「……あ」
遠い記憶。世界がゆれる。
「あるじ?」
空気が凍ったのがわかる。相手はそっと肩から手をはずして行儀良く太ももの上に置いた。彼女を中心として空気が浄化されている。息がしやすい。
「私は貴方の主じゃないよ」
しっかりとした口調に、今度こそ意識が戻る。横に見知らぬ女がいた。何を考えているかわからない瞳でじっと見つめている。よくよく見ると主では無かった。外見も似ていない。恥ずかしさに顔が熱くなった。動揺のあまり手を握りこんでしまい、中で軽く音が鳴った。ひらけば皺の寄った紙がある。仕事の途中で意識を飛ばしていたようだ。心のこもっていない謝罪をし、業務の続きをと持ったペンを、女の手がそっと取りあげる。
「もういいよ」
「それは、不要だと、いう意味ですか」
喉の奥が引き攣る。心臓が苦しい。体の内側を誰かに縛られていくような感覚に襲われる。
なるべく平坦にしようと思ったが声は震えていた。ただならぬ様子を感じ取ったのか女は僅かに身を後ろへと晒す。瞳には恐怖が滲んでいる。
「ううん、そうじゃない。もともとそんなにやることも無かったし。あなたが手伝ってくれたから、することはほとんど終わったよ。ありがとう」
流れる水のように淀みなく言われ口籠る。恐らく気を使ってくれているのだろうが、心のざわめきは消えない。
「ほかにやることは」
女の顔には何もないとしっかりと書いてあった。だが無表情に指示を待つ。彼女は困ったように小さく唸った。
「本丸の見取り図を書いてもらっては。各本丸の構造は、似ていますがそれぞれ微妙に違います。主様はよく迷子になっているでしょう。外も含めると、一週間はかかると思いますよ」
どこからともなく狐があらわれてそう言った。納得したように女は頷く。じゃあ申し訳ないけど、と、遠慮がちにお願いされた。なるべく表面を波立たせないようにこたえたが、上手くできたのかよく分からない。良かった、まだ役に立てるという、安堵が胸を満たした。
役割があるうちは大切にされる。だがもう主はいない。大切にしてくれるどころか、使ってくれる手がないというのに。
いまいち集中していないためか、今日はもう休んでいいと言われ、素直に甘えることにした。自室に戻る間、女は心配だからとついてきてくれた。いらないと跳ね除ける力も残っていなくて、暗い廊下を二人で歩いた。外は雪が降っていた。女は寒そうに両手を擦るので、申し訳ない気持ちが湧いたが、別にこちらから頼んだわけでは無いと口を噤む。
一緒にすごしているなかで分かったことがある。本人は無意識なのだろうが、彼女が歩いたあとは嫌な匂いが消える。淀んだ空気も、風が通るように澄んでいった。たまにこういうことができる人間がいる。反対に、歩けば餅のように不浄を呼び寄せてしまう人間も。
そうしているうちに自室へと辿り着き、冷たい廊下で向かいあった。何も言わない俺を見上げて女は帰るきっかけを掴めずにいるようだった。なお黙っていると、重苦しい空気に耐えかねたのか、
「じゃあまた」
と呟いて背を向ける。またがあるのかと、ぼんやりと遠くなる背中を見つめた。油断していると臭気がどこからともなくなだれ込んできて、慌てて障子をしめる。
▽
真っ暗な蔵の中に刀を投げ込んでいく。箱に入れる場合もあれば、剥き身のままに積み重ねることもある。そこかしこに血の匂いが染み付いていた。戦場ならば血が騒ぐが、この作業は体の温度を一段冷たくさせる。
主は最後に残った短刀を乱暴に投げ入れると、ぱんぱんと両手を叩いて埃を落とした。窓のない蔵はどこまでも暗く果てが見えない。小さな埃が光に反射してちらちらと視界に飛び込んでくるので目を細めた。
いつのまにか作業を終えて戻ってきた主が、下から顔を覗き込む。
「今日、きてね」
天気を問う気軽さで彼女は訪ね、拒否を知らない俺は、静かに頷く。
夜はあっという間にやってくる。すべてのあと、布団に仰向けになっていた。黒い木目が人の顔に見える。さらには笑っているように映った。少し動くと節々が痛んだ。
「なんで政府に報告しないの」
