夕日に照らされた和室に入ると女は手を伸ばし、壁際に置いてある、腰の高さほどのタンスの、いちばん上の段をひく。なかは空のように思えたが、よくみると奥に黒い箱があった。静かなしぐさで箱を取り出すと、まるで子供のようにぺたりと座り、畳に置く。狐は一連の流れを興味深く見守っていたが、出てきたものに息を呑んだ。黒い鋏だ。審神者はおもむろに指へはめると、いたずらに動かした。ジャキンと鋭い音が響く。
「それを使うのですか」
審神者は首を傾げる。右手にもった鋏はそのまま、狐を冷ややかに一瞥した。
「やめておいたほうがいいのでは。害があるわけでも、ないのですし……」
「なにをしてる」
廊下から影が伸びて、審神者の足元でとまる。女はゆっくりと顔をあげると、廊下の先で立つ男と目を合わせた。女の眉間に少し皺がよる。
「縁を切ろうとしています」
男は女の持っている鋏を見下ろす。光沢が無い鈍い色をした鋏だ。なぜか寒気が背中にはしった。
「おもに機能が停止した本丸に使用されるものです。万が一、赴任した人間に危害があったらいけないので」
「今回も必要なのか」
「いいえ。立て直しに失敗したときは使用しますが、今回は特にそういうこともなかったので。ただ……」
壁に半身をあずけながら話を聞いていた和泉守は、狐を横目にみた。こんのすけは困ったようにうなだれている。
「記憶はだんだんと薄れていき、無かったことになってしまう」
和泉守の頭のなかである男士の顔が浮かぶ。先日、井戸から拾いあげた刀を牢屋のような半地下の部屋にいる男士に渡した。刀の状態は酷く、真ん中から先は無くなっていた。依り代としての機能はなく、役目を終えたことは明確だったが、審神者と和泉守はできるだけ綺麗にして届けた。おそらく、手にするのに一番ふさわしい男のもとへ。
短い時間であったが生活をしているなかで他の男士と接する機会も出てくる。審神者に対して、府の感情を抱いていると感じたら、すぐ手元の刀を振るっていた。だけどそうしなかったのは、きっと、彼らが別の感情を持ち始めていたからだ。
思考を分断するように、まだジャキンと鋭い音が鳴った。やはりとめたほうがいい――そう判断し、声をかけようとしたタイミングで、審神者が持っていた鋏を小指にあてた。女は顔色が悪かった。空中で手首を振り鋏の先で何かを掬いあげる仕草をする。ものすごい悪寒が走った。
手首をつかんだが間に合わず、黒い刃先が見えない何かに触れる。古い縄を無理やりちぎったかのような、耳に残る音が鳴った。彼女は驚きで目を丸くしている。和泉守は息をのんだ。女の指には赤と金の色をした無数の糸がついていて、そのうちの一本が音もなく地面に落ちた。女が糸の先を目でたどる。畳、灰色の袴とつづき、やがて男と目が合った。じりじりと線香花火のように消えていく糸は男の指と繋がっていた。それが何を意味するのか、和泉守は瞬時に理解をする。確認するように手をひらいたり閉じたりしたかと思えば、急に笑い出したので、こんのすけが驚いて少し跳ねた。
「そんな! なんということでしょう。よりによって、自分の刀との縁を切ってしまうなんて」
狐の悲痛な叫びをうけて和泉守は両手で顔を覆った。心臓がこれ以上ないくらいに脈打っている。だが反対に体は指の先から冷えていった。
女は下をむいていた。頑なな横顔に、ふつふつと怒りがわいてくる。
「あんた、事の重大さが分かってんのか」
「やめてください! どうか、落ち着いて!」
狐の言葉には無視をして、壁に押し付けるようにしながら女の肩を押す。振動で近くにあった花瓶が倒れ、漏れた水のせいで畳は染みを作ったが、そんなことは気にならない。審神者は背中を打ち痛そうに顔をゆがめた。視線を逸らし続ける女の顎を掴んで無理やり目をあわせる。
「どうせ聞こえないだろうから、もう一度言ってやる。オレだって捨ててやる。俺は、あんたなんか、一度たりとも主と認めたこと、ねぇんだよ!」
審神者が目を丸くする。ゆるんだ手から鋏を奪い取ると畳に叩きつけた。鋏は回転しながら壁に激突してみるも無残な状態になる。怒りが内側から吹きあがって、とどまることを知らない。
