さようなら、夏

大包平は主の事が嫌いだった。理由は女だということ、よって自分を満足に扱えないこと。そして――自身と決して目を合わすことなく、居ない者として扱うこと。

最初は気のせいだと思った。そんな風にぞんざいな扱いを受けるいわれは無かったし、刀としての誇りがあったから。

波打ち際を歩く静かな後ろ姿を遠くから眺める。夏の海は太陽の日差しを反射し目に矢のように飛び込む。塩を含んだ風が、女の明るい風を遊ぶように通り過ぎ、毛先が波のように揺れていた。

コンクリートの階段に腰を下ろしながら、額に浮かんでくる汗をそっと手の甲で拭った。傍に置いている刀に視線をおとす。畳まれた黒いジャケットの上に置いてあるそれは、海という場所を嫌がっているように見えた。ここで刀を抜いたら錆びてしまうのでは――そんな考えが浮かんだが、女の苦笑いを思い出す。そんなにすぐ錆びないと笑っていた。もしそうなったら、すぐになおしてあげる、とも。

女はずいぶんと遠くに行ってしまっていた。下を向いて波打ち際を歩いていた審神者は、今度は海と向き合っている。手に持っているユリの花束をそっと海に落とす――次の瞬間、波は無情に攫っていってしまった。

白い花が一瞬で飲み込まれていく。それを眺めながら、命の終わりを考えていた。

――死。

それは人にも物にも平等に訪れる。付喪神として存在している自分だってそうだ。肉体を持ち、この世に落ちてしまった時点で変えられない真実だった。

思考がまとまらない。小さく頭を振ると、女が海に向かって一歩足を踏み入れようとしているのが目に入る。まるで引き寄せられているように、ふらふらと体が揺れている。

「おい。待て」

刀を掴むことも忘れて立ち上がる。その瞬間、理解した。

自身が、審神者を嫌いな本当の理由を。

 

 

 

 

黒い雨が降っていた。

刀の切っ先が空を裂き、水がわかれていくような錯覚に陥る。針のように細く鋭い筋が走り、閃光が舞う。確かな肉の感触。手に伝わる衝撃と、湿った血の匂い。

体が高揚していた。血が逆流する。荒い息を吐きながら敵の姿を探していると、前方からのんびりとした声が響いた。

「今日はもう終わりだな」

「なんだ。もう終わりか」

つまらなさそうに吐き捨てると、空中で刀を振った。遠心力で刀についた血が飛んでいくが、すぐに雨に紛れて見えなくなった。そのまま滑らせるように鞘に納める。

 

 

鳥居をくぐり本丸に足を踏み入れたが、そこには誰も居なかった。

「普通、出迎えくらいしないか?」

全身ずぶぬれのまま、呆れたように大包平が言った。皆、一様に口を噤むが、思っていることは同じだった。水が滴る前髪を横に流しながら鶯丸が言う。

「まあまあ。何事も例外があるさ」

大包平は眉間にくっきりと皺を寄せた。気に入らない。自分が隊長じゃないことも、ぬるい戦場ばかりに向かわせられるのも。

そして――何より彼を苛立たせたのは、主人の態度だった。カタツムリのように執務室にこもり、出陣から戻ってきた戦士に労いの言葉すらかけようとしない。たった一言を貰えたら、ここにいる皆が喜ぶというのに。そう思うと心の中で深いため息をついた。

しかし、それは外側に漏れていたようで、隣で鴬丸がやわらかく笑う。

「大包平。お前、主に報告をしてくれないか」

「構わないが……なぜだ。何を企んでいる」

「俺はゆっくり風呂に入り、そして茶をのみたい」

なんだそんな理由かと力が抜けてしまう。早く休みたいのは同じだったが、渋々了承する。

「あぁ、そうだ。お前は主の顔をまともに見たことがあるか」

「無い。特に興味もない」

実際どうでも良かった。この数ヵ月で、彼の主人に対する評価は地に落ちていた。

鶯丸は、そうか、とそれ以上話を膨らませるつもりもなさそうに呟く。

「主は若い女だぞ」

執務室に向かおうと踏み出した足が止まる。

「それを早く言え。このまま行くところだった」

こつ、と肩の辺りを押し、ずんずんと歩く。女か。戦帰りで血の匂いをまとわせていたら、怖がらせてしまうかもしれない。

鶯丸は、まっすぐに風呂に向かう背中を見ながら、「本当に見ていて飽きないな」と笑った。

 

 

風呂で血やら泥やらを洗いながしてから、きっちりと新しい戦装束に身を包んだ大包平は、少々緊張した様子で廊下に膝をついた。主と顔を会わせるのは顕現されて以来初めてだった。手のひらに汗が滲んでいるのに気が付き、僅かに眉間に皺を寄せる。

