潮騒_06 - 1/2

本丸から離れた刀解部屋の前で、三人の男が絶句したように佇んでいた。一見、神社のような作りの建物は、扉がしっかりと閉ざされていた。中から厳重に結界が貼られているそれは、防音まで施されているようで、物音ひとつしないのだった。
御手杵が無理やりにでも扉をこじ開けようと槍を構えた時、辺りの空気が一瞬で変化する。急激な変化に、彼はごくりと喉を震わせた。困惑したように辺りを見渡すと、清らかな空気で満たされていた。ほんの数時間前まで、敵の瘴気で汚された本丸が、一瞬で浄化されたことに驚きで目を見開く。
「主、なにしようとしているの」
加州が、呆然としたように呟いた。気が付くと、本丸が神域のようになっていた。途方に暮れたように、固く閉ざされた扉を見つめる。御手杵は力任せに槍を押し込めて結界を破ろうとするが、それはびくともしなかった。ガツンと言う耳障りな音を立て、表面が少し揺らぐだけで、扉はびくともしない。
「無駄だよ!」
なお、扉に切っ先をぶつけている男に、加州が苛立ちを隠さずに言う。こうしている間にも、審神者の霊力が、部屋の中からどんどんと溢れてきているのを感じた。それに比例して、自身と審神者を繋ぐ霊力が細くなっていく。それは彼女の命と比例していて、加州は発狂しそうなほどの恐怖を感じた。加州は扉に縋りつきながら、必死で審神者に呼び掛ける。それは御手杵も同じで、無駄だと分かっていても、扉を壊そうと必死で槍を振り下ろした。
「主と同等か、それ以上の霊力を持った人間じゃないと、結界は解けない」
槍を振るう御手杵の横で、震える声で加州が呟く。男は、彼の言葉に顔を歪ませた。噛み締めた唇が切れて、口に血の味が広がる。大広間に集まった政府の人間たちの姿を思い出すと、諦めたように脱力し膝をつく。項垂れながら、前髪をぐしゃりと握ると、苛立ちをぶつけるように槍で床を叩いた。
二人の様子を、力なく傍観していた膝丸は、加州の言葉にはっとした様子で顔を上げた。
男の動きに、加州が困惑したように眉を寄せる。
「一人、いる」
膝丸は、掠れた声で呟くと、くるりと踵を返した。そのまま全速力で馬小屋へと走る。背中で二人の制止するような声が聞こえたが、足を止めることは出来なかった。

美しい桜並木を、黒い馬が駆けていく。
膝丸は、馬の背を撫でながら、手に握った綱を振った。もっと早く、早く――心の中で哀願するように呟くと、馬はそれに答えるように、ぐんと速度を上げる。耳の奥で、ごうごうと風の音が鳴った。
前に視線を向けると、世界は春の息吹に包まれて、花々が美しく咲き乱れていた。膝丸は自身の心の暗闇と、目の前の美しい光景とのギャップに、酷い眩暈を感じた。
こうして馬を走らせている間にも、彼女と自分を繋ぐ糸はみるみる細くなっていく。彼女から自身に伝わる霊力は、ほとんど吹いたら掻き消えそうな程、微かなものになっていた。心の中をぐちゃぐちゃにかき乱されながら、膝丸は下唇を噛み締めた。そうでもしないと、恐怖で大声を上げてしまいそうだった。
吹雪のように吹き荒れる桃色の花びらの中を走ると、いつか見た後ろ姿が、膝丸の脳裏に浮かんだ。風に揺れる明るい色の髪の毛、静かな背中。すらりと伸びた、白く美しい腕。現実に何の未練もない様子で、海に入っていく後ろ姿まで思い出すと、瞳にみるみる水滴が溢れて、男の頬を濡らした。
一生のお願いだから、どうか。自分が行くまで耐えてくれ。
生きることを諦めないでくれ。あぁ神様、お願いだから、彼女を死なせないで。
どんどんと溢れてくる涙が、風に煽られて後ろへと流れていく。頬を伝う冷たさを感じながら、いつの間に自分はこんなに弱くなってしまったのだろうと、膝丸は思った。いつの間に、こんなに心を奪われていたのだろう――誰かに答えを教えてほしかったが、目の前では桜が吹き荒れるばかりで、誰も彼の問いには答えてくれない。
その時、不意に頭の奥にある男の姿が浮かんだ。紅いマフラーを風になびかせながら、主人の手を取り、柔らかく微笑む。紅い瞳で柔らかく笑いながら、女の白い手を取り、花びらの向こう側へと引っ張っていく。一歩また一歩と足を進めるたびに、彼女の体は指先から花びらに変化し、ばらばらと消えていった。
「待ってくれ」
掠れたような声が、自身の口から零れた。ぼたぼたと涙が頬を伝うが、膝丸は拭うことができなかった。目の前に広がる光景に、自分の体は一歩も動かず、ただ空しく手を伸ばすことしか出来ない。どうしようもない焦燥と、心を切り裂かれる絶望が心に広がった。
「や、やめてくれ。あの人を、連れて行かないでくれ……!」
思わず呟いた声は、風の音に空しくかき消された。

男の想いなどどこ吹く風で、桜が桃色の雨を降らせている。春のあたたかな光が、柔らかく大地に降り注いでいた。