「寒いよ。巫女服だし」
でも冬には慣れている、と心の中で付け足す。腕の中で彼はそうですかと静かに相槌を打ち、少し迷ったあとに言葉を続けた。
「懐かしいですね」
「あぁ。これ?」
襟足を一束つまんで左右にふる。黒く染まった毛先が揺れた。暗い色にするのは久しぶりだった。染める前は小麦に近い色だったので、暗くするのは簡単だった。逆に、明るくするのは大変なのに。黒く塗りつぶしてしまうのは動作もなかった。
狐は腕の中で、よくお似合いですと、お世辞を口にする。返事のかわりに頭をひとつ撫でた。
「ここかな」
暫く雪の中を歩いていると、大きな蔵にたどりつく。こんのすけは尖った鼻を突き出して、たしかにここです、と小さな声で言った。木の扉に近づく。ちょうど腰の位置に、黒くて重そうな関がされていた。こんのすけを地面に置き、両手で硬くなった鍵を回す。すると思ったより簡単に鍵があいた。
ぐぐぐ、と戸を横に引くと、細い光が奥へと伸びる。全体は広くて見渡せない。二人くらいなら住めそうな空間だった。
濃い闇が広がっていて息が詰まる。押しつぶすような暗闇だった。立っているだけで、恐怖に足がすくんでしまうような、異様な空気が辺りを満たしている。無意識に腰にさしていた刀に手を伸ばした。柄を握ると恐怖がやわらぐ気がした。大丈夫だ。何かあったら呼び起こせばいいのだから。心の中で呟いて奥を見つめる。
壁の近くで黒い粒が動いている。最初は見間違いかと思ったけれど、隣でこんのすけが尻尾の毛を逆立てて警戒しているので、幻覚ではないと確信した。ばらけていた粒がじわじわと集まる。やがてそれは子供の背丈くらいの大きさになり、人の形を作った。右手に何か細長いものを持っている。
影は求めるみたいに前へと腕を伸ばす。肉の匂いがした。同時に涙の匂いもする。注意深くきけば、啜り泣く声もとどいた。
すでに恐怖は消えていた。持ってきた刀をゆっくりと鞘から外すと、太陽の光を反射して鉄が輝きをはなった。形だけ構えると、見えない人を斬るように、闇に向かって振り下ろした。
悲鳴はなかった。ただ空気が震える。黒い粒が風とともに足元を通り抜けて、冬の空気に溶けていった。
見えない何かが体を通過したとき、いっせいに誰かがしゃべるような声がして片耳を押さえる。引っ張られてはいけないと思う。知らず知らずのうちに柄を握る手に力がこもる。
やがて風もおさまり、蔵の奥を覗いてみたけれど、もう黒い粒はいなかった。生ごみのような匂いも消えている。
刀を鞘に戻すとこんのすけが近づいてきたので、しゃがみながら無言で両手を広げると、反動をつけて猫のように飛び込んできた。
「次はどこ?」
「手入れ部屋です」
蔵を出てから閂をしめる。振り返れば白い雪に一人分の足跡がついている。
雪の中に足を一歩踏み出したとき、腕の中で控えめな声がした。
「泣いているのですか?」
驚きのあまり足をとめた。おそるおそる指先で目の下に触れると、たしかに濡れていた。
「どうしてだろう。全然、かなしくなんてないのに」
ごしごしと消すように擦って、小さく首をふった。