昨日は雨が降ったのか、地面が水を撒いたように濡れていた。縁側の上で片膝を立てて座りながら静かに庭を眺める。新緑が光を受けて輝いている。爽やかな初夏の朝だった。風が庭を通り抜けていき、さらさらという葉が揺れる音に耳を澄ませると、心が透明になるような気がした。
ぱたぱたと数人の軽い足音が近づいて、ぎりぎりのところで止まった。とじていた目を開けるとちいさな爪先が見えた。子供の足だ。それを確認すると、気付かれませんように、と願いながら再び瞳を閉じた。
「ねたふりをしてもむだですよ」
今剣が体をぶつけるように抱きついてくる。横からの衝撃を受け止めきれなくて、慌てて手を廊下に置いて支えた。子供の姿をした神様が見上げるように赤い瞳で見つめてくる。小動物のような仕草が素直に可愛らしいと思った。
「ばれてたか」
呟きながら困ったように笑うと、今剣はとうぜんですと胸を張った。
「何かあった?」
尋ねながら視線を横へ向ける。そこには彼のほかに、小さい虎を抱えた男の子がいて、彼は目が合うと一瞬で泣きそうな顔をした。今にも決壊しそうな瞳に少なからずショックを受けてしまう。恐がらせないように急いで口元に笑みを作ると、男の子は消え入りそうな声で呟いた。
「主様に、お話を、していただきたくて」
彼は言い終わると、きゅっと口元を結ぶ。私は彼の言葉に、うーんと唸った。じゃあ、と前置きして、日本一有名な物語の冒頭を口にする。
「昔々あるところに、」
「おじーさんとおばーさんがももをひろうはなしはききあきました。たけからおんなのこがでてくるはなしもです」
かぶせるように言われて、苦虫を噛み潰したような顔を浮かべてしまう。困った。私は保育園の先生じゃない。そんなことを思いながら何個か話を出したが、ことごとく今剣に却下された。
「もうネタがつきちゃったよ」
体育座りのように体をちぢめて膝に頭を埋めて呟くと、後ろから声がした。
「あんた地方の出身だろ。地方に伝わる話の一つや二つ、あるんじゃないか?」
上体を捻って後ろを振り替える。数メートル離れた所に御手杵がいた。彼は私に背を向けるようにして梁に体を預け、人の体の倍ほどある槍をせっせと磨いていた。白くて薄い布が端から端まで、一定の速度でいったりきたりする。白い布の切れ端を見ていると、子供の頃に聞いた話を思い出した。
「民謡なら知ってる」
今剣は赤い瞳をきらきらと輝かせた。古い記憶を掘り起こしながら話を紡ぐ。それは村の若い娘の物語だった。娘は毎日河で蟹に餌を与えていた。ある日、彼女は蛇に見初められさらわれそうになってしまうが、すんでの所で蟹に助けられる。ありきたりと言えばありきたりな、古い物語だった。
「というわけで、河には蟹にズタズタにされた蛇の亡骸が残りました」
おしまい、と話をしめながら――これではあまりに蛇が報われないと思った。ひとりの女を好きになっただけなのに。しかも最後がなおのこと悲惨だ。蟹の鋏に生きたまま体を裂かれる。その光景を想像して思わず眉をひそめた。
予想に反して、今剣は普段と趣向の違う話に喜んでくれたようだった。赤い目を細めて笑うと、ふと何かを思い出したように口をあける。
「うすみどりがきいたら、かなしみますね」
言葉とは裏腹に、あっけらかんとした様子で彼は言った。一人の男の姿が頭に浮かぶ。
ついでのように、兄に名前を忘れられて涙目になっている顔を思い出し、小さく笑った。
数時間後、私は膝丸と河原沿いを歩いていた。二人の間には特に会話は無かったが、流れる空気は穏やかだ。沈黙を許せる相手というのは貴重だ。それは社会人になってから、なお一層そう感じた。
川沿いの土手ぶらぶらと歩く。万屋がある通りは路面がちゃんと整備されていたが、少し離れるとすぐに田舎道になった。土手の向こうには川と茶色い民家が見えた。昔ながらの茅葺き屋根を目にすると地元の風景を思い出す。なぜか無性に、実家で飼っている猫に会いたくなった。
景色に早々にあきたので隣をあるく男に視線をうつす。最初の頃はこの威圧的な雰囲気が苦手だったが、今ではそんな気持ちは霧のように消えてしまって跡形もない。そして私は知っている。隣の男は、あまりよく分からないが……意識して真面目な表情を作っている節がある。
いつの日か忘れてしまったが、こんなことがあった。その日はよく晴れた午後で、季節は冬から春に向かおうという頃だった。桜が咲くにはまだ早いが、冬の冷たさは感じられない。そんな中途半端な季節だった。枯れ木に覆われた本丸の庭の池の淵で、私は小さくしゃがんでいた。手にはパンの耳が入った袋が握られている。それを指先ほどの大きさに千切ると、おもむろに池へと放った。音もなく落ちたと思ったら、次の瞬間、水の中から丸があらわれる。パンは掃除機で吸われるように吸い込まれてしまった。丸の正体は鯉の口だった。もう無くなってしまったのに、彼らは名残惜しげに水面で口をパクパクとしている。
ふと好奇心が沸いて、パンくずを鯉のいる場所より遠くに投げた。鯉は目ざとく気がつくと中心に向かって猛然と泳いでいく。仲間の鯉が合流して、奪い合うように食べた。
私がてんでばらばらな方向に投げるので、鯉は左へ右へと忙しそうだった。反復横跳びをしているみたいに移動している。
夢中で鯉に餌をやっていると、
「可哀想ではないか」
と、広い空間に男の声が響く。急に声をかけられて驚いてしまい、手に持っていたパンをまるごと池に落とした。急いで後ろを振り替えると膝丸がいた。諌めるような言葉とは反対に、彼はにやにやとしている。
「なに?」
だらしない顔をしている男に冷たく問いかけると、彼は今さら気がついたように慌てて口元を手で覆った。じっと見つめていると、いや、と歯切れも悪く口ごもる。
「君の、子供のような仕草が可愛くて」
恥ずかしそうに呟くと、彼は引き締まった表情を作った。不自然に引き絞られた口元を見て、私は眉をひそめる。
そんなことを思い出しながら歩いていると、門の近くの塀下に細長い何かがおちているのが見えた。なんだろう、紐かな、と思いながら歩みをおくらせ目を凝らす。数メートル側まで寄った所で紐の正体が分かった。そこにいたのは一匹の大きな蛇だった。体長二メートルほどの体が緩く湾曲している。体全体が海を混ぜたような緑色だった。蛇は人間が近くに来ても微動だにしない。木の根のように地に伏せながら、静かに沈黙している。
「わぁめずらしい。青大将だ」
思わず男の裾を握りながら、小声で呟いた。蛇は嫌いでは無いが少し怖い。以前何かで見た、シャーレに入った人間の血液が頭に浮かんだ。真っ赤な血液にかぱりと開けた蛇の頭を持っていく。顎の辺りをぎゅうと押すと、口から飛び出たキバの根元から数敵の毒が真下に落ちた。それが触れた瞬間、血液は瞬く間に凝結する。あれが直接体に注がれたらと想像すると背中に悪寒が走った。その時、目の前の蛇が思い出したように舌をチロチロとさせた。掴んでいた袖を離して、膝丸の腕にしがみつく。
「日向ぼっこでも、しているのかな」
視線を蛇に固定したまま膝丸にたずねる。数秒待ったが答えが無くて、不審に思い顔を上げると、真っ赤な耳が見えた。刀の時は触れられることなんて日常茶飯事だっただろうに。おろおろと瞳を揺らしているのを不思議に思う。
「屋敷蛇かなぁ」
「やしきへび、とは?」
体の力を抜いて、彼が言う。二人で蛇に視線を向ける。小さなビー玉のような眼玉を見つめた。犬猫のような喜怒哀楽が少なく、いまいち何を考えているのか分からない。
「地元に伝わる言い伝えで、屋敷蛇っていうのは、家を守っている蛇の事だよ。守り神みたいなもので、家の敷地内で蛇を見たらいじめたりしちゃ駄目って言われてた」
