潮騒_06 - 2/2

ゆっくりと目を開けると、目の前に果ての無い草原が広がっていた。
女は、ぼんやりと前を見つめると、ゆっくり深呼吸した。風が柔らかく頬を撫でていく。体は少しの痛みもなく、心は穏やかだった。
「……気持ちいい。」
思わず両手を広げながら、審神者が呟いた。緋袴が、風を含んでぶわりと膨らむ。
「まるで、龍の背中にいるみたい。」
緑に揺れる草原を眺めながら、女は呟いた。針のように尖った葉が、風の動きに合わせてうねるように揺れている。それらを眺めていると、風の通り道が分かるようだった。
なんとなしに、視線を前へと向けると、丘の上で誰かが此方を向いて立っているのが見えた。女は懐かしい姿に、焦げ茶色の瞳を大きくする。そして、駆け出したい気持ちを押さえながら、足を前へと踏み出した。

丘の上に一人の男が居た。
彼は、困ったように笑っている。彼の笑顔を認めると、泣きたくなるような懐かしさが胸に溢れて、審神者は思わず心臓の辺りをぎゅう、と掴んだ。そして、恐る恐る前へと手を伸ばす。緋色に綺麗に塗られた指先に触れると、彼は遠慮がちに握り返してくれた。女は、それに驚愕の表情を浮かべた。驚きの顔が、見る見るうちに泣き笑いの顔に変化していく。そして、感情をぶつけるかのように、思いっきり抱き付いた。
「久しぶりだね、主」
穏やかで優しい声が、鼓膜を震わせる。柔らかいお香のような香りが鼻先を掠めた。その懐かしさに、審神者は拘束している腕に力を込める。
暫くそうしていたが、遠慮がちに体を離される。水の膜が貼られた瞳で見つめられて、男は困ったように顎を掻く。
「主、ちょっとだけ話をしない?」
その言葉に、審神者は小さく頷いた。

「主、無茶しすぎだよ。それに、ちょっとだけ来るのが早すぎる」
と、隣で加州が呟いた。子どものように手を繋ぎながら、不貞腐れたように、だって、と審神者が言う。拗ねたように突き出た唇を、加州は素直に愛らしいと感じた。
「でも、清光が、元気そうでよかった」
にこりと微笑みながら、唐突に審神者が言う。それに、加州は花が咲くように笑った。
「主に見せたいものがあるんだ。」
手を引きながら、待ちきれないというように加州が言った。審神者はそれを夢みたいな気持ちで眺めていた。
「この景色を、ずっと主に見せたかった」
手を引きながら、丘の上に上りつつ、加州が言う。審神者は目の前に広がる光景に、息を飲んだ。
それは、果てしない海だった。丘を登りきった先は、崖になっていて、向こう側には海が広がっていた。
太陽を反射して、水面がきらきらと光っている。耳を澄ますと、風の音に交じって、潮騒の音が響いてきた。
「本当に、綺麗。」
感動のため息をつきながら、思わずといった様子で審神者は呟いた。彼女の反応に加州は満足げに頷くと、徐に草むらに腰を下ろす。審神者も、近い所に腰を落ち着けた。
暫く二人は無言で海を眺めていた。寄せては返す波を眺めていると、意識がほどけていくのを感じる。
「主に、ずっと言いたかったことがあるんだ」
ポツリと加州が呟いた。それに、審神者は首を傾げる。暫く、口を開いたり閉じたりを繰り返していた加州だったが、意を決したように審神者に向き直る。
「俺、主の事、ずっと大切に思っていたんだ。物としてとかではなくて、一人の女性として。」
審神者は、加州の言葉に心底驚いたように瞳を丸くした。驚いた猫のように目を丸くし固まってしまった女に、加州は愛おしさが胸に込み上げるのを感じていた。衝動のまま、女を抱きしめる。
「主、大好き」
溜息と共に紡がれた言葉に、審神者は小さく息を吐いて、回された腕に手を乗せると、静かに瞳を閉じた。
「清光、ありがとう」
震える声で呟くと、拘束が強くなる。遠くに聞こえる潮騒の音に耳を澄ませながら、審神者は震えている肩口に猫のように顔をこすりつけた。