主は、大包平を顕現する際、狐の面を付けていた。口元しか見えないそれは、明確な拒絶を表しているようで、実際、挨拶もそこそこに居なくなってしまったのだった。

それから早いもので数か月が経った。それから、主とは一度も口をきいていない。

障子越しに声をかければ、バタバタと慌ただしい音が聞こえる。

「どうぞ」

不自然に高い声に困惑しながら障子を開けると、困ったように笑う狐と目があった。十畳ほどの室内をぐるりと見渡すが人の姿が無かった。

「主はどこにいる? 用があってきたんだが」

「現世にいます。彼女は不在なので、用件は代わりに私が承ります」

「主は仕事をお前に押し付けているのか? 近侍もつけずに?」

大包平の怒ったような声に、管狐はしゅんと耳を下げた。ごにょごにょと口の中で何か呟いている。

「大包平様は最近顕現されたので、勝手が分からないのでしょう……」

「この本丸が――主がおかしいということだけは分かっている。演練で散々他の審神者を見てきたが、ここまで俺達を放っている審神者は他にいないぞ」

荒々しい動きで狐の向かいに腰を下ろす。当たり前のように敷いてあった座布団に腰を落ち着けた男に、管狐は「そこ、主様の席ですよ」と蚊の鳴くような声で注意した。

「知ったことか。何か、俺に手伝えることはあるか?」

汗を垂らしながら作業している狐に声をかけると、彼はぱっと顔を輝かせた。しかし、思い直したように下を向く。

「ありがたいですが、私が主様に怒られてしまうので」

「なぜだ」

「なぜって、主様は近侍の仕事を男士にやらせたくないんです。もっと言うと、全部自分でしたいのです」

「だがそれが出来ていないから、お前がそこにいるんだろう」

いいからかせ、と男は紙の束を掴む。そしてにやりと口角をあげた。

「お前が馬鹿正直に報告しなければ、ばれない」

「助かります。お気遣い、感謝致します」

書類に目を通しながら、大包平はポツリと呟いた。

「主は、どんな人なんだ」

「どんなって言われましても……。え? 一度も、話したことないんですか?」

「呼ばれたとき以来、顔すら会わせていないな」

「そんな。本当に、申し訳ありません……」

「お前が謝ることではない」

言いながら、心の中がザワザワとするのを感じた。単純に面白くない。自分は何に命を懸けているのだろう。いったい誰に忠誠を誓っているのだろうか。

今日、その答えが分かると思ったのに。狐の小さな前足があっちこっちへ行くのを眺めながら、ひとしれず肩を落とした。

 

 

部屋に戻ると、鶯丸はいつものようにお茶を飲んでいた。途端にささくれだった気持ちが緩くほどけていく。

「どうだった。若い女だったろう」

「居なかった」

机に紙を置きながら答えると、鶯丸は瞳を丸くした。

「だからって、持ってかえってきたのか」

「何がおかしい」

くすくすと笑っている男を睨むと、彼は穏やかな声で、「こんのすけは居なかったのか?」と聞いた。

「いた。忙しそうだったから、少し仕事を手伝ってきた」

鶯丸は、とうとうこらえきれないとばかりに、大きな口を開けて笑った。

「大包平。ここではな、連絡はこんのすけを通して行うんだ。だから、主が居なかったら、今度から彼に渡すといい」

は、と大包平は口をぽかんと開けた。そんな無責任なことは無い。

呆れてものも言えない彼に、鶯丸は言葉を続けた。

「まあ、諦めるんだな。物は持ち主を選べないのだから」

ちらと横目に見ながら、大包平は全く別の事を考えていた。

――主と、一度話をしないといけない。

その気持ちは炎のように大きくなっていた。そんな大包平を横目に、鶯丸は湯飲みをのぞくと「おや。茶柱が立った」とほほ笑む。

 

 

朝。先ほどまで雨が降っていたようで、庭先がしっとりと濡れて、木々は緑に輝いていた。

大包平は一人でぐんぐんと廊下を歩いていた。時刻は朝七時。朝餉の席にはあたり前のように主は居なかった。

「主、起きているか?」

「…………寝ています」

廊下に膝をつきながら再び声を掛けると、呻き声の後に、「五分だけ、待ってください」と掠れた声が聞こえた。

女だ。鶯丸の言っていたことは本当だった。急に心臓がどきどきと喚きだして、思わず胸の辺りを押さえる。深呼吸を何度かしていると、かさりと衣擦れの音が聞こえた。

「どうぞ。入ってください」

障子を静かに開け、一礼した後に敷居をまたぎ、ゆっくりと顔を上げる。灰色の瞳が細くなった。

執務室にはひとりの女がいた。まず目を引いたのは髪の毛だ。審神者には黒髪が多いが、なぜか目の前の女は小麦のように明るい色をしていた。僅かに灰色がかったようなそれは明らかに人工的で、少々面食らってしまう。鍛刀部屋は薄暗く、どんな外見かよく分からなかったのだ。

きっちりと着こまれた巫女服の袖から白い腕が覗く。正座した膝の上に静かに乗せられているそれは魚の腹のように白い。だが触れたら柔らかそうだった。

「えっと……。何か用があっていらしたんですよね。こんな、朝早くから」

ぼうっとしている男を訝し気に眺めながら、女はぼそっと呟いた。はっとしたように顔を上げる。日がでてからずいぶんと経っているが、そこを突いても仕方がないので、大包平は聞かなかったことにし一枚の紙を手渡した。

「これを。この間の戦績報告書だ」

一瞬きょとんとした後、静かに頷いて受け取る。こげ茶色の瞳からどんどんと色が失われていき、背中に冷たいものが走った。

「ありがとうございます。でも、これからはこんのすけを通して下さい。わざわざ直接来なくて、結構ですから」

氷のように冷たい温度で言い放たれて、体が冷たくなった。一瞬頭の中が真っ白になり、言いたいことが全て吹っ飛んでしまう。

「なんなんだ。その言いぐさは……」

「え? ごめんなさい。良く聞こえなかった」

ぐらぐらと体の中で怒りが煮えていくのが分かった。感情のままに言葉が飛び出てしまう。

「お前のその態度はなんだ? こっちは命をかけて戦っているんだぞ。それなのに見送りひとつしないなんてあんまりじゃないか。それに、仕事が間に合わないなら近侍くらいつけろ。今のやり方だったら、……それこそ、非効率だ」

