すくわない(27)

「やーっと出てくる気になったか」

難しい顔をして立ち尽くしている男に和泉守は声をかける。長谷部は苦々しい顔を浮かべた。

「お前が、この女に、くだらないことを言うから……!」

「どうせ聞こえてねぇよ。もう忘れたのか」

はっとした顔をしてから、情けなく眉が下がる。自然と視線を落とした男の前に、いつのまにか審神者が来ていた。長谷部はおそるおそる顔をあげる。女にこれいといって表情はない。いつもそうだ。和泉守は黙って見守っていた。女がおもむろに手を差し出す。

「あ、なんでしょう。手、ですか……?」

「ちゃんと機能してるか確認したいんだろ」

「なぜわかる」

「さあな」

別に理解しているわけではない。ただ、なんとなく“こう思っているんじゃないか“と予想しただけだ。それは正解だったようで、審神者は差し伸ばされた手をとり、白い手袋の上からふみふみと押す。かと思ったら、爪を立てて手のひらに突き立てた。

「痛っ」

「神経もちゃんとあるみたいだな」

ごめんなさい、と頭を下げながら女は手のひらを二度さするとぱっと手を離した。足元に寄ってきたこんのすけを見つめる。彼は尻尾をゆらすと、喋れない審神者のかわりに説明をした。

「長谷部様、あなたは誘拐されていました。発見が遅れてしまい申し訳ありません。体に不自由はございませんか」

「平気だ」

「それは良かった。只今政府のほうで調査していますので、長谷部様は自室でお休みくださいませ」

男は困惑して目を揺らす。審神者はというと座布団に戻り膝を抱えていた。何か考え事をしているようである。彼女は物事を切り替えるのが早い。和泉守も自分の作業に戻った。いまだ帰ろうとしない長谷部を不審に思って退室を促すと、彼は苦しそうな顔をした。

「……礼を言えてない」

「気にすんな。聴力が戻ったときに伝えてやるよ」

「だが」

長谷部は気まずそうに腕をさすった。律儀な男だ。ため息をついて机に向きなおると、机に目を向けた男が声をかけてくる。

「それはこの本丸の資材表か」

「あぁ」

おざなりに返すと長谷部が自然な動きで腰を下ろす。紙を覗き込み、白紙の状態のそれを一瞥する。

「なんだ。なにもうめられてないじゃないか」

「こういうの苦手なんだよ」

「お前、もしかして……。近侍やったことないのか」

メキ、と握ったペンが不吉な音を立てた。物にあたるのは良くないと力を抜く。無視していると焦れたのか、長谷部は二行目を指差して、「ここ間違ってるぞ」と指摘した。

「もう用はすんだろ。さっさと戻れよ」

脇を押されて振り向くと審神者が近くにいた。少しだけ眉間に皺を寄せている。喧嘩していると思っているのだろうか。視線は自然と紙にいき、昨日と全く変化のないことに眉を寄せる。白い腕がぬっとでてきて、六の数字を消し、上から数字がたされた。長谷部が「正解です」と呟いた。審神者には聞こえていないはずだが、目が合うと少しだけ微笑んだので、長谷部は驚いたようだった。

「仕方ない。本丸でそれぞれ違うし、この女に手順も聞こうにも、筆記でやりとりするには限界がある」

「さっきから皮肉か?」

「いや。俺はずっと近侍だった」

勝ち誇ったように言われて腹の奥がもやもやする。話を黙っていて聞いていたこんのすけが、

「和泉守様、ここは手を借りてみては」

などと言うので、首を縦に振るしかなかった。

 

 

長谷部が手伝ってくれるようになってから、目にみえて書類が完成するスピードがあがった。一人でああでもない、こうでもないと悩んでいたのが馬鹿みたいだ。最初こそ警戒していたが長谷部は恐ろしく気の利く男で、上手くこちらを立てながら絶妙なタイミングで助言をくれる。それは審神者に対しても同様で、女は最初こそ断っていたが少しずつ仕事を分けるようになった。

長谷部がいれてくれた珈琲を、躊躇なく口に運ぼうとした審神者の手を遮る。流れるように奪い取って一口飲む。それは毒味以外のなにものでもなかったのだが、かえしたら女は絶句していた。その変な顔に軽くショックを受けていたら、横からこらえきれないとばかりに笑い声がする。

