隙間風が吹いて体を震わせた膝丸が瞼を持ち上げると、またもや高い天井が覗いていた。
「あるじ?」
掠れた声で呼ぶが、室内に応えるものはいない。
そうだ。こっちが現実だ。
ふと横に暖かさを感じて視線を向けると、畳の上に丸くなっている獏がいた。呼吸の音に合わせて背中が上下している。膨らんで、また戻る。それらをぼんやりと眺めていると、やっと思考は正常に戻ってきた。久しぶりに姿を見た。長い長い、夢だった。両膝を抱えて襲い来る孤独に耐える。もういないのだ。触れることも、声を聞くことも出来ない。
ずっと夢の中に居たかった。扉の向こうから梟の声が聞こえて、ゆっくりと顔をあげる。その時になって初めて、世界が暗闇に包まれていることを知った。
「今、何時だ?」
何度か声をかけてからやっと獏は目を覚ました。小さな口をいっぱいまで開けて、大きく欠伸をしている。ふかふかの体を掴み上げると、獏は蛙が潰れたような声を出した。
「おい! なぜ起こさなかった!」
沸騰しそうな怒りと焦りが浮かんだ。完全に八つ当たりに近かったが、夢を見せたのは此奴だった。獏は苦しそうに身動きする。手が喉の軌道を塞いでいた。少しだけ力を緩めると、体をねじって床に着地する。暫くごほごほと咳き込んでいた。
「お前、眠れてなかっただろ」
「それがどうした」
苦々しい気持ちで獏を睨みつける。獏は怯えたように体を限界まで小さくすると、「いい夢だったろ」と呟いた。
「主の夢を見せたのか」
こく、と頷く。
「どうやって。幻想か」
「いや。何もないところから夢は見せられない。あれはあの女と、お前の記憶の両方だ。ごめんよ。今しかないと思ったんだ」
すっかり委縮した獏は手足を丸めてボールのようになっている。いままで見たものが全くの嘘では無かったと知り、心に淡く滲むものがあった。
「ありがとう。とても幸福な夢だった」
獏はぱっと顔をあげると、ずずっと鼻をすすった。
「行くのか?」
「あぁ」
名残惜しそうにしながら座っている獏を見下ろす。広い空間に一人だけいるさまは、見るからに寂しそうだった。
「命日に時間を作れたら、ここへ寄る」
囁きに似た言葉を、彼は聞き逃さなかった。瞳が希望で輝いている。
「そうか! 楽しみに待ってる。元気でな、膝丸」
「あぁ。君もな」
見事な月が浮かんでいる。
指定された時刻は、とっくの昔に過ぎてしまっていた。膝丸は山道を駆けながら最悪を想像した。――もし、行った先に、死骸があったら。
政府の気持ちは痛い程よく分かった。不確かな存在を抱えておくのは不安だろう。呪いだって消えているけれど、いつまた蘇るのか分からないと、見知らぬ人間が話しているのを耳にした。だから、恐らく相打ちになればいいとでも思われているのかもしれない。傍からすると酷い話だった。
だが、膝丸にとって政府の思惑など些末なことだった。助っ人の形で、でもしっかりとかたき討ちのチャンスを貰えた。それだけで十分だった。
もし、仲間が殺されて、敵が何事もなく戻ってしまったのだとしたら――それこそ死んでも死にきれない。この戦いに膝丸は命をかけるつもりだった。冬に沈むこの土地が、己の命を散らす場所だと思った。ほんの数時間仮眠をとる予定だったのに。獏の気遣いは嬉しかったが、タイミングが悪すぎた。
風のように駆けていれば橋が視界に飛び込んできて息を飲む。懐かしい香りがした。切り取られたような谷を恐る恐る覗き込む――が、すぐに違和感に気が付いた。空気が清々しかったのだ。
視線を走らせる。決闘の跡があるかと思いきや、地面は綺麗で、血や死体も無かった。
疑問に思ったが気を引き締めた。念のため周りを見てまわろう。そう思い、遊歩道へと向かう。道は舗装されて歩きやすい。懐かしさがこみあげる。あの時、何度となく通った道だった。あの頃は道なんてものではなくて、ほとんど崖のようだったから、今、ここを通る人間は幸せだと思った。
道を歩きながら、でも安心はできなくて、僅かな物音にも敏感に反応した。次の曲がり角に入ったら手首が見えるのではないか。血だまりの中、刀を持った同胞が横たわっているのではないか――と、なんども考えながら道を歩いたが、ついに死体が目の前に現れることは無かった。
「おかしい。平和すぎる」
なにごともなく崖にたどり着き、行き止まりになってしまった。ぎりぎりに立って川下を覗く。ふと脇に視界に赤いものが映って、目を凝らした。
石だ。いつの間に、こんなところまで来てしまったのだろうと愕然とする。小さく積み上げられたそれは、ずっと昔に作った審神者のお墓だった。今も変わらずあることに、ある種の感動を覚える。ここで確かに主は死んでしまったが、遺体は欠片も残さず政府の人間が回収していった。
膝丸には骨のひとつも残らなかった。そこに居るはずも無いと分かっていながら、丸い滑らかな石を見つめていると、心がどこまでも沈んでいくようだった。
後悔を振り切るように頭を振ると、石の下に燃えカスのようなものがあるのに気付く。誰かが線香をつけてくれたらしい。それは三角の形をしていて、膝丸の知るものでは無かったが、感謝の言葉を口にした。
膝をついて手を合わせていると、山が鳴いた。遠くから風の音が聞こえる。ものすごいスピードで近づいてくる気配に、刀を引き抜き立ち上がった。
風にあおられて木がななめになった。銀色の閃光を捉え振り向いた膝丸は、驚きで瞳を見開く。離れた場所に白狐がいた。
