すくわない(15)

 日常というものは、どんなことがあっても、時がすぎるにつれて平坦になっていくものだ。辛いことがあっても、どんな傷も、時間が解決してくれる。傷の深さはどうであれ。壁に寄りかかるようにして座りながら、和泉守はそんなことを思った。少し離れた場所では、机に広げられた雑誌をうえからのぞくようにして見ながら、ぼんやりとミカンを食べている女がいる。うつむき加減で、ときおり頬杖をつくので表情はわからないが、全身から“退屈”というオーラがでていた。女の指先がみかんの実の表面についている筋を綺麗にとり、広げられた皮のうえにおとすその仕草も、けだるげな態度に拍車をかけていた。
「こんのすけ」
 呼びかけると、審神者に寄り添うようにしながら座布団に丸まって船をこいでいた狐が、びくっと体を震わせた。「どうしましたか」座りなおした狐がこちらを向く。「帰らないのか。元の本丸に」不服そうに和泉守が言った。ちら、と審神者に目を向けるが、本人は二人のやり取りに目もくれず雑誌をめくる。まるで聞こえていないみたいに。それが“みたいに”ではなく、実際にそうだったと思い出すまで、少しの時間がかかった。いまの彼女は耳が聞こえていない。こんのすけによると、前にもこういうことがあったらしい。前回の原因はおそらくストレスだと、言いにくそうに狐は説明した。そこまで聞いて、女の、またかという態度や動揺をしていないようすに納得すると同時に、怒りに襲われた。これ以上ないくらい不快な思いをさせられ、あまつさえ主の聴力まで奪われた。この本丸の刀にも事情はあるにせよ、こちらにはほとんど関係のないことだったはずだ。和泉守が審神者を守る姿や、また女も、折れかけた刀を抱いてまもろうとしたこと(それらはこんのすけから聞いた話だ)で、いくらか心が動いたらしい。まれにだが姿を見せるようになったし、刀の、審神者を見つめる目にはわずかに後悔が滲んでいる。だが和泉守の胸には苦いものが広がる。彼らが受け入れてくれることはたいへん結構だが、頭のどこかで警鐘が鳴っていた。二人で決めた取り決め(いざというときは審神者を置いて政府に連絡、元の本丸に助けを求めること)に背いたのは和泉守の判断で、それにしても危ない賭けだったと、いまになって思う。もう少しタイミングがずれていたら、二人ともきっと命はなかった。意外なことに、和泉守が個人の意志で動くことに対して、こんのすけは意義をとなえず、むしろ協力してくれた。男士たちの心情に変化があったためか、本丸の空気はさらに綺麗になった。時間はかかるかもしれないが、これなら新しい審神者の元で再び力を貸すこともできるようになるだろう。だから、もう面倒を見てやる義理などこちらにはないのだ。さっさと別の審神者にきてもらい、この厄介な“ねじ曲がり”たちの面倒をみさせれば良いと、和泉守兼定はそう思っていた。「もうすこし期間は残っているので。主さまも了承されていますし」審神者に似たのか、もともとの性格なのか、こんのすけは淡々としている。が、今回の説明はどこか歯切れが悪かった。それは和泉守が軽蔑の意味をこめて睨みつけているせいで、刀をカチリと鳴らすと、狐は恐怖で尾を膨らませた。ぴりっとした緊張がはしり、異様な空気に気づいた女が顔をあげる。二人に視線をめぐらせ怪訝な表情を浮かべたので、何事もなかったかのように刀から手を離し、さりげなく腕を組む。「政府があいつらを刀解しないってのは、戦力に困っているからか?」「おもには。多いに越したことはありません。経験値をため、刀が育つには相当な時間がかかるのですよ。彼らの練度は十分あります」「へぇ、そうかい。おめでてぇ頭だ」女がのそりと立ちあがったので、会話は中断された。供をしようと、和泉守がすかさず腰を浮かせると、審神者は片手をふって動きを制した。そこにいろと手で畳をしめす。困惑する男を置いてきぼりにして、音もなくすたすたと廊下のほうへ歩いた女は、一気に障子をひいた。そこには、目を見開いた加州清光がいた。手を中途半端にあげていて、いままさに、声をかけようとしたところのようだ。「あ、はは。えーっと、すごいね。気配、消したのにさ」和泉守は勢いよく立ちあがり大股で近づいた。加州は怯えたように一歩下がり、何もしないと両手をあげる。「聞こえないんだっけ」申し訳なさそうに加州が呟いたのとほとんど同時に、障子が勢いよくしめられる。もちろん、審神者の手によって。和泉守は、あまりの音に驚いた。「最後まで喋らせてやれよ」許しているわけではないけれど、冷たい廊下に立ち尽くす影が肩を落としているのが薄い影から見えて憐憫をさそう。影は軽く首をふると、静かに去っていった。審神者はため息をつくと振り返り、後ろに男がいることに気がつくと、ぎょっとして後退る。足音さえ聞こえないのだから当然かとは思うが、その態度には少しばかり傷付くとそんなことを考えていると、どいて、とばかりに胸を押された。女は普段より荒っぽい動作で座布団に座ると、新しいみかんを手にして皮をむきはじめる。半分に割ったものを一気に口に突っ込んだので目を見張った。憂さを晴らすがごとく、わしわしと食べている。よほど怒っているらしかった。「長いな。最後までっていうのも」

