すくわない(25)

みかんの表面に血管のように張り付いている白いすじを丁寧にとりながら、今日の予定を考える。ここに一番栄養があるんだよ、と過去に誰かが言っていた。だけど、口に入れたときの触感が苦手なので、ひとつひとつ取りのぞく。忠告してくれたのはおそらく燭台切光忠で、記憶のなかの声はやさしくて穏やかだ。

最近は空気がすがすがしい。来たばかりのころはうえから押さえつけられるように重くのしかかる感覚だったのに、ある日を境に劇的に良くなった。本丸に戻ってから最初に確認したことは、取り戻した刀の状態異常についてだった。本体は政府で一度確認をするという。それなりに時間がかかるだろうと思っていたのに、着替えて執務室に戻ると机の上に刀があった。丁寧に袋で包まれていたが、ほどかなくても中身は分かる。机にある刀袋のうえから軽く手で押してみると、布越しにちゃんと硬い感触が伝わった。脛のあたりを押されて下を向くとこんのすけがいた。目があうと廊下へと歩いてゆき、こっちに来いというように振り返るので、刀を手にとりあとを追う。座りかけた和泉守が腰をあげてついてくる。庭は相変わらずふり続ける雪で白く染まっている。冷たい廊下をひたすら歩いて、遠くの、いちばんはじの部屋までたどりつくと、こんのすけは迷いなく室内へと足を踏み入れた。壁際にある刀かけまでいき、前足でちょんと触れて見あげてくる。袋から本体を取り出して指示された場所においてから、紫色の布を丁寧にたたんで床に置いた。畳に膝をつき、濃い色の鞘に触れてみたけれど、うんともすんとも言わない。本物の刀だったらそれでもいいけれど彼らの場合はそうもいかない。人の姿にはならないのだろうかと困惑していると、狐が遠慮がちに腕をつつき廊下へと促してくる。頷いてから立ちあがり、素直にしたがった。和泉守は部屋までは来ず廊下でしずかに庭を眺めていた。長い髪に外から入ってきた雪がひとつだけついていて、綺麗だなと思ったけれど、そうしている間にも少しずつ溶けてしまう。ぼうっとしていたら男と目があって怪訝な顔をされた。

 

 

ちょうどみかんを食べ終わったタイミングで誰かがたずねてきたけれど、対応は刀にまかせた。廊下に男性のシルエットがふたつ浮かんでいる。何か用があって足を運んでくれたのかもしれないが、耳が聞こえないのでまともに意思の疎通ができない。和泉守がなるべく穏便に追い返してくれることを願いながら立ちあがる。今日は午後から刀装を作る予定だ。こんのすけを呼んで反対側の襖をあける。作業場は外にある。日本の家は部屋が襖どうしで繋がっている作りが多いから、廊下を避けて玄関に向かうことも、やろうと思えばできる。

いくつかの部屋をつっきるようにしたら縁側に出た。玄関につくまでの間にもどこからともなく視線を感じたが、はじめて来たときのような重くるしさはない。玄関の式台に座って靴を履いていると気配を感じて顔をあげる。和泉守が大股で歩いてきて、そのままの流れで隣に座りブーツに片足を突っ込んだ。近づいてきたこんのすけを片手で抱えながら外に出る。刀装を作る建物は森の手前にあって、周りは木で囲まれていて、室内は外から見えないようになっていた。外装が神社の本殿に似ているが柱の外側には何も塗られていなかったので素朴な印象を受ける。靴を脱いで中にあがろうとし足が止まった。長らく使っていないせいか床の色が変になっていて、服まで汚れてしまいそうだった。隣の男も床を見つめて怪訝そうに眉を寄せている。ため息をつきながら、掃除用具を取りに行くため振り返るとちょうどちかくに小屋があった。木の扉をひくと埃が舞ってせき込んでしまう。暗闇に慣れてくると木炭や鋼が塊になって壁沿いに置いてあるのが見え、さらに奥には竹の箒があったので男に渡す。和泉守は諦めた顔で受け取ると刀装部屋へ歩いて行った。

