劫火_03 - 2/2

瞳をゆっくりとあける。窓の向こうから朝日が差し込んでいた。秋の冷たい空気が、頬やむき出しの腕を撫でていく。
夢の中でもう一度風が吹いたと思ったら、宿にいた。黒い天井が目にとびこんでくる。
隣から聞こえてくる安らかな寝息を聞きながら、夢を反芻してみた。不思議な雰囲気をまとった男だった。髪の毛は銀髪に近い色合いで、瞳は筆で引いたような切れ長だった。そして、指が細くて綺麗なことが、印象に残っている。
驚くべきことはその外見だけでなく、あふれるような霊力だった。
彼はとても強い。
夢の中で喋った男が、占いの男と同一人物だということは、隣に座られた瞬間から悟っていた。同じ匂いがしていたからだ。白檀のような、清潔でたおやかな香り。
むっくりと体を起こし、服を着替えていると唸り声が聞こえた。見ると膝丸が眉間に皺を寄せて布団に手を這わせている。譫言のように、あるじあるじと言っているのが分かって、呆れながら元いた場所に戻る。彷徨う手を捕まえて指先を捕まえれば、眉間の皺がみるみると緩んでいった。
「見つけた」
あまりにハッキリとした物言いだったので、驚いて顔を覗く。彼は安らかな寝息をたてていた。思わず笑ってしまう。
「ずっと傍にいるからな」
もう少し寝ようと隣に横になったとき、ふいに呟かれて、苦笑いを浮かべた。
ずっと、なんて無理な話だ。きっと私のほうが先に死んでしまうだろうから。
その時が来たら、この人はどんな顔を浮かべるのだろう。どんな気持ちになるのだろう。それを想像することは少し辛いことだったので、思考にはすぐに蓋をした。
ごろんと布団に横になったまま、空いているほうの手を持ち上げ、さらさらとした髪の毛に指を滑らす。ずっと触れていたくなる、内側に水分が詰まっているような髪。
ふと恐怖が襲ってきた。
一人でいたほうが何倍も楽だ。大切な人が出来た瞬間から命をはれなくなる。振るう刀の切っ先が鈍り、諦められなくなる。
最近は死が身近に感じる。実際にこの間は三途の川を渡りかけた。
きっと、予想より早く死は迎えに来る。自分の最期は老衰なんかじゃ終わらない。もっと、血に塗れた最期だ。
その直感は外れることがないだろう。静かで、恐ろしい足音が聞こえる。半分諦めに似た気持ちで耳をすました。
絡めていた指先を無理矢理に離して背を向ける。後ろから呻き声と、悲しい呼び声が響いたが、振りかえることはしなかった。

日が沈んだ後、私達は先日訪れた神社にいた。数日前に縁日で賑わっていた場所は、今は静寂に包まれている。
頭上に浮かぶ満月に照らされて境内が塗れたように浮かぶ。神秘的な夜だった。怪しいものを切るにはもってこいの雰囲気だ。
暫く月光浴をしているかのように本殿の前で立ち竦んでいたが、ふと思い立って神社の脇まで歩みを進めた。膝丸が影のように追いかける。立派な太刀が腰の辺りで揺れていた。
建物に身を潜めるようにしゃがみこむと、懐に手を突っ込み白い紙を取り出した。そのまま左手で印を作り、紙に向かって軽く息を吹きかける。
膝丸は一連の流れを口も挟まずに見守っていた。紙は静かに地面に着地する。次の瞬間には人の子の姿になった。六歳くらいの女の子だ。髪はおかっぱで、どことなく古風な雰囲気がにじみ出ていた。着物の裾を硬く握りしめ、きつい目つきで私を睨みつけている。
「この子は……?」
「小さい頃のわたし」
膝丸から隠すように子供の手を引く。「おいで」と、つとめて優しく言っても、子供は一歩たりとも動かなかった。
胡散臭そうにこちらを眺めている。
「小さい頃の君か」
と、膝丸は片膝をついてまじまじと子供を眺めた。まだ害が少ないと判断したのか、子供は身を翻して私の影に隠れた。
「賢明な判断だ」
膝丸は、くすんだ小豆色の裾を握りながら睨みつけている子供と目を合わせながら呟いた。子供はおおげさに体を震わせて、おずおずと二人を見つめる。
「ほら。貴方はおとりだから。あっちに行って、妖怪が出るまで一人で遊んでいてね」