「貴様の判断は正しい。だが、こうも伝わらないのかと思うと」

審神者は眉を顰めたままコップを両手で包んでいる。新しいのを用意しようかと腰をあげたとき、諦めたのか女が口をつける。白い喉がわずかに動く。無意識に見つめていたら女に腕をつねられる。思いのほか力が強くて身を捩った。

「痛っ。なんだよ」

ひかえめに笑いながら長谷部は、「お前たちは見ていて飽きない」と呟いた。

 

 

最近執務室に人が増えたな、と思いながら審神者は廊下を歩いていた。それは紫色の瞳が特徴的な刀だった。最初は人の姿に戻ってくれて嬉しいと純粋に思った。いつのまにか和泉守と仲良くなって(たまに喧嘩しているようにも見えるが)近侍の仕事を教えてくれているようだった。今は正直ありがたい。筆談しかやりとりができないから説明をするという行為がひどく億劫で、放っておいたので、渡した仕事もどうせ未完成になるだろうと思っていた。近侍だって初めて頼んだのだし、できるはずがない、と。しかし、長谷部が顔を出すようになってから状況が変わって、和泉守は真剣な顔で用紙と向き合っている。感心する一方で、長谷部からときおり向けられる、訴えるような視線に気づくとなんとも居心地が悪くなる。それはなにも彼だけではなく他の男士にも言えたことだ。そんなときは、そっと腰を浮かして外に出た。

今日は気温が低くて、ひんやりとした空気を吸い込むと胸がすっとする。誰とも会わないだろうと思ったのに、突き当たりの廊下の角からぬっと足が飛び出てきたので立ち止まる。赤と黒の色彩が目に入ると体が硬直して心臓が強く胸を打った。動揺を隠したくてなんとなく俯き加減で会釈しながら室内のほうに寄り、相手が通り過ぎるのを待つ。いつのまにか奧のほうまで来ていたみたいで、廊下が狭くなっていた。早く行ってくれと願っているのに視界にうつる足はなかなかなくならない。そればかりか意に反して近づいてきて、目の前で止まった。

諦めに近い気持ちで顔をあげると加州清光がいた。口を開きかけたので耳をさしてジェスチャーすると、あ、という顔をして口元を抑えた。途端に申し訳なさそうに眉をさげる。大丈夫と首を振ると、早くここから逃げたくて足に力をこめる。視界の横に影がよぎり動こうとした体がとまった。男が腕を掴んでいる。目が合った彼は驚いた顔をしていて、自分の行動に混乱しているみたいだった。塗装のはげた爪が目にはいる。目線を追いかけた彼が同じ場所にたどりつくと表情が凍る。手を後ろ手に隠し、羞恥のせいか下を向いた。

一連の流れを見つめながら頭の奥では別のことを考えていた。自分の本丸のこと、具体的にはずっと近侍をしてくれている刀のことだ。彼は目の前の男と全く同じ姿をしているのに、中身はまるで違う。それは紛れもなく個体差というものだ。それはさておき、自分と同じ姿の存在が十や二十、いや何人もいるというのはどんな気分なのだろうと考えながら、しきりに腕をさするさまをただ眺めていた。

加州清光はもう行っていいよ、というように手をひらひらさせた。その手首を掴んで、廊下の先に向かう。背中から困惑した気配がビシビシと伝わってくるけれど、ふり切られないことをいいことに足を進める。たどり着いた先は、最初に来た時に訪れたきり、荷物置きとなっている客室だった。

 

 

 

包丁を研ぐなんて久しぶりだな、と苦笑しながら燭台切光忠は厨の奥から伽石を取り出して作業台に乗せる。横には布を敷いた上に包丁が一本置いてある。他にも同じようなものはいくつかあるけれど、とりあえずお気に入りのひとつを研ぎ直そうと思ったのだ。どうしてそう思ったのかは、うまく説明できない。ただ予感めいたものがあった。厨は外にあるので風が容赦なく入ってくる。それでも構わずに腕まくりをしながら、彼はひとりごとを呟く。

「君をまた使うときも、きっと近いだろうね」

「野菜だけじゃなくて包丁にも話しかけてんの? だいぶきてるね」

思いがけず返答じみた言葉が返ってきて、燭台切は肩をはねさせる。後ろを振り向くと、入り口に加州清光が立っていた。この季節に彼のマフラーは重宝しそうだと思いながら、近寄る男に返事をした。