昔の記憶を手繰り寄せながら説明する。私の育った土地には、そのような言い伝えや不思議な話が多かった。蔵に居る蛇を大切にすると一家はお金に困らない、とか。子どもの頃はあまり信じていなかったが、審神者になった今はまた違った思いがよぎる。屋敷蛇は、普通の蛇とは違うと祖父は言っていた。彼曰く、一目見ただけで違いが分かると言う。その言葉を思い出しながら、足元を見つめた。蛇の体は美しい碧色で、規則正しく配列された鱗が雨に濡れたように鈍く光っていた。確かに__と心の中で呟く。目の前に居る蛇は、何処か他の生き物にはない品格のようなものを感じた。思わず両手を合わせて、静かに瞳を閉じる。
「お家を守ってくれて、ありがとう」
呟きに似た声が口から漏れた。ぱちりと目を開けると、真ん丸の二つの瞳とかち合う。何処を見ているのかよく分からないが、何となく意志は伝わっているような気がした。小さなビー玉のようなそれを見つめる。先ほどの恐怖は嘘のように無くなっていた。
不意にしゅるしゅると枯草を擦るような音がした。気が付くと、蛇は体をくねらせて反対の方へと去っていく。細長い体が完全に藪の中に完全に消えるまで、私たちは静かに見守っていた。
蛇を見た三日後に、不思議な夢を見た。真っ暗な世界で目が覚めた時、すぐにここが夢だと分かった。見渡す限りの闇の中で、自分の体がぼんやりと浮かび上がっている。果ての無い暗闇に心細さを感じながら、両手を前にかざした。巫女服が肘までずり落ちて、真っ白い腕が露になる。良かった。いつもの自分だ。そう思うと、起こした体をぱたりと横に倒して、固い地面に伏せる。体を横向きにしながら、静かに目の前の暗闇を見つめた。闇が粒になって肺まで浸食してきそうだった。早く目覚めたらいいのに、と思いながら静かに瞳を閉じる。
その時不意に、ぞわりとした感触が腕を襲った。思わず体を硬直させる。
「……なに」
思わず自身の左腕を確認すると、黒い靄のようなものが巻き付いてきた。途端に金縛りにあったように体が動かなくなる。恐怖が体を襲う。黒い靄は一度離れた後、足元に移動した。服の上から、螺旋を描くように上ってくるのを感じて、大きく息を飲む。心臓が早鐘を打つように激しくなった。何をされる分からない恐怖で体が震える。
細長い何かは、太ももを緩く一周するとお腹を添うように這いまわる。滑るように移動しながら、それは優しく体を締めあげていく。脳裏に、蛇がネズミを食べる前に体をぐるぐると絡めている映像が浮かんだ。全身の筋肉を使って締め上げると、ネズミはきゅっ、と高い声を上げ、諦めたように体を弛緩させる。
__殺される。
離さない、とばかりに力を込められて背中が痙攣した。口から変な音が出る。どうにか抜け出そうと藻掻くが、拘束が強くて全く歯が立たない。怖い、怖い、怖い__体を緩やかに圧迫される。みしみしと骨が鳴るような恐怖に頭の中を黒く塗りつぶされながら、心に浮かんだ男の名を呼ぼうと、大きく息を吸った。
しかし、それを実際に口にすることは叶わなかった。代わりに小さな悲鳴に似た声が自身の口から飛び出す。体の上まで登ってきた何かが、とうとう服の中へと侵入してきたのだ。きつく閉じられた巫女服の襟をこじ開けるように侵入すると、鎖骨の上を撫でるような感触が走る。次の瞬間、襲ってきた感覚に身を震わせた。
鎖骨の上を、細長い舌のようなもので舐められたのが分かった。その瞬間、自身の口から甘い声が漏れる。耳に届いた音が信じられなくて、大きく瞳を見開く。
体を襲っていたのは、もはや恐怖ではなかった。それは滲むような快感だった。
がやがやとした声を何処か遠くの方で聞きながら、徐に自分の手を見つめる。白い魚の腹のような手だった。触るとひんやりとしていそう。そう思い実際に触ってみると、肌は思ったより温かくて、何処かちぐはぐに感じた。
時刻は夕方を過ぎたあたりで、夕餉を取ってからさほど時間は経っていない。ぼんやりと前を向いたまま、コップに継がれた日本酒を口に運ぶ。喉を通り抜けるアルコールに自然と口角が上がる。なめらかだけど少し辛くて美味しい。今年の日本酒は出来がいい。何気なく、机の上に置かれた一升瓶のラベルを見ると、産地に地元の地名が書かれていた。途端に気を良くしてしまう。続けて同じ液体を口に運んだ。
加州清光は、机の向こう側から日本酒を水のように飲んでいる私に心配そうな顔を向けた。
「ちょっと、主。大丈夫? 飲みすぎじゃない?」
「そうかな」
「だってもう一人で徳利二つも開けてるじゃん」
改めて机を見やると確かに空の瓶があった。自分でも少し驚いてしまう。宴会はまだ始まって一時間も経っていなかった。いつの間に飲んでいたのだろう。まるで蟒蛇みたい。そんなことを思っていると、目の前にジョッキに入った氷水が置かれる。ごとん、と机から響いた重い音に静かに顔を上げると、内番服を着た光忠がいた。
「ストレスが溜まっているんじゃないかい?」
自然な流れで隣に腰を下ろしながら彼は言う。最近の出来事を思い出してみるが、特にストレスを感じることは無かった。しかし、確かに体は不調を訴えているような気もする。一つだけ思い至ることがあり、ぼそりと呟いた。
「そういえば、最近すごく喉が渇く気がする」
「何それ。病気じゃない? 明日俺と一緒に病院に行こう。これ、誘いじゃなくて決定事項だから」
有無を言わせない勢いで加州が言った。それに複雑な心境で頷く。彼は持ち主の影響か病を必要以上に怖がる。前に風邪を引いたときは本当に大変だった。咳をすれば結核じゃないかと騒ぎ、治るまで布団の傍からひと時も離れなかった。
過去の記憶に懐かしさを感じながら、加州の心配そうな眼差しに瞳だけでほほ笑むと、するりと立ち上がる。
「もう寝るね」
「ゆっくり休んで」
光忠の優しい言葉に頷きながら、障子を引いて廊下に出る。ひんやりとした夜の風が火照った体を心地よく冷ましてくれた。空には半分ほど欠けた月がぼんやりと浮かんでいる。
早朝。私は一人、森の中にある川の片隅に体を沈めていた。腕を胸の前でクロスさせて鎖骨まで水に浸かる。瞳を閉じると色々な音が飛び込んできた。高く響く鳥のさえずり。風が木の葉を揺らす音。清らかな川のせせらぎ。それらを踏み越えて、動物の足音が飛び込んでこないか注意していたが、彼らは人間の女などまるで興味が無いようだった。辺りに自分以外の動物の気配が無い。静かに沈黙しながら禊を続ける。
数十分が経つと、もうこれくらいにしようと思い、ぱちりと瞳を開けた。秋に比べると水の冷たさはそれほどでもないが、寒い事は確かだった。だけれど水に入る前より体は軽い。知らないうちに体に溜まった淀みが川の水に溶けて流れていったように感じた。
岸に上がると、薄い長襦袢がぴたりと体に張り付く。ざっくりと布を絞り、ついでのように髪の毛の水も落とす。ぞうきんを絞るように、ぎゅうと手に力を入れると、ぼたぼたと水が垂れていった。足元に出来た水のしみを眺めながら、最近の悩みについて考えた。
最初に変な夢を見てから、私は連日のそれに悩まされていた。夢は夜を超えるたびに物語のように繋がっていく。こんな経験は初めてで、心の底から困惑していた。何か悪いものに憑りつかれているのかもと思ったが、自身の霊力で探ってみても原因は分からなかった。毎晩夢を見るというだけで特に体に影響は無い。ただ内容が奇妙だった。
最初は靄のような物体だったそれは、日を追うごとに力を得るように影が濃くなっていく。最初は紐のようだったそれは、気配だけで体を撫でさすったり、肌の表面に息遣いを感じるようになり、そして昨日とうとう人型になった。浮かび上がった姿に驚愕する。