審神者はもう和泉守を見ていなかった。よわよわしい力で肩を押される。抵抗する気にもなれず、手を離すとどっと疲れが押し寄せる。軽いものが落ちる音、そして、障子がひらかれる音。ひかえめな足音が遠ざかってからやっと、和泉守はのろのろとした動きで顔をあげる。女はいなかった。あいた障子から細く光が漏れて、ほこりがちらちら反射している。
刀を掴んで立ちあがろうとしたがうまくいかなくて、壁に背をつけるようにして座った。胃のなかがぐるぐるして、気持ちが悪い。おずおずとしたふうに近寄ってきた狐に声をかける。
「一応聞くが、縁を切ったことで、審神者の体になにか害はでないんだよな?」
こんのすけは虚をつかれた顔をしていたが、しっかりと頷いた。
「ならいい。で、これからオレはどうなる?」
「まだ分かりません。前例があまりないので。私のほうでも、これから調べてみます」
「刀解の必要性は?」
「それは絶対にありえません! 政府の管轄に入るか、他の審神者様と縁を繋ぎなおすこともできます……」
こんのすけがめずらしく感情をあらわにしたので、男は驚いて少し身をひいた。前者はともかく、いまさら誰かほかの人間に使われることは、考えていなかった。刀解のほうがましだと口にしそうになるが、管狐を悲しませるだけだと思い口をつぐんだ。小さな頭を撫でてやる。狐は黙ったままじっとしていたが、手が止まったタイミングで口をひらいた。
「主様のあとを追いましょう。話をしなくては」
「無理だ」
狐が抗議するかのように立ちあがる。何か言う前に手で制した。
「オレたちは人間じゃないから理解できる。これはもう駄目だ。もう、繋がりは切れてる」
こんのすけは言葉がでないのか、うつむいた。
冬は日が傾くのが早い。部屋がいちだんと暗くなっていた。こんのすけが言うように、審神者を追いかけなくてはいけない。執務室にいてくれたらいいのにと考える。
「仕方ねぇなぁ」
己に言い聞かせるようにしながら、ぐっと膝をおして立ちあがる。律儀についてきたこんのすけが、何か気になるものがあったのか畳に顔を近づけた。障子を手にかけながら振り返ると、先ほどのやりとりで壊れてしまったのか、審神者がいつもつけている勾玉が落ちていた。
「和泉守様、審神者様の気配を感じられますか?」
首を振る男に、こんのすけは緊張した声で続けた。
「もし、外に出てしまっていたとしたら……危ないかもしれません」
▽
ぱきぱきと木を踏み鳴らしながら、女は森を歩いていた。一度は執務室に戻ったが心臓がどきどきとして収まらず、とりあえず外に足を向けた。歩きながら心を落ち着けようとしたが一向にうまくいかない。自然と視線はおちていく。適当に置いてあったショートブーツを選んだので、身に着けている巫女服とはあわず、間抜けな組み合わせだ。早歩きからゆっくりとした歩幅にかえていく。
まさか、こんなことになるなんて。その場で頭を抱えたくなる。最後の仕事に本丸の刀との縁を切ろうとしただけだったのに。別に残していてもいいという狐の助言に従わなかった。次の人間に力を貸してもらうとき、できるだけ、まっさらな状態でいて欲しかった。だけど、それは建前で、鋏を持ったときに、無数の糸が手から出ているのを目にし、正直ぞっとした。まるで蜘蛛がだす糸のようだった。儚くて、目を凝らさないと確認できないくらいに細い糸が蠢いている。あやまって本来切るべきではないものをきったとき、聞こえないはずの耳に、古いテレビの電源を落としたときに似た音がとどいた。
そこから先を思い出すのはすこし辛い。いくら鈍くても、傷つけたということはわかった。ため息をついて周りを見渡すといつのまにか知らない景色が広がっていた。気が付かないうちに森へ入り込んでいたらしい。逆光で木が影絵のようにみえる。夕日が落ちていくところなのか、あたたかい光が木々をぬうように差し込んでいた。そろそろもどらないといけない。そう強く感じ、来た道を振り返ると黒い人影があった。男士ではなく普通の人間だ。あ、と思ったときにはもう遅かった。後頭部に衝撃が襲い、視界がぐっと狭くなる。
▽