「ねぇ、死後の世界ってどんな感じ?」
リラックスした状態で、審神者が呟いた。それに、加州は少しだけ困った顔をした。まるで今日のご飯はなに?というような気軽さで尋ねられて、少々面食らってしまう。しかし、そのやり取りに、加州は懐かしさを感じていた。
「割と退屈だよ。ここは穏やかで、心地がいいけれど、戦うこともないから」
と、傍らに置いてある刀を撫でながら加州は言う。それに、審神者はふぅん、と感心するように呟いた。
「一人ぼっちで、寂しくない?」
気づかわし気に尋ねられて、加州は思わず頬がゆるむのを感じた。この人は、相変わらずどこまでも優しい。久しぶりに彼女の心に触れて、加州は心臓がきゅう、と引き絞られるような喜びを感じた。
「寂しくないよ。それに、一人でもないしね」
呟かれた言葉に、審神者は、むむむ、と眉間に皺を寄せた。目の前に広がる海と、草原を見つめる。理解できないというような表情に、思わず苦笑してしまう。暫く、穏やかな沈黙が二人の間を包んだ。目の前には相変わらず青い海が広がっている。
「もう、行かないと」
心底名残惜しそうに、加州が呟いた。立ち上がりつつ、パンパンと膝を叩きながら服に着いた汚れを払っている。審神者は絶望的な表情を浮かべた。
「私も一緒に行く。ねぇ、清光。私も一緒に行きたい」
勢いよく立ち上がりながら、ぎゅう、と左手を握りこまれて、加州は困ったような顔を浮かべた。しかし、堪えきれなかった歓喜が彼の後ろに花びらとなって舞う。彼の紅い瞳は隠しきれない喜びで縁取られていた。
ぎゅう、と再度握りこむと、自身の左手に痛みが走った。左の薬指の付け根辺りが、焼けるように熱くなる。審神者は不思議そうに瞳をぱちくりとさせた。
続けて、左手を握りこまれる感触が走り、審神者は弾かれたように後ろを振り向いた。しかし、そこには果ての無い草原が広がるばかりで、審神者は困惑したように首を傾げる。
その様子を眺めていた加州は、悲し気に微笑むと、一歩後ろへと下がった。審神者は追いかけようとするが、誰かに左腕を掴まれてそれ以上前へ進めない。女は苛立ちを露に、振り切るように左手を猛然と振った。
「主が、一緒に来たいって言ってくれて、正直すごく嬉しかった」
一歩ずつ後ろに下がりながら、加州が呟く。審神者は、それを絶望的な表情で見つめていた。
「でも、主は現実に帰らないといけない」
加州は、審神者の後ろの方を見つめながら、静かに呟く。それに、審神者は否定するように、いやいやと首を振る。
「ま、待って、清光」
震える声で呟くが、加州は歩みを止めなかった。寂し気に笑う顔を見つめる。
審神者は、心が引き裂かれるような悲しみを感じた。その衝動のまま、引き留めるように左手を握りこむ見えない相手に向かって、無我夢中で叫ぶ。
「離して、離してよ! 清光と一緒に行きたい! 私はもう、死にたいの!」
悲痛な叫び声が、辺りに木霊した。加州は、審神者の言葉に、大きく瞳を見開いた。
「嫌だ、いやだいやだいやだ! 離して! 助けて清光っ」
審神者の絶叫が響き渡る。彼女の右手が空しく宙を舞った。加州は、暫く名残惜し気に女を見つめていたが、迷いを振り切るように頭を振る。
「主は、まだこっちに来ちゃ駄目だ」
きっぱりと言われた言葉に、審神者は悲しみで瞳を大きく見開いた。見る見るうちに水滴が溢れて、端から零れ落ちる。加州は、自身を抑え込むように、腰に下げられた刀に手を置いた。
「まだ、主には残された使命がある。それに待っている人も」
一歩、また一歩と加州が後ろに下がっていき、審神者と距離が遠くなる。女の口から堪えきれないように嗚咽が漏れた。下を向いていた審神者は、ぐっと唇を噛み締めると、静かに前を向く。別れの時が近づいてきていた。
「……清光。私の初期刀として来てくれて、本当に、ありがとう」
涙でぐしゃぐしゃになりながら、審神者は叫んだ。それに加州は顔を歪ませる。
「貴方は、私にとって、一等特別な刀だった」
きっぱりと言い切った審神者に、加州は驚きで瞳を丸くした。そして、花が咲くような笑顔を浮かべる。
彼の笑顔に答えるように、彼女もふわりと笑った。
不意に左手を強く引かれて、がくん、と体が傾くのを感じた。ものすごい力に引っ張られるようにして、強制的に身体を反転させられる。
見えない誰かに手を引かれながら、風のように丘を駆け下りていく。耳元でごうごうと鳴る風の音を聞きながら、審神者は後ろを振り替えった。遠く離れた丘の上で、加州が笑顔で手を上げている。瞬間、強い風が吹いて、加州の体が指先から桜の吹雪に変わっていった。瞬きを一つすると、男の姿は霧のように無くなってしまう――そこには、果てのない丘が広がるばかりだった。
ぼろぼろと泣きながら、女は視線を前に向けた。相変わらず、手を引いている存在は、空間に溶けているように見えなかった。誰かに引っ張られている左手が、見えない糸につられている様に空中に浮いている。
一歩ずつ足を前に進めるたびに、草原は薄ぼんやりとして、代わりに白い光が辺りを包み込んでいった。段々強くなっていく光に、女は眩しそうに目を細める。
白い光が強くなるにつれて、手を引いて前を向いている存在の輪郭が、じわじわと浮かび上がってくる。一歩、また一歩と足を進めるたびに、それは存在を濃くしていった。
審神者は泣きながら、その光景を眺めていた。
風に揺れる柔らかい髪、きっちりとした黒いジャケット。走るたびに、金色の金具が男の動きに合わせて揺れている。
光のトンネルを、二人でひたすらに走った。もう、眩しくてほとんど目を開けていられない。光の中心に向かって、風のように走っていく。
明るい方へ、固い地面を蹴り上げながら、女は瞳を静かに閉じた。手を引く誰かと一緒に、真っ白な光に向かって飛び込むと、女はぶつりと意識を手放した。