暗闇から滑るように姿を現したのは、よく知った人物だった。薄い緑色の前髪の向こう側から覗く二つの瞳。金色のそれはじっと自身を見つめると、すっと瞳孔を縦に細めた。そこまでを思い出すと、平たい石に腰掛けながら頭を抱えた。自分で制御できるなら見ないようにしたかった。最近は顔を合わせるさえ気まずくて、彼を避けていた。相手からしたら持ち主から意味もなく距離を置かれて、自身に原因を探して責めているかもしれない。でも本当の理由なんて言えるはずもなかった。目の前に広がる川の流れを見つめながら、今夜こそ夢を見ませんようにと心の底から願った。
禊から帰ると、執務室に戻り一日の業務を始める__が、PCの上に飾りのように乗せられた自身の指先は動かない。気怠い気持ちのまま、ぼんやりと机の上に積み重なっている紙の束を眺めた。全くやる気がしない。もう諦めて明日に回してしまうかと思っていると、向かいに居る加州が口を開いた。
「主、最近ぼんやりしてるね。何か悩みでもあるの?」
「すごい。どうしてわかったの」
「当然でしょ」
驚きの表情を浮かべると、彼は得意そうに瞳を細める。加州は本当によく出来た近侍だった。私は彼の事を文句なしに信頼している。緋色の瞳を見つめながら、彼だったら打ち明けていいかもと思った。
「実は、最近変な夢を見るんだ」
「夢?」
加州は意外そうな顔をする。それに小さく頷いた。夢のあらすじや、日々繋がっていくこと。最初は靄だったそれが人型になったこと。さらにそれが一振りの男士の姿をしていること。途中、つかえたり赤面したりしながら必死に説明した。つたない文章に文句も言わず彼は真剣な様子で耳を傾けている。
「ねぇ。なんか変な妖に憑りつかれているんじゃない?」
「私もそう思ったのだけど……何も感じないんだよ」
思わず左手を眺めながら答える。意味もなく印を作りながら、もし正体が分かったら懲らしめてやると思った。眉間に皺を寄せた目の前の女を眺めながら、加州は言いにくそうにぼそりと呟く。
「それか欲求不満とか」
「それは無い」
間髪入れずに否定されて、加州は苦笑いを浮かべた。
「審神者用の花街もあるよ。紹介しようか?」
楽し気に笑いながら言った加州を、冷めた目で見つめた。彼はそれに、冗談だよと苦笑いを浮かべる。
「じゃあ昼寝しちゃえば。それで夜は起きていたら夢は見ないでしょ。それで今度、こんのすけか石切丸辺りに相談してみようよ」
加州の提案に、その手があったかと瞳を丸くした。
「それいい考えだね」
思わず漏れた呟きに、でしょ、と加州は頷く。
「仕事は俺がやっておくから。主は寝てなよ」
言いながら机の上のノートパソコンを自身の方へ引き寄せたのを見て、じんと胸の奥で感動してしまった。
数時間後。冷たい畳の上で、ぱちりと目を覚ました。気が付くと辺りが夕焼け色に染まっている。オレンジ色の淡い光を眺めながら上体をゆっくりと起こした。体が軽い。恐れていた夢は見なかった。久しぶりにぐっすり眠れた気がする。むしろ昼に寝て夜に活動したほうがいい気さえしてきた。現世での仕事さえなければそうするのに、と思いながら顔に掛かった前髪を流すと、肩の辺りにかけられていた何かが音もなく落ちた。
目を向けると、黒いジャケットが落ちていた。すぐに心の片隅に姿が浮かぶ。
「……来てくれてたんだ」
ぼそりと呟きながら、落ちたジャケットを拾う。表面にゴミがついてしまっていたので手で払った。黒いビロードのような生地に金の細工が綺麗だった。それを傷つけないよう注意しながら畳む。外を眺めると庭はいつの間にか夜の闇に包まれていた。これを返すのは明日にしよう。欠伸を一つすると机に向き合った。紙の束を引き寄せて付箋に貼られた文字を読む。加州の綺麗な文字を眺めると、数秒後にPCの画面を起動させた。
__おかしい。どうしてまたここに来てしまったのだろう。
暗闇の中で一人頭を抱えた。横向きのまま、指の間から、そろりと闇を見つめる。いつのまにか眠ってしまったみたいだった。確か日付が変わる頃に急激な眠気が襲ってきた気がする。それに逆らえずに、少しだけ仮眠しようと布団に横になったのだった。すぐに起きようとアラームまでセットした記憶がある。そこまで思い出すと小さく溜息を吐いた。このままだと、またあの人が現れる。もう気配がそこまで来ているので、ほとんど絶望的な気持ちになりながら、体を起こしつつくるりと後ろを振り向いた。
「__膝丸」
私の口から零れた呟きに合わせるように、暗闇から人影が姿を現す。彼は一歩近づくごとに光に照らされるように輪郭を濃くしていった。男は静かに跪くと覆いかぶさるようにして後ろから抱きしめる。夢のせいか体温を感じなかった。目の前に回されている腕に触れようとして初めて、自身が千早を着ていることに気が付いた。疑問に思ったが、所詮、夢なので受け入れる。さら、と布の擦れる音と共に男の硬い腕に触れると、耳元で低い声が聞こえた。
「体に触れてくれないか」
「体?」
意外な言葉に思わずオウム返しをしてしまう。それに、夢の中で彼が言葉を発したのは初めてだった。彼は無表情に此方を見つめている。琥珀色の瞳が冷たい宝石のようだった。
「酷く痛むのだ。出来たら擦ってほしい。頼む。」
男の苦痛を滲ませたような声に、静かに頷いた。体を反転させて向き合うと、細い腕を背中へ回した。そのまま広い背中をゆっくりと撫でる。あぁ、という溜息に似た声が相手の口から漏れた。そのまま甘えるように肩口に頭を乗せられる。彼の痛みが無くなりますように、と祈りながらゆっくり背を撫でた。気が付くと押しかかるようだった暗闇が淡い色に変化している。まるで優しい夜のようだ。夕闇のような、穏やかな空気が流れていた。
「腹にも触れてくれないか」
暫くされるがままだった彼が、ぽつりと呟いた。それに手を止めて尋ねる。
「おなか?」
「そうだ。全身が辛いのだが……腹が、一番痛い」
肩口に頭を乗せたまま彼が言った。声に申し訳ない気持ちが浮かんでいる。しおらしい態度に小さく笑いながら白いシャツに手を伸ばした。
「いいよ。ここらへん?」
服の上から優しく腹を撫でると、彼は腰に手を回して縋りついてくる。はぁぁと恍惚とした溜息を吐いているのを聞いて、まるで蛇の吠える音のようだと思った。彼は逸話がいくつかあるからそれに影響されているのかもしれない。そんなことを思っていると、膝丸はゆっくりと体を離した。
「もう、大丈夫だ。世話を掛けた」
言いながらゆっくり立ち上がる。心から名残惜しく感じているように、暗闇の中で立ち尽くしていた。
「手入れでもする?」
夢の中で効果を発揮するかは分からないが、一応尋ねてみた。思わず引き留めたくなってしまう程、彼が辛そうに見えたからだ。膝丸はお腹に片手を当てながら小さく頭を振る。
「いや、いい。これは手入れではどうにもならん。……心配してくれてありがとう」
今度こそ彼はくるりと踵を返した。そして闇の中へと消えていく。暗闇の中に、ぽつんと取り残されながら、黒い背中が小さくなり、やがて完全に消えるまでを静かに見守る__どうしてだろう。ただの夢なのに、彼の瞳の色を思い出すと心が悲しみに包まれるような気がした。
次の日の朝、私は源氏の部屋の前で立ち尽くしていた。腕の中には黒いジャケットが抱えられている。昨日も夢に見てしまった。暗闇の中では毎晩のように会っていたが、現実ではほとんど彼と顔を会わせていなかった。昨日の今日なので非常に気まずい。やっぱり明日にしようかな。そう思ってくるりと廊下へ足を向けると、しゅっ、という音を立てて障子が開かれた。
「どうして入ってこない。君が来るのを、今か今かと待っていたぞ。待ち続けて錆びてしまう所だった」