「近侍は、ぜったいに付けません」

「こんのすけは、困っていたぞ」

女は、冷めたように男を見つめる。

「そうですか。報告ありがとうございます。正直、そこまで頼んでいた覚えは無かったのだけど……。仕方ない。仕事の量を調節します」

一気に言い切ると、さっと立ち上がり障子を開け放つ。そのまま男に向き合った。

暗に帰れと言われていることは分かっていたが、大包平は動かなかった。

「まて、どうするんだ。量自体は変わらないだろう」

「どうって……。私がやります。全て、一人で」

さあもう話は終わりだというように、にっこりと微笑む。こんなに分かりやすい作り笑顔を今まで見たことがあっただろうか。その不自然なほどにあがった口角を見た瞬間、大包平の中で我慢の糸が弾けた。

「そういうことじゃない! もっと、俺達と歩み寄れと言っているんだ! なぜそれほどに距離を置く? お前は、一体何を怖がっているんだ!?」

「大包平」

ぞっとするほどに低い声だった。挑むような気持ちで、上のほうにある瞳を睨む。海の底のように暗い色をしていた。

「二度と執務室へは来ないで。そして、暫く私の前に姿を見せないで」

雷の一撃が脳天から落ちて来たようだ。視界が真っ暗になる。

「あぁ。俺も同じことを思っていた。……お前の顔など、もう見たくもない」

大きな足音を響かせながら、来た廊下を進む。心の中は嵐のように乱れていた。気持ちを落ち着けるように腰に下げられている刀に手を滑らせる。

――刀は持ち主を選べない。

本当に憐れだと思った。好きなように話せる口、どこへでもいける手足を貰ったのに、一向に自由になった感覚がしなかった。

 

 

 

早いもので、言い争いをした日から二週間が経った。同室の鴬丸は大包平の様子がおかしいことにうすうす気がついていたが、特に追求はしなかった。

今も、穏やかに微笑みながら日記を書いている。気を使ってくれているのだろう。「最近静かだな」と言ったきり、何も触れてこない。その優しさが、ささくれた心にはありがたかった。

あれから。一度だけ主と会った。会った、というと語弊があるかもしれない。目すら合わなかったのだから。

まだ日の差してこない早朝のことだった。なんとなく早く起きて、廊下を歩く。まだ誰も吸っていない朝の空気が肺を満たした。ふと人の気配がして、俯いていた顔を上げる。心臓に痛みに似た感覚が走った。廊下の向こうから、主が歩いてきていた。こんな時間から巫女服を着ている。腕をだらりと下ろし、俯いていた。

髪の毛一本の先まで疲れたような、淀んだ空気を発しながらこちらへと歩いてくる。軽い足音が近づくにつれて心臓の鼓動が大きくなった。

ほとんど数メートルまでの近さになっても、女はうつむいたままだ。明るい髪の毛が頬をくすぐっている。それがわかる距離になるまで、ぼうっと突っ立ったまま見つめていた。

何か言わなければ。そう思って口を開きかけ――固くとじた。噛み締めた口の中で、奥歯が音を立てる。

審神者は、大包平がいることに気がついているのに、冷たく無視をした。足が大きく踏み出され、半円を描くように進み、さらに身を捩って距離を取る。

すぐ横に明るい色が掠った。それは波のように揺れる。

大包平は、呆気にとられたように後ろ姿を見つめることしか出来なかった。いっそ清清しいくらいに無視をされた。そこら辺に落ちている石ころになったかのような気持ちになる。

胸に沸いてくるのは単純な憤りだった。何も悪いことはしていない。にもかかわらず、明確な線引きをされた。目の前で扉を閉じられ、怒りでどうにかなってしまいそうだった。固く拳を握る。爪が皮膚を裂いて針で指したような痛みが走った。

自分の心を覗くと鮮やかな怒りの向こう側に、深い海のような悲しみが広がっている。

 

 

夜。

大包平は何度目か分からない寝返りをうった。心がざわざわとして眠れない。

胸を満たすのは焦燥だった。そして深い悲しみ。今朝の出来事を思い出すと、心が海の底に沈んでいくようだった。唸りながら寝返りを打てば二つの瞳があった。薄い緑色が暗闇の中で光っている。

「何かあったのか」

静かな夜のなか、鶯丸の穏やかな声は、体にすとんと落ちていく。

「俺はあいつを見限った」

その一言で、鶯丸はすべてを理解したような顔をした。

「前の彼女はあんなではなかった。明るくて、笑っていない日はなかったくらいだ。巫女服を着る日は殆ど無かった。……そうそう。きつくて嫌だと言っていたなぁ。あの頃が懐かしい。だからよく、ヒラヒラとした服を着ていた。俺は巫女服でなくとも、和装のほうがいいと思ったから、主に、」

「服のことはもういい! だが……にわかには信じられないな」

「どうしてあそこまで別人になってしまったと思う?」

大包平は沈黙した。頭に一瞬だけちらついた言葉があったが、あえて口にはしなかった。

「分からん。それに、本人が言ってこないのだから、俺が知るべきではない、」

「まあ、初期刀が折れたんだがな」

「おい。お前な」

呆れながら目の前の男を見つめる。ひとつ、心に影が過った。

「もしかして、恋仲だったのか?」

「いや? 初期刀のほうは慕っていたようだが。彼女はそうでも無かったんじゃないか。現世に男もいたしな。でも、だからこそ後悔しているのではないか。大切なことは、失ってから初めて気が付くことが多い」