薄く目を開くと、無機質な天井が広がっていた。
パチリ、と一つ瞬きをする。身体がガクンと沈み込むような気がした。先ほどの軽やかな体は嘘のように、節々が鉛のように重かった。纏わりつく倦怠感に小さく唸りながら視線を横にずらすと、一人の女性が見えた。
流れるような黒髪が、鎖骨の辺りまで川のように広がっている。小さな丸椅子の上、膝を組んで熱心に本を読んでいた。大きな瞳のぎりぎりと所で、前髪がぱつんと切りそろえられている。穏やかな午後の光を浴びている彼女の姿に、何処か現実で無いような錯覚を覚えた。
「つ、ばき」
掠れた声で呟くと、呼ばれた主がぱっと顔を上げた。慌てた様子で駆けよると、頭上のナースコールを押す。それを、女は虚ろな表情で見つめていた。
数分後、現れた医師と看護婦の質問に、機械のように答えていった。一通りの質疑応答が終わると、医師は満足げに頷く。
残された私と椿は、暫く茫然としたように見つめ合っていた。ふ、と堪えきれない様に彼女は噴き出すと、小さな丸椅子に座る。それに、審神者も乾いた笑い声を漏らした。
「死んじゃったかと思った」
軽い調子で言われて、審神者は微笑みながら頷いた。続けられた言葉に審神者は目を見開く。
「一か月も意識を戻さなかったのよ」
彼女の言葉に、審神者は驚きで目を見開いた。通りで体が動かないわけだ。不満げに、ううう、と唸る審神者に友達は苦笑した。
「膝丸が、教えてくれたんだよ」
ポツリと言われた言葉に、審神者は自身の結界を解いたのが彼女だと理解した。夜を吸い込んだような瞳が、静かに女を見つめる。
「あと少し遅れていたら、貴女は命を落としていた」
静かに続けられた言葉に、審神者は何も答えられなかった。ぼんやりと白い無機質な天井を見つめる。立ち込める薬品のにおいが、彼女の鼻をツン、と刺激した。
ふと左手に襲った違和感に、腕を持ち上げる。それは酷く力がいる作業だった。審神者は、ぼんやりと左手の薬指に収まっているそれを見ると、焦げ茶色の瞳を大きくした。
「それが、貴方の命を繋いだのよ」
学校の先生のように棘めるように言われて、審神者は閉口した。確かに、左手の薬手に収まっている輪からは、作った本人の神気が流れ込んできていた。それは、数週間前の喧嘩の時に池に落ちたはずだった。どうして、と掠れた声が口から洩れる。
「元気になってから、本人に聞きなさい」
言いながら、幼子にするように頭を撫でられて、途端に眠気に襲われる。眠気に抵抗するように、力を入れたが、重力に逆らえずに瞼を閉じた。

数時間後、まどろみの中、誰かが部屋に入って来るのを感じた。意識が混濁したように、夢と現実の間を彷徨っている。入室した人物は、女の近くまで近づくと、ゆっくりと労るように頭を撫でた。その優しい手つきと温もりに、心の底から安堵するのを感じた。そのまま意識を手放すと、暗い海のような意識の底に沈んでいく。

どんどんと、暗い海の底へ沈んでいった。

夢は、見なかった。

姿見の前で、女は鏡の中の自分と向き合っていた。胸下まであった髪が、顎の辺りまで、ばっさりと短くなってしまっている。戦いの最中、黒色に変化してしまった髪は、病院で目を覚ました時には元の明るい色に戻っていた。女は、顎の辺りで揺れている毛先を、不思議そうに眺める。
視線を少しだけ下げると、鮮やかな色が飛び込んできた。真っ白な肌に刻まれた一本の線を、細い指先で恐る恐る触れる。僅かに痛みが走って、自身の口から呻き声が漏れた。首の横の辺りから鎖骨まで伸びた、十五センチほどの長さの傷。それはまるで、空を裂く稲妻のようだった。
先日に抜糸したばかりのそこは、所々が紫色だった。奇妙に盛り上がった、皮膚の縫い目を見つめる。裂かれたときの痛みと、光る切っ先を思い出してしまい、小さく身震いする。
沸き上がる記憶を降りきるように小さく頭を振り、一歩だけ後ろに下がると、改めて全身を眺めた。相変わらず、日にあたることの少ない肌は、魚の腹のように真っ白だった。
畳の上に置かれた長襦袢と白衣に順に袖を通し、緋袴の紐を胸の下で結ぶ。出来上がった巫女姿を眺めながら、またここへ戻って来てしまったと思った。絶望に似た何かが、じんわりと心の奥に広がる。
病院のベッドに力なく横たわりながら、審神者を辞める、と言った時。丸椅子に座っていた担当の若い男は、酷く焦ったような顔をした。まるで、女がそんなことを言うとは露ほども思っていなかったように、酷く狼狽していた。数々の引き留めの言葉を言われたが、女は一度も首を縦に降らなかった。
若い担当が、自身の本丸の男士たちに告げ口したのか、次の日から男子たちが見舞いに来るようになった。腰に刀を下げた男たちが、代わる代わる病院に来て、頼むから戻って来てくれと哀願する。審神者は繰り返される贖罪と哀願に、やり場のない怒りと悲しみを感じながら、うっすらと作り笑いを浮かべた。女の、意思の変わらない瞳を見ると、男士たちは肩を落としながら帰っていく。
数日が経ち、いつまでこんな不毛なやり取りが続くのだろう、と憂鬱な気持ちで外を眺めていると、静かに戸を引く音が聞こえた。ガラガラガラ、という無機質な音が鼓膜に届く。女はうんざりとしながら、窓の外を走る電車を目で追っていた。時間は朝の八時頃で、電車の中にギチギチに詰まった人影が見える。
審神者は、近づいてくる気配に気が付いていたが、そちらへ視線を向けることはしなかった。拒絶するような彼女の姿に、向こうの人物は小さく息を飲む。
このまま無視するのもどうかと思い、ゆっくりと振り替えると、女は焦げ茶色の瞳を大きくした。
そこには、加州清光がいた。一瞬だけ、現実と夢がぐちゃぐちゃになり、視界がぐらりとゆれる。必死な思いで踏みとどまる――折れてしまった彼は、もう会えない場所へ行ってしまったのだ。
男はとても静かな瞳で女を見つめている。無表情で、何を考えているのかわからなかった。
人形のように口を噤み突っ立っている男に、女は困惑したように瞳を揺らした。心の中を見透かすような紅い瞳に耐えられなくなって、小さく俯く。
数秒後、身体に襲ってきた衝撃に、女は体を固くした。痛いぐらいの力で、男に抱き締められていたのだ。耳の近くで、震える吐息が鼓膜を揺さぶる。
「戻ってきてくれて、ありがとう。」
と、彼は言った。声は酷く掠れていて、言葉は溜息のように溶けていった。女は何かを堪えるように、下唇を噛み締める。
我慢していたのに、瞼の縁から、水滴が後から後から溢れてくる。そうするともう止められなくて、女は男に縋りつき、幼い子供のように声を上げて泣いた。

