簾のように葉が垂れているからいい目くらましになった。木の陰から、ばれないようにそっと覗くと離れた場所に主の背中が見える。両手をだらんとたらして立っている。力がはいっておらず、どことなくけだるげな印象をあたえた。向かいには女の審神者がいて、彼女も同じような服装をしている。なんだか見たことがあるなと考え、数時間前のできごとを思い出す。演練相手だった。

「あれは酷いと思う。あんまりだよ」

「あれって?」

二人の疑問を主が口にしてくれた。相手の審神者は若干苛ついた顔をして、ひと呼吸おき、こんこんと説明しだす。耳を傾けてみるとどうも自分たちのことを言っているようで、会話の断片に、男士とか、刀、という単語が出てくる。

「話しかけられても無視してたでしょ。みんなの態度も異様だったし……顔色を窺っているっていうか。萎縮している感じだった。ちゃんとご飯とか、食べさせてるの?」

「さぁ。知らないです。勝手にやっていると思います」

光忠と顔を見合わせる。心配してくれるのはありがたいが、向かいの審神者は主のことが見えていないのだろうかと思った。巫女服を着ているために分かりにくいが、あまりご飯を食べていないので痩せている。手首なんて少し力を加えたら折れてしまいそうなくらいに。

「彼らにも心があるんだよ」

なんともいえない気持ちになりながら二人の挙動を見守った。相手の言っていることは間違っていないし、刀に対する敬意を感じられた。しかし彼女は誤解しているようだが無理な進軍はされていないし、食事を与えられなかったこともない。ただ、思いやりがないというのは確かにそうで、労いのひとこともないし無視されることもしばしばだった。もとからこうだったわけでないと知るのは古参の男士だけで、はた目には分からないので仕方がないことだが、正論をぶつけられている主人を見ているのは気分のいいことではない。最近の本丸では審神者の不注意により刀が折れるということがたびたび起きているらしいということを相手の審神者が告げ、直感的に、まずいぞと頭のなかで呟く。あきらかに主の背中がこわばる。当然だが相手の審神者はそんな些細な変化は気付かない。いままで静かに話を聞いていた主が初めて遮るように言葉を発した。

「研修でさんざん言われたと思うんですけど、刀剣男士は、人の姿をしていても本来は物ですよね。あなたは鉛筆や消しゴムに愛情をそそいだりするんですか」

「そんなことないけど。同じじゃないでしょ」

「同じですよ。少なくとも私にとっては」

切り捨てられるように告げられた相手は驚愕した。見開かれた瞳には驚きだけではなくて怒りがみてとれる。こちらとしても神格のある刀が、そこらの物と同列にされ、なんともいえない気持ちになった。それは顔にあらわれていたようで、横にいた燭台切が同情するように肩へ手を置いた。

「私は、人としてじゃなくて、物として彼らを限界まで使うしそれ以上のことはしない。力を与えて、神様の能力をお借りする。ただ、それだけ」

「それは分かったけど……」

空気が張りつめる。いったい、この緊張感はなんだろう。見かねた光忠が前に出た。わざと足音を立てるようにして近づく。視線が集まると髪をかきあげながら、あるじ! と大きい声で呼んだ。遅れてついていくと、ずっと暗がりのなかにいたから太陽がまぶしくて、目を細める。

「こんなところにいたんだ。探したよ。その子はお友達かい?」

「同僚だよ」

否定しようとした主にかぶさるようにして光忠は一歩出ると、相手の審神者に向きなおる。審神者は、主とおなじくらいの年に見えた。意思の強そうな瞳で主を睨んでいる。少しだけ屈んだ光忠が優しく声をかける。

「彼女、人見知りだから、初対面の人に誤解されやすいんだ。僕たちのこと心配してくれてありがとう。でも、気持ちだけ受け取っておくね」

「だけど……」

「そういえば、君はひとり? ここは政府の持ち場だけど油断したら危ないよ。君の刀剣男士たちも心配しているんじゃないかな。良かったら送っていこうか?」

「いえいえ、大丈夫です。そこにいるんで」

指でさされたほうへ視線を向けると、少し離れた場所に鶯丸がいた。壁によりかかるようにして一部始終を見守っている。目が合うと会釈してくれた。相手はこちらに向き直ると、怪訝な表情でじろじろと刀をながめた。それも無理はないと思う。光忠は中傷のままで、服から血が滲んでいた。主が気づいて声をかける。

「政府の誰かに手入れしてもらえば良かったのに。演練場の近くに専用の場所があったでしょ」

「ごめんね。僕、心配で。主が見つかってから手入れしてもらおうと思ったんだ」

「なにそれ」

主は冷めた目で一瞥して光忠の手をとると、なにか言いたげな相手にぺこりと頭をさげる。

「すみません、手入れをしてきます。いろいろとご忠告ありがとうございました」

「う、主、ごめん。そっちの腕たぶん折れてるから、反対にしてくれる?」

「じゃあもうひとりで歩いて」

「酷いなぁ」

言葉では冷たいことを言っているが主は反対側に移動して男に肩をかしていた。ゆっくりと遠ざかるふたりをぼんやりと眺めていると近づいてくる気配があって、目を向けるとさっきの審神者が横に並んでいる。見あげるようにしてくるので目をあわせるとぎょっとしてしまった。あきらかに怒っていた。

「で、あなたは置いていかれたの」

「後ろにいたしな。死角だったんじゃねぇか?」

「ふぅん」

じろじろと観察されるみたいに見られて不快感が沸き起こる。見られることには慣れているがこうも不躾だと閉口してしまう。どうやってこの場を去ろうかと考えていると、ふっと空気が抜けるように女が体の力を抜いて近くの柵に腰掛けた。

「あのひとさぁ、大丈夫? よく見たらけっこう痩せてたし。なんか、様子も変だった」

「あー、まぁ。色々あって」

「色々?」

前のめりになって聞いてくるので、しまったと思ったときには遅かった。気づけば服の袖を軽く握られている。逃がしてくれる気はないようだ。内心では離れたくてしかたがなかったが、跳ねのけることもできない。

「もしかしてだけど、ネグレストされてない?」

「なんだそれ」

言葉の意味が分からず聞き返すと、女は丁寧に教えてくれた。放置されている本丸のことを差しているようで、良くない例についても説明されたが、自身の本丸はだいたいあてはまっていた。

「やっぱりね」

妙に勝ち誇ったように言った女はやっと服から手を離した。体が軽くなったような気がしてほっとしてしまう。なんとなく、握られていた部分の皺をのばすようになでていると、独り言のような口調で女がなにか呟いた。言葉の断片を聞き取り茫然としているうちに、女はにこりと笑って背を向けてしまう。

「おい。待てって」

まさに踏み出そうとした先の地面に影がさす。立ちふさがるようにして鶯丸が立っていた。感情のよめない瞳をなんどか瞬きさせる。

「追いかけても無駄さ。主はああみえて頑固なんだ」

「そうは見えなかったぜ」

「だが、残念なことに、そうなんだ」

頭上に伸びている木の枝が風に吹かれて静かな音をたてる。奥に伸びる道を覗いたが、審神者の姿は消えていた。

「見失っちまったじゃねぇか」

「それで、主になんと言われた?」

鶯丸がのんびりとした調子できいてくる。頭のなかでさっきの言葉が反芻された。

「私がなんとかしてあげる、だと」

呟いた言葉を鶯丸はひろったようで、「そうか」となんとも言えない声を出した。どこか哀れむような視線を向けてくる。彼は多くを語らなかったが、きっと、まずいことになったのだと悟った。