「いや、違うよ。今のはひとりごと」

「ふぅん」

「どうしたの。君が自分から話かけてくるなんて珍しいね」

「気が向いたから来ただけ」

作業台を覗き込む男の後頭部に向かって声をかける。彼の頭は小さい。

「随分、機嫌よさそうに見えるけど」

どことなく待っているかのような空気を感じたのでそう言うと、加州は勢いよく顔をあげた。

「じゃーん! あの子に塗ってもらったんだよね」

「いいね。格好いいよ」

「可愛いでしょ、そこは。……でもまあ、ありがと」

ちいさく呟いて加州ははにかんだ。爪の表面をそっと撫でる横顔が嬉しそうで、こんな表情の彼は久しぶりだと思う。

「そういえば僕もこの前、ちょうどここで会ったんだけど」

棚をごそごそとすると珈琲の袋がでてきた。黒い表面に一粒だけ豆の写真となぜか木の絵がかいてある。

「これをくれたんだ。彼女の好きなものだって。良かったら一緒に飲もうよ」

「あ、これ知ってる。いい趣味してるね」

加州は珈琲をたしなむ個体だった。この本丸ではおそらく、燭台切光忠と、彼くらいだった。

 

 

 

終わらないのではと思えた資料は、おもわぬ助っ人のおかげでついに完成した。黒いクリップでとめたそれを審神者が起きる前に机へ置いておく。散々確認したのだが、それでも不備があったらと考えると心が落ちつかない。

少し経って襖が開き、のそっとした動きで女が入ってくる。朝は苦手らしく、よろよろとした動きで定位置に座る。普段の姿を思い出し、あまりの差に笑ってしまいそうになった。自身の本丸で、だいたい朝はしばらく障子が閉まっているのはこういう理由だったのかと考える。きっとこれは近侍しか知らない姿で、だとすると本丸で知っているのは数人だけだ。

絶妙なタイミングで長谷部が入室し、流れるようにお茶を出した。審神者は半分寝ているような顔で素直に受け取ると、やっと机の上の書類に気づく。部屋にわずかな緊張が走った。亀のような気の抜けた目で上から文字を追った審神者は、頷いたあと、右下に番号を書いた。女は別の紙にも何かを書いて長谷部に見せる。ペンを受け取った男は下に文字を追加すると静かに立ちあがり退室した。一気に緊張がとけて壁に背を預ける。やけに静かだと思ったらこんのすけがおらず静寂があたりを包んでいる。机に向かって作業をしている審神者の背中。あの様子だと長谷部が用意したと勘違いしたのだろうか。資料を作ったのは自分なので面白くなかったが、わざわざ伝えることでもないと思ったのでそのままぼーっとしていた。今日は雪がふっていない。来たときはひっきりなしにふっていたのに。最近は晴れる日が多くなってきた気がする。

ざり、と畳の擦れる音が響いて顔をあげると審神者が目の前にいた。こちらは座ったままなので見あげる形になる。

女はその場にしゃがむと手を差し出してきた。受け取るようにこちらも手を出すと、ぽとんと何か落とされる。ひらくと赤い飴が乗っていた。戸惑いつつ、礼の意味を込めて頭をさげた。戻るかと思っていた女が隣に座ってきたので体が自然と強張る。何のつもりだろう。彼女は冷えているのかつま先を握ったり揉んだりしている。今日は巫女服を着ていた。ここにきてから、巫女服だったり洋装だったりするがなにか基準があるのだろうかと疑問に思ったが、聞いたところで適当な答えが返ってきそうな気がしたので口をつぐんだ。審神者はもうひとつ飴を持っていて、ぺりぺりと包装紙をむくと口に入れる。かたくて小さな音が響く。いまだ手のなかにある同じ飴を自分も食べようとしたが、やっぱりやめた。

なんだかどっと疲れていて背中を壁に押し付けると女も真似してきた。静かな室内にぱりぱりと乾いた音がしている。急に眠気が襲ってきた。わずかに体を傾け、すとんとした肩に頭を乗せる。自分からしたくせに体に力が入って、相手の動向を探る。しかし心配をよそに女は動揺したりせずに当然のように受け入れた。以前だったらありえないことだ。そう思うと、なぜか無性に泣きたくなった。ぴったり半身をつけていると心の底から安堵して、意図せず自分は刀なのだとおもい知る。