その時の光景を思い出しながら、審神者は襖の前で立ち止まった。あの後、加州とベッドの上で向かい合って、日が暮れるまで話をした。そして結局、私は自分で選んで此処に居る。そう思うと、女は心を決めたように真っ直ぐ前を向き、襖に手を掛けた。
執務室には、加州と御手杵が机の上で何か作業をしていた。大きな文机の上に、小さな領収書が散乱している。
「だーかーらー! お酒は備品じゃないってば」
ばたばたとパソコンに打ち込みをしながら、加州が声を荒げた。彼の向かい側、いつも審神者が座っている場所に、胡座をかいている男が居る。此方からは広い背中しか見えないが、ううぇ、という小さな唸り声が此方まで届いてきた。彼は領収書や伝票を纏めてくれているようだった。一か月も寝込んでいたので大変な量だろうと思う。御手杵は細かい作業が苦手なのか、背中を丸めて困ったように頭を掻いていた。
加州に怒られて、悄気たように小さくなっている背中を見つめる。その情けない後ろ姿を見ていたら、何だか悪戯をしたい気持ちになって、審神者は足音を立てないようにゆっくりと近づいた。加州は机の奥側にいて、審神者の存在には早々に気がついていた。女がしーっと唇に人差し指を当てて合図をすると、にやりと笑って小さく頷いた。
「だれだ」
背後からしゃがんで腕を伸ばし、手の平で男の視界を塞ぎながら審神者が言った。机を挟んで一部始終を見ていた加州は、にやにやと楽しげに口角をあげる。
しかし、思ったような反応は返って来なかった。両手で視界を塞がれた御手杵は、ファイルに手を置いたままの姿勢でぴくりとも動かない。
急に現れ、しかも子供じみた悪戯をされたので気を悪くしたのだろうか――女の心に針の先程の不安が広がる。彼と顔を合わせるのは、あの嵐のような夜以降、初めてだった。
やっぱり謝ろう、と静かに手をどけると、徐に手首を捕まれる。ぐるりと視界が反転して、口から小さく悲鳴が上がった。気がつくと、目の前いっぱいに緑色が広がっている。
御手杵に、痛いほどの力で抱きしめられていた。鼻が押しつぶされて、息が苦しい。長い腕にぎゅうぎゅうと締め付けられながら、審神者は彼の作った檻から抜け出そうと必死で藻掻いた。数秒後、ふと自分の頬に水滴が落ちてきて、恐る恐る顔を上げる。
御手杵は顔を苦し気に歪ませていた。声をあげないように、口を固く引き絞っている。明るい茶色の瞳はしっかりと閉じられていて、目の端から溢れた涙が静かに頬を濡らしていた。
女は、長い腕に拘束されながら、放心したように暫く相手を眺めていた。身動ぎひとつすると、拭うように目の下に触れる。
「そんなに泣かないで」
酷くやさしい声で女が言った。その声に、御手杵はやっと女と目を合わせると、腕の力を強くした。男は、情けない泣き顔が見えないように、背を屈めて頼りない肩に顔を寄せる。審神者は、時折震えながら、嗚咽を漏らしている男の大きな背中に手を回す。労るようにゆっくり撫でた。

「落ち着いた?」
と、審神者は隣にいる男にティッシュを渡しながら言った。御手杵は、胡座をかいてすぴすぴと鼻を鳴らしながら小さく頷く。泣き顔を見られて恥ずかしいのか、心持ち俯いていた。
「契約書、無効になって良かったね。」
頬杖をつきながら、机の向こうで加州が言った。それに、審神者は一瞬きょとんとした顔を浮かべたが、数秒後に、あぁ!と声をあげる。
「名前を間違えるなんて、あんたも抜けてる所があるんだなぁ。」
がさがさの声で御手杵が言った。それに審神者は、私じゃないと小さく頭をふる。振りながら、心の中で首を傾げた――折りたたまれた白い紙を思い浮かべる。綺麗に楷書で書かれていたもう一つの名前も、間違いは無かったはずだ。
そこまで考えると、審神者は何か考え込むように顎に手を当てた。ちょうどその時、障子を控えめに叩かれる音がして、女は頭を上げる。訪ねてきた人物を見やると、焦げ茶色の瞳を苦し気に細めた。
廊下の先に、和泉守兼定がいた。冷たい廊下の上で、静かに立って女を見つめている。彼は無表情で、藍色の瞳は水の底のように静かだった。
「場所を変えよう」
と、小さく呟くと、審神者は先導するように先を進む。それに習って後ろを歩く男の背中を、加州と御手杵は心配そうに見つめていた。