冷たいところに寝かせられている。硬い床に接している頭と腰がひどく痛い。意識がぐらついている。金縛りにあったときのように体が動かない。仕方なく目だけ向けると、遠くのほうでふたつの人影が動いているのがわかった。屈んで何かをしている。こちらに背を向けているので実際に何をしているのかはわからない。体格的に男だが、背は低い。自由になってきた手を頭の後ろにもっていく。髪の毛をわけて皮膚に触れた。痛みが走ったが血は出ていないようなので安心する。静かに手を戻して周囲を観察した。人以外には何もない。まだ寝たふりをしていたほうがいい。遠くにいた人が近づいてきたのでさりげなく目を閉じる。覗き込んでいるのが気配で伝わった。彼らはおもむろに腕を掴むと手のひらを上にさせて、指を伸ばす。急なことに叫びそうになるが必死で堪えた。人差し指と、中指の表面をなぞる感覚に嫌悪感が湧く。いったい何をするつもりだろう。突き飛ばして逃げたほうがいいのか、耐えていたほうがいいのか必死に考える。どっちの選択肢も悪いものに思えた。
どのくらいそうしていたか分からない。人の気配がなくなったので薄目をあけると、まわりには誰もいなくなっていた。慎重に体を起こしてみる。硬い場所に寝ていたせいか体のふしぶしが痛い。
地面かと思っていたが、石でできた長方形の台のような場所だった。幸いなこと手足を縛られてはいない。手首をこすりながらあたりを見渡す。広い洞窟のような空間だ。だが完全に密閉されているわけではなく、上のほうからかすかに光がさしている。天井には自然にできた穴があいていた。四方は岩に囲まれていて、くり抜かれたようになっている。人工的ではなくて、自然にできたような形だ。穴は一メートルくらいの楕円形で、向こう側に木と空がのぞいている。真っ先にあそこから出られないかと考えたが、かなりの高さがあって自力で登るのはとても無理だ。
台座の端に履いてきた靴が置いてあったので足を差しこむ。男たちが作業をしていた場所に歩いていくと石が落ちていた。白い楕円型の石だ。ひっくり返してみたが何の変哲もない。元の場所に戻してから前を向くと、奥の闇が濃い。同じような洞窟の入り口が三つ、等間隔で並んでいる。先へと続いているようだが、どれが地上に出られるのかわからない。そればかりかいずれも不正解で外に出ることができない可能性もある。姿が見えないことに気が付いた狐が政府に連絡しているはずで、ここでじっとして助けを待つことも考えたが、いつ誘拐した男たちが戻ってくるかわからなかった。覚悟を決めて入口に近づき、手をかざして風を感じた道を選んで、闇のなかに身をしずませた。
一歩足を進めるたびに差し込む光がか細くなり、それに比例して不安が襲ってくる。歩くのも困難なほど道はでこぼことしていて、壁に手を添わせながら進んだ。光はもうほとんど届かない。自分の手も見えないので、慎重に足を出していく。ちっとも進んでいる感覚がしないし、奥へ入り込んでいるようで外に出られる気がしない。移動したのは間違いだったかもしれないと後悔し始めたころ、遠くにかすかな明かりがみえた。
角を曲がった先に、最初と同じような丸い空間が広がっていた。壁が一部崩れていて、これ以上先に進めそうにない。失望を抱きながら近づくと、手前に祠があるのに気づく。膝より小さな祠だ。壁と同じように壊れて、屋根の部分が半分なくなっている。数メートル離れた場所に蠟燭が一本だけ鉄製の皿の上に立っていて、それが光源となっていた。人がさっきまでここにいた気配がする。蝋燭が燃えていられる時間はわずかだ。最初の場所に戻ったほうがいい。立ちあがった瞬間、火が細くうねった。壁に自分以外の影がある。風が頬をなでた。伸びてきた無骨な手に腕をつかまれて、振り返る間もなく後ろ手にひねられる。すぐそばに男がいた。年は三十後半くらい、体は細く背も低いのに恐ろしく力が強い。ぶしつけに壁に押し付けられる。とがった岩がわき腹に食い込んで痛みに顔をしかめた。相手はこちらにかまわず何か喋っている。何を言っているのかまるで理解できない。伝わっていないことを察したのか男は懐から何かを取り出した。
出てきたのは初めに見かけた楕円形の石だった。なに、と思っているうちに手の平に押し込まれる。抵抗すると男は、じれたように腕に力を込める。骨まで握りつぶそうとするかのような力に悲鳴をあげた。反射的に石を受け取ると急に体が軽くなった。男が手を離したのだった。壁に手をついたとどうじに頭のなかで他人の声が響いた。