ほとんど目を合わせずに冷たく声をかけ、促すように小さな背を強めの力で押した。押し出されるようにして境内に足を踏み入れた子供は、恨めしそうに振り返る。意地でも目を合わせないで無視をしていると、諦めたように中心に向かって歩いていった。
彼女は地面にしゃがみ込み、おもむろに丸い石を掴むと、こっちに向かって思いっきりぶん投げた。数秒遅れて、がしゃんと耳障りな音がする。握力がないからか、ここまでは届かなかった。
「あっぶないなぁ」
苦々し気に言うと、子供はあかんべぇをした。憎たらしい表情を浮かべていたが、それにも飽きたのか、そこら辺の石を掴んで積み木のようなことをし始めた。
かなりの量の困惑を瞳に滲ませた膝丸の横顔を眺める。彼が驚くのも無理はない。小さい頃の自分は人生のどん底にいた。世界は小さな箱に閉ざされていて、酷く息苦しかった。
「全然可愛くないでしょ」
積み木遊びに早々に飽きたのか、庭の真ん中で突っ立っている子供を眺めながら呟く。膝丸は狼狽えた。何を言っても傷付けてしまうと思っているのだろう。
「いらない子だったんだよ」
ほとんどささやきに近い音だったが、男の耳にはちゃんと届いたようで、瞳を鋭くさせて口を開く。
「なぜ」
こたえは保留にして、膝丸の腕を掴み暗がりに引きずり込んだ。
「しっ。静かに。現れたよ」
境内の真ん中に目を向けると、先程まで居なかった人物がいた。
若い女性だ。黒い髪を後ろでまとめている。口は弧を描き、瞳は感情の無いビー玉のようだった。
昼に見た女と同じだった。先日と同じ着物を身に纏っている。
彼女はそっと腰を屈めて風車を渡し、子供の手を引いた。
何かを呟いている。
隣にいた膝丸が刀に手をかけた。目で合図したあと、庭へと同時に足を踏み出す。
いきなり神社の影から飛び出してきた私たちに女は驚愕の表情を浮かべた。簪に手をかける。が、膝丸の方が何倍も速かった。一瞬の内に女の前へと躍り出る。
スローモーションのようだった。大きく振りかぶった刀の切っ先がまっすぐに胴に向かう。彼女は悔しそうに口元をゆがめたあと、庇うように子供を腕に抱き寄せた。
時が止まったかのように思えた。刀の切っ先は女の首を捉えている。勝つと直感的に悟った。
だけど同時に胸騒ぎが襲う。なにか大切なことを忘れている気がした。
「すまない」
膝丸が呟いたとき、風が唸り声をあげた。
突風が吹く。奥の林から白っぽい何かが飛び出してきて、膝丸の持っていた太刀を吹き飛ばした。刀が空中をくるくると舞う。放物線を描くように飛び、軽い音を立てて地面に突き刺さった。
煙が立ち込めている。視界が悪く庭が見渡せない。
咳き込みながら目を凝らすと、前方に二つの影が見えた。
見知らぬ男が腰を地面に付けた膝丸の喉元に刀を向けていた。大きさからして脇差だった。一ミリでも動かしたら喉を裂いてしまうだろう。そんな殺気をはらんでいた。
「見過ごせと忠告したのになぁ」
男は感情の無い声で言うと、刀を振りかぶった。膝丸は身を捻ってかわし、地面にささっている本体を引き抜く。
鉄がぶつかり合う音がしている。二人の動きが速すぎて目に見えない。それなのに、いきなり現れた男のいびつに上がった口元は、月の光に照らされてやけに目に飛び込んできた。
記憶がなだれ込んでくる。どこかで見覚えがある、と思い、すぐに夢に見た男だと悟る。
何となく置き去りにされた気持ちで繰り広げられている光景に目を見張ると、視界の隅で動くものがあった。女だ。女が子供の小さな肩をさすっている。
「大丈夫? 怪我はない?」
子供は戸惑いながら頷く。すると女は心から安心したように息を吐いた。なお確かめるように髪やら、肩やらに触れている。
抜いた刀の先を地面に向けながら一歩ずつ足を進めた。気をつけていても砂利が敷かれているので音が鳴る。女はこちらに気が付くと諦めたような表情を浮かべてほほ笑んだ。無抵抗なしぐさに困惑してしまう。
とうとう人一人分の距離まで来たところで足を止めた。子供の姿をした式神はすっかりなついたようで、女の白い手を握り込んでいる。
「どうして」
それしか言えなかった。疑問だけが残る。てっきり子供を食べているのだと思っていた。妖たちはみんな、子供は純粋で穢れが少ないから美味しいと言う。
