「俺はここでいいです」
できるだけ優しい口調になるように注意しながら長谷部は言い、握られた手をほどいた。主は一瞬だけかなし気な表情を浮かべ、ため息をつきながら布団に座る。それを見届けてやっと、男は座布団も敷かれていない畳に正座した。
どうして部屋に呼ばれたのだろう。何か不手際があったのだろうか。表面上はどうであれ、心の中は嵐のように荒れていた。こういうとき、暗いほうへ考えてしまうのは男の悪い癖だった。
気に障ることをしてしまい、遠ざけられてしまったら。それよりもっと恐ろしいのは、だれかに下げ渡されてしまうことだった。暗い表情で俯いている男の顔を、女は興味深そうに眺めている。
「すごい顔。どうして呼ばれたんだろうって思ってる?」
思ったより呑気な声に思わず顔をあげる。
「はい。もちろん」
「長谷部ってどのくらいの頻度でオナニーしてるの?」
思考が停止する。この女はいまなんと言ったのだろう。困惑して可哀そうな程に狼狽えている男を見て、女はふっと鼻で笑った。
「横文字だと意味が分からない?」
馬鹿にされているのだと気が付くのにそれほど時間はかからなかった。羞恥で体が熱くなる。もちろん答える義理は無い。だが女は好奇心に満ちた瞳で見つめてくる。どうしていいか分からず、膝のうえにある手を握ったりゆるめたりした。部屋は空気がこもっていて息がつまる。
時間が経つにつれて女の瞳に黒いものが過る。口角が段々とさがり、眉間に皺が寄っていった。機嫌を損ねてしまったようだ。体を襲ったのは激しい焦りだった。
「していません。あまりその……得意ではないので」
口の中がからからに乾いている。やっとのことでそう口にすると、主は驚いたようにくちをあけた。
「え? 今まで一回もしてないの? 誰にも教えてもらわなかったの?」
「そこまで、親しくは、ありませんから」
口がどんどんと重くなっていく。伏し目がちになる男とは対照的に、女はいきいきと目を輝かせる。
「じゃあ教えてあげるね」
手首をぐっと引かれる。ものすごい力だった。いつの間にか柔らかい布団に背をあずけていて混乱はピークに達する。細い指が耳をなぞる。反射的に首を竦ませると女はくすくすと笑った。
「反応が可愛い」
嫌悪が体を突き抜ける。かわいくなんてない、と反抗しようと開きかけた口を、すかさず女が封じ込めた。鳥のようについばんでくる。混乱する頭で仕方なく受けいれる。自分からこたえることはしなかった。どさくさにまぎれて服のうえから性器を握られ声をあげてしまう。生理現象のせいかすでに反応していて、唇をかんだ。
「もう、やめてください。お願いだから」
「長谷部は私が好きなの」
刻みこむような言葉のはじにかすかな焦りが滲んでいる。
「もちろん、好きです。いつも支えたいと思っています」
声が震えてしまうのは物の本能のためだろうか。このまま進んではいけないと理性が警報を鳴らしていた。女の真意は全くわからないが、幾度か触れられたときにすでに理解していた。主は刀を愛してなどいない。触れた肌はとても冷たい。女の瞳は好奇心でいっぱいの子供のようで、手つきは実験をする科学者のように機械的だった。
「ふうん。そんなこと言うんだね」
冷たい声に怯えて顔をあげる。女は恐ろしい表情を浮かべていた。笑っているのに目が暗い色に染まっている。女は口角を歪にあげ、指で後ろをしめした。
「あそこにあるお香、刀剣男士にしか効かない媚薬なんだ。面白いでしょう」
「媚薬……?」
「そう。ほんとうはもう限界なんじゃない?」
ばしっ、と先端を勢いよく手で叩かれ呻き声が漏れる。
「気持ちよくいかせて、初めてを見届けてあげようと思ったのに。まじめで馬鹿な男」
豹変した女は男の肩口を強く噛んだ。驚いて体を起こそうとするが体重をかけられてびくともしない。全力を出せばこんな細い腕など簡単に折ってしまうことが出来るが、実行に移すことはできなかった。
主は顔を離すと口の端を舐める。対抗する気持ちで顔を背けた。瞼を閉じて解放されることを強く願う。
目が覚めると妙に体が重く、昨日のことは夢では無かったのだと悟る。長時間圧迫されたせいか、手首が少し赤くなっていた。縄のようにまわる赤い跡をぼんやりと眺める。やっぱり現実だったのだと静かに絶望した。すべてのあと、主は男の腹についた体液をそこらへんにあったタオルでぞんざいに拭きとって、何事も無かったかのように長谷部を一瞥すると、
「早めに部屋に戻ってね」