「なぁ」

聞こえないとわかっているけど声をかけた。女は役目を果たして紙切れに同然になった飴のからのはじを、中心に折り込もうとして苦戦している。

「……オレは、いますごく、アンタと話がしたい」

もちろん審神者は答えなかったので、あきらめたように笑った男は目を閉じる。

 

 

 

 

枯れ草がどこまでも続いている。弱い風が吹くと草がこすれて波のような音を立てた。この田舎の風景も、二度目なので動揺はない。夢を渡る手助けは小狐丸にお願いした。渋るかと思ったが意外にも彼は協力的で、「私もご一緒しましょうか」などと言っておどけていた。

枯草ばかりの丘を眺める。現実に限りなく近いが心がそれを否定する。長い草がゆれて人の気配がした。顔をあげると最近よく執務室でみる刀が立っている。夕日が落ちた空と彼の薄い色の瞳は似ていた。

「ここは俺の夢だ」

真面目な顔でそんなことを呟くのでおかしく思う。

「私の夢でもあります」

正直どちらでもいいと思ったが彼は一人で納得し、難しい顔をして「どうやって」等とぶつぶつ呟いていた。横顔を眺めていたらいつかの光景を思い出し礼を言う。

「資料、ありがとうございました。たぶん和泉守だけじゃできなかったから」

長谷部は目を見開き次の瞬間にはうつむく。

「俺は助言をしただけで何もしていません。ほとんどあいつの力なので、だから……」

「分かっています。あとで和泉守にもお礼をしました。優しいのですね」

長谷部はわずかに頬を染めて否定をした。

足元を見ながら考える。こんなふうにくだけた態度をとれるのは、どうでもいいと思っているからだ。どうせ任務が終わったら会わなくなる。嫌われてもいいと思っている相手なら、うんと優しい言葉をかけられるし、真実も言える。

「謝らないといけないことがあります。貴方を囮にした。もちろん、あとで回収するつもりでしたが」

「どういう意味ですか」

「地下の部屋のことを調べたかった。だけど前にいたここの主と接触する方法がない。もう話をすることは不可能なので、相手から動いてもらわないといけなかった」

すでに前任者は別の本丸を持っている、という部分は伏せておいた。男の目には戸惑いと困惑と、わずかに軽蔑の色が浮かぶ。沈黙を続けていた男は体から力を抜く。はっ、と短く笑った。

「なるほど。俺をだしに使ったと。それで? 必要な情報は知ることができたのですか」

「はい。痕跡から誰かたどることができました。そして分かったのは、部屋があく条件は、そこにいる男士が審神者を主と認めること。もちろん私じゃなくて、次に来る方になりますが」

沈黙が落ちた。脳裏に浮かぶのは赤い部屋。止まっていると思考が堂々巡りになる。

「あの、歩きながら話しませんか」

返事をまたずに足を動かすと、遅れて長谷部がついてきた。

「きっと前任者はちょっとした折檻のつもりだったのでしょう。それかほんとうに認められたかったのか。動機については予想するしかないですが、いま確かなことは、なんらかの想いが呪いになってしまったということ」