女はうつ伏せになって独り言のように呟く。あまりにそっけない言い方だったので、自分に対して言われたものだと気付くことができなかった。女は暗闇のなかで端末を操作していて、液晶から出る光が、顔を照らしてホラーじみていた。
「さぁ。なぜでしょう」
視線を天井に戻し、答えると鼻で笑われた。
「うそつき。長谷部は臆病者なだけだよ。本当のことを言って、いなくなっちゃうのが怖いんだ」
「それで?」
先を促すのは自傷に似た行為だった。主は一瞬面食らったが、嬉々として口をひらく。よくもまあ、こんなにも劣等感を刺激する言葉を選べるのかと感心してしまうような内容だった。
ただの八つ当たりだと分かっている。急に降り始めたそれを雨のように受け止めているうちに、いっそこのまま心が鉄のようになればいいのにと、そんなことを思う。
ひとしきり終わったタイミングで、至らずに申し訳ない、といつもの言葉を口にしようとしたが、出てきたのは全く違うものだった。
「可哀想に。主は自分が思っているより優秀ではない。頑張っても評価されず、いつまでたっても満たされないから、こうして俺を傷つけることで優越感を得ようとしている。重症の男士を見ても動じないのは器が大きいのではなくて、たんに鈍感なだけだ」
しんとした静寂が訪れる。
一拍遅れて、尋常じゃない量の汗が吹き出た。
最近、夢と現実が区別できないときがあった。いつか、こういうことをしてしまうのではと恐れていた。
視界が暗くなる。手首が頭上に纏められて標本のように縫い付けられる。目と鼻の先に女の顔があった。口元は奇妙に歪んでいる。確かに笑っていた。だが、目には光が無い。
「もう一度、言ってみて?」
猫撫で声が肌をすべる。もう終わりだ。目の前が暗くなる。主は手を伸ばし頬に触れる。白い指先で目尻に触れ、大きく振り上げた。
▽
また間違って呼んでしまいそうになって下唇を噛んだ。強すぎたようで、微かに血の味がする。
「……なんでもない」
シャツの内側を滑り落ちていく汗が気持ち悪い。呼吸を落ち着けながら手元を見ると、設計図のようなものがあった。ざっくりとしているが本丸の見取り図で、おそらく自分が書いたのだろうが、全く記憶がない。数分間の出来事が抜け落ちている。本格的におかしくなってしまったのだろうか。どっどと、心臓の音がうるさい。
冷たい冬の空気。俺の状態などわかるはずもない女は、のんきに珈琲を飲んでいる。深い香りがよぎった。
「絵を描くの、上手いね」
「そうでもない」
すこし身を乗り出して女が紙を覗き込む。細かく引かれた線を見て目を丸くした。
「素晴らしいですよ、ほんと。これで迷わないですみますね」
いつのまにか管狐まで出てきて顔を突き出している。いつもは何も考えているのかよくわからない女も、同意するように頷いていた。
体が熱くなる。褒められることに慣れていないのでどう答えればいいのか分からず、やっと出てきた言葉は、これくらい出来て当然だ、という、実に可愛げのないものだった。妙な空気になり、傷つけてしまっただろうかと顔をあげれば、明るい色の瞳とあった。
「私はあと二ヶ月したらいなくなっちゃうけど……完成したら、これ貰っていい?」
「こんなもの、要りますか?」
「自分の本丸でも欲しいなぁって思って。今度、うちの加州に書いてもらうね」
「貴方の本丸には、いないのですか」
「ん?」
新しい珈琲を作るために立ちあがろうとした女は、中途半端な体制のまま首を傾げた。蚊の鳴くような声だったにもかかわらず。そのまま行ってくれて構わなかったのに、とすぐに後悔に襲われた。
「……その、俺と同じ刀です」
「いないよ。縁がないのかも。話変わるけど、お砂糖ないのが好きだよね」
「はい」
反射的に頷いてしまう。女はすこしだけ目じりをさげると廊下へと消えていった。主語がなくても分かってしまったことにいら立ちを覚える。女はあるときから、休憩をするときは、俺の分も飲み物を作るようになっていた。
今日はいつにもまして雪が降っている。庭は薄暗く、時間が掴めない。体がどこもかしこも重い。手足に鉛が括り付けられているようだ。目に見えない鎖が身体中に巻かれていて緩やかに締め付ける。急に眩暈が襲ってきて、一人で立つこともできなくなる。仕方がないので、壁沿いをすがりながら歩いた。疲労が取れないのは長いこと放って置かれたからで、今のところ解決する術はない。