作業部屋はがらんとしていて、奥に神棚のようなものが置いてある。しめ縄は枝が自由に飛び出ており、両側に置かれている花瓶は汚れで模様がくすんでいた。手前には白い透明な球がみっつ、木の正方形の箱の上に置かれていて、それ自体は透き通っている。靴を脱いで手前の階段をのぼると、せっせと床を箒ではいていた男がまだ来るなというように手で制してきたのでおとなしく従う。白い花瓶を受け取り靴をはきなおす。床の掃除はまかせて小物を洗いに外へ出る。手洗い場を探していたらそれらしい場所を見つけて中を覗いてみるが人の姿は無かった。蛇口から流れる水で花瓶を洗う。表面についていた汚れを手のひらでこすって落とすと、驚くほどに白くなった。せっかく花瓶があるのでなかに榊を生けたいと思ったけれど、用意していないので仕方がない。いつか街に出たとき、覚えていたら買おうと考える。

手が割れてしまいそうなほどに冷たい水に耐えながら、もうひとつの花瓶を洗っているとこんのすけがやってきた。どこから調達してきたのか口に青いバケツを咥えている。なかには白い雑巾が入っていた。水を切った花瓶を流しの台に置いて受け取る。狐の頭を撫でると目を細くしてくれた。バケツに水をいっぱいにいれてから、出口へと歩くさなか作業机が目に入り、あれ、と思う。そこには新聞紙に包まれた榊としめ縄が置いてあった。来たときには何もなかったはずなので、こんのすけも首をかしげている。榊の束を手に取って眺める。根元に巻かれた紙は水で湿っていた。

バケツと榊を抱えながら来た道を戻る。ついたときには、掃除があらかた終わっていた。しめ縄を新しいものに交換して、榊を両側に置くと一気にそれらしくなる。ついでに水をきった雑巾で神棚の周辺だけ拭いておく。全部を拭き清めることは無理そうなので簡易的な掃除ですました。落ちついたころ、立ったまま見守っている男に刀装を作ってもらえるか、適当な紙に書いて頼んでみた。メモを受け取った男は苦い顔をし、ため息をついて床に腰をおろす。すこし離れたところに座ったわたしを見て、さらに顔をしかめる。手で促すと、彼はのろのろとした動きで前を向いた。

こんのすけを太ももに乗せながら、そういえば、と考える。いままで彼らが刀装を作っているところをまじまじと見たことが無かった。指示を出すと勝手に用意してくれるのだ。数だけ把握しているだけで、実際にどんなふうにできるのか知らない。

いつもうまくいくわけじゃなくて、失敗することもあるということは、すでに知っていた。作るのが得意なもの、そうでないものがいることも。和泉守はどっちなのだろうと考えながら頬杖をつく。男の背中から緊張が伝わってくる。ごそごそと手を動かして数秒、彼は手のなかの塊を横に置いてある木の箱に投げ入れた。結果は思わしくないらしい。体に隠れてしまい、後ろからではいまいち、実際にどんなことをしているのか分からない。しばらく見守っていたけれど、またもや黒い塊が箱に放り込まれる。和泉守は、なんでもないように振舞っているようだが、動作から焦りがみてとれる。作業の途中でこんのすけにたずねてみた。

――刀装作りって、大変?

鼻を近づけるようにして紙を覗き込んだ狐は困ったような顔をした。追加で文字をかさねる。

――どうやって作るの? わたしでもできる?