そう言いながら膝丸が部屋の中から姿を現した。いつもと変わらない様子に何処かほっとしながら、腕に抱えていたジャケットを渡す。
「これ、ありがとう。せっかく来てくれたのに、寝ていてごめんね」
「それは構わないが……君、その顔はどうした」
膝丸は差し出されたジャケットを受け取りながら、驚いた声を上げる。彼の反応にきょとんとしながら首を傾げると、ぬっと手が伸びてきた。黒い手袋に包まれた指が目元をそっとなぞる。
「酷い隈だ」
悲痛な声色に困惑する。昨日はちゃんと寝たはずだった。何なら昼寝もしたので睡眠時間はいつもより多いくらいだった。そこまで思い出すと、作り笑いを浮かべながら優しく手をどけさせる。
「君、本当の事を話してくれ」
「加州から何か聞いているの?」
小さく溜息を吐きながらじとりと見つめる。責めるような視線に狼狽えながら、彼は言葉を濁した。加州の心配性は嬉しいけれど時におせっかいなこともある__そんなことを思いながら、私は諦めたように息を吐き、たっぷりの間の後、夢の内容を話した。最初は真剣な様子で話を聞いていた彼も、夢の内容が進むと共に頬を赤く染める。
「妖のせいかと思ったが君から瘴気は感じない。つまり、その……君は俺とそういうことがしたいのか?」
「違います」
間髪入れずに否定されて、膝丸はショックを受けた顔をする。じわりと目の端に涙が浮かぶのを見て、私はくるりと背を向けた。やっぱり言うんじゃなかった。暗に欲求不満だと言われたように感じて、拗ねたように下を向く。
廊下を早足で黙々と歩いていると、後ろから焦ったような足音が追いかけてきた。あるじ、あるじ、と何度も呼ばれるが冷たく無視をする。
「どうせ色狂いとか思っているんでしょ。もういいからほっといてよ!」
「そんなことは思っていない! 君の事を心配しているだけだ!」
ぐっと腕を掴まれて体が引かれる。感情のまま小さく舌打ちをしながら振り返る。膝丸は真剣な表情をしていた。
「今晩、君の隣の部屋に控えさせて欲しい。共寝はしないと誓う。もし君に何かあったら俺がすぐに原因となるものを切る。」
言葉と共に、キン、と金属の鳴る音がする。思わず音の鳴った方を見ると彼は本体に手を掛けていた。刀の美しい鍔を見ていると、心の中で燃えていた怒りの炎が鎮火され、冷静になれるような気がする。
「分かった。お願いします」
簡潔に答えると、膝丸はほっとしたように力を抜いた。
机の上に置いてある時計に目を向けると、ちょうど日付が変わろうとしていた。ゼロが三つそろうのを見届けると、思い出したように眠気が襲ってきて欠伸をする。寝室に移動するとすでに布団が敷かれていた。思わずぴちりと閉められた襖に目を向ける。襖の向こうには恐らく膝丸が控えているのだろうが、物音ひとつしなかった。あくまで見張りとしていてくれるだけで、朝まで物として徹してくるらしい。彼の気遣いに感謝しつつ、ふかふかの布団に体を滑り込ませる。瞳を閉じると、途端に意識が水底に沈んでいくように感じた。
すっかり慣れた暗闇の中で、ふと目を覚ました。今日は最初から男が居た。思わず胴に目を向けると、薄く筋肉のついた腕が見える。今日も自分は千早を着ていたので、彼はその薄布ごと私を抱え込んでいるようだった。後ろに居る男に意識を集中させる。彼は置物のように動かなかった。
胴に回された腕を見ながら僅かに覗く肌に触れた。相手の手首の辺りに手を添えたらびっくりするほど冷たくて、少しだけ背筋に冷たいものが走る。触れた所から生気を感じなかった。まるで死体みたい__思わず口にしそうになった言葉を慌てて飲み込む。
「目覚めたか?」
沈黙を続けていた男が声を発した。どちらかというと、目覚めたというより眠ったというほうが近いのではないか、と思いながら曖昧に頷く。私の考えは彼にはお見通しだったようで、回した腕に力を込めながら、小さく笑った。
完全に目が覚めたと分かると、彼は黒い手袋に包まれている手をゆっくり上にあげた。胴にあった手は腰のくびれをなぞり、やがて襟元へ到達する。指先が鎖骨に触れた瞬間、あ、という細い声が自身の口から漏れた。慌てて口元を手で押さえる。
「いいから、もっと聞かせてくれ」
そのまま彼の腕が胸元に入ってきて、くっと口元を引き絞った。男はいつの間にか手袋を外していたようで、ざらざらとした手の平が肌を往復するのを感じた。普段、刀を握っているからか彼の手はかさついていて、それが自身の雪のように滑らかな肌の上をすべると身が震えた。大きな手はいつの間にか片方の胸を下から掬い上げるように揉んでいた。後ろから覆いかぶさりながら、ぴくぴくと震える体を面白そうに眺めている。おもちゃで遊ぶみたいに捏ねられて、何か言おうと口を開けた。が、抵抗の言葉は自身の甘い声で掻き消えてしまった。
「ここがいいのだな」
「や、やめて」
彼は弱点を見つけたとばかりに擽りながら、衣服をはぎとろうとする。大きく襟元を開け、目に飛び込んできたものに、彼は驚愕したように瞳を大きくした。
ねじが切れた人形のように静止してしまった男を不審に思って、上体を少しだけ捩じる。彼は苦痛を感じているように顔を歪ませていた。
「これは……可哀そうに。痛かったろう」
左肩から鎖骨辺りに走る、白い稲妻のような傷跡に触れながら彼は言う。そっと労るように触れた後、静かに顔を寄せた。傷の上に優しく唇を触れさせる。彼の腫物を扱うような触れ方にじんわりと心を溶かされながら、しかし心の奥でどこかチクリとしたものを感じた。
「可哀そうって……なんだか他人事だね。膝丸が付けた傷なのに」
恨めし気に睨みながら呟いた。それに彼は心から驚いた顔をする。しかし数秒後、慌てて申し訳なさそうな顔をした。
「そ、そうだったな。無神経な物言いをして悪かった」
もう一度、傷口に顔を寄せた。そのままの流れで、鎖骨やら、頬やらに啄むようにキスをしていく。くすぐったくて身を捩った。可愛らしい笑い声に、彼は少しだけ口角を上げる。
「もう我慢できない」
太ももの裏側辺りに、拳ほどの熱を押し付けながら彼は言った。腰を緩く動かしながら、じっと見つめる。しかし私は頑なに答えなかった。すこしだけ意地悪してやろうと思ったのだ。彼は許しをこうように髪の一束を手に取り、自身の頬に当てた。明るい色のそれに口を寄せる。
「頼む」
哀願するように言われて、思わず表情を緩めてしまう。そして堪忍したように息を吐くと、上体を起こして男と向き合う。そのまま、控えめに両手を広げた。
「……いいよ。来て」
瞬間、彼はすっと瞳を細くする。大きな体でゆっくり伸し掛かると、金色の瞳が静かに見つめてくる。下になりながら真っ直ぐに受け止める。相手の瞳に自分の姿が映っていた。男は、中に早く入ってしまいたいとばかりに腰を押しつける。
__リン。
不意に遠くの方で高い鈴の音がした。それはとても清らかな音だったが、男はその音を聞いた瞬間体を硬直させる。今のは何だろう、とぼんやりとしていると、膝丸は弾かれたように後ろを向いた。
「……来るな」
上体を起こしながら、彼はこの世の終わりのような声で呟いた。同じように体を起こしながら前を向く。そこには果ての無い暗闇が広がっていた。音を吸い込んでしまうような、寂しさを含んだ黒色が、ぽっかりと口を広げている。
「やめろ、やめてくれ」
怯え切ったような声を出しながら、彼は自身の頭を抱えた。
「膝丸、どうしたの?」
思わず黒いジャケットに包まれた背に触れる。彼は気が付いていないようだった。体を小さく震わせながら、何かぶつぶつと呟いている。その尋常じゃない様子に、心の奥がぞわりとした。