そこまで黙っていた大包平は、むっくりと体を起こした。

「主と話をする」

「今からか? 夜這いだと叫ばれても知らないぞ」

布団の中からくすくすと軽やかに笑う声がする。

「だが、今日を逃したら機会がない」

明日から連日の長期遠征になっていた。何がなんでも距離を置こうという審神者の強い意思を感じる。朝礼でこんのすけから指示を貰ったとき、「子供か!」とその場で声を荒げてしまった。

思い出したら腹の底がむかむかしてきた。冷たく無視をされて落ち込んでいた気持ちなどふっとんでしまう。立ちあがり浴衣の帯を締めなおした。

「がんばれ」

眠そうな声で鴬丸が言う。大包平は、まるで戦場に向かうときのような気迫で頷いた。

 

 

とは言っても気が重い。長い廊下を歩きながら、大包平は既に心が萎えてしまっていた。勢いで来てしまったが、あの女が素直に話を聞いてくれるとは到底思えなかった。またあの石ころをみるような眼差しを向けられたら、今度こそ心が折れてしまう。

あまり自分は無下にされることに慣れていない。どこにいても大切にされてきた。儀式の際には飾られて、みな全貌の眼差しで見つめてきた。涙を流し、手を合わせている者もいた。

なのに、あの女はなんだ。ほとんどゴミを見るような目をしていた。いや、もっと酷い。存在そのものを認識していないような、そんな目だった。

そうこうしているうちに執務室に着いた。まだ灯りがついている。大包平は大きく息を吸い込み――違和感に口を閉ざした。耳を澄ませる。ため息と、キーボードをパタパタと打つ音。

体が硬直した。いつかの会話が頭の中で再現される。本当に一人でやっているのか。呆れと、その何倍も心配の感情が沸き上がる。

迷ったが、結局声をかけることはせずに、足を反対側に向けた。廊下を真っ直ぐに進み、段差を踏み越えるようにして室内に入る。たどり着いたのは厨だった。

「燭台切」

黒い背中に呼び掛ける。男は振りかえると、眼帯で隠れていないほうの目を細めてにこりと笑った。

「どうしたの? 大包平さん。珍しいね」

「仕込みをしていたのか」

曖昧に頷きながら近づく。彼の右手には包丁が握られていた。まな板にはころころとした生姜が乗っている。

「作業中に悪いが……。主に何か作ってくれないか」

「えっ! まだ仕事をしているの?」

燭台切は近くにあった時計を見て目を丸くした。若干の気まずさを感じながら頷くと、彼は困った顔を浮かべる。

「そう……。じゃあ夜食を作りがてら、少し様子をみてくるよ」

「恩に着る」

いそいそと準備をしながら、男は何か思案するように時計の針を見つめる。

「もうこんな時間か。いっそ、僕がこのまま手伝おうかな。明日のご飯は歌仙くんにお願いしないと」

「お前は……近侍をしたことがあるのか?」

燭台切は、しまったという表情を浮かべた。恐らく主に口止めされているのだろう。

「うん。時々ね。でも、主は殆ど頼んでくれないから、色々と大変なんだ」

「そ、そうなのか。他には誰が……?」

「うーん。僕にも分からないかな。彼女、そもそも本丸にいないから」

困ったように眉を下げるのを見て、腹に気持ちの悪い感覚が広がった。

なんだ。そういうことか。

聞いていた話と違う。ちゃんと気にいりがいて、それには心を許している。何事にも特例があるのだ。こんなに刀がいるのだから、特別なものと、そうでないものがいることなど、仕方のないことだった。急いで片付けを終わらせ、手拭きで世話しなく肌を擦っている光忠をぼんやりと眺める。

胃の奥を刺激するような感情が生まれて、視界が揺れる。ぼこぼこと溢れて内側から溢れてくるそれは、久しく感じることの無いものだった。

鮮やかな炎の色に眩暈がする。

それは、まぎれもない嫉妬だった。

 

 

あっという間に一か月が経った。八月の最終日。大包平は朝の早い時間から馬小屋へ続く道を歩いていた。内番服の袖を捲りながら空を見あげると、すがすがしい青空が広がっていた。

今日は全員非番だった。特にやることも無いのに早く起きてしまったが、日課の鍛錬もやる気が起きなくて、外をだらだらと歩いていた。

燭台切光忠はあの夜、結局朝まで手伝っていたようだ。手洗場で顔を会わせたとき、なぜかお礼を言われた。

「大包平さん。気が付いてくれてありがとう。あの日、主は徹夜するつもりだったんだって」

腹に黒いものが溜まる。わずかに顔が歪むのが自分でもわかる。それを心配と受け取ったのか、光忠は見えているほうの瞳を細くした。

「そんなに悲しそうにしないで。昨日、彼女と相談して、僕が少し手伝うことになったから」

「手伝う……?」

「うん。近侍をやることになったよ」

雷に打たれたかと思った。すぐに頭に浮かんだ疑問を口にする。

「大丈夫か? お前に負担がかかりすぎているように思うが」

持ち主の影響か料理の腕が良いものが多く、食事の用意は、伊達の刀が担うことがほとんどだと聞く。弊本丸でもそれは同じだった。大包平が何か口を開くのを制するように、光忠は頭をふった。