こんのすけはふいに上を向くと、床に移動してから上体を持ちあげる。小さな前足をあわせてから目を閉じた。祈る恰好を数秒続けてから前足を床につける。なんとなく伝えたいことが分かったので、たちあがり男に近づく。隣に立っても、よほど集中しているのか和泉守は気付かなかった。目をとじて真剣そのものの顔をしている。両手に持った透明な玉を眺めていると、中心がかすかに光ったような気がした。それは段々大きくなるが、途中から輝きは失われる。しまいにはおおきなひびが入って、時間を逆再生したように色が変色していき、黒焦げた塊に変わってしまった。おもわずため息をつくと、目をあけた男が勢いよく振りむく。そこでやっと近くにいたことに気付いたようで、目を見開かせたまま顔がどんどん赤くなっていった。投げるようにして、刀装のなりそこないを木の箱にしまうと、振り切るように立ちあがった。そのまま帰ろうとしたので、袴を掴んで引き留める。和泉守は目をつぶってなにかを呟いていた。しばらくそうしていたが、ずり下がりそうになる腰の部分を押さえながら男が元の位置に座ったのを見届け、まだ新しい水晶玉を手にとる。上の位置に持っていき手を離すと、男は反射的にそれを受け取った。意思が伝わったのか相手は嫌そうに首をふる。睨み合うこと数秒、とうとう男は肩を落として作業を再開する。両手で玉を包むようにして目を瞑った。プレッシャーを感じているのか、眉間に皺をよせ、額から流れた汗が目の横を流れる。手を伸ばして外側から男の手ごと包むと、和泉守は驚いたのか玉を落としそうになった。横からものすごい視線を感じたけれど、とりあえず無視をして目をとじる。こんのすけは祈るのだと言っていた。だから、力を貸してくださいと願った。

白い玉が変化して光の色に染まっていくすがたを心のなかで思い浮かべる。自分じゃない手が不自然に動いて意識が現実にもどる。ゆっくり目をあけると金色の装備があって、太陽の光をうけて輝いている。予想よりずっといいものができた。充足感を得ながら横を見ると男は気まずそうに下を向いていた。

 

 

 

 

和泉守は刀を抱えて廊下を睨みながら、心のなかで残りの日数を数える。記憶が正しければあと二週間程度で本丸に帰ることができる。本音をいえばすぐにでも戻りたい。住み慣れた場所が恋しかった。それに、ずっと心に引っ掛かっていることがある。何度めかわからないため息をつくと、刀の気配がして、視線だけ外へ向ける。人のシルエットが障子ごしに浮かんでいた。廊下で正座した背中は心なしか丸まっている。重い腰をあげ障子をあけると、廊下の先にいたのは燭台切光忠だった。

「あ、あの」

「なんか用か?」

正座した手を組み替えながら、燭台切光忠は言葉を探しているようだった。煮え切らない態度に苛々とする。いっそのこと黙って障子を閉めてしまおうかと右腕が動いたとき、彼はやっと口をひらいた。

「この間のこと、伝えてくれた?」

「言ってない」

顔をあげた光忠は口をぽかんとあけている。ちょっと間抜けな顔だなと可笑しく思う。

「自分で言えばいいだろ。まぁ、伝えるのは至難の業だけどな」

光忠は俯く。ずいぶんと酷なことを言っていると自分でも思いながら、和泉守は部屋の中心を見た。冷気が室内に入って扉をあけていることに気が付いたのか、女が顔をあげた。伝える手段なんて限られている。彼女はいま耳がきこえていない。光忠は目が合うと軽く会釈する。女は僅かに眉を寄せつつも、同じ挨拶をかえして作業に戻る。

「……彼女、怒っているよね」

「いつもあんな感じだから。そこは気にしなくていいと思うぜ」

「そうじゃなくて、なんというのかな……」

光忠は後頭部に手をやりながら口ごもる。

謝りたいなんて、なにをいまさら――と心のなかで悪態をつく。頼むから放っておいてくれ。これ以上、心理的な負担を主にかけないで欲しい。彼女の耳は相変わらず元に戻っていないし今後どうなるかわからない。和泉守は、それはほとんど彼らのせいだと思っていた。最初のころのように、存在を隠してくれたらいいのに。どす黒い思いが腹のなかで渦巻いていく。