「やめてくれ、頼むから」
__痛い、痛い!
急に頭の中に声が響いた。思わず辺りを見渡す。しかしそこは相変わらずに闇が広がっているばかりで、しん、とした静寂が辺りを包んでいた。先ほどから声を上げているのは目の前の男だけだ。じゃあ、今の声は誰。私は意識を張り詰めさせて、さっと周りに視線を走らせた。しかしいくら探っても瘴気は感じなかった。むしろ、自身の浄化の力が上手く働いているのか、清らかな空気が流れている。思わず目の前で震えている男を見つめた。私は酷く怯えた様子で小さく丸まった背中を、困惑したように眺めることしか出来なかった。
__殺してしまえ!
再び頭の中に声が反響した。思わず耳元を押さえる。子供とも、大人とも分からない、大人数の声。続いて響いた、ガチン、と固い何かがぶつかる音。瞬間、目の前で俯いていた男の体が大きく跳ねた。続けて体をびくびくと震わせる。
「ぶたないでくれ! 後生だから! ……もう、全身が痛いんだ!」
彼は見えない何かに殴られているように体をびくりと動かしていた。
「嫌だ、いやだいやだ……腹が痛い。体がねじ切れそうだ。誰か、助けてくれ……こんな所で、一人惨めに死にたくない!」
男は空中に向かって吠えた。何かから庇うように両手で頭を抱えている。私は一連の流れを茫然と眺めていたが、彼が下を向いてえづきだしたのを見て慌てて傍による。
「どうしたの、ここには誰も居ないよ」
げぇげぇという音が響く。彼は何も食べていないからか、それとも夢だからか実際に吐くようなことは無かった。しかし苦しそうに顔を歪めている。額には玉のような汗がいくつも浮かんでいた。ひゅうひゅうと鳴る乾いた呼吸音を聞きながら、私は暗闇に手をかざした。なにか居るのかと思ったが、白い手はひらひらと頼りなく空を切るばかりだった。彼が言う、痛めつけるなにかは、少なくとも眼には映らない。
どうしよう、と周りを見渡すと、ふとあるものが目に留まった。静かに立ち上がり、床に落ちていたそれを拾う。そしてゆっくり戻ると、男の傍に膝をついた。
「……聞こえる?しっかりして、膝丸」
静かに語り掛けるが、彼は私の姿が見えないし、声も届いていないようだった。譫言のように、痛い、やめろと呟いている。どうしようもなく悲しい気持ちで、暫くその様子を見つめていたが、ゆっくりと白い腕を上げた。
ふわり、と視界を白が覆う。手に持っていた千早を毛布のように、自身と男にかぶせたのだった。守るように、少しだけ背中に覆いかぶさるようにしながら、男の肩をさする。
「大丈夫。ここには私たちしか居ないよ。もし誰か来ても、私がすぐに追い払ってあげる」
左手で軽く印を結ぶ仕草をしながら、優しい声色で言った。男が完全に静止したのを見て、そのまま左手を伸ばした。固く握りこまれた拳に白い手を重ねると、ゆっくりと気を送る。うう、という呻き声が聞こえる。それが苦痛とはまるで違う音だったので、私はほっと安心して静かに脱力した。
暫くそうしていると、のろのろとした動きで彼は顔を上げる。
「大丈夫?」
心配そうにのぞき込む茶色い瞳に、男はバツが悪そうに下を向いた。
「無様な所を見せてしまった」
その言葉に、否定する気持ちを込めて小さく頭を振った。無様なんて、そんなことない。何があったのかは知らないが、男が正気に戻ってくれたことに安堵した。自然に顔が緩み、ふわりと笑う。彼は、改めて目を合わせた。すると何か言いたそうに口を開けたり閉じたり、という動きを繰り返す。私は言葉が紡がれるのを辛抱強く待っていた。何回目かの唸り声の後、意を決したように彼は口を開いた。
「俺を、抱きしめてくれないか」
拍子抜けするほどささやかな要望に、虚をつかれたような気持ちになった。僅かに肩を竦める。
「神域に隠す、とか言われるかと思った」
苦笑いを浮かべながら言った言葉に、膝丸はあいまいに笑った。彼が何か言う前に、ぐっと体を寄せる。そのまま白い手を相手の背に回すと、控えめに力を込めた。瞬間、はぁぁと溜息に似た音が聞こえる。ちょうど、人間と動物の中間のような音だった。
「もっと強く抱きよせてくれないか。最後の頼みだから」
回した腕に力を込めると、相手はゆっくりと体重をかけてきた。女の力では成人男性のそれを受け止めきれなくて、倒れ込むように横になる。気が付くと、胸元に薄い色の髪の毛が見えた。なんだか小さな子供みたい。そんなことを思っていると、彼は静かに口を開く。
「……とてもあたたかい。体の芯から癒されていくようだ」
彼のしみじみとした様子に、可笑しく思えて、大げさだよと笑った。それに彼は否定するように小さく頭を振る。
「……魂が、どこまでも澄み切っていて心地がいい。叶うならば、ずっとこうしていたい」
彼は胸に耳を当てたまま静かに呟いた。心臓の鼓動を聞きながら、もっと別の何かを聞いているような顔をしている。その真剣な表情と、先ほどの言葉に思わず閉口してしまう。言葉の端っこに滲むような悲しみを感じたからだ。どうしていいか分からずに、ぎゅう、と強く抱き寄せると、彼はゆっくりと上体を起こした。
「其方が、欲しい」
二つの瞳がじっと女を見つめる。瞬間、違和感が体を駆け巡った。
「……貴方は誰」
傍から聞いても、氷のように冷たい声だった。彼は心から傷ついた顔をする。小さく下を向いたのを見て、私はふっと表情を崩した。
「人の姿を、勝手に借りては駄目だよ」
今度は自分の口からとても優しい声が出たので、少しだけ胸を撫でおろす。私が全く怒っていないという事が伝わって、彼は恐る恐る顔を上げた。じっと相手の反応を見守ると、彼はびくりと体を震わせる。私の小さな口が開かれるのを、彼は死刑宣告を受ける受刑者のような表情で眺めていた。
「貴方の本当の姿を見せて」
瞬間、男はびくりと体を跳ねさせる。辺りにキョロキョロと視線をめぐらせながら、怯えたように体を縮こませた。
「私の本当の姿は、あさましく、醜い。其方に拒絶されたらと思うと、怖くて堪らない……あぁ。ぶたないでくれ! お願いだから」
嫌な記憶がフラッシュバクしたのだろうか。彼は上体を起こしながら頭を抱える。黒い手袋に包まれた手を、白い手が包んだ。
「ぶたないよ」
黒いジャケットに包まれた肩が震えている。それを眺めながら言葉を続けた。
「仮にどんな姿だったとしても、全てを受け入れる」
しっかりと断定するように言う。しかし彼は、見ている此方が可哀そうになるくらい狼狽していた。暫く不安げに瞳を揺らしていたが、恐る恐るという様子で、目の前の華奢な肩に手を置いた。