さきほどまでいた壁際に戻りながら呟くと、こんのすけが尾を振って、

「案外、あっという間ですよ」

と、こたえた。

 

 

 

 

耳が聞こえなくなって良かったことがあるとすれば、静寂がおとずれたことだった。まるでほんとうに冬の中にいるみたいだと思う。なにもない雪原で、一人で立っているような孤独を感じる。そこは荒野で、とてもやさしい世界だ。誰もいない廊下を歩く。この本丸は自分のもっているものよりもずっと大きくて、かつ人が少ない道を選んでいるから、刀とはすれ違わない。

それはさておき、不便なこともあるにはある。和泉守と意志の疎通がとれないことだった。こんのすけは機械に強いので、それらを駆使してやり取りをした。体育座りの体勢で、腹と膝の隙間にこんのすけを押し込んで、小さな足が画面を叩くのを眺める。器用な動きに感心するとともに、どうしても可笑しくて、笑ってしまいそうになる。それに、お腹がほのかにあたたかくなるので、気に入っていた。

それに反して、和泉守は機械が苦手だった。筆談を考えたけれど、面倒くさくて試してすらいない。もう刀たちは危害を加えてこなさそうだし、いちいち話すこともないしと、心のなかでいいわけする。

それよりも、最近は不思議なことがおこるので、そのことばかり考えていた。子供の幻覚を見るのだ。それも、見知っている姿の。

それは誰かがそばにいるときは現れない。決まってひとりのとき、ふと視界のすみに影がよぎる。ときには足音も聞こえる。冬は誰も廊下を歩いたりしない。おそらく寒さをふせぐために部屋へと引っ込んでいる。散歩は考え事にちょうどよかったし、ある種の確信を持って、奥へ奥へと進む。すると角を曲がった先に、ちょうど考えていた――子供がいた。お日様のような色をした髪が、朝の光を受けて輝いている。縁側の淵に座りながら、ときおり、楽しそうに足をゆらしていた。眺めていると目があい、ここへ来いとばかりに床へ手を置いて示すので、素直に近づく。

子供の姿をした刀は、近くによるとかすかに笑いかけてくる。誘ってきたくせに、彼は言葉を発さない。ひとりでたのしそうに鼻歌をうたっている。

「あなたは、ここで役目を終えた刀ですか?」

言葉にしてはじめて、会話ができることに驚く。いや、もっと前に異変に気付くべきだった。歌なんて聞こえるはずがない。いまの私には。

子供はゆっくりと目をあわせると、静かに口をひらき、こう呟いた。

――帰り道がわからないのだ、と。

 

 

ぼんやりと本を読みながら考えごとをしていると、こんのすけが遠慮がちに腕を叩いてきた。すっかりおなじみとなったやりとり(開きっぱなしのパソコンに文字を打つ)をするべく、狐は前足をキーに置いた。