女の悲鳴が頭のなかで反芻される。潰れそうな声だった。大切な人が亡くなった現場を二度も確認させられた、その心情を思うと辛かった。

よほど怖い顔をしていたのか、光忠は諦めてゆっくりと立ちあがる。僕はもう帰るよ、と呟き背を向けた。しかしすぐに、何かを思い出したのか、あ、と声をもらし振り返る。

「君たちはご飯を自分達で用意しているよね。良かったら、僕がなにか作ろうか……?」

そんなものはいらない、と言いかけ口をつぐむ。ちらと奥へと視線を送った。女は料理がほんとうに苦手だった。包丁で指を切ることはしょっちゅうで、いつか指がなくなってしまうのではないかと心配になるほどだった。しばらく迷ったが、

「そうしてもらえると助かる」

と、ちいさな声でこたえると、光忠は安心したように微笑んだ。

 

 

日が暮れてから厨に向かうと、なかには誰もいなかったが、机のうえにお膳があった。おかずがいくつかあり、空の茶碗がある。はじに付箋が貼ってあり、ご飯の汁物は温めてから食べてくれとあった。釜を見ると炊かれた飯と、鍋に味噌汁があり、火を通してから準備する。念のため、最後に一品ずつ味見――もとい、毒味をした。完全に信頼をしていたわけではないからだ。万が一があったならば、一生後悔することになる。

お膳を手にして執務室へ現れた和泉守を見ると、女は目を丸くした。机に置いて体のほうに持っていくと、困惑して手をつけようとしなかったので、問答無用とばかりに箸を目の前に置いた。そこまでしてやっと、女はそろそろとした動きで箸に手を伸ばす。手をあわせていただきますという仕草をしてからおかずに箸を伸ばす。煮物を口に含んだあと、驚いたように目を丸くさせた。

「美味しそうですねぇ。燭台切様が作ってくれたのでしょうか。いい匂いですね」

いつのまにか起きたこんのすけが顔をのぞかせる。審神者はおもむろに、おかずにふくまれていた油揚げをこんのすけにあげた。

狐はとたんに目を輝かせて、

「えっ! いいんですか?」

と叫ぶと次の瞬間、丸呑みにしてしまう。野生の一面を垣間見たような気がして唖然としていると、女は面白がってもう一枚あげたので、狐は歓喜した。

もくもくと口を動かしている女を眺めていたらふと目があった。彼女は傍にあったペンを手に取り、流れるように文字をつらねる。渡されたメモには短く、“あなたのは?”と書かれていた。

「腹は空かないからいいんだ」

半分正解で、半分は嘘だった。腹が満たされると眠くなる。とっさのときに動けるように、あえて食べないようにしていた。女は考えごとをするかのように宙を見つめていたが、またペンを取ると、

――ご飯、おなじの持ってきたら。一緒に食べよ

とつづける。正直、そのように誘われるとは全く思ってなかったので狼狽した。なんと返そうか考えているうちに、女は箸を止めて早く行ってとばかりに廊下を指差すので重い腰をあげる。厨に戻って簡単に米を握った。海苔も巻かずに塩だけをまぶす。匂いを嗅いでいたら急に空腹を感じて、ひとつにしておくつもりがふたつも作ってしまった。お皿に乗せて、ついでに自分の分の箸を掴んで執務室に戻る。

もともとの量が多かったのと女があまり食べなかったので、おかずは結局、半分以上を和泉守が食べることになった。薄く焼き色のついている魚の身をほぐしながら、穏やかな時間だなと思う。外で屋根から雪が落ちる音がした。

 

 

光忠に食事を作ってもらうのは夜だけにした。原因は審神者にある。一緒に暮らしてわかったことだが、彼女は仕事などの制約がないと、とたんに自由なふるまいをするのだ。昼前まで眠っていたかと思えば、今日はなんとなく眠れないからと、夜通し起きて作業をしていたりと生活は不規則で、そのときどきにしたいことをするのがいちばん調子がいいのだとのたまった。自身の本丸にいるときでも姿を見せないときが多いと感じていたが、昼夜逆転生活が原因かもしれないと、和泉守は思った。