静かに金色の瞳と向き合っていると、彼はぐしゃりと顔を歪ませる。ほとんど泣き出してしまいそうな表情だった。小さく揺れる瞳を見ていると、なんだか此方が泣きたくなってしまって、白い手を相手の頬に滑らせる。彼は、それに気が付くと自分から顔を寄せた。そして心を決めたように口を引き絞ると、真っ直ぐに視線を合わせる。
空気が一瞬で変わるのが分かった。金色の瞳が丸くなり、反対に黒い瞳孔が縦に細くなる。ゆっくりと彼の首筋に線が浮き現れる。それを見守りながら、小さく息を詰めた。肌の上に浮き上がっていたのは__規則正しく配列された、青い透明な鱗だった。
彼が何か言おうと口を開いた時、背後で何かが反射した。瞬間、男は驚くべき速さで後ろを見ると、庇うように覆いかぶさってくる。視界一杯に広がるシャツと、僅かに届いた蓮のような淡いお香の香り__しかし次の瞬間、それは絶叫とともに掻き消えた。
耳元で大きな音が鳴る。リン、という美しい鈴の音は、次の瞬間洪水のような喧騒に変わった。硬い石同士がぶつかり合うような音。子供の笑い声。大人の罵声。それらが濁流のようにぐるぐると回っていた。夢から覚める時のように意識が浮上し、とても目が開けていられない。閉じようとする瞼を意志の力でねじ伏せると、暗闇の底でうずくまる男が見えた。思わず手を伸ばして大声で叫ぶ。
「お願い、この手を取って。貴方をここへ置いて行きたくない……!」
彼は顔を上げ、驚愕したような顔をした。縋るように伸ばされる彼の腕。覚醒させようとする意識に逆らいながら、懸命に自身の白い手を伸ばす__しかし、あともう少しという所で、後方から強い力で引っ張り上げられてしまった。
「待って、行かないで!」
消えてなくなるのは私のほうなのに、そんな言葉が出た。どうしてだろう。涙が、あとからあとから湧いてきて頬を濡らしていく。彼はそれを見ると、小さく微笑んだ。もう届かないと分かっていても、伸ばした手を戻すことは、到底出来なかった。
「……きみ、君! 大丈夫か! しっかりしろ!」
耳元で大声で叫ばれて、思わず顔を顰めた。頭が重い。体がだるい。酷い二日酔いの時のような気持ち悪さを感じた。思わず口元を押さえると、男は慌てて背中をさする。
「君に巻き付いていた妖は切ったから安心してくれ。……もう少し遅れていたら、取り殺される所だったぞ」
頭が痛み、耳鳴りがする。しかし、切った、という言葉だけは耳に入った。
「妖、は、どこに行ったの」
「東の空へと飛んでいった」
廊下の方に視線を向けながら膝丸が言う。同じようにそちらを見ると、障子が人一人分空いているのが見えた。空が青く白みかけている。
「……まだ、間に合う」
怠さを訴える体を無視して立ち上がると、浴衣の帯を外しながら部屋の奥へと向かった。小さなタンスの二段目から巫女装束を取り出すと、畳に放る。流れるような動きで浴衣を肩から滑り落すと、膝丸は小さく悲鳴をあげた。
襦袢の上から白衣を着る。緋色袴の紐を胸の下できつく縛りながら振り返った。
「膝丸、助けてくれてありがとう。私、ちょっと出かけてくる」
律義に、ぎゅうと目を閉じている男に声を掛けると、わき目も振らずに、すたすたと歩いて行く。手櫛で髪の毛を整えてながら障子に手をかけると、手首をぱしりと掴まれた。
「……君はどうしていつもそうなのだ。駄目と言われても、共に行くぞ」
すっかり従者の顔に戻った膝丸が低い声で呟く。それに困ったように笑うと、思い出したように声をかけた。
「じゃあ、日本酒を持って来てもらえるかな。私は馬を連れてくるから」
これくらいの、と両手で大きさを表しながら伝える。それが二合瓶程と小さい物だったので、男は意外そうな顔をした。
「お安い御用だ」
簡潔に答えると、彼は廊下の向こうへと消えていった。小さくなっていく背中を見送ると、私は玄関先へ向かうべく、彼とは逆の方へ廊下を進んだ。
数時間後、二人は川の近くをうろうろとしていた。途中までは気配を追ってこられたが、水の流れる音が近づくにつれて薄くなっていき、今ではほとんど吹いたら消えそうな程になっていた。私は白い馬の背から滑り落ちると、中腰の体制で地面を見つめた。茶色い土が見える。
「何をしている?」
じっと地面を見つめていると、膝丸は遠慮がちに声を掛けた。それには答えずに、考え込むようにひたすら地面を見つめる。早朝の空は、あと数分で太陽が顔を出すだろうという色をしていた。まだ誰も吸っていない新鮮な空気が、二人の間を通り抜けていく。
「この子をお願い」
持っていた手綱を、ぼうっと立っていた男に握らせると、小走りで川のほうへ向かった。彼の焦ったように引き留める声が聞こえたが、足を止めることはしなかった。水の音が近づくにつれて、地面が土から石の割合が多くなる。脚を踏み出すたびに、足元でじゃりじゃりと音が鳴った。
川の淵ぎりぎりにたどり着くと、肩で息をしながらしゃがみこんだ。白い手を地面に伸ばす。
「……こんなところに、居たんだね」
消えてしまう程小さく、優しい声が出た。地面にある物に目を向ける。やるせない気持ちを押し殺すように、下唇を噛みしめた。
__地面に静かに横たわっていたのは、いつの日か万屋の帰り道で見た蛇だった。彼は長い体を丸めるようにして冷たくなっていた。込み上げる悲しみを胸に抱えたまま、横たわる体を眺める。
「……酷い」
蛇の体はところどころ不自然にへこんでいた。まるで硬い棒か、もしくは石をぶつけられたかのように歪に湾曲している。その時、暗闇で聞いた笑い声を思い出して、視線を向こうへ移した。数メートル先に、手のひらほどの石が落ちていた。続いて、転々と赤い染みのようなものが付いているのが見え、顔を歪ませる。どうしてこんなことをするのだろう。彼は自分から噛みついたりしないはずだ__初めて見た時、置物のように静止していた姿を思い出す。急に人を襲ったとはどうしても考えられなかった。
蛇の体を見ると、ちょうど胴の辺りが三日月のような形に跡が付いていた。それはまるでクッキーの型を押されたように体に刻まれていて、思わず口を押える。よく見てみると型はお腹だけじゃなく、尾の少し上にもあった。
__馬に、踏まれたんだ。
きっと彼は石を投げられて、ここで動けずにいたのだ。だから、遠くから来る馬の蹄を避けることが出来なかった。足音がどんどん近づいて、やがて体をゆっくりと踏み込まれる恐怖を思うと、体がバラバラになるような悲しみを感じた。
「痛かったね」
少しだけ胴に触れ、辺りを見回した。何か包むものが欲しいが、あいにく周りは石と汚れた流木ばかりで、手ごろな布は見つからない。少しだけ悩んだが、襟元をがばりと開けて白衣を脱いだ。その時ちょうど後ろから膝丸が追い付いてきて、彼は本日二度目の悲鳴を上げた。