――出られた
そこからは唐突だった。視界のはじで動きがあったので顔をあげると、壁が一部黒くなっている。全員が同じ場所を注視していた。男の額から汗が落ちる。
壁をすり抜けるように異形のものが姿をあらわす。姿は蛇に似ているが芋虫のようにも見える。首の下あたりに突起があり、よく見ると人の頭だった。コンクリートに埋め込まれたように額から鼻あたりの半分だけ出ている。唖然としていると顔のひとつと目が合った。あまりのことに体が動かせない。埋められた顔と一瞬だけ視線があったが、興味を失ったかのように瞼を閉じた。化け物の胴体が動くたびにくっついた髪の毛が糸みたいに揺れた。
すれ違いざまに化け物が鳴く。私ではなく、男のほうを向いていた。男は壁に張り付くようにして体を固くしている。化け物はおかまいなしに壁からずるずると出てくるので空間がだんだんと狭くなっていく。とうとう尾の先まであらわれて、ぼとんと地面に落ちた。振動で天井にあった岩が落ちて粉々になる。それを皮切りに、かたほうの男が出口に向かって走る。
動きをとらえた化け物が、首をつきだすようにして、口をあけて噛みついた。男は前に転がるようにしてさける。化け物が二発目を繰り出して壁にぶつかった。残された男が猛然と走るのであとに続く。彼は灯りを持っていた。予想に反して足が遅い。左を曲がって追いつこうというとき、振り返った男が何かを叫ぶ。ついてくるなと言っているらしい。おそらくこの男は出口を知っている。なんとしても振り切られてはいけないとしつこくついていくと、振り向きざまに足を蹴ってきた。急な動きに反応が遅れ、痛みに脛を押さえる。全力で走ったせいか口のなかがすっぱい味がする。男はどこだと顔をあげるが、すでに人の姿は無かった。先は一本道で奥はどこまでも続いている。頭が痛い。もう帰りたい。泣きそうな気持ちでいると、目の前にころころと物体がころがってきた。それは消えかけた蝋燭で、視線を遠くにやると、男がうつ伏せに倒れていた。腰から下あたりを化け物に食われている。まるで下半身から蛇が生えているような状態のまま、洞窟の奥へと引っ張られていった。頭、手と闇にのまれ、とうとう完全に見えなくなる。
今のはなんだ。頭がおかしくなったのだろうか。足を押さえると手に痛みが走り、手のひらが切れていた。赤い血が滲んでいる。足元に転がっていた消えかけの蝋燭を近くにあった平たい石に乗せる。石をお皿がわりにして持ち、足に力をこめる。暗い道を進む。とにかく移動したい。
歩き続けていたら、とうとう最初に目が覚めたときにいた洞窟に戻ってきた。念のため、上の穴から出られないかともう一度確認してみる。天井から蔦のようなものがないか探ってみたがそれらしいものはなく、諦めて三つあるうちの真ん中の入り口に近づく。蝋燭の火がもうすぐ消えそうだった。そこらへんに落ちていた木の枝を拾って、服を裂いて先端に巻きつけ火を移す。一瞬だけ勢いよく燃え、火力が弱まりちょうどいい大きさになった。よし、と小さく頷いて蝋燭を捨てる。いちばん初めに通った入り口には、尖った石で、下のほうにちいさくバツ印を書いておいた。
今度の洞窟は先ほどより短めで、すぐに広い空間に出た。天井が割れていて所々に空が見える。状況はまるでかわっていないのに空があると安心する。なにか見落としているものはないか、ぐるりと一周しながら確認してみるが、崖は鼠返しになっていて登ることができない。
どっと疲れが押し寄せてきて、くずれるようにその場でうずくまった。岩陰に隠れるように腰をおろす。少し休んでからまた歩こうと思い、足をかるく伸ばして脹脛を揉んだ。身も心もくたくたで、いま襲われたらきっと逃げきれない。ばんやり前を向くと遠くは湖のようになっていた。真っ黒くてなにもないように見えるが所々に岩が隆起して水面から顔をのぞかせている。
体育すわりのまま、体をなるべく小さくさせるようにして縮こまる。きっと今頃、こんのすけが力を尽くしてくれているはずだ。だけどもし、誰にも気づかれていなかったら?