その日も和泉守はいつも通りの時間に起きて執務室で審神者を待っていた。気休めにしかならないが火鉢も用意した。審神者は勝手に出てくると思っているようだがそんな魔法のようなことはなく、こっそりと準備している。

壁に寄りかかるようにして座りながら飾り障子を眺めた。部屋の隅の梁がむき出しになっている場所は、入り口に近くて部屋全体を見渡せる。ここからだと審神者のようすもわかるし、廊下から何か急に来ても対処できる。ふいに、あくびが出てきて噛み殺す。ここにきてからまともな睡眠をとっていない。もし、寝ている時間に、襲撃にあったらと考えると恐怖が襲ってくる。どうせ寝られないのなら、審神者とおなじ部屋にいてそばで見張っていたいくらいだが、いくらなんでもそれは許されないと別室に控えていた。眠るときは執務室の奥の部屋を女が使い、和泉守は横の部屋を割りあてられていた。だが和泉守は、襖ごしに女がうなされている気配を感じるたびにようすを見にいった。

審神者は男に気が付かず苦しそうに寝返りをうち反対側を向く。そっと布団のうえから手を置いて、

「大丈夫」

と呟くと、不思議と落ちつくのか呼吸がなめらかになる。翌日は夢すら覚えていないのか、とうの本人はケロリとしていた。いつの日か、審神者から刀の本体を貸してくれといわれたときは反対したが、夢にうなされて苦悶に歪んだ横顔を思い出すと哀れに思い、不安が少しでも和らぐならと夜だけ渡すことにしたが、すぐに後悔することになる。その日を境に女がうなされることは極端に少なくなった。

ある夜。刀を渡し、自分は部屋に戻ってしばらく経ったころ、急にあたたかい感覚が広がった。勘でしかないが、女が刀を抱えたまま横になったのだと悟る。言葉では説明しづらいが確かにわかった。審神者に伝えたほうがいいのだろうかと、横に流れた髪の毛に触れながら考える。なんと説明したらいいかと悩んでいるうちに、今度は遠くに声が聞こえた。最初は空耳かと思った。しかしよく捉えようと集中すると声は鮮明になる。

――どうしよう。耳が治らなかったら。仕事はちゃんとできるのかな。リモートでできるように相談しよう

最後は理解できなかった。さらに言葉は続いていたが、まるで水の中にいるときのようにこもって聞こえる。一度や二度なら気のせいですませただろうが連発したので、疑問は次第に確信へと変わっていった。おそらく本体に触れていることに関係しているのだろう。人の姿は借り物で、本質は刀のほうなのだと納得する。

夜眠るまでの少しの時間だったし、普段あまりきくことのない審神者の声は体に心地よく響いた。三日月がよく外へ散歩するときに持ち出している機械――ラジオを聴いている感覚に近い。

 

 

カリカリと襖を引っ掻く音がして顔をあげる。三センチほどあいた隙間からにゅっと白い前足が出て、がしっと枠を掴み少しづつ押していく。手伝ってやろうかと思ったが猫のような動きが面白くて見守っていると、空いた隙間からこんのすけが滑り込んできた。

「おはようございます」

「おはよう」

こんのすけは軽い足取りですとんと隣に座る。狛犬のように前足を畳につけたと思ったら、「今日も寒いですね」と呟いた。

「景趣、変えられないのかよ」

「駄目なんですよ。おかしな設定でして、変更できませんでした」

前足で耳の横を撫でつけながらこんのすけが答える。背中を撫でるとちいさな声で鳴いた。

「相談があるんだが」

「はい?」

ぐるんと振り向いた狐と目を合わせる。黒い瞳にどこか困惑した自分の顔がうつっている。

「本体を預けてから、幻聴が聞こえる」

「幻聴? 具体的にどのような?」

こんのすけは真剣な瞳で見つめてくる。なぜか羞恥心が沸き起こり頭をかいた。

「その、触られてる感じがするっていうか。……いや、変な意味じゃなくて」

主語がないにも関わらず、狐は察しがよく頷いた。

「感覚共有ですね。わりとよくあることです」

「よくある……のか?」

「えぇ。心の中で思っていることが伝わったという事例も耳にしたことがあります。そこまではっきり言葉として聴こえるというのは稀ですが。嫌でしたら審神者様に報告しておきますが」