白衣を広げて中にそっと蛇を乗せる。赤子をくるむように蛇の死体を柔らかい衣で包むと、何の迷いもなく胸に抱えた。ちょうど朝日が差し込んできていた。一瞬で夜から朝に変わる。
「君、今日は一体どうしたんだ」
顔を真っ赤にしながら彼は言う。そういえば、襦袢は肌着と同じ扱いだった。蛇の事で頭がいっぱいで、他の事に考えが及ばなかった。小さく反省する。なんて説明したらいいのだろう、と思っていると、膝丸は腕の中にある布を悲しみの籠った瞳で見つめている。さすが神様だ。腕に抱えているものが何なのか、彼は一瞬の内に理解したようだった。
「早く、送ってあげよう」
言いながら馬に乗りこもうと片足を上げると、肩に僅かな重みを感じた。気が付くと、彼の黒いジャケットが掛けられていた。優しい気遣いに、冷たくなった心が少しだけ溶かされるのを感じた。
「そのまま出歩かれては困る」
ぽそりと彼は呟いた。それに私は、ごめんね、と形だけの謝罪を口にする。
二か月前に一人で登った丘を、今度は二人で歩いた
もくもくと、ひたむきに足を動かす。さらさらと優しい風の音がした。体の外を丘の上から風が通り抜けていく。僅かに土のにおいがする。そして肌に降り注ぐ、朝の淡い光。
丘のてっぺんにつくと、何か掘る物を探した。不意に男の腰に下げられている細長い物が目に入るが、さすがにだめだと小さく首を振る。大きな桜の木の下を暫くうろうろとしていると、手ごろな木片が見つかった。
白い布を腕に抱えたまま、木で土を掘り返す。五十センチほどまでの深さまでを掘り下げると、ふう、と小さく息を吐いた。白衣ごと、そっと土の上に寝かせるように置く。最後に一目だけ中を見たくなって、少しだけ布を開いた。
再び目にした姿に、思わずため息が出てしまう。透明な鱗は僅かに緑ががった碧色で、海と空を混ぜ込んだような色をしていた。胴は太く長くて、瞳は夜を吸い込んだような黒色だった。何処か気品すら感じる。
__屋敷蛇は、他の蛇とは全然違う。一目見ただけで分かる。
頭の中に、祖父の言葉が木霊した。子供の時に聞いた古いお話。透明な鱗に白い指先を乗せる。そのままそっと体を撫でた。
「醜くなんてない」
小さな声で呟く。耳元で風の音がした。
「貴方は、とても美しいよ」
名残惜し気に指先を体から離すと、夢の中での彼の言葉が思い出される。隣で静かに見守っている男に声を掛けた。
「膝丸、本体を借りてもいい?」
「構わないが……」
言いながら、腰から刀を外して渡してくれる。それを有難く受け取ると、少しだけ鞘から抜き、襟足に沿わせた。しゃり、と耳の近くで音がなった。
「あっ」
自身の口から情けない音が鳴った。髪の毛が、手から零れてばらばらと地面に落ちる。一部分だけ顎の辺りまで短くなってしまったのを見て、自分の不器用さに苦笑した。まあ、髪なんてすぐに生える。呑気にそんなことを思いながら、反対側の襟足を掴み、さあもう一度と刀を近づけると、横から焦ったような声が聞こえた。
「まてまて! 君、その調子で続けたら虎刈りのようになってしまうぞ!」
もう見ていられないと、刀を取り上げられて肩を竦める。そんなことを言われても、と俯いていると、しゃり、と耳の傍で小さな音がした。
「ほら。後ろの目立たない部分を切ったから」
「わぁ。ありがとう」
思わず、ぱっと笑顔を浮かべたのを見て、彼は照れたように俯いた。慎重に髪の束を受け取ると、首に下げられている朱色の紐で結ぶ。小さくリボン結びにして結うと、蛇の亡骸の横にそっと置いた。横からものすごい視線を感じて、言い訳のように呟く。
「一人ぼっちは、嫌だと泣いていたから。せめてもの手向けになれば、と思って」
消えそうな程小さな言葉に、膝丸は胸を打たれたように沈黙した。白衣を亡骸に蓋をするようにかぶせると、上から土を掛ける。最後に、パンパンと表面をならした。思い出したように本丸から持ってきた日本酒をかける。ふわりと清い香りがした。地元では生き物を埋葬するときに、上からお酒をかける。それは昔から伝わる風習だった。黄泉の道は酷く喉が渇くと言う。弔いの日本酒には、旅人の渇きを癒すようにと祈りが込められていた。
気が付くと私の白い手は、ところどころ土で汚れてしまっていた。それには構わずに両手を合わせる。横で男が同じように手を合わせるのが気配でわかった。
心の中で、小さき生き物に話しかける。暗闇の中で私はたいして力になれず、寄り添うことしか出来なかったかもしれない。せめて、死後は辛さや痛みを忘れて透明な場所に向かって欲しい。貴方の最後は惨く、心がねじ切れるような苦しみを感じただろう。きっと最後の数秒は、体の奥底から人間を恨んだことだろう__肉体が無くなってしまった今、魂は軽く風のように何処へでも行ける。だからどうかこれからは、美しい場所で心安らかに、思い煩うことなく。心から、そう祈った。
じっと黙祷をささげていると、不意に頬を撫でる感触が伝わった。するりとした、なめらかな手触り。思わず顔をあげる。
__ありがとう。
耳元で低い声が木霊した。人と動物の中間のような淡い音。
風が丘の上から、どおっ、と力強く吹いて、明るい髪を揺らす。胸がすくような思いがした。きらきらと光る碧い風は、丘をこえて空へと駆ける。その軌跡を目で追った。
草原はどこまでも広く、全てを包み込んでくれるようだった。細い草が、風の動きに合わせて波のように揺らめく。草原を越えて、川を越えて、森を越えて__すべての果てには海がある。
ちょうど雲の間から太陽が顔を出して、光が梯子のように降り注いでいた。天国に通じるように美しい丘で、私は見送るように静かに空を見つめた。
◇
語り部のはなし
その日は風が強く吹いていた。ごうごうと音が鳴り、古びた家屋を揺さぶる。風が通り過ぎるたびに、窓がガタガタと大げさな音を立てて振動していた。家は隙間が多く、その度に冷たい風が、家の中まで滑り込んでくる。居間の中心で丸くなっていた子供たちは、ごおっと地鳴りのような音が鳴るたびにはしゃぎ、そして吹きすさぶ風に肩をすくませた。
老婆は囲炉裏にぼんやりと手をかざしながら窓の外を眺めた。山のふもとは日が差さず、お昼が近い時刻だというのに酷く薄暗い。おまけに今日はどんよりとした曇り空で、太陽は厚い雲に覆われて姿を隠していた。窓の向こう側に、よく整備された小さな庭が見えた。春はもうすぐそこまで来ているので、これからは緑が庭を美しく彩るだろう。それと共に草取りもしないといけない。そして米つくりの準備。種籾を水に浸している所を想像していると、脳裏にある風景が浮かんだ。年を取ると記憶がどんどんと膨らんでしまっていけない。そんなことを思いながら、老婆は流れるような思考に身を任せた。