それなのに彼女は子供を食べるそぶりを見せないし、何なら刀から守ろうとさえしていた。
「どうしてだろうね。どうして、こんなに囚われてしまうのだろう」
声が震えている。そっと膝をつくと、美しい横顔が見えた。
「私は昔、人間だったんだ。家が貧しかったし、次女だったからすぐに遊郭に売られた。でも、そこで、脚に恋をして、子供を身ごもった」
閃光が走る。
緑色と銀色がぶつかり合い血しぶきが舞う。鉄のぶつかり合う音の合間に、高笑いと怒号が響いている。
こちらとあちらでは違う世界のようだった。女は地面を見つめて目に涙を浮かべている。華奢な肩が震えていた。
「良かったら話して。嫌だったら心の中に仕舞ったままで構わない」
「聞きたい! ねぇ、話して」
「ちょっと、気をつかってよ」
馴れ馴れしく袖を引きながら駄々をこねる子供を睨みつけると、女は困ったように笑った。白い手が小さな頭を撫でている。
「私は愛していたけれど、相手にとっては遊びだった。だから、身ごもった子供も一人で育てようと思った。……罰が当たったのかもしれない。生まれたけれど、産声を上げなかった。――耐えられないのは、彼奴が最後にいった言葉だ。『良かった。女子だったから、死んでも問題無い』って、たしかに、言った」
頭を殴られたような気持ちになった。過去がフラッシュバックする。スーツを着た背中。車のハンドルを握る父の手。
黒い風が吹く。女の肩が震えていた。口の端から牙のようなものが覗く。
額の一部が盛り上がっていた。
「憎い……あの男が……憎くてたまらない。体の奥が燃えるようだ」
柄を握る拳に力を込める。やるなら今だ。彼女は首を差し出すように地面を見つめ、呪詛の言葉を呟いている。
さっきとまるで雰囲気がかわっていた。女のまわりに黒い粒が舞っている。体の内側から憎しみの炎が外側に出ているみたいだった。
立ちあがり両手で刀を握る。振り上げたとき、下から嗄れた声が聞こえた。
「殺して」
刀を握る手に力を込め、渾身の力を込めて振り下ろす。
しなる鞭のような音が鳴って、持っていた刀が見えない手に弾かれる。刀があらぬ方向へ飛んでいった。手に弾くような激痛が走る。右腕が獣の爪に裂かれたようにズタズタになっていた。
激痛に息が止まった。血が流れないように押さえながら膝をつく。
やられた。内側から燃えているみたいだった。心臓の打つリズムと同じタイミングで痛みが走る。
白い髪の男がここまで歩いて来ようとしている。黒い爪がぬらぬらとしていた。先が湾曲し、血が滴っている。
「宣言通りに殺すぞ」
散歩をするような気軽さで告げ、手をぶんと振った。付着した血が飛ぶ。目は赤く、糸のように細くなっていた。笑っているのだ。彼は右手を振り上げる。長く尖った爪が月の光をうけて輝いていた。
無様に見ていることしかできなかった。刀を取りに行くことさえ思いつかない。
石のように固まっていると、脇から黒い塊が突っ込んでくる。後ろから羽交い締めにして動きを封じた。男は忌々しそうに舌打ちをして右手を振る。
軽い爆発音が響いて、何かが空を飛ぶ。数メートル先に落ちてきた物が何か分かった途端、情けない悲鳴が口から飛び出た。
人の腕だ。肩の下から切り離された見慣れた腕。手の平を上にして転がっている。曲がった関節まで見覚えのあるものだった。
腕を吹き飛ばされた膝丸は足元から崩れ落ちた。意識を飛ばしそうになりながら、男の裾にすがり付いている。どうにかして動きを止めようとしていた。
「しつこいな。もう片方も吹き飛ばしてやろうか」
忌々し気に唸りながら、男は空いている足で何度も脇腹を蹴った。重い打撃を受けて口から血が吹き出る。膝丸はぼろ雑巾のようになりながらも決して手を離さなかった。
彼はまだ連度が少なかった。まともに手入れもできていない。本当だったら、こんな風に地面に膝を付ける男ではないのだ。全て自分のせいだった。
「あのね、聞いてほしいことがあるの」
戦場に似合わない丸く幼い声が耳に届いて、その場にいる全員が、ぴたりと動きを止めた。
視線が一か所に集まる。
子供が女の裾をぐいぐいと引っ張っていた。