本丸の裏庭園まで来ると、やっと審神者は足を止めた。湖のような大きな池の手前に、小さなアーチ橋が見える。朱色に美しく塗られた高覧に手を置きながら、木で出来た床版を歩いた。二人の間に流れるピリピリとした空気に、胃が痛くなるような気がした。やっとの思いで橋の中心までたどり着くと、ゆっくりと振り向く。和泉守は、橋の端部で足を止めていた。ここまで来て、女の傍によっていいのか考えあぐねているようだった。境界で静かに立っている男に、小さく手招きをする。それに男はどこか暗い顔で頷いた。
「どうして、俺を助けた」
と、朱色の高覧に背を預けながら、唐突に男が言う。いきなり本題を切り出されて、息が詰まった。しかし、それを表に出すことはしなかった。審神者は、彼とは反対に木に小さく手をついて、身を乗り出して池を覗く。
「折らせたくなかったから」
池に目を向けたまま、独り言のように女は呟く。自分の事なのに、どこか他人事のように響いた。
「俺はあんたを裏切った」
真っ直ぐに前を見つめながら男が言う。
「家臣に裏切られるような、私が悪いよ。貴方は何も悪くない。私が、主の器じゃなかった」
と、審神者は言った。謙遜でも後悔でもなく、ただ事実を言っただけというような彼女の口調に、和泉守は大きく瞳を見開く。妙に冷めたような態度に、悲しみと怒りが吹き上がった。
「あんたを許せなかった。あいつの言葉を聞かずに倒れたあんたを。すべて無かったように振る舞う姿を」
感情のままに、男は言葉を続ける。それを横目に見ながら、女は苦しそうに眉を寄せた。
瞬間、一年前の夏の日を思い出す。あの頃の自分に、もっと力があったら今とは違う未来があったのだろうか。彼を救えたのは、自分だけだったのに――そう思うと、心が軋むように痛んだ。喘ぐように呼吸をしだした女を、男はちらりと横目で見据えた。
「……あいつは、本当はすでに戦場で折れていたんだ。だから、本丸に着いたときに意識があった事が奇跡だった。」
と、静かに和泉守が言った。その言葉に、審神者は男の横顔を見つめる。
「どうして、そこまであいつは耐えたと思う」
深い海のような瞳が、女をまっすぐに見つめる。審神者は、彼の問いかけに小さく首を振る。
「あいつは、あんたのことを一人の男として、大切に思っていたんだ。血を流しながら、何度も、このままじゃ死ねないと言っていた。自分は何も伝えていないと。加州はあんたを、一等愛してた」
小さく俯きながら男が言う。何かを堪えるように、声が掠れていた。審神者は心が潰れそうな程の痛みを感じて、下唇を噛む。彼の大きく裂けた腹傷と、血の赤を思い出す。きっと、その場で折れたほうが楽だと思う程の激痛だっただろう。それでも、戻ってくれたのに、自分は彼の言葉を聞かずに倒れたのだ。
最低だ、と思った。
後悔の波に囚われている女の瞳を、男は静かに眺めていた。
「あんたは、加州清光のことを、どう思っていたんだ? 少しでも、あんたの心の中にあいつは居たのか」
男の問いかけに、女は答えなかった。ただ、ひたすらに前を向いている。美しい横顔と、透明な瞳が見えた。和泉守は水の底のような女の瞳を、絶望したように眺めていた。二人の間に、重苦しい沈黙が流れる。
「時間は、全てを癒してくれるよね。どんなに悲しいことがあっても、薄くなって、やがてみんな忘れてしまう。それはとても大切なこと」
ぽつりと、女が独り言のように呟いた。それに、項垂れ下を向いていた男が、僅かに顔を上げる。
「私は貴方が……貴方だけが変わらずに私を憎んでくれて、どこか安心していた」
審神者の言葉に、男は怪訝そうに眉を寄せる。
「だって、それはあの人が貴方の心の中に居るってことだから。みんなが過去と向き合って、彼のことを忘れていく。過去を消化して前を向いて行くのは正しい事なのに、私はそれがそうしても許せなかった」
ぷつり、と言葉が終わり、再び沈黙が訪れる。暫くお互いが、思いを馳せるように空を見つめていた。男が、何かを思い至ったように、ごそごそと自身の首元をまさぐる。
その様子を、審神者はぼんやりと見つめていた。すると、目の前にグイッと何かを差し出される。顔の前に現れたそれは、自身が彼を助けるために渡した勾玉だった。
「ずっと、返そうと思ってた」
大切なものなんだろう、と言いながら渡してくれる。小さく頷くと、まじまじとそれを見つめた。コロンと丸い勾玉は、透き通るような透明な色になっていた。
「珍しいね」
手のひらの上の、小さなそれを指先で撫でながら、審神者が感心したように言う。
「この勾玉は霊力を抑えるために友達が作ってくれたのだけれど。首にかけた人が、心の奥で一番思っている人の色になるんだって」
不思議だよねぇ、と、しみじみとした様子で審神者がいう。和泉守は、彼女の言葉に、意味が分からないと眉を寄せた。
「さっきの答えだけど」
なんの脈絡もなく、審神者は言う。言いながら茶色の紐を首にかけた。小さな勾玉が、彼女の胸元で太陽の光を受けて、きらりと光る。
次の瞬間、和泉守は、はっとしたように瞳を大きくした。透明だった勾玉は、彼女の胸元に戻った瞬間、内側から色が変わっていった。透明な水に、絵の具を一滴落としたときのように、中心から色が変化していく。数秒後、美しい緋色の勾玉が彼女の胸元で揺らめいていた。内側から燃えるような紅の色は、折れていった彼の瞳の色だった。
「一度だって、忘れたことなんて無かったよ。」
泣き笑いの顔で、女が言った。