「いいんだ。たしかに大変だけど、その何倍も嬉しいから。主のこと、悪く言う刀もいるけれど、できたら……まだ、そっと見守っていて欲しいんだ」

必死な様子に頷いてしまったが、心から同意することはできなかった。見守るだけでは何も変わらない。あの石ころを見るような目。意味などない気もする。俺がどんなに心を砕いたとしても、主は決して振り向くことなどないのだから。

何度目か分からないため息を吐きながら馬小屋に足を踏み入れ、目にとびこんできたものに、足が止まってしまった。

柵の手前に主がいた。なぜか大包平の馬の首筋に顔を押し付けている。馬は静かに女の背中のほうに顔を寄せていた。二人とも、置物のようにじっとしている。

彼女が何をしようとしているのか分からないのは人として形をもってから日が浅いからだろうか――と、そんなことを思いながらぼんやりと眺めていた。

まるで微動だにしないので、ここは見なかったことにして、去ったほうがいい気がしてくる。幸いなことに女は大包平が後ろにいることにはまるで気がついていない。そっと足を外へ向けたとき、ぐすっ、と鼻をすするような音が聞こえた。

泣いている。

体が勝手に動いていた。距離があると思ったがそんなことはなく、たった数歩でたどり着いてしまう。急くあまり地面に散らばる干し草を蹴散らすようにして歩くと、派手な音が鳴った。そこまできて、やっと男の存在に気がついたのか、ちいさな肩がびくりと震える。

しかし女は振り向かなかった。馬の首筋へ、めり込ませるようにして顔を押しつけている。重苦しい沈黙があたりを満たした。

「泣いているのか」

女は答えない。

「どうした? どこか痛いのか。誰かに嫌なことでもされたか」

大包平がいくら優しく尋ねても、審神者は人形のように動かない。震える肩に手を伸ばす――が、すんでこところで耐える。空中で虫を握るように拳を作った。心を落ち着けるため刀に手を置く。

「俺の馬に何か用か」

他に言葉が無かったのか、ともう一人の自分が脳内で言った。馬も呆れたようにこちらを見つめている。大包平はしったことかと鼻を鳴らした。仕方がないじゃないか。子供のように無視をするのだから。

そう思っているうちに、女はやっと言葉を発した。

「ごめんなさい。貴方の馬だと知らなかった。……少し貸して。すぐに戻るから」

女は太い首元に寄りかかると、空いている手で茶色の毛を撫でる。

「大包平。もうどこかに行って。休みの日まで内番なんてしなくていいから」

「顔を見せてくれないか。そうしたらすぐに消える」

頼み込むように言うと、やっと女は諦めたように体を離して振り向く。と、同時に大包平は息を呑んだ。

やっぱり。頬が濡れて、目が赤くなっていた。今度は迷わなかった。肩に手を置いて、涙の筋に指を走らせる。女は怯えた表情を浮かべて、拒否するように胸板を押した。紛れもない拒絶に悲しみが襲う。

「どうしてそう一人で抱え込む。そんなに、俺たちは頼りないか」

審神者はもう答えてくれなかった。声をかけてもうんともすんとも言わない。労るように肩に置いた手を振り払うと、荒々しい足取りで外へ向かう。

大包平は小さくなっていく背中を見つめることしか出来なかった。弾かれた腕の内側がほんの少し赤くなっている。心の奥が刃物で突き刺されたように熱い。普段は戦場で痛みには慣れているはずなのに、その何倍も重く感じた。

暗い馬小屋から出口を見つめる。切り取られた世界の向こう側で、太陽がじりじりと地面を照らしている。

 

 

 

 

万屋までの一本道を、一人の女が歩いていた。巫女服からだらりと垂れた腕は雪のように白い。ふらふらと力なく足を動かす。いまにも倒れてしまいそうな、不安な足取りだった。

八月最後の日曜日。肌を刺すような日差しはお盆を過ぎたあたりからぐんと優しくなる。

――今日が休日で本当に良かった。

黙々と足を動かしながらそんなことを思った。特別な日だったから、もし仕事が入ってもさぼろうと思っていた。体調が悪いとか、適当なことを言って。

しばらく歩いたら馴染みの万屋が見えてきた。そういえば、共を付けずに来てしまった。ばれたら怒られる。一瞬だけ、どうしようと思ったけれど、もう一人の自分が笑う。

何を言っているの。もう怒ってくれる人なんて、いないじゃない。

胸の奥が静かになる。

袂に潜ませているものに、服の上から触れた。途端に悲しみは遠くに行ってしまい、なんだかよく分からない淡い感情だけが残る。

万屋には残念ながら探していたものは無かったので奥へと進む。すれ違う人々はみんな当たり前みたいに男士を連れていた。金魚の糞みたい。もしくは影。振り切っても、振り切っても付いてくる、亡霊のような存在。

子供の頃に、ついてくる影をふりきる、という遊びをした。まだ幼稚園かそのくらいの歳で、その時は本気で追いつけると思っていた。だから全力で走って、走って、走って――。家の近くまで来て、もう大丈夫だろうと足元を見た瞬間に絶望した。