「そうしたほうがいいと思うが、流石に気持ち悪くねぇか?」

「どういう意味ですが?」

「もう何日か経ってる」

狐と目を合わせる。なんとなく、二人ともおなじ想像をしていると思った。頼りない背中を思い浮かべる。きっと彼女は知らないほうが幸せだろうと思った。

「普段の生活中、ずっと感覚や感情は共有されていますか」

「いや、本体を触れられているときだけだ。声は聴こえないことも多い」

「では黙っていたほうがいいかもしれません。審神者様は声が出せないのである意味都合がいいです。何か異変があれば気づくことができるということですから」

「なるほど」

何の前触れもなく襖があいた。廊下にたっていたのは話の中心人物だった。女は浴衣の合わせめをぎゅっと握りしめながら火鉢に寄ると、手に持っていた白衣を畳に投げるように置き体育座りになる。眉間に皺をよせながら浴衣の裾からでている足首をさすっている。こんのすけはそんな彼女に近寄ると、律儀に挨拶をした。彼女が白衣に手を伸ばしたのを横目に腰をあげる。向かった場所は厨だった。飲み物を用意している間、彼女は着替えをすませる。ここへきてから自然とそうなった。いまでは暗黙の了解となっている。

審神者は朝飯をとらないかわりに珈琲を好んで飲んだ。予想に反してブラックは好きではないらしく牛乳を入れる。だけど砂糖はいれない。人によって加減があるらしい。自分だけ違うものを用意するのが面倒だったのでついでに作るようにしたらいつのまにか和泉守も珈琲が飲めるようになった。

執務室に戻ると巫女服に着替えた女が座っていた。座布団のうえで体育座りのまま膝を抱えている。ぼーっとしたようすで、壁にある掛け軸のまんなかあたりを眺めるともなく見ていた。起き抜けはいつもこうで、魂が抜けたような表情を初めて目にしたときは少し驚いた。彼女は朝がとても弱いということを、この本丸にきてから初めて知った。

「ほらよ。熱いから気をつけな」

いれたばかりの珈琲を置くと女はゆっくりと振りかえり深々と頭をさげる。そのまま頭をあげないのでどうしたのかと不安になれば、こんのすけが下から覗き込んで、

「なんと。寝ています」

と、芝居がかった口調で言った。

 

 

 

流れる水で食器を洗いながら、畑当番と食事当番は、どちらのほうが気が乗らない作業か考える。冬の水は皮膚を切りそうに冷たい。人の気配を感じて振り返ると女が立っていた。静かに近づいてくると手に持っていた紙を見せてくれる。身をかがめて覗き込むと、何か手伝う、と書いていたので、否定の意味を込めて頭をふる。手伝ってもらうほどのことでもなかった。彼女は目を伏せると背中を向ける。風呂に入ってきたのか体から薄く湯気が出ていた。外は相変わらずの寒さで、浴衣のうえから肩掛けをのせているだけの姿は寒々しい。彼女が外に出ようとして不自然に立ち止まった。作業の手を止めて横目にみると、濃い人影があった。廊下にいたのは光忠と、鶴丸だった。二人とも審神者がいたことは知らなかったようで、驚いて目を丸くしている。審神者は道をふさがれて途方にくれている。男二人が石のように動かないので、通れるように壁に身を寄せた。光忠がゆっくりと審神者に手を伸ばしたが低い声で名前を呼ぶとぴたりと手をとめた。目が合った瞬間に怯えた顔をしたので、よほど自分は酷い顔をしているのだろうと他人事のように思う。