手入れをしなければ刀は錆びる。錆びたら敵を切ることができない。
使えない物は捨てられるだけ。冷たい地面の上で、誰にも知られずに腐食していく刀の姿が脳裏に浮かんだ。
「……俺はそうならない。まっぴらごめんだ」
新しく来たこんのすけと女には、こんな状態を知られてはいけないと体調の悪い日でも近侍の仕事はしっかりとやった。だが先日、表には出さないようにしていたのに、女は何か感づいたのか休んでいいと言ってきた。気のせいだとか適当なことをこたえて受け流す。使えない状態だと知られたらすぐに刀解される。それだけは避けたかった。
女は、いままで来た人間とはどこか違っていた。まとっている空気が穏やかなのだ。まるで自分の家のように緊張感がない。そしてなにより、彼女は刀にさほど期待をしていないようだった。変わっても、変わらなくてもどっちでもいい、とそう思っている節があり、たびたびこんのすけに注意されていた。
女は午後になると連れてきた刀を持ってふらりとどこかへ行った。数時間後、本丸を満たしていた異臭が換気をされたように薄くなったから、浄化をしてくれたのだと知る。あの女は、物を捨てるとき、表情を変えずに淡々と処理をしそうだなと、そんなことを考えたとき、ちょうど耳のおくで高い音が鳴った。
視界がぐらつく。どこからか懐かしい声が聞こえてくる。最近、過去を思い出すことが増えていた。現実の境界線がぼやけてあいまいになる。
――。
耳元で名を呼ばれ、勢いよく振り向くが誰もいない。砂の壁と、とじられた襖があるだけだ。いくつかの部屋をこえていくと、主の私室がある。
いろんなものが混ざった匂い、伸びてくる手。
急に吐き気がきて、実際に吐いてしまいそうになり口元を押さえた。しゃがみこんで苦痛をやり過ごす。しらずのうちに息を止めていると目の奥が熱くなった。
人の気配がすぐ隣に来て、薄く目をあける。誰かが横にいて、廊下に膝をついている。困惑している空気が伝わってくる。大丈夫だと伝えなければ。
名前を呼ぶと、横にいた人物は体をかたくさせ伸ばしかけた腕を引っ込めた。
「しっかりして」
聞きなじみのない声に、はっとして顔をあげる。先の長い廊下が見えた。いまだ雪がふっていて、縁側の端が白くなっている。
横からの視線が突き刺さる。額に浮いた汗を手の甲で拭った。顔が見えないようにさりげなく背ける。弱っているところを見られるのは嫌だった。
「――っ」
「なんだ?」
聞き取れないくらいに小さい声だったので若干苛々としながら問い返すと、隣に膝をついている人間――女は、言いにくそうに口をひらく。
「タイムスリップ現象、知っていますか」
「それがどうした。フラッシュバックか? そんなこと、俺でも知っている。過去に囚われていると言いたいのか」
「違います」
珍しくきっぱりとした物言いだった。
「さっきから何が言いたい?」
「ただ思い出すとかじゃない。タイムスリップ現象は、実際にその場にいるように、過去を追体験する」
女は悲しげな顔をしている。
「一度政府に見てもらおう」
「なぜ?」
ある可能性が頭に浮かんで、ぞっとした。
「お前になんの権利がある」
「落ち着いて。別に刀解しようという意味じゃない」
「俺は正常だ……。どこもおかしくなんてない!」
頭の中で懐かしい声が聞こえる。
――貴方は臆病者。捨てられるのが怖いだけ。
耳元で直接声が聞こえる。まるですぐそこにいるみたいに。
「煩い、煩い……頼むから黙ってくれ」
屈辱的な夜を思い出すと腹の底から怒りが溢れてくる。内臓が煮えてしまいそうだった。蹲って必死に激情の波に耐えていると、横から遠慮がちに手が伸びてくる。この手は誰の者だろう。こめかみに稲妻のように痛みがおそう。こらえきれない吐き気が襲ってくる。
「触るな……俺に、二度と、触れるな!」
手に持っていた刀を振りあげる。鞘で振り払う。短い悲鳴と、小枝を折るような音と共に嫌な感触が伝わった。