「次の人間に任せるしか方法はないのですか。無理やり破壊するとかは」

「物騒ですね。残念ながら、それはできません。ゆっくり時間をかけて、“この人が主なのだ”と認めてもらうしか」

いつのまにか丘はゆっくりとした登り坂になっていた。空はどこまでも広い。きっと時間はかかるかもしれないが、次に来る審神者は大丈夫だろう。彼らも変化しつつある。

小さな声で何か言われて振り向くと男はまっすぐにこちらを見つめている。

「貴女の本丸に俺はいますか」

「いいえ」

「なら、」

「駄目です」

長谷部は反抗的な目をする。拗ねたような、子供じみた表情だった。伏し目がちなところしか見たことがなかったので新鮮だ。

「……まだ最後まで言ってません」

「聞かない」

「貴方の刀にしてください」

あきれを隠さずため息をつくが相手は動じない。挑むように見据えてくる。

「絶対に嫌です。自分の本丸の刀だけでも手に余るのに」

「俺は絶対に役に立ちます。チャンスをください」

近くに生えているススキの穂をはじく。ずっと考えていたことがあったが、口にすることは初めてだった。

「蔵以外で刀を捨てられる場所を教えてくれたら、考えます」

長谷部は眉を寄せる。たった数秒の間に穏やかな空気は消え失せ、殺気があふれて刺してくるようだった。

「本丸の浄化が進まないんです。蔵以外と予想を立てているのだけど、場所がわからない」

「あぁ、そういうことですか」

風が後ろから吹いて服がたなびく。まっすぐにこちらを見据える瞳には感情がなかった。

「あの方は、臆病な人でした」

視界のはじにうつる月がどんどんとかけていく。薄い唇がそっと言葉をつなぐのを、黙って見ていた。

 

 

 

 

めずらしく審神者が早起きしたと思ったら、振り返りもせずに顔を洗い、身支度を整えて帰ってきた。いつのまにか合流したであろう管狐をつれている。狐はいつもとようすの違う審神者に不信感を抱いているのかしきりに首を傾げていた。あくびをしながらもそもそと布団から抜け出すと目が合った審神者がどんどんと近づいてきて、すれちがいざまに腕を掴んだ。問答無用で引きずりだそうとしてくる。

「んだよ、落ちつけって」

女が持ち出してきた戦装束をぐいぐいと押し付けてくるので仕方なく受け取る。何をしたいのかさっぱりだ。浴衣の紐を外そうとしたところで突っ立ったままの女と目が合う。彼女は後ろを向くだけで部屋から出ていくことはなかった。腑に落ちない気持ちで服を着替える。横を通り過ぎようとしたらまたもや腕を掴まれた。そのまま廊下に出てどこかへ連れて行こうとする。玄関で二人分の靴をそらえた審神者は腕を掴んだまま催促してくる。

「仕方ねぇな」

しゃがんでブーツをはいている間、審神者は袖のはじを掴んでいた。何をしたいのかはまるで不明だが、一人で行かせる気は毛頭ない。朝でも夜でも行動を共にするつもりでいたので服をつかまずとも逃げないのだが、あえて口には出さずにいた。女は一歩先に出ると森に向かって歩いてゆく。本丸の裏側、誰も比較的通らない場所だ。雪がとけて黒い地面が見え隠れしている。森までは少し距離がある。まさか中に入るわけじゃないだろうなと思っていると、そのまさかで、足がぴたりと止まる。先には古びた井戸があった。雑木林の入り口、頭上には木が生い茂っていて影を落としている。こんな場所に井戸などあっただろうか。記憶を手繰り寄せようとしてもうまくいかなかった。

審神者は恐る恐る近づくと蓋に手を伸ばしたので、反射的に引き寄せる。

「何を考えてる?」

「中を確認したいそうです」

空中から現れたこんのすけがどさっと目の前に塊を落とした。ちょうど井戸の蓋の上に落ちたそれは古い縄で、審神者は受け取ると腰に回して硬結びした。迷いなく縄のはじを渡してくるので反射的に握ると蓋の取っ手に手をかける。重いのかカタツムリが進むくらいの速さでしか蓋は動かない。やっと彼女のやりたいことが見えてきた。

「アンタ正気か? だったら俺が、」

「……この狭さ、いけますか?」

こんのすけが問いかける。井戸はとてもではないが和泉守の体格で入るのは無理そうだった。そうしているうちに審神者は井戸の縁に立つと身をかがめた。息をつくと、次の瞬間には飛んでいだ。覗くと井戸は思ったより深くなくて安堵する。水音が響いてしばらくパシャパシャとした音がしていた。いざとなったら引っ張りあげることもできそうで、縄は必要あるのかと疑問に思いながらも手は離さないでおいた。

「こんのすけ、これはいったい」

「探し物があるらしいです」

「このなかに?」

「えぇ」

狐もよくわかっていないようで、少々自信なさげだった。そのうちに綱を二回引かれたので引きあげようと思ったが、面倒になり、上半身が出てきたタイミングで胴をつかんで無理やり引きずり出す。審神者は驚いて目を丸くしたが、それよりも驚いたのは和泉守のほうだった。女の手には刀があった。