永遠とも思える時間を揺られていた。正確には測っていないが、体感的に六時間ほどは乗っていたのではないかと予測する。窓が大きくて、景色は遠くまで見渡せた。街から離れていくにつれて緑でいっぱいになる。だが、段々と日が落ちて夜になるとほとんど真っ暗でよくわからなくなった。男をちらと見ると、刀を抱いたまま眠っていた。寝ているふりをしているだけかもしれない。長い髪が垂れて、顔に影を落としていた。まつ毛が長い。そして、脚も。対面にいるので気をつけないとぶつかってしまいそうになり静かに引っ込めた。
最悪の結果を予想して行動してしまうのは、私の悪い癖かもしれない。もし、見つけられなかったら刀はどうなるのだろう。もっとしっかり計画を立てて行動したほうがいいということはうすうす分かっていたが、あいにく時間がなかった。政府には報告をしたのち調査をするので待つように言われ、どれくらいかかるかと聞いたら一月という返答だった。それでは遅い。そのころには私はいない。そして、うやむやになって終わるだろうという、確信めいた予感がした。こんのすけと相談し(あの管狐はわりと融通がきく)、時代だけ目星をつけ、あまり現代から遠くなかったこともありこちらから迎えに行くことにした。政府で協力してくれそうな人物がいるらしくこんのすけが手回しをしてくれるらしい。
長時間同じ体勢でいるせいか腰が痛い。ふとデッキに行こうと思い立ち腰を浮かせる。和泉守に声をかけようかと思ったけれど、よく寝ているようだった。少しの間だし黙っていこうかと思ったけど、数々の怒られた経験と彼の心労を考えメモを残していくことにした。ノートから切り離した紙を、窓の横にある少し突き出たスペースに貼って席を立つ。席との間を歩きながら乗客を確認した。私たちの他には、初老の男性しかいない。
最後尾まで行き、存外重い扉をひくとデッキに出た。ほかにだれか人がいたら戻ろうと思ったけれど、そこには誰もいなかったので、柵に触れながら下をながめる。ここからはよくわからないが、ちょうど真下に車輪があるのだ。少し身を乗り出したら、すぐに落っこちてしまいそうに思えた。そうなっても汽車は走り続けるだろう。線路に横たわってぴくりとも動かない自分と、猛然と走り去っていく車体を想像したら、少しだけ笑えた。
柵に寄りかかりながらぼんやりと外を眺める。特に楽しい景色ではなかった。森の中を走っているのか木が覆いかぶさるようにうかんでは消えていく。
髪の毛が頬をくすぐるのがくすぐったいので耳にかけていると、背中に衝撃がくる。悲鳴も出せないくらいに驚いていると、お腹に手がまわった。見慣れた服が目に入り体の力を抜く。体をねじるようにして振り向けば、さっきまで寝ていたはずの男がいた。急にどうしたのだろうと思っているうちに、彼はみるみるうちに眉間に皺を寄せた。何かを言いかけて、伝わらないと気がつき舌打ちをする。
もしかして――と檻みたいに両側で柵を握る手を見ながら考える。飛び降りると思ったのか。たしかに流れる景色は綺麗でもないし、側からみたら、物騒なようすにうつったかもしれない。もう大丈夫だと腕を叩くが相手は怪訝な顔をするばかりだった。この目だ、と思う。私のことを一切信用していない目。私はこの目が嫌いじゃない。ずっと、このままでいてほしいとすら思う。