暗闇に引きずられていった男の安否も気になる。それにしてもあの化け物は何なのだろう。答えのない問いに頭に靄がかかっていく。目を瞑ると瞼の奥がチカチカした。
▽
こんのすけと一緒に急いで執務室に向かうが部屋の主はいない。まさかと思って玄関で靴を確認すると案の定、女の靴がなくなっていた。
「本丸の敷地内にいればいいのですが。最近、審神者が誘拐される事件が増えています。攫われた者はすべて女性です」
「あれからどれくらいの時間がたった?」
「三十分くらいでしょうか。とにかく急がないと。私は本丸に残り政府に報告し居場所を特定します。情報が分かり次第、何らかの形でお伝えします」
返事もそこそこに外へ飛び出す。審神者の気配はわからなくなっていた。こうしているうちにも日は傾いていく。本丸のまわりを探してみたが姿はなく、いないという予感があった。
「……森か?」
森の林は全く通れないわけではなく、むしろ遊歩道のようになっている場所がある。ある程度行くと崖になっていた。まだ夜になっていないのに木々の間は黒々として暗い。男のなかに迷いはなく、心のなかには確信に似た何かがあって、それに突き動かされるようにして足を踏み出した。
木を振り払うように走りながら、太陽が恐ろしい早さで沈んでいくことに気がついて、和泉守は悪態をついた。どこまで行っても木が生い茂るばかりで景色に変わりがなく、同じところをぐるぐる回っているような感覚になってくる。遭難したら命に関わる――というのは人間に限っての話で、刀剣男子にはあまり関係がない。食べ物がなくても、睡眠を取らなくても滅多なことでは死なない。だから大胆に足を踏み出すことができた。
岩陰、大きな木の根元など、目につくところを確認しても審神者の姿はない。女は勝手なことばかりする。どれだけ周りが心配するとも知らずに。わいてきた怒りのまま近くの木に拳をぶつけた。ばらばらと葉やら枝やらが落ちて頭にふりかかるが払う気力もない。頭を掻きむしりたい気持ちだった。不甲斐ない。立ち止まっていても仕方がないが、どうしたらいいのか分からない。縁が切れてなかったら、もう少し居場所が分かっただろうに。そう考えると怒りがわいた。――落ち着いて、周りをよく見るんだ。ふと脳裏によぎったのは歌仙の困ったような顔だ。出陣で一緒になり、先走りすぎて中傷を負った際によくそう言っていた。彼は自分と話しながら、後ろから飛んできた短刀を片手でいなすように倒していた。柔らかく弧を描く唇が、周りをよく見てみなよと続ける。案外すぐに答えがおちているものさ。
深呼吸をしてあたりを見渡すが見新しいものはなく、少なからず落胆しうつむくと、土の一部がえぐれているのが目に入る。踏ん張ったような跡だ。視線をうつすと、草が細い線の形で乱れており、争った形跡がある。
痕跡をたどり、着いたのは山の中腹だった。地面が陥没していて、なかに降りると戻るのに苦労しそうだったが足跡が確かに続いていたので飛び込む。普通の人間だったら骨折している高さだろうが、人間ではないので着地したときに足がしびれる程度だった。ゆっくりと立ちあがる。先に洞窟があった。道は広かったが暗いので歩みは自然と遅くなる。冷たい風が奥から流れてきて、遠くで水滴が落ちる音がしていた。歩いても歩いても岩ばかりで、本当に合っているのか心配になってくる。戻るべきか考えていると、分かれ道が出てきた。