「その子の気持ち、よく分かるよ」
「やめて。黙りなさい」
子供は私の声なんて聞こえないみたいに、とつとつと女に語りかける。
「あなたはとても後悔してるけれど、子供は全然恨んでいないよ。綺麗な場所で、あなたのことを見ている。きちんと成仏しているから、何も心配いらないよ」
子供は周りの空気を読まずに言葉を続ける。
「わたしね、お父さんに言われたことが、今でも忘れられないの。『男だったらよかったのに』って。すごくかなしかった。愛されたかったなぁ。あなたのような親の元に、生まれたかった」
女は驚いて子供を見つめている。
何を言っているのだろう。こんなときに。恥ずかしくて俯くことしか出来なかった。
「貴女は要らない子なんかじゃない。大丈夫」
いじけているようにきつい目つきをしていた子供が、初めて笑顔を浮かべた。にっこりと花みたいに笑う。
「一緒に帰ろう? 道に迷わないように、わたしが案内してあげるね」
女は赤く染まった瞳を細くし、白い手を差し出す。爪が黒く伸びでいた。それでも傷付けないように、僅かに力を抜き、指を曲げている。
「待って」
背中を向けて立ち去ろうとする。子供はひとりで楽しそうに歌を口ずさんでいた。
慌てて声をかけ、急いで左手を十字に切った。女は苦しそうな表情を浮かべる。皮膚がばらばらと細かく剥がれていき、最後に額の角がぽろりと取れた。
人の姿に戻った女は驚きで瞳を大きくした。不思議そうに頭のてっぺんに触れている。
「信じられない。体が軽い」
女は涙ぐみながら一礼をすると子供の手を繋いで背を向けた。
空気が揺らいで、瞬きをすると誰も居なくなっていた。
それを見届けた途端、その場に崩れるように膝をついた。頭が痛い。息が苦しい。一気に浄化させて人の姿に戻したから反動がものすごかった。
じゃり、と玉砂利の踏む音が響いて視界に足がうつる。淡い色の着物には返り血がひとつない。
「さて。俺も消えるかな」
あくびを噛み殺しながら男が言った。銀色の髪の毛が夜風に靡く。彼は気持ちよさそうに瞳を細くしている。
「消さないでくれてありがとう。あの女は俺の気に入りだったんだ」
彼は言うだけいうとくるりと背中を向ける。数歩歩いたが、ふと思い出したように立ち止まった。
「そうそう。あまりのんびりしている暇はないんじゃないか。……少し姑息な手を使ったから、このままだと彼奴は死ぬかもしれない。ごめんな」
突風が吹く。
頭を庇いやり過ごす――腕を外すと、誰も居なくなっていた。地面に赤い血のあとだけが残っている。
「膝丸?」
答える声はない。男の姿は無かった。
静寂が辺りを満たしている。
頭が痛い。胸の奥から恐怖が沸きあがる。震える足を叩いて立ち上がり、もう一度名前を呼んだ。
だれもいない境内で途方に暮れていると、砂利に血のあとが浮かんでいるのが見えた。道しるべのように神社の本殿へと続いている。
てんてんと落ちている赤い血を追い影際に沿って歩くと、角に見慣れたつま先が見えた。ホッとして歩みを進める。
回り込んで言葉をかけようとしたが、声にならなかった。膝丸は全身が血で染まっていた。
背中を壁に預けて、がくんと首が落ちて俯いている。全身から力が抜け人形のようだった。
体の至るところに刀傷がある。横に刀と置物のように腕があった。
「膝丸……死んじゃったの?」
近くにぺたりと座り込んで呟くと、男はゆっくりと瞳をあけた。口がかすかに開く。息が掠れてよく聞こえなかった。口元に顔を寄せる。
「君。怪我は、ないか……」
目に水が溢れて前が見えなくなった。何を言っているのだろう。死にかけているのは自分なのに、私の心配をしている。心臓が潰れそうなほどの切なさを覚えた。
残っている方の手を取って気を注ぐ。しかし血は止まらなかった。細かい鉄が砕ける音がする。それは世にも恐ろしい音だった。
とんでもないほどの恐怖が襲ってくる。どうしよう。本当に死んでしまう。ほとんど叫び出したい気持ちで刀を見つめると、頭に声が響いた。
――効率よく霊力を補給する方法がある、と昔に聞いたことがある
――へぇ。初めて聞いた。どんな方法なの?