その時も、蝉がうるさく鳴いていた。夏の日差しも相まって、影は一層存在を濃くしていたので、幼い私は悔しくて奥歯を噛んだ。

彼らはあの時の影によく似ている。振り切っても、振り切っても、絶対に離れていかない。どうしてだろう。きっとそれは忠誠でもなんでもなくて、もっと本能的な何かだ。

「……渇望?」

ぽろりと口に出したと同時に、目についた店の前で足を止める。

出先に飾られている小さな花には目もくれず、さっさと中に入っていく。店内をぐるりと見渡した。

数十分後、店から審神者が出てきた。手には大きな花束を抱えている。白を基調として、ふわふわとした花が簡素にまとめられている。花に顔を近づけると優しい香りがした。

買ったばかりの花に心を癒されながら外に足を踏み出すと、俯いた先の地面に見慣れた靴の先があり、眉を顰めた。

――まさか。

恐る恐る顔を上げると、男が怖い顔をして立っていた。

影だ。それも飛び切り真っ暗なやつ。

情熱を宿したような髪が、強烈な眩しさで目に飛び込んでくる。とても綺麗で、よどんだ自分は見ているだけで燃えてしまいそうだ。

 

 

 

時間が止まったみたいだった。ミンミンと蝉がけたたましく鳴いているのに、二人の間は静寂で満たされている。

傍にいた馬が鼻先で男の背を押した。はっと意識を現実に戻すと、女はこれでもかというほどに眉間に皺を寄せていた。萎えてしまう心を奮い立たせて、両足に力を込める。

「こんなところで何をしているんだ。共も付けずに」

「……みんな同じことを言うよね。壊れたラジオみたいに」

「俺たちを侮辱しているのか?」

はっと鼻で笑われ、恐ろしく低い声が出た。

「戻るぞ」

逃げられないように手を握ると、審神者は自らのほうへ力いっぱい引いて、抵抗しながら頭を振る。そんな女を苦々し気に見つめた。まるで散歩を嫌がる犬のようだ。

「今日だけは……。お願い、見逃して」

「駄目だ。自覚してくれ、主。俺が付き添ってもいい。嫌なら他の刀と改めて来い」

「別の日じゃ、駄目なの!」

途方に暮れて突っ立っていると、馬が近づいて鼻先を女の白い腕に触れさせた。

「どこに行きたいのか分からんが、場所さえ教えてくれたら、連れて行ってやる」

行き先は分からないが、歩くより馬で行く方が数倍良いだろう。夏の日差しは肌に照りつけて痛いくらいだ。暫く動揺したように瞳を揺らしていた女だったが、口元を寄せてくる馬に目をやると小さく口を開く。

「お、ねがい、します……」

「拝命した」

馬に乗ったことはあるかと聞けば「無い」と答える。まあ当然だよなと思いながら細い腰を見つめた。馬は大人しく前を向いている。

「体に触れていいか。持ち上げるから、またぎこえるんだ」

こく、と子供のように頷いたのを見て、細い腰に手を回しぐっと持ち上げる。が、同時に驚いてしまった。その細さに。大包平の動揺など知らず、女は体を硬くしながら馬にしがみついている。

続けて飛び乗り後ろから声をかけた。

「大丈夫か」

「うぅ、大丈夫じゃない。怖い、高い」

「動かすぞ」

足で軽く馬の腹を蹴る。馬が進むと前から声にならない悲鳴が聞こえた。審神者は片方の腕で花束を持っているので、さぞかし心もたないだろう。

体がぐらりと揺れて、思わず腰を引き寄せた。空気が凍る。しまった、と思ってお腹に回した腕を外そうとしたら、逆にがっしりと抑え付けられた。女は蚊の鳴くような声で、「お願いだから離さないで」と言う。

「分かった。しっかりつかまっていろ」

案ずるな、と声を掛ければ、女は大袈裟なほどに頷く。指示を出すと、馬は風のようにかけていく。女は痛いくらいに腕にしがみついてくる。

 

 

馬を一時間ほど走らせると、唐突にそれは現れた。一面を青色が支配している。大包平は海を初めて見た。風が体を吹きぬける。絶えず波の音がしている。胸がすくような思いがした。

だが、すぐに不安がわいてくる。

潮風は鉄をさびさせるのでは無かったか。

慌てて腕の中の女にたずねると、笑いながらこう言った。

「人の体だったら錆びないよ。もし錆びても、すぐになおしてあげる」

ほっとしながら体の力を抜き、馬から降りて先に花束を受け取る。当然のように両手を広げると、猫のように軽い動作で胸の中に女が飛び込んできた。

「ありがとう」

照れたように頬をかきながら女が言った。なんだか子供みたいな仕草だな、と思いながらまじまじと見つめる。ここからはつむじがよく見えた。肩が酷く頼りない。

女はそっと胸板を押して離れると、受け取った花束を子供のように抱えなおして背中を向ける。

「好きに過ごしていて。一時間後に、ここへ集合」

好きに過ごせと言われても、と心の中で呟きながら周りを眺める。――海と、空があるばかりだった。

何となく面白くない気持ちのまま、階段のようになっている場所まで歩いた。一段降りた所に腰を落ち着ける。手に持っていたジャケットを傍に置いて、その上に刀を置いた。

そのままぼんやりと景色を見つめる。遠くの波打ち際を歩いている女の姿が見えた。静かな背中だった。明るい髪の毛が風に靡いて波のようになっている。

――初期刀が、折れたんだがな。

形あるものはいずれ壊れる。刀たちは姿を得た時からそれを理解している。でも、理解することと実際に体験することはまるで別物だった。どれほどの痛みかも分からない。想像の及ばない世界だ。もしそれが自分だったら。その時を思うと、足元から沈み込んでいくような気がした。