目の前には三つ入り口があった。とりあえず真ん中を選んで進む。入口に差し掛かったところで足をとめた。余裕があったとは思えないが、審神者は何か目印を残しておくのではないか。壁のあたりを探してみると、小さくバツ印が書いてある。
右の道を選んで突き進む。上のほうに岩の裂け目があるのか光がもれて細い筋のようになっていた。足を進めるたびに水の音が大きくなって、急に開けた空間に出る。右側に水たまりがあった。しかし色が暗く沈んでいてどこまで続いているのか不明瞭だ。人の気配はないが、ここにいるという確信はあった。
「おい! どこだ、いるなら返事をしろ!」
声が届かないことは分かっていたが叫ばずにはいられなかった。走りながら視線をあちらこちらにうつす。望んでいる姿はない。焦燥感が限界に達して、心臓が誰かに握られているような心地がする。それに無視できない感覚があった。いつもより体に力が入らない。血がめぐっている感覚がしないのだ。胸のあたりを押さえて息をととのえる。一度通り過ぎた岩陰に足を向けたときだった。ちょうど影になっているところから、足が飛び出ていた。岩場の影を覗き込むと膝を抱えてうずくまる女がいた。石のように動かないのでひやりとしたがよく見ると肩がかすかに上下していた。
生きてる。良かった、無事だった。
全身の力が抜けていく感覚がして、崩れるように片足をついた。絶対見つけ出すという気持ちでいたが、実際のところ可能性は低かった。幸いなことに女は服も乱れておらず乱暴されたようすもない。審神者をさらったのは人間だろうから、もしそいつらが戻ってきてもどうとでも対処できる。
手を伸ばして起こそうとしたとき、女が一瞬だけ、ひきつるように体を震わせた。ゆっくりを顔をあげる。うつろだった目と視線があうと、みるみるうちに生気が宿っていった。驚愕のあまり目を見開いた女がかすかに口を動かす。苦笑しながら腕をつかんで立たせると、女は素直に従った。まだ信じられないのかじっとこちらを見つめている。
「もう大丈夫だ」
握った腕に力を籠めると、女はかすかにうなずいた。しかし焦ったように首をふる。手を振り払うと逆に袖をつかんでくる。口をあけて、なにをか伝えようとする。よく聞き取ろうと顔を近づけると襟をつかまれて引き寄せられた。女は耳のぎりぎりまで顔を寄せる。不安定な音だったがたしかに聞こえた。
肩をつかんで目を見ながらゆっくりと、助けにきたことを伝えても、女は首を振って下唇をかんだ。助けて、ともう一度言うと、次の瞬間、はっとして宙を見つめ動かなくなる。視線の先を追うとさっき出てきた入口があった。先は真っ暗で恐ろしい。不気味な感じはするが特に変わりはなく、自分としても早くここから出たいので腕をつかんで促した。しかし審神者はものすごい力で腕をつかんで逆方向に行こうとする。ただならぬようすにあっけにとられながらついていくと、とうとう湖にたどり着いた。そのまま突き進むので足元で水がばしゃばしゃと鳴る。女の奇妙な行動はとまらず、しまいには水の深い場所でしゃがみこんだ。恐怖のあまり精神がおかしくなってしまったのだろうか。奇妙な行動を止めようとしたが、足場が悪く態勢がぐらついてしまう。とっさに受け身をとるが体の半分が水につかった。
顔をあげようとしたが後頭部を押さえられて動きが止まる。いつの間にか女がすぐそばまで来ていた。ぴたりと張り付くようにして服を握っているが視線だけは一点に固定されている。出口を指すと、そのまま人差し指を口元に持っていき静かにという。目だけでうなずいて闇をみすえた。