女の私よりもずっと長い髪の毛がばさばさと風に遊ばれて、和泉守兼定は顔を顰めていた。見かねて手を伸ばし、髪の毛をまとめて前のほうに持っていく。だけどここからどうしたらいいのかわからない。髪を握ったままでいると指先に柔らかい感触がした。どこから持ち出したのか男が赤いリボンを持っている。これを使えということか、とすぐに理解し受け取った。前から流れてくる風にあおられて力をゆるめたらすぐに飛んでいってしまいそうだったけど、そんなことをしたら怒られそうなのでしっかりと結ぶ。長い髪を苦労してまとめている間も上からじっと見つめられているので、気まずいことこのうえない。震える手で結んで手を離すとさっきよりましになった。
いまだ立ち塞がるみたいに動かないので怪訝に思い、もう帰ろうという意思表示の意味もこめて胸のあたりを押す。夜は長いから席で少し眠りたくなったし、外は思ったよりなにもなくてすぐに飽きてしまった。だが男は一向に動かない。強めに叩いたらじろりと睨まれる。瞳の中に純度の高い怒りを感じて動きを止める。言葉を交わせない私たちは代わりに目に感情を込めることがうまくなった。そろそろと体の向きを変えると柵に手をつける。そのときたしかに自分は何かから逃げた気がして、木の柵を握りながら暗闇を見据えた。道ががたついていてときどきがたんと跳ねて体が浮く。落っこちてしまうと心配したのか男にお腹あたりを支えられた。これくらい大丈夫だと手で制したけど伝わったかどうかは分からない。数分経っても遊園地の安全ベルトみたいにがっちり抑えてくれているのでおそらく意図は伝わっていないのだろうと思うけれど、訂正するのも面倒なのでそのままでいた。
線路が闇に吸い込まれていく。眺めているとつい体が引き寄せられてしまう。ふらつくたびに腹が締められるから意識がはっとした。下ばかり向いて具合が悪くなったのでこんどは上を向くと星空が広がっていた。いつのまに森を抜けたのかこんどは田園の風景に変わっている。空も黒い雲が遠くに移動していて、月がでていた。黒い雲にかかると輪郭が白く滲むのが不思議だとそんな感想を抱きながら眺めていると視線の脇に光が通った。流れ星だ。一瞬のうちに消えてしまったが通った場所を指差しながら振り返り、青い瞳をみあげる。
――今のみた?
和泉守はもう怒っていなかった。ぱらぱらとなびく前髪の向こう側にある瞳が私をとらえる。口角を少しあげながら口をひらいて、
――見た。
と返事をしてくれた。闇夜のなかで獣みたいに目が光っている。青白くてさっきの星よりもずっと鋭い。頬をうつ風が冷たくて、ばたばたと揺れている袖の端を掴んで中に戻ろうと促すと男はあからさまにほっとしたように眉をさげる。
前とおなじ席に戻ると外との対比でやけに室内が暖かく感じて、あらがえずに目を瞑ったとたん眠気が襲ってきて意識が落ちた。がくがくとゆすられて目を覚ますと黒い制服に身を包んだ駅務員がいて、出口を指差しなにか口にしている。終着駅まで着いたのだと理解し頷きでこたえた。和泉守はあくびを噛み殺しながら上体を軽く捻っていた。どことなく首が痛くて、私も無意識に肩をまわした。
外に出ると駅の前は人でごった返している。はぐれたら大変だ、というか見失ったらもう出会えない気さえすると思い上をむくとちょうど男と目が合った。なにはともあれこの人混みを抜けたい。たびたびぶつかりながら大きな通りに出ると人の流れが分散されて、ほっと息をつく。道はごちゃごちゃとしていた。ビルなんかはひとつもなくて、かわりに屋台が並んでいる。食べ物屋さんが圧倒的に多かった。埃っぽくて喉がいがいがとするけど、煙にのって届いた料理の匂いは素直に食欲をそそった。汽車のデッキで外にいたのがほんの数分前に思えたが外は嘘みたいに明るくて、おまけに朝日が出ていた。なかで数時間は眠っていたらしい。
振り返ると、男ははぐれないでちゃんとついてきていた。目が合うと少しだけ眉を寄せたのでお腹に両手をあてる。
――お腹空かない?