色々な顔が浮かぶ。鶯丸の顔。燭台切の背中、短刀たちの笑い声、そして。

最後に浮かんだ姿を見て、胸が締め付けられるような感覚に襲われる。初めて、初期刀の気持ちが分かった気がした。

死が恐ろしいのでは決してない。もっと恐ろしいのは、もう二度と会えないということ、やり残したことがあるということだ。瞳を閉じて耳を澄ますと、潮騒の音が一段と大きくなった。

波音はどんどんと大きくなり、最後は轟音となり体を突き抜けた。

弾かれたように顔を上げる。

波打ち際に女がいた。

海に向かってぼんやりと佇んでいた女は、おもむろにしゃがみ込み、手に持っていた花束を砂浜に置いた。次の瞬間、波が白い花を攫っていってしまう。

女は続けて何かを袖から取り出した。そのまま、子供のように所在なげに佇んでいる。胸騒ぎがしている。心は警報を鳴らしていた。

女はぼうっと海を眺めていたが、不意に足を踏み出した。――陸とはまるで、反対のほうに。

「お、おい」

白衣の袖が風に揺らめいている。瞳を閉じて何か聞いているようだった。

大包平が居てもたってもいられずに砂浜に足をつけた瞬間、女はパチリと瞳を開けた。そして何事もなかったかのように歩いてくる。

近くまで来た主は、呆然と立ち尽くしている男の姿に首を傾げた。

「どうしたの?」

「い、いや」

身投げするかと思った、とは口が裂けても言えなくて、モゴモゴと歯切れの悪い答えを返す。

それに女は何も言わない。というより、何も見ていなかった。ぼんやりとして、確かに男のほうを向いているのに、目はどこか遠くの景色を見ているようだった。肉体だけおいて魂が抜けていくような、心ここにあらずの姿に不安がよぎる。

「大丈夫か」

声をかけると大きく肩が震える。初めて目の前にいる男を認識したみたいな態度だった。腰に刺さった刀に目を向けると、瞳が絶望に黒く染まっていく。

「あ、あ……。嫌」

大包平は呆気に取られていたが、女が後ずさったので逆に足を進める。あっという間に距離がなくなった。

「さっきからどうした。様子がおかしいぞ」

女は何かを握りしめていると気が付き目を向けると白い布が見えた。それが何か一瞬で分かってしまって、呼吸が苦しくなる。

「う、うみ」

視線をうろうろとさせながら女が呟く。話を促すように頷くと、逃げるように下を向いた。

「海に、行こうって。大事な話があるから、待っててねって」

怖がらせないように静かに膝をついた。砂浜は日差しをたっぷりと吸い込んで熱いくらいだ。だがそんなことは、今の自分には全く気にならない。

「……でも。その前に彼は折れてしまって、あれは、夏の日だった。蝉が、うるさく鳴いていた」

それ以上は言葉には出来なかったようで、下唇を噛み締めている。溢れる感情を必死に押し殺しているみたいだった。

「どうしても来たかったのは、今日が、命日なの」

一瞬、音が遠くなる。頭を何かで殴られたような感覚が走る。「そうか」と、呟くことしか出来なくて、何か気の利いた言葉――それも優しく包みこむようなものをかけてやりたいと思ったが、いっこうに言葉が浮かばなかった。お前のせいじゃない、とか、後ろを向いていては意味がない、だとか。それらの綺麗事が浮かんだが、どれも意味のない言葉に思えた。

ふと、頭の中に全身黒尽くめの男が浮かぶ。あれだったらこんな時どうやって慰めるのだろう。どんなふうに触れて、どんな言葉を投げかけるのだろう。

「ごめん。二回も泣き顔を見せちゃったね。恥ずかしいから忘れて」

審神者はほんの少しだけ口角をあげ、手に持っていた白い布を握りしめた。必死に笑顔を作ろうとするのを見ていると胸が軋む。

「帰ろう」

「待て」

このまま帰してはいけない気がして、慌てて呼び止めたが、言葉が出てこない。女は不思議そうに見つめている。

ふと頭の奥に閃きが浮かんで、腰に手をやった。カチャ、と金属の硬質な音が鳴る。

「俺を見ろ」

本体を押し付けるように渡すと、女は細い腕で慌てて抱え込んだ。顎でしゃくると、女は困惑しながらも手を切ってしまわないように注意しながらゆっくりと引き抜く。

「綺麗」

感嘆のため息をついた審神者は、そのまま反りを眺める。波紋の向こう側に顔が映っていた。置いて行かれた子供の様な悲しい瞳だった。女は暫く刀を見つめていたが、そっと鞘に納めた。尖った硬質な音がする。