と冷たく言った。布団から上体を起こしながら呆然と前を見つめる。障子の向こう側が妙に明るい。鳥の鳴き声が聞こえる。爽やかな早朝だった。昨日の行為を反芻すると吐き気がこみあげてきて、口元を手で押さえる。思考がまとまらない。あげくのはてには頭痛まで襲ってきて、こめかみを押さえる。
夜の相手として向いている男は、きっと本丸にたくさんいるはずだ。何が彼女の琴線にふれたのか分からない。よろける脚を奮い立たせ忌まわしい部屋を出ようと障子に手をかけ、ばしんと勢いよく障子を閉めた。今日も近侍だった。役目を有難いと思っていたし、自分しか主の身の回りの世話を任されていないのは特別なことだと感じていた。深いため息をつきながらあたたかな布団から抜け出す。はじめて、長谷部は近侍をしたくないと思った。
▽
庭から吹きつけてくる風が顔を直撃する。あまりの冷たさに空気を遮断するように障子を閉めた。肩にしがみついているこんのすけが口を開く。
「今しがたここにいたのは、へし切長谷部様です。提案なのですが、彼を近侍にしてみては」
「こんのすけ、肩でバランスとるの上手くなったね」
「話をそらさないでください」
こんのすけは不満そうに鼻を鳴らした。女の頭のなかは、否でうめ尽くされていて、どうやって回避できるかを考える。
「別に頼むこともないし。出陣してないから暇なくらいだよ。だからひとりでへいき」
「いいんです、このさい業務など無くても。わずかで構いません。交流をなさってください」
早口でまくしたて、周りを確認するように視線をめぐらす。
「昨日、再度確認しましたが、やはり政府の意向は変わりません。このままでは譲渡する審神者様が苦労します」
「私が苦労するのはいいの?」
「こんのすけも一緒に頑張りますので」
なめらかなしぐさで地面に着地した狐をじっとりと睨む。彼は「やることがあるので」と言い、素知らぬふりをして駆けていった。
盛大にため息を吐き廊下へとでる。そうなると、接触をはからないといけない。億劫なことは早めにすませたほうがいい。だが歩いているうちに重大なことに気が付き足をとめる。私は男士の部屋を知らない。いちど戻って確認しようかと思ったけれど、距離が遠いからやめた。行きあたりばったりに進む。いくつかの曲がり角を通りながら、これで出会わなかったら縁が無かったと、そう都合よく思うことにした。
だらだらと廊下を進んでいると、執務室とほとんど反対の場所にたどりつく。静かだ。音がほとんどしない。生き物の気配もない。つきあたりの壁が見えてきた。
「わたしの勝ち」
と小声で呟く。ここまで誰とも出会わなかった。いくつかこんのすけに説明するもっともらしい言い訳を頭に浮かべながら、とりあえず戻ろうと振り返ったとき、ちいさな物音がした。壊れた玩具のような動きで横を見ると、障子の向こうに人の気配がした。完全にこちらのことは分かっている。ピリピリと空気が震えている。
賭けに負けたような気持ちで息を吸い込み、心を決めて障子と向き合った。
「入ってよろしいですか」
返事は無かった。心の中でゆっくりと数字を数える。五つ数えるうちに答えがこなかったら部屋に戻ろうと思い、ここへきてまだ、悪あがきをしていると気づいて暗い気持ちになる。
「どうぞ」
みっつまで数えたときに室内から声がした。無視をされるものと思っていたので拍子抜けする。真面目な性格なのかもしれない。そんなことを思いながら障子に手を伸ばした。暗い部屋に光がすこしずつ伸びていき、それを目で追った先に、男がひとりいた。背筋を伸ばして正座をしている。顔の半分だけ光があたって、片方の瞳が淡い色に輝いていた。
いきなり正解だ。そこはへし切長谷部の部屋だった。
離れた位置から対峙する。
「俺をさがしていたのでしょう。何の用ですか」
うつむき、視界に入った自身の爪を見つめていると、男がそう口にした。鉄仮面で何を考えているのか分からない。顔のほとんどの筋肉が動かないので、まるでお面が喋っているみたいだ。
「あなたのほうこそ。執務室に来てましたよね」
男は答えなかったが、人差し指がときおり動いている。まるで、刀に触れたいのに必死でこらえているかのように。
「近侍を、お願いしたいのです」
口のなかがからからだったけれど、やっとのことでそれだけを伝える。男の瞳に険しさが増した。
「馬鹿か貴様。どうして俺がお前の助けをしなければならない」