首を傾げると相手は頭を縦に振ったので、たまたま目についた店に入る。足を踏み入れた瞬間なにか揺れたので目で追う。小さなガラスの棒がたくさん天井からぶら下がっていた。耳がちゃんと聞こえてたらカラカラだとかシャンシャンだとか音がしたのかもしれない。店内は古びていたけれど人気があるようで座る場所がなかった。別のところにするかと思った瞬間に店の奥から出てきた女性に外へ案内される。通りに面した店の影に細長くて背のない椅子が置いてあり、あれよあれよというまに座らせられ、目の前にずいと紙を出された。メニュー表らしいけれど内容がよくわからないので、悩んだすえに鳥の蒸したようなやつと白米が同じお皿に乗っているものにした。和泉守も考えるのが面倒だったのか、同じものを頼んだ。
女性が店の奥に消えていくのを見送ってか視線を前に向ける。天井に布がかかっているから足元が暗い。ぐっと足首を押される感覚がして驚いて片足をあげると、椅子の下から鶏が勢いよく出てきて、半分跳ぶようにしながら道路を突っ切って行った。
足をあげたまま呆然としていると、和泉守が反対側を向いて肩をふるわせていた。口元を手で隠しているが笑っているのだとわかる。さっきの一部始終を見られていたのだと気づき、中途半端にあげていた足をおろした。恥ずかしくて頬に熱があつまる。つぼに入ったのかいつまでも笑っている男のことはほうっておいて、このあとの予定をざっくりとたてる。
まずは宿を確保しないといけない。自力で探してみて、どうしてもだめならこんのすけに連絡を取ってみよう。
そんなことを考えていたらご飯がきた。白米に乗った蒸した鳥を見て、さっきの鶏たちの、今後の運命を悟る。視線を感じたので振り向くと和泉守が苦笑いを浮かべていた。相手は悩んだようにうえを向くと、人差し指を自分の頬にあてた。
――顔にでてる?
私の疑問にはこたえずに、たのしげな余韻だけ残して男は前を向きご飯を口に運ぶ。路地をみるとさっきより人が多くなっていた。だされた蒸し鶏のご飯は出汁がきいていて、とても美味しかったので、思考はすぐに流れていく。
それからすぐに出たが運の悪いことに宿はほとんどがうまっていた。野宿になるかと不安がよぎったが三軒めにたずねたところで部屋をとることができた。古すぎる外観に似合わず部屋は綺麗だった。重厚な扉をあけると一目で見渡せるくらい部屋は小さかったがそれでもかまわない。上階の窓からは煙に霞んだ街並がみえる。流れるように布団へ飛び込みうつ伏せで顔だけ横にして空を眺めた。埃が入ってきそうなので窓は少しだけあけて全開にはしない。
とりあえず仮眠を取りたいと思った。むくりと起きあがり、かたわらに置いてあるメモ帳に文字を書いてから、壁に突っ立っている和泉守に見せた。彼は静かに私の挙動を見守っていた。紙に視線が集まる――仮眠したい。とくに拒否をする必要がないので彼は頷く。少し迷ったけど、さらに言葉を足した。
――貴方も休む?
男は首を横にふる。無理強いしたくないので、先にお風呂に入るとだけ追記して、紙をまるめてくずかごに捨てる。これから夜がふけるまでは、充分すぎるほどに時間がある。
夜になっても街は賑やかだった。屋台が並んでいる路地をうねうねと歩く。前をいく女は器用に人を避けていた。あとにつづきながら和泉守は視線をめぐらす。まわりに刀剣男士の姿はなかった。着物姿がめずらしいのかじろじろと見られることはあったが、目を合わせると彼らはさっと視線を外した。審神者は洋服を着ていて、動きやすさを重視した格好をしていた。ショートブーツに包まれた足が乾いた地面を踏みしめる。屋台からにじむ照明の光が女の半分側を照らしている。そこだけやけに明るくて、反対は暗い。女は目的なく歩いているように見えたが、次の瞬間になんのまえぶれもなく角を曲がった。文字通りかき消えたかと思い心臓が跳ねた。路地に消えた残像を追うようにして滑り込むと、道の先に女が立っていた。
「つったく。声くらいかけろよな」