大包平は狼みたいな瞳で一部始終を見守っていたが、本体に手を伸ばすと、大きく息を吸った。

「俺は美しく、そして強い!」

びりびりと空気を震わせるような大声に、女は「きゃっ」と悲鳴を上げた。片手で耳を押さえながら訝し気に男を見つめている。

「過去に呑まれるな! 死者は帰って来ない。……折れた刀も、どんなに呼んでも、役目を終えたら、戻っては来ない」

ひゅっ、と息を飲む音が聞こえる。女は眉間に力を込めながら、下唇を噛み締めている。

「俺はまだ力が及ばないかもしれない。だがここで己に誓う」

本体に手を伸ばし、鞘に触れた。

「もっと、もっと強くなる。どんなに絶望的な状況であっても、必ずお前の元に帰ってくる。そして最期は、お前の死を見届ける。だから、」

言いたいことがまとまらない。わしわしと後頭部を掻きながら、力なく呟いた。

「もう泣くな。俺が、唯一の、折れない刃になるから」

これ以上ないくらいの綺麗ごとだ。絶対に折れない刀などありはしない。でも意志はちゃんと伝わったようで、女の瞳の端から涙が一粒流れる。

言葉を咀嚼するみたいな表情を浮かべた女は、不意に横を向いた。何かに呼ばれているみたいに海を眺めている。透明な横顔だった。明るい髪の毛が潮風に遊ばれて揺れている。

暫く波の音を聞いていた彼女は、ゆっくりと男と向き合うと、ぎこちなく口角を上げた。そして、大事そうに刀を胸に抱えなおす。そのしぐさに、大包平は心臓が絞られるような感覚を覚えた。

「……ありがとう」

それから。本当にゆっくりと彼女は破顔した。石ころを見るような眼差しではもう無かった。優しい瞳を糸のように細めて笑っている。

体が勝手に動いていた。大包平は一歩前に踏み出すと、刀を抱えている女ごと腕の中に収める。心臓の鼓動が煩く響いていた。憤りを感じた時、戦場で駆ける時、同じように心臓は煩く喚いていたが、それとは似て非なるものだった。

体を引き絞られるような切なさを感じながら、心の中で誓う。

心の声なんて聞こえるはずも無いのに、腕の中で女が頷いた。胸の内に溢れるものがあって、衝動のままに身を屈めて明るい髪の毛に顔を寄せた。どちらのか分からない鼓動の音が響いている。顔を少しだけ横に向ける。海と、全てを受け止めるような空が広がっていた。

 

 

 

 

熱さも収まり、渡る風が肌寒く感じる午後。鶯丸と大包平は、談笑しながら廊下を歩いていた。どちらも内番服に身を包んでいる。片方は少しだけ毛だるそうに、もう片方は体から熱気を放ちながら歩みを進ませていた。彼らが向かっている先には道場がある。

「今日こそは絶対に勝つ!」

大包平が宣言するように吠える。鶯丸は、

「もうそれは何度も聞いた」

と笑った。

軽口が返ってくると思ったが、思いのほか大包平が神妙な顔をしているので、鶯丸は首を傾げた。珍しく静かだ。何か悪いものでも食べたのかもしれない。――そういえば、今朝茶うけに出したお菓子は賞味期限が切れていた。

素直に謝ろうかと口を開くと、先に低い声が響いた。

「俺は、もっと強くならないといけない。己に誓ったからな」

そうか、と軽く流しながら前を見つめると、珍しい姿が見えた。

「おや」

鶯丸が急に立ち止まる。ふんわりと優しい表情で前を向きながら、視線だけで先を促す。大包平は眉間に皺を寄せて顔を前に向けた。

廊下の先に審神者がいた。白衣から雪のように色素の薄い腕をだらりと垂らして、俯きながら歩いてくる。

既視感が襲った。

無視をされた時と丁度同じ場所だったと気が付くのに、さほど時間はかからなかった。

あの夏の日から、特に二人の関係性は変わらなかった。本丸につけば女はさっさと執務室に戻ってしまい、それっきりいつもの日常が戻ってきた。

ほんの数ミリだけ期待して待っていたが、とうとう近侍を任されることも無かった。しかし――それでもいいと思った。相手はどうだか知らないが、大包平の気持ちは海に行く前と行った後では百八十度変わってしまっていた。

もう醜い嫉妬は襲ってはこない。自分にはやるべきことがあるから。余計なことに割いている時間なんてなかった。

何となく立ち止まりながら、近づいてくる女を眺める。また黙って通り過ぎるのだろうと思い、邪魔にならないように壁際に身を寄せると、予想に反して女は歩みを止めた。

審神者はぼんやりとしたまま二人を交互に見つめている。鶯丸が驚いて瞳を少しだけ大きくさせた。

「今から手合わせですか?」

唐突に審神者が呟く。それに、反射的に頷いた。

なお女はぼんやりとしていたが、男の腰に下げられている深紅の鞘に視線を落とすと、猫のように瞳を細くする。

「……大包平。頑張ってね」

ぽつり、と独り言のように呟かれた言葉に、言われた本人は酷く狼狽した。あぁ、とか、おぉという意味の無い返事をする。審神者は少しだけ笑った。

「俺もいるんだがな」

隣で揶揄うように鶯丸が言うと、審神者の顔が一瞬で赤くなった。

「あ、えと。……貴方も頑張って下さい」

女は「失礼します」と一礼して、男の横をすり抜けるようにして駆けていった。小さくなっていく後ろ姿を茫然としながら見つめる。少しだけ見えた耳がトマトのように赤くなっていた。

「主にああ言われてしまったら、今回だけは、少し頑張らないとなぁ」

大きく伸びをしながら鶯丸が言う。大包平は呆れて、「常に全力を出せ」とかえそうとしたが、驚きのあまり口をつぐんだ。薄い緑色の瞳が闘志に燃えている。まるで炎のように揺らめいていた。道場へと続く長い廊下を、二人は早足で歩く。

 

大包平は、心の奥で呟いた言葉を反芻する。もう、お前が涙を流す夏は二度とやってこない。

この大包平が、折れない刀になると、誓ったのだから。