刀に向かっていた手が、行儀よく膝に戻ってきたのを見てひそかに安堵する。最初から断られると思っていたし、受けいれられても困る。こちらとしては、頼んだ、歩み寄った、という実績だけあればいいのだ。なので、あらかじめ用意していた言葉を口にする。
「そうですよね。仕方がないです。急に来て不躾なお願いをし、申し訳ありません」
「まて」
ゆっくりと立ちあがった男はニヒルな笑みを浮かべる。逆光で顔に影が差し、醜悪な表情がうかんだ。
「お前、いま安堵したな。……気が変わった。受けてやる」
明日の朝に執務室にいく、と簡潔に言うと、男は刀を持って颯爽と廊下へと出ていった。目の前を横切る、金魚の尾ひれみたいにひらひらとした服の装飾を目で追う。完全に消えてからはっとし、慌てて障子まで走る。梁の影から顔を出した。夢ではない。かなり脚が早いのかずいぶん遠くにいるが、男の後ろ姿が見えた。
「えぇ……」
口から出たあまりに弱弱しい声は、白い息とともに冷たい空気に溶けていった。
重い足取りで執務室に戻った。廊下が果てしなく長い。このまま辿り着かなければいいのにと馬鹿なことを考えていたが、いつのまにか見慣れた障子の前にたどりついた。
「どうでしたか?」
少々乱暴に障子をしめ、ぐったりと足を伸ばすとこんのすけが駆け寄ってくる。ふつふつとわく苛立ちは彼に向かった。
「こんのすけのせいだよ」
「やはり駄目でしたか」
項垂れた狐は意味もなく前足を畳におしつける。
「ちがう。やってくれるって、近侍」
「よかったじゃないですか!」
嬉しそうな声と反対に心は暗くなった。断られたほうが何倍もましだ。手を伸ばしてこんのすけの背中を撫でる。狐は興味深そうに耳を傾けている。
「全然、好意的じゃなかった。あれは多分、監視するために了承したんだよ」
「それはありえますね」
「憂鬱だなぁ」
伸ばしていた足を体に寄せる。体育座りのような体制で、おなかと太ももの間に狐を無理やり押し込む。眉間をかるく押すと狐は目をつぶった。相手の考えていることが手に取るように分かる気がすり。明日からは隣に誰かがいるのだと思うと、自分でも不思議なくらい、気持ちが沈んでいく。
翌日、男は約束の時刻のきっかり五分前にやってきた。障子の向こう側に人の影が浮かび、静かな声で呼びかけられ後戻りできなくなる。どうしようと横にいるこんのすけに目をやると奇妙な沈黙が流れた。冷たい廊下に立っている影は一ミリも動かなくて、影絵みたいだ。ほんの少しだけ、このまま呼び掛けに答えなかったらどうなるのだろうと考える。
なおじっとしていると、じれたこんのすけが眉間に皺を寄せて、早く返事をしてくださいと小声で訴えるので、無理やり足に力を入れる。体がいつもより重く感じた。感情と共鳴しているのか、偶然なのかは分からないが、外は心情を反映するかのように曇っていた。おまけにみぞれ混じりの雪が降りはじめている。
静かに障子をあけると無表情の男が冷たい廊下に立っていた。
「どうぞ」
室内に手をさしながら呟く。蚊のような声だと思った。相手はなにも答えず目を伏せたまま畳に足をのせる。空気がひりつく。机までたったの数歩しかないにもかかわらず、途方もなく遠く感じた。時折ささる視線が痛い。背中が穴だらけになりそう――と、そんなことを思いながら壁際の位置に腰をおろす。向かいになるように、座布団は前もって用意をしていた。視線を落としつつ無意味に資料の束をもって机に落とす。しつこいほど、角をこれ以上ないくらいきれいに揃えていたら、横からかすかに風がきて顔をあげる。揃えた紙は手から抜けて机にちらばった。いつのまにか隣に来ていた男が興味深そうに紙をのぞき込んでいる。
「な、なんで横に来るの?」
指摘された男はきょとんとしたあと、みるみるうちに顔を赤くした。素晴らしい速さで立ちあがり対面の位置に移動する。唖然としていると、男ははつが悪そうに言い訳を口にした。
「主との癖で。その、いつも横だったので、つい習慣で」
「そ、そっか。うちとは違うんだね」
動揺しすぎて敬語が取れてしまった。どきどきしている心臓をなだめるように胸元に手をやると、男は恥じるように俯いた。気持ちを切り替えて仕事の説明をする。特に出陣もしていないし内番もしていないので、とりあえず在庫の確認をしてもらうことにした。足りないものがあったら、後日ひとりで買いに行くつもりだった。
ノートとペンを渡すと男は無言で頷き廊下へと出ていった。いつのまにか外では雪がふり始めていた。こんなときに在庫の確認をさせたことを後悔する。人がいなくなると安堵と疲れがどっと押し寄せて机に突っ伏す。