そういえば喋れないのだったとすぐに思い出す。難儀なものだなぁ、と心のなかで呟きながら横に並ぶと、足元から鳴き声がした。人の姿はなく、物陰に目を凝らしていると下のほうからまた細い声がして、視線を向けると猫がいた。尻尾がぱたぱたと左右にゆれていた。女がしゃがみ込んで喉をくすぐると猫は目を細める。
「遊んでる時間なんて、ないんじゃねぇか」
和泉守がぼやく横で女はおもむろに袋を取り出して、中身をぱらぱらと床に落とした。ところどころ焦げている白い欠片は、本丸から回収してきた盛り塩で、猫は鼻を近づけて匂いを嗅ぐと一声鳴いて反対側を向く。毛並みが黒っぽいので少し目を離すと見失ってしまいそうだ。立ちあがった女はちらと和泉守を見ると、小走りで猫に続いた。路地は歩けるが二人並ぶことはできないくらい狭くて、刀など到底振れそうになかった。こんなところで敵に出くわしたら大変だと思いながら和泉守もあとに続く。万が一のため、わずかな気配も見逃さないように神経を尖らせる。猫は跳ねるように歩くので、自然とこちらも早足になる。右を曲がって左を曲がって、また左……と、最初こそ数えていたが途中から道が分からなくなった。路地は景色が変わらない。まるで迷路だ。
何度目か分からない角を曲がって直線に差し掛かったとき、前を行く女がスピードをあげた。前を行く野良猫と一緒にもうほとんど歩くではなく走っている。ただ問題は、突きあたりが壁ということだった。
「おい!」
風の音が耳奥で鳴る。迷っているうちに壁は近づき、激突する、というところで、急に女が停止した。変な声をあげながらどうにか踏ん張って前に手をつく。急に後ろから手が出てきたから女はびっくりして勢いよく振り返った。至近距離に顔があって弾かれたように後退した。相手も同じようにさがったため肘かどこかをぶつけたみたいで鈍い音がした。
「大丈夫か?」
よほど痛いのか顔を歪めて肘をさすっている女へ手を伸ばすと、きっ、と睨まれたので怯んでしまう。腹を拳で叩かれた。さほど強い力ではないから本気で怒っているわけでもないと知りほっとする。
あらためて周囲を見渡すといたるところに野良猫がいて、みんながこっちを見つめていた。しかし誰も声をあげず、人間の挙動を観察しているように見えてわずかに恐怖する。道案内していた猫が足に体をこすりつける。女は壁に向かって指をさした。よく目をこらすとうっすらと線が入っている。さらに調べようと手を伸ばしたので、体を割り込ませるように前に出た。
「俺がやる。汚れるだろ。あんたはさがってな」
女はすなおに場所を変えて、男の手元に視線をおとした。
扉をあけた先は景色ががらっと変わって庭のようになっており、さらに奥には建物があった。時間はさっきいた場所と同じくらいのようだ。まるでワープしたみたいだと思いながら振り返ると入ってきた壁はまだあって、いつでも引き返せるといくらか安心する。
大きなビルに似た施設に裏口から入る。簡単に侵入できたことに不信感を抱きつつ階段を降りた。なかはまっくらで、廃墟かと思うくらい古びていた。壁に這うように伸びている蔦が窓を突き破って室内に侵入している。人がいないことはあきらかだった。瓦礫に躓かないように慎重に進む。床が崩れ落ちることが不安で壁に手を触れさせてみたらぬるぬるとしたので、すぐに後悔した。つんとした匂いがして指先を鼻の近くに持っていくと血に似ていて、つい顔をしかめていたら、横から手が伸びてくる。和泉守が戦装束の袖をつかいごしごしと拭いてくれた。眉間に皺を寄せながら拭き取るとぱっと手を離す。頭を軽くさげて礼をするがそっぽを向かれた。
階段をおりきると下は病院のような作りになっていた。廊下を見渡し、男と目を合わせて頷く。和泉守はいつでも抜けるように右手を刀に伸ばした。のびた廊下に視線を戻す。切れかけた蛍光灯のせいか薄暗くて先が見えない。奇妙なのは、内装が比較的綺麗なことだった。一階は廃墟みたいだったのにと、灰色の壁を見つめながら考える。途中、手術室というプレートがかけられた部屋があった。気になったので入ってみると、想像していたような部屋とはずいぶん違った。一般病棟の入院スペースに似ている。真ん中にぽつんとベッドが置いてある。シーツに直接置かれていたのは黒い刀だった。表面に触れてみる。つるつるしていて傷はない。横にきて覗き込んでいる男に視線だけで尋ねると首をふった。