審神者は一人でゆっくりと来た道を戻っていた。先ほどの光景を反芻する。急に仲良く笑い会うのは難しい、と自嘲気味に笑った。話が終わり、沈黙が訪れると、二人の間に見えない膜が張られていった。
彼は、そんな審神者の心を察して、用事があるから先に戻ると言ってくれた。その言葉を聞いた途端、あからさまにホッとした顔を浮かべた女に、男は心底呆れたような顔をする。
歩くたびに、庭に敷かれた玉砂利が足元でじゃりじゃりと鳴った。その音を聞きながら、酷く心が落ち着くと思った。
穏やかな気持ちで本丸の玄関の戸を引くと、審神者は、ひっ、と小さな悲鳴を上げた。玄関の式台に男が座っていた。彼は柔らかく笑いながら、やぁ、と小さく手を振る。
急に現れた人物に、驚きで身を固くしていた女たったが、気を取り直して男と向かいあった。
「どうして、わざと名前を間違えたの」
唐突な彼女の問いに、鬚切は一瞬きょとんとした顔をする。数秒遅れて、ふふふ、と上品に笑った。
「僕にとっては、名前など取るに足らないことだもの」
と、鬚切は答えにならない答えを言う。審神者は飄々とした彼の態度に、小さく溜息をついた。
髭切は、女が自身の横に座って、草履に白い手を掛けるのをぼんやりと眺めていた。不意に、何かを思い出したように顔を上げる。
「そうそう。弟の、えーと肘丸だっけ。あの子、もう駄目かも。」
なんてことない調子で呟かれた彼の言葉に、審神者はぴたりと手を止めた。眉を潜めて彼の顔を見つめる。
「もう、君には関係ないのかな。あの子を捨てようとしたものね」
ふんわりと笑ったまま、髭切が言う。彼の言葉に、審神者は何も答えられずに下を向いた。
「弟がこのまま鬼になっちゃったら、僕が切ってしまうから安心して」
さっぱりとした調子で言いながら鬚切は立ち上がる。さぁ中へ戻ろう、と彼女に手を伸ばした。女は伸ばされた手を、途方に暮れたように見つめる。数秒遅れて、ふるふると首を横に振った。
鬚切は途端に興味が失せたような顔をする。草履を履きなおした彼女に背を向けて、ゆったりと廊下の奥へと歩き出した。女は、遠ざかる背中に声を掛ける。
「鬚切。ありがとう」
彼は、一瞬だけ硬直したように立ち止まる。数秒後、何も無かったかのように歩き出した。

流れる小川の側に馬を止めると、女は軽やかに馬の背から滑り落ちた。腕に寄せられた鼻筋を手の平でゆっくり撫でてやると、馬は満足そうに鼻を鳴らす。手のひらに固い毛の感触を感じながら、鼻先を押し付けてくる馬を愛おしく思った。
「いい子にしていてね」
小さく呟くような声量で彼女は言う。それに答えるように、黒い瞳が優しげに瞬いた。それに小さく微笑むと、女は顔を上げて丘の先を見つめた。
緩やかな傾斜を登っていく。空は澄みきっていて、白い雲がいくつも空に浮かんでいた。雲の切れ間から光が梯子のように差し込んでいて、清らかさに瞳を細めた。優しい風が頬を撫でるように通り過ぎていく。空気を肺いっぱいに吸い込むと、体の中が内側から浄化されていくようだった。
歩いているうちに、今自分は登山をしているのだろうかと思った。下から見た限り、頂上までこんなに距離があるとは思わなかった。どことなく、眼下の風景が先ほどよりも小さくなっている気がする。息がどんどん上がるのを感じながら、丘の上にある一本の木を目指した。
それでも、ひたむきに足を動かしていると頂上が近づいてきた。視線を足元から少しだけ上げる。目の前に広がる風景に、感動で心を震わせた。最初に、視界いっぱいに広がる空が見えた。草原がなだらかに続き、遠くに一本の川が流れている。川の向こう側には、ぽつぽつと玩具のように小さい民家が見え、さらに向こうには森があった。木の間から覗く白い線は、きっと海だろう。
女は、壮大な自然に瞳を輝かせた。風が、丘の上から流れくる。草がまるで波のように揺れていた。風が通り過ぎる時、僅かに草と土の匂いがした。