「まだ、耳は戻らないのかい?」

光忠の問いに女はこたえない。男は顔をゆがめて腰を折った。審神者は突然の行動に驚いてのけぞり、男が一向に頭をあげないので肩に手を置くがびくともしない。鶴丸が腕を組みながら眉を寄せている。少し離れたとこらでなりゆきを見守っていると、女は常に持ち歩いている筆談用のノートにペンを走らせた。いちばん上のページをはがして、男の手にむりやり握らせる。力が強かったのか紙がくしゃりと乾いた音を立てた。光忠が頭をあげたのと同時に手を離す。少し早かったみたいで紙は床に落ちそうになったが、寸前でキャッチした光忠は中身に視線を落とした。困惑した表情が驚きに変わる。

「……『ごはん、ありがとう。すごく美味しかった』」

「よかったじゃないか。ここのところずっと、気にしていたものなぁ」

鶴丸が芝居がかったようすで光忠の肩を抱く。そのすきに、女は二人をすり抜けるようにして廊下へ出てしまった。光忠は審神者が消えたことに気づくと「ちょっとまって!」と叫び後を追いかける。

「追いかけっこは得意だぜ」

鶴丸の楽し気な声が遠ざかっていく。母屋のほうに走っていく二人の背中を見送り、手を拭いてから、和泉守は外へと向かう。野菜置き場のほうへ歩いていくと、女はすぐに見つかった。柱の影から赤い色がちらとのぞいている。女は膝の間に額を埋めるようにして身をかたくしていた。

「ほんとうに、隠れるのがうまいな」

地面に片膝をつきながら自嘲気味に笑う。伸ばした手が肩に触れた瞬間、勢いよく顔をあげた女が手をあげる。遅れて手の甲に痛みがやってきて、たたかれたのだと知る。動物が外敵から身を守ろうとする動きだ。視線を落とすと皮膚の表面が薄い赤色になっていた。女は罪悪感から俯いて、小さく口を動かす。謝っているのだと伝わった。彼女の指先が、ちょんと手の甲に触れて、いたわるようになでる。くすぐったくて、背中がさざめくような感覚がした。

「別に怒っちゃいないさ」

苦笑しながら腰をあげると遅れて女も膝に力をいれる。立ちあがった途端に糸がきれたようにふらついたので慌てて体を支える。腰に腕をまわしてしまい、しまったと思ったが、女は拒絶しなかった。しゃがんでいた為か立ちくらみを起こしたのかもしれない。目を瞑ってなにか耐えるような表情をしている。顔は青白くて血色が薄い。寄りかかってきたかと思ったら、体重をどんどんと預けてくる。そのままずるずると地面に落ちていくので仕方なしに抱えあげた。予想よりずっと軽い。細心の注意を払いながら執務室へと向かう。

布団に横にすると、そのまま女は寝てしまった。巫女服のうえから布団をかぶせる。畳に胡座をかきながらしばらく寝顔を眺めていた。呼吸が深く、あまりに静かなので死んでいるように見え、布団からはみ出ていた左手に触れてみる。心臓の鼓動に合わせて指に振動が伝わり安心した。そのまま動かないでいると、どこからともなく狐が現れたので手を離した。

「倒れたのですか」

「あぁ」

こんのすけは和泉守がしていたように前足を手首にあてる。

「血圧が低いですね。九十いかないくらいでしょうか」

そんなことまでわかるのかと驚いていると、こんのすけは審神者の首元に丸くなった。

「私が見ていますので、和泉守様はどうぞお休みになってください」

狐は片目をつむり奥の部屋へと続く襖を見る。同じ方向へ視線をやった和泉守は、

「……オレもここにいていいか」

と消えそうな声で呟いた。こんのすけは驚いたように目を丸くしたが、目を細くして、

「もちろんですとも」

と、こたえた。