部屋に差し込む光が薄くなり振り返ると人影があって心臓が跳ねる。廊下側からこちらを見ている人物がいた。後ろからの光が強くて、暗闇に慣れた目だと男か女か分からない。長い時間が経ったように感じたけど実際は一瞬だった。扉のところにいる人物は、猫が逃げ出すみたいに廊下へと引きかえした。追いかけようと地面を蹴ったが和泉守のほうが早かった。まっすぐに走る。幻かと思ったけど確かに人間で、ずいぶんと先を走っている。足が速い。必死で追っているうちに、相手は突きあたりを左に曲がって忽然と消えた。前を走る男がぐんとスピードをあげる。廊下の先についたと思ったら立ち止まった。ついていくだけでやっとだったので、息を吐きながらこちらも速度を落とした。近くに寄りながら険しい横顔を見つめる。和泉守は振り向くと、指で先を示した。なにもないと思った場所には階段があって、下へと続いている。明かりがすくないので闇に道が消えていて怖い。冷たい風がしたから吹いてほほをなでる。まよっているうちに男は足を踏み出してしまう。なんどか深呼吸して心をきめる。階段は思ったより短く、降り切るとすぐに鉄の扉があった。自然と和泉守が扉に手を伸ばしたけど、気づかないふりをして先に取っ手を掴む。体重をかけて扉をあけるが、最初は何があるのか分からなかった。照明がほとんどなくて薄暗い。案外広い空間には物があまりなく、がらんとしている。扉の隙間から光が矢のようになかに差し込み、中心へと注がれている。明かりをうけるように細長い台があって、そこに置かれていたのは探していた刀だった。近づいて鞘に手を伸ばすと、暗闇から自分じゃない手が伸びてくる。顔をあげると知らない女がいて、もう片方には鈍器を持ち、ちょうど、刀に振り下ろそうとしているところだった。
駆けだすのが遅かったら、またそれとは別に、女が手を伸ばさなかったら、きっと刀は粉々になっていたに違いない。審神者は刀をつかむと素早くしゃがんだので、それを飛び越え向こう側に飛んだ。刀に手をかけると相手の人間はすっかり怯えて動きが悪くなったから、意識を失わせるまで数秒ですんだ。
女はかがんだ瞬間にまたどこかぶつけたのか頭を抱えて唸っていた。声に苛立ちが混じっていて苦笑しながら立たせる。救出した刀は外傷もなく綺麗なものだった。
建物を抜けるとなぜか時間が朝になっていて、世界が薄青い。出た先にスーツを着た男が立っていて、ずいぶん早いなと和泉守は驚く。政府の関係者は古びた建物を感嘆の声をあげながら見あげたのち、説明を求めた。だが、うんともすんとも答えない審神者に眉をひそめ、困ったように和泉守を見つめる。和泉守は彼女がいま喋れないこと、そして今しがたあった出来事を簡潔に伝えた。
「気絶した人間は置いてきてるから、あとはそっちで助けるなり拘束するなりしてくれ」
「話せないとはどういうことですか」
前半部分(それもおそらく一番重要なこと)を全く無視して男がたずねる。和泉守は眉を寄せたがそれだけで、口を閉ざす。すると政府の男の視線が手に持つ刀へと向かった。
「もし審神者が物に危害を加えられたというなら、解体を視野に入れないといけません。穢れが残る本丸なんて聞いたことがない。どうしても立て直せないなら、消滅させるしかないでしょうね」
「……今いるやつらはどうなるんだよ」
政府の男は無表情で和泉守を見つめる。顔にはありありと、そんなことを聞いてどうするんだと書いてあった。視線は自然と女の抱える刀へと向かい、今の会話が聞かれていなければいいと心の底から思った。
「さあ、それをこちらへ」
手を伸ばした男に審神者はあっけなく頷き、鞘を少し斜めにして差し出す。しかし骨ばった指が鞘を握った途端に火花が飛んで、男は悲鳴をあげて手をはなした。
「熱い! なんだこれは!」
