すくわない(1)

 雪が降りそうだった。空は薄い膜が張ったように白い雲で覆われている。冷たい風が巫女服の間を通り過ぎていき、首を縮めてやり過ごした。庭は色を無くしている。どこもかしこも、冬枯れていた。足を動かすたびに腰にさしている刀が揺れてとても歩きにくいが、かまわずに足を進める。足元では小さな狐が必死にあとをついてきていた。体温を逃がさないためか体毛がいつもの倍くらいに膨れている。庭に目を向けると、椿の花が咲いているのが見えた。厚みのある赤い花びらに白い雪が乗っている。赤と白の対比が綺麗だった。そのまま眺めていると、重みに耐えきれなくなったのか、花はぼとりと落ちてしまった。縁起が悪い――と、とっさに思ったけれど、自身の本丸にも椿の花は植えてあるので、人のことは言えない。止めていた足を動かすと、下のほうから、ぎゃっと声がした。こんのすけが雪に足を取られて頭からつんのめりそうになっている。そっと脇に手を差し入れて体を抱くと、弱々しい声で「ありがとうございます」と狐が言った。腕の中に収まったこんのすけが、私に寒くないのかと尋ねる。彼は足を折りたたんで震えていた。

「寒いよ。巫女服だし」

でも冬には慣れている、と心の中で付け足す。腕の中で彼はそうですかと静かに相槌を打ち、少し迷ったあとに言葉を続けた。

「懐かしいですね」

「あぁ。これ?」

襟足を一束つまんで左右にふる。黒く染まった毛先が揺れた。暗い色にするのは久しぶりだった。染める前は小麦に近い色だったので、暗くするのは簡単だった。逆に、明るくするのは大変なのに。黒く塗りつぶしてしまうのは動作もなかった。

狐は腕の中で、よくお似合いですと、お世辞を口にする。返事のかわりに頭をひとつ撫でた。

「ここかな」

暫く雪の中を歩いていると、大きな蔵にたどりつく。こんのすけは尖った鼻を突き出して、たしかにここです、と小さな声で言った。木の扉に近づく。ちょうど腰の位置に、黒くて重そうな関がされていた。こんのすけを地面に置き、両手で硬くなった鍵を回す。すると思ったより簡単に鍵があいた。

ぐぐぐ、と戸を横に引くと、細い光が奥へと伸びる。全体は広くて見渡せない。二人くらいなら住めそうな空間だった。

濃い闇が広がっていて息が詰まる。押しつぶすような暗闇だった。立っているだけで、恐怖に足がすくんでしまうような、異様な空気が辺りを満たしている。無意識に腰にさしていた刀に手を伸ばした。柄を握ると恐怖がやわらぐ気がした。大丈夫だ。何かあったら呼び起こせばいいのだから。心の中で呟いて奥を見つめる。

壁の近くで黒い粒が動いている。最初は見間違いかと思ったけれど、隣でこんのすけが尻尾の毛を逆立てて警戒しているので、幻覚ではないと確信した。ばらけていた粒がじわじわと集まる。やがてそれは子供の背丈くらいの大きさになり、人の形を作った。右手に何か細長いものを持っている。

影は求めるみたいに前へと腕を伸ばす。肉の匂いがした。同時に涙の匂いもする。注意深くきけば、啜り泣く声もとどいた。

すでに恐怖は消えていた。持ってきた刀をゆっくりと鞘から外すと、太陽の光を反射して鉄が輝きをはなった。形だけ構えると、見えない人を斬るように、闇に向かって振り下ろした。

悲鳴はなかった。ただ空気が震える。黒い粒が風とともに足元を通り抜けて、冬の空気に溶けていった。

見えない何かが体を通過したとき、いっせいに誰かがしゃべるような声がして片耳を押さえる。引っ張られてはいけないと思う。知らず知らずのうちに柄を握る手に力がこもる。

やがて風もおさまり、蔵の奥を覗いてみたけれど、もう黒い粒はいなかった。生ごみのような匂いも消えている。

刀を鞘に戻すとこんのすけが近づいてきたので、しゃがみながら無言で両手を広げると、反動をつけて猫のように飛び込んできた。

「次はどこ?」

「手入れ部屋です」

蔵を出てから閂をしめる。振り返れば白い雪に一人分の足跡がついている。

雪の中に足を一歩踏み出したとき、腕の中で控えめな声がした。

「泣いているのですか?」

驚きのあまり足をとめた。おそるおそる指先で目の下に触れると、たしかに濡れていた。

「どうしてだろう。全然、かなしくなんてないのに」

ごしごしと消すように擦って、小さく首をふった。