――なんでも、体液を注ぐらしい。例えば――。
弾かれたように刀を手にした。半分だけ刃を抜いて自分の左手に押し付ける。体を突き抜けるような痛みが走った。流れる血はそのままにして、男にまたがる。
俯いている男の後ろ髪を掴んで強制的に上を向かせる。瞳が力なく閉じられている。青白い肌はまるで生気が感じられなくて、背筋に冷たいものが走った。
薄く開かれた口の上に左手を持っていき、拳を強く握りこむ。
赤い筋が生まれる。それは白い肌を伝い、糸を引くように口の中へ落ちていった。
瞳を閉じて集中する。
目を開けるのが怖い。触れているところがどこもかしこも冷たかった。
ひたすらに心を込めて血を流していると、頭を撫でられる感覚がした。弾かれたように前を向く。膝丸が軽く咳き込みながら琥珀色の瞳でこちらを見つめていた。
「あ、膝丸……?」
目の下にそっと男の指が触れて、瞳から零れる雫を救い取った。
「ひどい顔だ」
視界がゆらぐ。涙が後から後から溢れて止まらない。下唇を噛み締めながら俯いていると、左手に不思議な感触が走った。
顔を上げて心の底から驚いてしまった。男が手のひらに口を近づけて――長い舌で舐めていたのだ。
驚きすぎて声が出せない。思いっきり手を引こうとしたが、力が全然入らなかった。彼はしっかりとこちらを向いて、見せつけるように皮膚に舌を這わせる。困惑に瞳を揺らしていると、彼はやっと口を開いた。
「もったい、ないから」
まだ呂律が回っていないのか、酷く聞き取りにくい。手のひらになまめかしい感触が走る。男は角度を変えて、犬のように血を舐めていた。
「汚いよ」
「そんなことない」
恥ずかしい。穴があったら入りたかった。下を向いて身を固くしていると、布の破ける音がした。
男が自分の服の袖を噛みきっていた。布切れの破片を手の平に当てて一周させる。血はほとんど止まっていた。
「他にもっと、やり方があっただろうに」
ぎゅうと布をまきつけ、余った端を結びながら、彼はひとりごとのように呟いた。
「え?」
ぼんやりとしたまま呟く。頭がふわふわとしていた。一度に色々なことがありすぎて処理が出来ていない。体は隅々まで疲れていた。今すぐに眠りたい。
彼は途方にも無い時間をかけて顔を上げる。金色の瞳が顔を覗きこむ。
単なる家臣の瞳では無かった。内側で炎が燃えている。
膝丸は両手で私の顔を包むようにして身を寄せた。唇に熱が触れる。あ、と思った時にはもう遅かった。押しのける手に力が入らない。小鳥のように啄んでいる。やめて、と拒否するために口を開いた瞬間に舌が入ってきた。
何をしているのだろう。
頭の中は混乱の二文字だった。
うう、と意味の無い呻き声が漏れる。膝丸は空いた手で腰を引き寄せ、だらしなくはだけた裾から剥き出しになった太ももに手を滑らせる。かと思えば痛いくらいに髪の毛を握った。後頭部を押さえる手のひらは大きく、離れることを許してはくれなかった。
口内を荒らしていくそれを受け入れるだけで精いっぱいだった。許される合間に息を吸う。次の瞬間にはまた熱が来る。翻弄されてしまうばかりで何も出来ない。
縋るように握っていた手に力を込めて、渾身の力で押しのけた。荒い息を吐きながら新鮮な空気を取り入れる。口元に手をやりながら睨んでいると、男は傷ついた表情を浮かべる。離れようと浮かせた腰を掴まれて引き寄せられてしまう。
秘所同士が触れ合うような体制に、顔に熱が集まった。
「まだ全然足りない」
ひとつ瞬きをした瞬間にまた顔が近づいてくる。薄く瞳を開けると、美しいまつ毛が見えた。
男はたまらないというように腰を浮かせる。その度に硬い物が擦られてお腹の奥がうずいた。もどかしいような変な感覚が襲って来る。それに逆らうように、体に力を込めて耐えた。
どのくらい経ったのだろう。意識が混濁する。夢の中に居るみたいだ。
どうして、なぜ。疑問がぐるぐるとまわっている。でも一番理解が出来ないのは――大人しく受けて入れている自分自身だ。