がしゃんと痛々しい音をたてて刀が床に落ちる。女は驚いて半歩引いた。政府の男性は手をひらいてこちらへ見せつけるように突き出す。わずかに赤くなっていた。
「火傷している。くそ、こんなことは初めてだ」
政府の男はポケットからハンカチを出すと火傷に巻いた。女は赤くなった皮膚から、床に落ちている刀に視線をながす。横顔は無表情そのものだったが、和泉守には少し怒っているように受け取れた。女はすとんとしゃがみ、手のひらをうえにして前に出す。そのまま触ろうとしたので、和泉守は小さく悲鳴をあげた。
「あぶねぇ! 今の見てなかったのかよ! あんたまで火傷したらどうすんだ」
腕をとるが強い力で振り払われる。止める間もなかった。女はコツンコツンとノックするように鞘を叩いたのち、刀を強く握りしめる。熱さは感じていないようだった。ゆっくりとした動きで鞘をなでると口のなかでなにか呟く。政府の男は一連の流れを黙って眺めていたが、目には不信感がありありと浮かんでいた。
「この方は、なにをしているんですか」
「さぁな」
奇妙な時間だった。祈るように鞘に額をつけると目を閉じてしまった女に、しびれをきらした政府の男が肩をたたいてやっと、女は顔をあげる。一歩間をつめると再び刀を差し出した。躊躇する男に向かって、受け取れと突き出す。よほど熱かったのだろう。恐れるように男はそろそろと手を出して、人差し指で鞘にふれる。二人の息を飲む音が重なった。審神者は冷たい目で刀を見下ろしている。政府の男は、何度か鞘に触れて、問題ないことを確かめると刀を握りしめた。ほっとした空気が漂う。男は念のため政府でチェックしたのちに本丸へと返すという。和泉守はそれがいいと思った。
「ここまでどうやってきたんですか」
「汽車……だな」
馬以外の乗り物なんてほとんど乗ったことがないので言葉が出てこず奇妙な間がうまれた。思い出したはいいが簡素すぎるかと思い、いきさつを伝える。冗談のつもりで、ずっと座ったままで辛かったとこぼしたら政府の男は絶句して、もしよかったらと特急の券をくれた。これで政府の本拠地近くまで移動してそこから帰ればいいと、親切に道順まで教えてくれる。正直帰りは転移装置を使えばいいと思っていたが、政府の男によると、履歴が残らないようにという考えかもしれないとのことで、なるほどそういうものかと納得する。真意を確かめようにも審神者はどこ吹く風で、まぶしそうな顔をしながら朝日と向かい合っていた。理由はよく分からないがなんとなく帰りたくない気分だったから、ちょうどいいかもしれないと、券を握りながら思う。
出口まで舗装されていない道のなんとか通れそうな場所を一緒に歩く。たどり着いた途端、男はじゃあこれでと手をあげ、そそくさと立ち去った。扉が目に入った瞬間の安堵しきった表情が印象に残っていた。
足を踏み出すと駅についていて、時代が少し進んでいた。電車がホームに入ってくる。驚いたことに奥のいくつかが個室で、室内は狭いが簡易ベッドが二つついていて、足をのばせることに安堵した。女は黙ってぼんやりと壁を眺めていたが、ふと立ちあがり荷物をまとめると部屋を出て行った。ものすごい疲れが押し寄せてきて、戦装束の細々した装備だけ取りのぞき横になる。替えの服なんて持っていかった。
数分後、戻ってきた女の髪がしっとりと濡れていた。隣にシャワー室があるということをそのとき初めて知った。首にタオルをかけたまま、女は布団にあった寝巻きを手に取る。まさかと思ったら、躊躇なく服に手をかけたので、慌てて後ろを向いた。ごそごそと音がする。ほんとうに男として見られていないのだと実感し、ほっとするのと同時にどこか虚しさを感じた。
肩を叩かれて振り向くと、すっかり着替えを終えた女がいた。先ほどより楽そうな服を身にまとっている。細長い寝台に体育座りでいるとどこか子供みたいだ。
ちょうどトンネルに入り、外からの光が室内に反射する。
そういえば、刀に何と言ってきかせたのか聞きそびれてしまった。いつか分かるだろうと楽天的に考え、和泉守はあくびをひとつした。