銀色の毛並みが月の光を受けて波のように揺らいでいる。体を横向きにして、顔だけこちらへ向けていた。四肢は太く、丸太のようにしっかりとしている。背中から臀部までの滑らかな曲線に目を奪われていると、視線が一点で止まった。三本だった尾が増えて、五本になっている。格があがったのだ。尾はばらばらな動きでゆったりと上下していた。
「やぁ。これはこれは。久しぶりだなぁ」
にたりと醜悪な笑みを浮かべながら白狐が言った。長い年月を感じさせない言い方だったが、膝丸は答えられなかった。
想いが伝わったのか狐は目を細くさせ、大きく口を開いた。
「あぁ。鬼門は閉じられたよ。つい昼の出来事だ」
「なに?」
「本当さ。信じられないなら、そこから確かめてみればいい」
全身の力が抜けてしまった。改めて谷底を覗く。確かにしっかりと閉じられている。
「人間にしては、大したもんだ」
考えていたことをそっくりそのまま言ってのけたので、膝丸は開きかけた口を慌てて閉じた。
「怪我は……? 大丈夫だったのか?」
「あぁ。俺は遠くから一部始終を眺めていただけだがな。来ていた男も強かったが、のこのこついてきた女も、恐ろしく直感が鋭かった。呪い返を返して鬼を倒したよ」
「奴は同じ手を?」
「そうだな。俺もそうするとは思わなかった。また女が死ぬのかと思ったが、いやぁ、今回も外れた」
はっは、と笑いながら狐は天を見上げる。まるで人の生き死にを楽しんでいるような態度に、膝丸は眉間の皺を深くさせた。
「今日は良い夜だなぁ」
夜明けが近いのか世界が群青色に染まっている。膝丸はよく知っていた。夜明けの前が一番暗いのだ。白狐は何も言わずに山を見つめている。
「土地神になったのか」
返事の変わりに白狐は尾を振った。白い体に赤い前掛けが良く似合っている。
「お前は偉いな。俺は分からない。どうしても、分からないんだ」
くるりと振り返った膝丸は、胸元を握りながら叫んだ。
「今の世を見てみろ。 命を懸け、未来を守る価値が、この国にあるのか?」
白狐は薄く笑いながら、答えずに前だけを見ていた。完全に無視をしている。
そうだ。こいつはこんな奴だった。本気で向かい合っただけ馬鹿を見る。とことん諦めた気持ちで肩をおとしぼうっとしていると、歌うような声が届いた。
「尾が三本になると、不思議なことに空を飛べるようになった。ひとつふえたら天気がよめる。――さて、五本になったら、何が出来るようになったと思う?」
訝し気に見つめていると、彼は片方の耳を一度だけ動かした。
「森の声、風のささやきが届くようになった。つまり、姿無き者の声が聞こえる」
「ま、まさか」
かすれたような声に答えるように、白狐は瞳を細くした。辺りを見渡すが、当然のように誰も居ない。
「主! あるじ、いるか?」
必死で呼んだが、叫びは空しく木霊する。
名を呼ばれた気がして、顔をあげるが何も見えない。
だが、確かにいる。姿は見えないが、直感的に分かった。震える手を伸ばし、何もない空間を包むように抱く。耳を澄ますと、確かに聞こえる。細い風の渡る音だ。必死に耳を傾けるが、なんと伝えようとしているのかまでは分からなかった。
「君、きみ。会いたかった。ずっと」
感覚が薄くなる。声がどんどん遠くなる。
「待ってくれ。まだ、消えないでくれ!」
遠くなる気配に泣きそうになりながら、縋るように白狐を見つめる。彼は目が合うと、盛大なため息をついた。
「言っておくが、だいぶ前に死んだんだ。まともな会話なんて出来ないぞ」
きつく睨んだあと、表情をがらりと変えて、小さく頷く。まるで母親が小さな子供の話を聞いているような、慈愛に満ちた顔つきをしていた。
焦れたように立っている膝丸と目を合わせると、彼は真っ赤な口を開いた。
「”約束” だってさ」
なんのことだか、と笑いながら白狐は遠くを見つめる。
やくそく。その四文字が耳に届いた途端、男は顔面を手で覆った。
覚えていてくれた。体が無くなって、魂だけになっても。
感動と内側から溢れてくる幸福に身を震わせていると、そっと頬を撫でる感覚が走った。
膝丸は風を抱き締める。
「ありがとう、主。待っていてくれ。俺が最後まで役目を果たす、そのときまで」
一番強い風が吹いて通り過ぎた。匂いや気配が遠くなっていく。
「そろそろお前ともお別れだな」
くわっと口を開けて欠伸をすると、白狐はごきごきと首を回しながら立ちあがった。
「待ってくれ」
今まさに空をかけようと足をもちあげた彼は、面倒くさそうに振り向いた。
「白狐。ありがとう」
赤い瞳が大きく見開かれる。感情を抑えるように息を吐くと、恐ろしい顔をした。
「俺は! お前たち二人が、本当に嫌いだった! お前たちはよく感謝を口にする。だから思い出してしまったんだ。冷たいままなら楽でいられた。あのまま人を憎み続けて妖のまま終わるつもりだったのに……こうしてまた、不毛なことをしている!」
吐き捨てると、肩を落とし、諦めたように溜息をついてから顔をあげ、口の端をもちあげる。彼は笑っていた。
突風が吹いて反射的に目を閉じる。次に瞼を開けた時には、白狐は消えていた。
膝丸は振り返り連なる山を見つめた。暫くじっと待っていると、朝日が顔を出す。
夜が切り裂かれ、世界が光の色に塗り替えられていく。膝丸は一部始終を眺めていたが、刀を握りしめ、勢いよく坂を下りていった。
もう、迷いはない。