散々食い散らかしたあと、男は名残惜し気に顔を離して、最後に首筋に強く吸い付いた。一瞬だけ刺すような痛みが走る。体を支える力は無かった。脱力し、体が前に倒れていく。
「ごめんなさい」
と、呟くと同時に頭を優しくなでられる。膝丸が髪の毛に顔を擦り付けているのを感じる。求愛を表現する動物のような仕草だ。心は戸惑いで嵐のようになっていたが、それを言葉にすることは出来なかった。

閉じた瞼の裏に光を感じた。体の表面を冷たい風が撫でていく。鼻に血の匂いが抜けて、一気に意識が覚醒した。
薄い服越しに心臓の音がしている。とくとくと優しいリズムを聞いていると心が安らいだ。ぺたりと押し付けたままの胸板から絶えず伝わってくる。
すうすうと近いところから寝息が聞こえた。膝丸は頭をぺたりと頬につけるようにして眠っていた。片方の腕を私の腰に回している。あのままどちらも眠ってしまったのか、とぼんり思った。
だらりと垂れた右手。指先が硬い石に触れている。
男のちぎれた腕は元通りになっていた。
自分の右手を確認するように眼前にさらす。白い肌。薄い生地の着物は所々切り裂かれているが、肌には傷ひとつ無かった。
あれ、と思う。確かに昨日の夜、腕はズタズタになった。裂け目から覗いていた肉の赤色も覚えているし、激痛も確かに感じた。それなのに実際には傷ひとつない。
もしかして、と思う。幻影だったのだ。膝丸に対する攻撃は全て本物のようだったけれど、私に対するものは幻だった。
騙された。気が付いたと同時に恐怖が襲ってくる。あの男は危ないと本能が訴えていた。ここまで上手く術を扱えるとは。心の奥で場違いな嫉妬さえ沸き起こった。
そうしているうちに膝丸が身動ぎしながら唸り声を漏らした。ゆっくりと瞳を開け、瞬きをする。段々と意識がはっきりとしてきたようで、まわした腕に力がこもった。
「体、大丈夫?」
胸に手をついて体を離しながら聞くと、彼は静かに頷いた。
「問題無い。君のおかげで命が繋がった。ありがとう」
強く抱き締めながら囁く。鼻筋がはだけた首に触れて息があたり、くすぐったくて身を捩った。
夜が明けた神社は朝の光に満ちていた。ガチガチに固まった体を無視して立ちあがる。続いて腰を上げた男の腕を持ち、手伝うみたいに引っ張った。
太陽の光が柔らかく降り注ぐ境内に足を向ける。敷き詰められた玉砂利が足元で鳴った。清い音がする。だが、元は白色に近い石は血を吸って、所々が赤黒く変色していた。おまけに抉れて土がむきだしになっている。神主さんの心労を考えると心苦しいものがあったが、小さく頭を振り思考を戻した。
元気だったら整えることもできたかもしれない。でも、今はとてもじゃないけれど無理だった。体が軋んで仕方がない。痛みや苦痛が蛇みたいにまとわりついている。
神社は高い場所にあるので、街並みが見渡せた。階段を降りる前に景色を眺めた。先日行った竹林の集まっている場所が見える。
隣に膝丸が静かに立って同じように前を見ていた。袖から切り落とされた右腕は再生している。が、服の袖が綺麗に無くなっていた。
彼は人ではない。唐突に心の底から実感して悲しみが沸き起こる。どうしてこんなに悲しいのか自分でもよく分からなかった。彼が人間だったら、とっくの昔に命を散らしていただろうに。
膝丸は私の視線を受け止めると、怯えた表情を浮かべた。
「俺が恐ろしいか」
頭がもげるのでは、というほどに下を向きながら彼は言う。同意するように頷くと、琥珀色の瞳が絶望に満たされる。
「昨日は本当に怖かった。……貴方を失うと思ったから」
え、という呆けた声が聞こえる。なんだか途端に恥ずかしくなって、背中を向けて階段をかけおりた。
「待ってくれ! それはどういう意味なんだ」
階段の真ん中で振り返れば、数秒遅れて影のようについてくる男が見える。
足取りは軽く、口元には笑みが浮かんでいる。そして、もう下を向いてはいなかった。