「こんなんじゃ無理。やってられない」
そっとしておいてあげればいいのに。そもそも、報酬に目が眩んで、こんなところまでほいほいと来てしまったこと、そのものを深く後悔した。時間は数十分しかたっていない。けれど、ひとりで作業をさせるのもどうかと思い、重い腰をあげる。遠ざけたくて、なるべく話をしないように在庫の確認なんて作業を、自分からさせたのに。身支度を整えている私をこんのすけが不思議そうにながめる。
「手伝ってくる」
白衣の裾についていた埃を払いながら言うと、こんのすけはそれがいいと頷いた。
外は薄く雪が積もっていたので、巫女服には合わないと思いながら黒いショートブーツをはいた。数歩進んではたと立ち止まる。倉庫がどこにあるのか知らない。地図を取りに戻ろうかと、地面に目をやるとうっすらと足跡が残っていた。おそらくへしきり長谷部のものだ。てんてんと続くそれは庭を抜け土蔵のほうへ向かう。うつむきながら足跡を追う。5分くらい歩くと古屋が姿をあらわした。外にはポツンと農具が立てかけられている。引き戸が少し空いていて、足跡はなかへ吸い込まれるように続いていた。
建物は二階建てで、一階部分は広い空間になっていた。薄暗いが真っ暗というわけでもなく、全体を見渡す。二階の窓から柔らかい光がさして埃がきらきらと反射している。両側の壁一面に資料が置いてあり、紙の束の間に鎌や薬なんかが無秩序に突っ込まれていた。前任者は大雑把な性格だったのかもしれない。取りたてて珍しいものはなかった。歩くたびに埃が舞いあがり目をほそくする。
探していた人物はすぐに見つかった。背丈ほどある棚が何個かあって、そのひとつの影に蹲っている背中がある。一心に手の中にあるものを見つめている。男士なら人の気配に敏感だからすぐに気付きそうだが男は動かない。長めの上着の裾が床について少し白くなっている。
足音を抑えながら近づく。そこは光があまり届かない場所で、まるで黒い動物がいるみたいだった。異様な雰囲気に息をひそめる。まわりは静かだが、声が小さすぎて何を言っているのかわからない。
駄目だと思っているのに視線が動き、男のほっそりとした指が掴んでいるものをとらえる。彼が握りしめていたのは古い鉄の鎖だった。手のひらを傷つけてしまうのではというほど強く握りしめている。よせばいいのに、誘っているように開いている段ボールの口に視線が吸い寄せられて、すぐに後悔した。かろうじてわかったのはぼろぼろの縄だった。茶色く汚れている。手入れをしているからすぐにわかった。乾いて変色した血だ。
きっと男は背後の存在に気がついている。それでも頑なに振り返らない。あとほんの少し足を踏み出し手を伸ばせば肩に触れられそうだったけれど、本能が道を戻れと叫んでいた。それなのに、足は棒のようで動いてくれない。
そうこうしているうちに、男の背中が奇妙に震えた。億劫そうに立ちあがると、手に持っていた鎖を雑に放り込み刀を手に取る。両手で握り一気に振り下ろした。反射的に口をおさえる。声はかろうじて手で封じられた。刀は素晴らしい切れ味で、なかの物が高い音を立てて砕ける。男はうつむいたまま黙っている。
激しく鳴る心臓をなだめながら静かに外へ出て、足早に庭へと向かう。入り口が小さくなったころを見計って全速力で走った。ドタドタと足跡を隠さずに廊下を駆け勢いよく障子をあけると、目を丸くしたこんのすけが顔をあげた。
「な、なにかあったんですか」
座布団に腰を下ろすとこんのすけは作業の手を止めた。ちょこんとした小さい手で空中に浮かぶモニターを操作していた狐は、トンと机を軽く叩く。画面は消えて空間には何もなくなった。
さっき見た光景を、なるべく感情的にならないように説明する。狐は眉根を寄せながら、最後まで遮らずに話を聞いてくれた。
「いったい何の用途に使った道具なのでしょう」
「拷問に使ったのかも」
「憶測の域をでないですよ」
「刀が審神者に酷いことをしたって可能性は?」
「ありえません」
「例外があるかも」
こんのすけは否定しながらも若干興奮しているみたいで、パタパタと尾が揺れている。
「そういえば、刀はどこに?」
はっとして廊下を見る。机に置いてあるちいさな時計を見ると、一時間は経っていた。時間が過ぎていくと興奮が冷めてきて、たんなる見間違いのような気もしてくる。
緊張しながら帰ってくるのを待ったけれど、へし切長谷部はその日戻って来なかった。