――食事をしないのですか

打ち出された文字に、いらないと首を振る。先日の出来事が心のなかで尾をひいていた。深夜、たまに厨を借りて料理することは一度あったが、ほんとうにそれきりだった。他人の家で勝手にキッチンを使うような気まずさがあるし、食事を作ることも、食べることも、得意ではなかった。

――みかん食べたし、平気

そう返事を打つと狐は絶句した。しかし流石に、一日なにも食べないとお腹がすくので、たまたま机にあった菓子でも食べるかと伸ばした腕を、誰かの手が抑えた。指先から目線をあげていくと、和泉守兼定がいつのまにか隣にいて、怖い顔をしている。彼は普段距離を置いて、壁際とか、入口だとか、視界にはいらないような場所にいるので驚いてしまう。男の、ほとんど睨みつけるような表情には怯みそうになるが、怒られるいわれはないので全力で振り払った。男は苛つきを隠さず顔を歪ませる。腕をつかみなおし立ちあがるので、つられるように腰をうかせた。もしかしてお菓子がほしかったのかと、手のなかにあるそれを差しだせば冷たい目を向けられる。足元でこんのすけがくるくるとまわって何かを叫んでいる。おやめください、とでも言っているんだろうなと予想した。男は腕を掴んだまま廊下に出て行こうとするので、仕方なくあとに続いた。歩幅が違うのでたまに足がもつれてしまうが、とまってはくれない。

辿り着いたのは厨で、夜が遅いためか男士の姿はなかった。作業台までつれてきてからやっと男は手をはなす。なにを思ったのか、立てかけられたまな板を睨んでいる。親をまな板に殺されたのかというほどに険しい表情を浮かべていた。彼はゆっくりと振り向き、口をひらいた。料理を作れるかと言っているようだ。ここにくる目的はひとつしかなく、料理は苦手なので首を振ると、もとの苦渋にみちた顔に戻った。

雑炊くらいなら私でも作れるかと思い立ち、小さな鍋を準備する。そういえば、彼は食事をどうしているのだろう。厨を好きに使っていいと言ったきり放っておいてしまったから、よくわからなかった。彼が料理をしたところを一度も見たことがない。空腹に耐えかねてここに連れてきたのだとしたら放任主義が行き過ぎている気がして申し訳なくなる。そんなことを考えながら水を沸騰させ、非常食として冷凍しておいたご飯を入れる。卵も追加し出汁と塩でかるく味をつけた。味見をしてみたけれど、特別美味しいとは思わなくて首をかしげる。光忠が作ってくれるご飯のほうが何倍も美味しい。でも、口に含んだら優しい風味が広がって、お腹が鳴る気配がした。塩を足すといくらかましになり、妥協点かなと思いつつ綺麗な器に盛りつける。見た目が寂しい気がしたので、冷蔵庫から小ネギを拝借し、ちらした。

器に盛りつけ近くの机(というよりはむしろ作業台)に運ぶ。スプーンを準備して、どうぞと手で指し示せば、和泉守は驚いたように目を見開いて、首がもげるのではというほどに左右にふった。お腹がすいたのではないのか。この刀の考えていることはよくわからない。どうすることもできずにただ見つめあっていると、しびれをきらした男は私を指差して、ご飯を食べる動きをした。さっきのこんのすけとのやりとりをみて、気をつかってくれたらしい。もう夜だから食べる必要なんてないと思ったけれど、作業台を背にして腕を組んでいる男は食べないことを許してくれなさそうだ。それに勘違いで作ってしまったとはいえ食べ物を捨てるのはもったいないので、大人しく椅子に腰掛ける。雑炊を口に運んだ。やりとりをしているなかで温度がちょうど良くなっており食べやすい。自分だけ食べるのもしのびないのでもうひとつ器を持ってきて雑炊をよそい男のまえに置いた。手を付けられなかったらこんのすけに食べてもらおうと思ったが、心配の必要はなかった。和泉守はすごく驚いた顔をしていたが、数秒遅れて丁寧に手をあわせる。小さな作業机で向かいあって食べるのは初めてで、なんだか奇妙な時間だと思った。

先に食べ終わったので流しで食器を軽く洗う。自分の舌に自信がないので、不味かったらどうしようと思ったけれど、男はいつのまにか完食していたようで、ひそかに胸をなでおろした。