丘の頂上には一本の桜の木があった。それは、春には見事な花を咲かせていたのだろう。しかし今は、瑞瑞しい緑の葉に覆われている。
黒く太い幹の根本に隠れるようにして、一人の男が踞っていた。両手で自身の膝を抱えて、その間に頭を埋めている。此方からは、風に揺れる薄緑の髪の毛しか見えなかった。
数メートル離れた場所から、彼女はぼんやりと男の姿を見つめていた。此処まで来たはいいが、彼にかける言葉が思い浮かばず、途方に暮れたように瞳を揺らす。きっと、男は自分が丘を登ってきている事に、とっくの昔に気がついていたのだろう。しかし彼は、人形のようにピクリとも動かなかった。
どうしたものか、と思案していると、彼の左肩に黒い煙のような何かが沸き上がるのが見えた。審神者は、それに気が付いた瞬間、焦げ茶色の瞳を鋭くした。彼の背中の辺りから沸き出た煙は、炎のように揺らめいて、少しずつ形を作っていく。それは、最終的に鎌首をもたげた蛇の姿になった。黒い靄のような蛇と向かい合いながら、男が堕ちかけている事を悟り、女は顔を歪める。
急いで浄化しようと、男に向かって白い手を伸ばす。瞬間、彼の手で強く弾かれて、女は傷ついた顔をした。
「なぜ此処へ来た」
ゆっくりと顔をあげながら、男が言う。低く重たい声だった。彼の瞳は暗い洞窟の様で、背中に冷たい何かが走るのを感じた。黙ったままの女を、無表情で見つめながら、男は言葉を続ける。
「君を切った感触が、体に刻まれて消えない」
両手を見つめながら、悲痛な声で男は言う。黒い手袋に包まれた両手は、小刻みに震えていた。
「白く柔い肉を切り裂いて、刃に染み込んだ血の味。君が俺を、まるで化け物を見るような瞳で見つめた事。それらが目に焼き付いて離れない……。後悔しても、しきれない」
その時の情景を思い出しているのだろうか。震えながら、自身を抱え込むように体を小さくしている。普段のきりりと凛々しい姿からは想像できない程、弱弱しい姿だった。女は憂いを含んだ瞳で、男を見つめている。
ふと、煙で出来た蛇が、彼の体を優しく締めあげていくのが見えた。女が、焦ったように一歩を踏み出す。
「もう底まで穢れてしまった。御霊はこのまま地へと堕ちていくだろう。最後の頼みだ……俺を刀解してくれ」
何処か諦めたように男が言った。金色の瞳を見つめながら、女は彼の言葉に顔を歪ませる。刀解など認めない、諦めるなと叫んでしまいたい衝動にかられた。しかし、気持ちを抑えるように、ぐっと下唇を噛んで耐える。自分がその言葉を言う資格など無いと思った。彼をこのような姿にしてしまったのは、他でもない自分自身なのだ。
そう思い至ると、審神者は静かに息を吐いた。心を決めたように、真っ直ぐに男の瞳を見つめる。
「わかった。でも、最後に貴方の気持ちを教えて。」
と、審神者は言った。頭には、想いを伝えられずに折れていった刀の姿が浮かんでいだ。その後、奇跡的に彼の気持ちを知ることができた。しかし、この男とは、このまま別れたら二度と会えないような気がした。それはふと浮かんだ考えだったが、直感的に確信していた。彼から向けられる言葉が、憤怒でも軽蔑でも構わない――せめて悔いの無いように、見送るのが自分の務めだと思った。そして何より、彼を後悔の海に沈めてしまいたく無かった。あの終わりが無い、暗い海の底には。
女の言葉に膝丸は、暫く迷うように瞳を揺らしていた。決心したように、ひたと女を見据える。
「あの場所で君の手を取った時、俺は心の底から絶望した」
ぽろぽろと、彼の口から心が溢れる。女はそれを黙って聞いていた。
「海の時もそうだった。俺がどんなに頼んでも、君は俺の言葉を聞いてはくれない。」
断定するように膝丸が言う。それに、審神者は否定するように小さく首を振った。
「もう、あんなことはしない……。ずっと一緒にいるよ」
「言葉など信じられない!」
女の弁解に、叫ぶように男が言った。聞きたくないとばかりに、両手で耳を塞ぐ。
「君が思っている以上に、君の事を大切に思っている者は沢山いる。それらに気が付かないまま、君は簡単に背を向けて去って行ってしまう」
何かを思い出したのか、金色の瞳がみるみる絶望に染められていった。
「君が、あの場所で一言、“生きたい”と言ってくれたなら、俺の魂は救われた」
静かに男が呟いた。女は、とつとつと喋る男の口元を眺めながら、苦しそうに眉を寄せた。目の前で闇に飲み込まれていく男を見ていられなくて、ぎゅう、と瞳を閉じた。ごめんなさいだとか、これからはちゃんと生きる、だとか。いくつもの綺麗事が心の中に浮かんだが、彼女はそれを口にすることはしなかった。謝ることさえ、無意味に思えた。
あの天国のように美しい草原で言ったことに、嘘や偽りは一切無かった。全て自身の魂の叫びだった。それを静かに思い出すと、ゆっくりと瞳を開ける。心は辞めろと叫んでいるが、それを振り切るように、左手の人差し指と中指を揃えて印を組む。女は目の前の男に向かって、左手をゆっくり振り上げた。
その時、何かが優しく手の甲を撫で上げていき、審神者は小さく息を飲んだ。視線を其方へ向ける。穢れを具現化したような黒い蛇が、左手首にごく軽い力で巻き付いていた。瞬間、審神者の中へ怒涛のように感情が流れ込んでくる。怒りと、憎しみ、憤り――目の前で大切な人の命が消えていく焦燥感。何も出来ない自分自身に対する不甲斐なさ。発狂しそうな程の絶望。それらが一瞬のうちに波のように襲ってきて、女は思わず苦しそうに心臓の辺りを押さえた。
それはほんの数秒の事だったが、彼女には一生が経ったように感じた。過呼吸を起こした時のように、上手く息が吸えない。心を落ち着けるよう、意識してゆっくりと息を吐く。