彼女の脳裏に浮かんだのは田植えの情景だった。腰を屈めるのに疲れて、ぐっと体を上げると、目の前には水を貼った田んぼと、向こう側には大きな山が見えた。その山は彼女が小さい頃から当たり前のようにそこにあった。いつみてもそれは美しく、まるでふもとの者たちを見守ってくれているような気がした。
老婆がその山の風景で一番好きなのは春だった。此処は東の山奥で、その山はちょうど県の境目にある。なので、冬は雪が多く寒さは厳しいのだが、春になると幻想的な風景を人々に見せてくれるのだった。
季節は桜が蕾を膨らませる頃だというのに、山には雪が残っていた。しかし、雪は頂点から溶けだして、ほぼ青緑色の山肌が覗く。そして僅かに残った雪の跡が、遠くからだと、まるで野を駆ける馬の形のように見えるのだ。なので、その山は、人々から親しみを込めて馬にちなんだ名で呼ばれていた。自然が偶然生み出した造形だが、彼女は毎年山に浮かぶ白い馬を見ると心が感動で震えた。
「ねぇ、おばあちゃん。何かお話をして」
横で不意に子どもが言う。肩をがくがくと揺さぶられて、ぐっと意識が現実へと戻るのを感じた。老婆は頭の片隅を覗くような表情をする。
「そうだなぁ。でば、じぃさまとばぁさまが川さ、桃取りにいく話でもするか」
のんびりとした様子で老婆は言った。それは酷い東北なまりだったが、子供達は小さい頃から耳になじんでいるため、特に不自由なく聞き分けられているようだった。女の子はむすりと頬を膨らませる。
「桃太郎も、竹取物語も、何百回も聞いたよ。もうあらすじも覚えちゃった。何か、新しいお話をして」
そんなに、百回も話しただろうか。ぼんやりとした頭で考える。が、記憶は遠くぼやけてしまっていて、老婆はすぐに思考を放棄した。
「んじゃ、民謡でもしゃべるかな」
よいしょ、と囲炉裏に炭を放りながら彼女は言う。それに子供たちは顔を輝かせた。ワクワクとした様子で部屋の中心にいる老婆を眺める。相変わらず風はごうごうと吹いていて、おまけに室内は薄暗かった。老婆は暫く炭の端の赤い部分を見つめていたが、やがて小さく口を開いた。
「むかしむかし、あるところサ、若い娘がおったんだど。その娘は大層美しくて、親は大切に育てていた。娘は毎日朝に余った米の屑__くず米とが、もみ殻だとかを、河の蟹たちさあげてたんだな。」
先ほどまでのぼんやりとした様子が嘘のように、老婆は流量に話し始めた。彼女の発する空気に子供たちは魅了されて全身を耳にしている。彼女は米農家の娘で、そして語り部でもあった。彼女の語りを聞いていると不思議と脳裏に情景が浮かんだ。老婆はしわの刻まれた手を揉みながら言葉を続ける。
「やがてな、彼女の元に毎晩のように男が顔を出すようになった。それがまたいい男でな。気品あふれる青年だったんだ。娘はすぐにその男に心を奪われた。んでも親は何か思う所があって、娘に針を渡してこう言った。
『次にその男が来たときに、この針を服に刺してみろ』
娘は不思議に思ったが、親の言いつけ通りに男の着物に針を刺したんだ。その針にはな、糸がついてたんだな。次の日、娘はその糸を辿って山道を歩いていた」
子供たちはごくりと喉を鳴らした。その時風が強く吹いて窓がガタガタと揺れた。子供たちは肩をびくりと震わせる。
「糸をたどっていぐと、山奥にたどり着いた。糸は洞窟に続いてな。奥から、うぅんうぅんと唸り声が響いていた。奥を覗くと大蛇がおって、娘は腰を抜かした。……蛇には針が毒だったんなぁ。娘は我に返ると、こう言った。
『おれどこ、よぐも騙したな! その苦しみは罰だ! 早く、くたばってしまえ!』
蛇は憎々し気に、こう言った。
『俺一人で、死ぬのは嫌だ。お前も連れていく』
女はすぐに逃げ出した。蛇は正体を現して、どくろを巻きながら追いかけてきた。女は命からがら逃げたが、蛇はどんどんと距離を詰めてくる。
川のちかくまで来て、追いつかれそうになった時、水面から沢山の蟹が現れた。蟹たちは、一斉にぱちぱち、ぱちぱちと蛇を鋏み切った。
蟹は蛇を殺したから、娘は助かった」
おしまい、と老婆が言うと、ふぅ、と溜息のような音が子供たちの口から漏れた。皆知らず知らずのうちに息を潜めていたのだ。皆それぞれ想いをめぐらせているように、空を見つめたり、囲炉裏を見つめたりしていた。老婆の近くに居た女の子が、控えめに口を開く。
「蛇は、悪者だったの?」
悲しい瞳で子供は言う。それに、老婆は難しい顔をしながら、うぅん、と唸った。
「どうだろうなぁ。おらにもわかんねぇけど、蛇は物語の中では悪役になることが多いなぁ」
そう、と小さく呟いて女の子は俯く。老婆はしわしわの手で、小さな頭をそっと撫でた。
「でもな、この土地で生まれたら、蛇は大切にしなきゃなんねぇんだ。屋敷蛇って言葉は知ってるか?」
子供たちは小さく首を振る。それに老婆は小さく驚いた。古から伝わる伝承は、こうして消えていくのだろう。老婆はそれを悲しく思ったが、何処か受け入れても居た。
「屋敷蛇っていうのはな、家を守っている蛇なんだ。それは生涯をかけて家を守り、其処に住む人を守る。そうして彼は死ぬとき動物から神になるんだ。だから外で蛇を見つけても絶対にいじめてはなんねぇ」
怖い顔を作りながら老婆は言う。子供たちはそれに、はぁい、と元気よく返事をした。伸びやかで素直な子供たちの声に、老婆は瞳を細めて頷く。
気が付くと風の音が止んでいて、外はからりと晴れていた。子供たちはそれを見ると、やっと遊べると腰を上げる。きゃあきゃあと声を上げながら庭先に消えていく小さな背中を、老婆は眩しそうに見つめた。
縁側に行き、外を眺める。庭とその向こうに水を張った田んぼが見えた。水面が澄み切るような空を反射している。優しい風が頬を撫でていくのを感じた。
ふと視線を感じて下を向くと、縁側の下に大きな蛇が居た。それは二メートルほどの青大将だった。緑色の鱗がきらきらと宝石のように煌めいている。ヘビは黒い瞳でじっと老婆を見つめていた。老婆は、蛇が先ほどの話を聞いていたような錯覚を覚えた。思わず両手を合わせ、心の中で感謝の言葉を口にする。ヘビは真っ黒な瞳で、静かにその様子を眺めていたが、しゅるしゅると音を立てながら、軒下へと消えていった。
老婆は手を合わせながら、風の音に耳を澄ませた。なぜかその音を聞いていると、瞼の裏に先ほど見た青い色が浮かんだ。風は彼女を通り過ぎ、田の水面をさざ波のように揺らす。
__碧色の風は東の地へ渡る。それは海を越えて、やがて空へと消えていった。