不意に鋭い視線を感じて、瞳を向ける。蛇の洞窟のように暗い瞳と目が合った。彼女は、はっとしたような顔をする。黒い水晶のような瞳に浮かんでいたのは、生きることへの許しと渇望だった。どうか、ここから掬い上げてほしい――そんな声無き声が彼女の耳奥で木霊した。
でも、と女は困ったように空を見上げる。どうしたら、彼を救えるのだろう。自分に与えられるものなど、何もないような気がした。
途方に暮れたまま、天を見上げると、視界一杯に青空が広がっていた。二人のドロドロとした心とは反対に、空はどこまでも澄み切っていた。大きな雲が、風の動きに合わせてゆっくりと形を変えていく。その少し下を、鳥が飛んでいった。茶色の風切り羽が空を裂くのが見える。鳥は、大きく美しい翼をゆっくりと羽ばたかせながら、風を切って滑るように飛んでいく。見る見るうちに小さくなっていくそれを眺めていると、女の頭に一つの考えが浮かんだ。その発想に、自分でも信じられない、と思わず心臓の辺りを掴んだ。
女は茫然としたように空を眺めていたが、心を固めたように前を向くと、男の傍に静かに膝を折る。彼はすでに堕ちかけていて、意識がはっきりとしていないようだった。魂の抜けた人形のように、女とその向こう側の景色を眺めている。
「最後に、貴方に渡したいものがある。生きた時を残し、還る道の導となるように」
小さく歌うような調子で呟くと、女は男へと静かに体を寄せた。彼の体が、びくりと震えるのが分かった。肩口に小さく手を置いて、僅かに顔を傾ける。髪の毛が柔らかく頬を撫でるのを感じながら、相手の耳元へゆっくりと口を寄せた。緊張で、吐く息が震える。
「――、私の名前」
消えそうな程に小さな声で、審神者は言った。それでも男の耳には届いたようで、彼は金色の瞳を、これでもかという程大きくする。銅像のように動かなくなってしまった男の姿に、審神者は困ったように眉を下げた。
「あ、ごめん……。フルネームじゃないと失礼だよね。本名は――」
何を誤解したのか、女は丁寧に言い直した。それを、信じられないというように、男は首を振る。
「なぜ真名を教えた」
茫然とした様子で男は言った。声に、僅かばかりの怒りが込められている。彼は思わずと言ったように女の両肩を掴んだ。瞬間、女は痛みを堪えるように顔を歪める。膝丸は、はっとした様子で何度も謝りながら、頼りない左肩を優しく撫でた。
悲し気に揺れている瞳を見つめながら、審神者は心底困った顔をする。
「私からあげられるものは、これぐらいしかないから」
自嘲気味に笑いながら、女は呟いた。
「意味を分かって言っているのか?」
深刻な顔で呟いた男に、もちろん、とあっさりとした調子で女が頷く。私これでも審神者だよ、と咎めるように言われて、膝丸は苦虫を噛みつぶしたような顔をした。
「今だったら、一緒に堕ちてもいけるよ」
ご自由にどうぞ、というように両手を広げつつ審神者が言う。誘惑するように上げられた口角に、膝丸は困ったような顔をした。
気が付くと、彼に纏わりついていた穢れが、きれいさっぱり無くなっていた。それに満足げに頷くと、審神者は静かに立ち上がり、ぐっと伸びをした。振り返って地平線を眺める。
もしも天国が空の上にあるとするなら――ここはむしろ地獄なのではないか。空に浮かぶ雲を眺めながら、ぼんやりと審神者は思った。それは絶望に近い考えだったが、彼女の心は澄み切った空のように透明で晴れやかだった。
気が付くと、男が隣に立っていた。同じように風に揺れる草と、空を眺めている。若草色の前髪が風に煽られて、鬱陶しそうに手で払っていた。顰められた眉が上品で、女は小さく笑った。
白い手で口元を押さえながら、くすくすと笑っていると、不意に男が此方を向いた。気を悪くさせてしまったかと、女は慌てて真面目な顔を作る。
膝丸は、彼女の姿を目に焼き付けるように、じっと見つめていた。彼の瞳の奥で、様々な感情がゆらゆらと揺れている。何か言いたいことでもあるのだろうか。堅く引き絞られている口元を見ながら、女は困ったように笑った。心を溶かすような優しい笑顔に、彼は静かに脱力すると、恐る恐る手を伸ばした。女の左肩を労るように撫でてから、流れるように腰へと手を回す。そのまま、ぎゅう、と力を込めた。緊張で女は体を固くする。
「まだ、伝えていないことがある」
と、震える声で男は言った。それに、女は身を固くしたまま小さく頷く。瞬間、懐かしい香りがして、彼女の胸に切なさが広がった。
「君が、好きだ」
消えてしまいそうな程に小さな声で、膝丸は言った。審神者はそれに驚いたように、茶色の瞳を大きくする。一旦離れようと身を捩るが、許さないとばかりに腕の拘束が強くなった。愛おしくて堪らないと言わんばかりに、肩口に頭を寄せられて、心臓がぎゅうと締め付けられる。
「好きだ、すきだ、すきだ……」
堰を切ったように、彼の口から言葉が溢れてくる。女は、強い力で抱きしめられながら、呆然としたように突っ立っていた。白い両手が、力なく緋袴の横にだらりと垂れている。男は、溢れる感情をぶつけるように、揺れる明るい髪の毛に顔を擦りつけた。
「君を守りたい、大切にしたい――君は俺の全てだ」
意識を無理やり現実に戻した。白い両手をそろそろと上げる。ゆっくりと時間をかけて持ち上げると、控えめに相手の背中に回した。広い背中に触れると、相手が小刻みに震えているのが分かった。
回した腕に少しだけ力を込めると、向こう側に広がる空を見つめる。雲の隙間から、光がまっすぐに丘へと差し込んでいるのが見えた。天空から差し込まれるように降りているそれは、まるで天使の梯子のようだ。きっと最後は、あの光が全てを掬い上げてくれるだろう――そう思うと、女はふわりとほほ笑んだ。
心の中にあたたかい何かが、泉のように溢れてくる。その正体を確かめたくて、静かに瞳を閉じた。耳を澄ますと、遠くのほうで微かに優しい音が聞こえる。

それは酷く、潮騒の音に似ていた。