すくわない(26)

目を覚ますと朝の光であふれていて、避けるように寝返りを打った。反動で、首元にいたこんのすけが畳にころがっていく。眠くて布団にもどす元気がなく、ごめんと心の中で呟きながら体をかたくしていると狐が戻ってきたので、手を伸ばして布団のなかにいれる。彼はしばらくもぞもぞと移動していたが頭をだして空気を確保し、幕がひくように目を閉じた。

意識はだんだんとはっきりしてきたが起きる気になれなくて、もう少し寝ていようかと考える。いま何時だろうと枕元に置いてある端末に手を伸ばす。唐突に、視界へ赤い色が入って驚いた。

すぐ近くに男が倒れていた。叫ばなかったのは、それが見知った刀だったからだ。手を伸ばしたら触れられる距離にそれはいた。なんで、どうしてと心に浮かぶのはそんな言葉ばかりで、昨夜のことを思いだそうとしたが記憶は曖昧だ。立ち眩みをおこして運ばれた、ということだけは覚えている。途切れ途切れの映像のなかで、耳かざりがゆれている。

男は畳に直接横になるようにして、寒さから逃れるように丸まっていた。髪の隙間からのぞく白い顔を眺める。目の下に隈ができていた。しばらくそうしていたがちっとも動く気配がないので、もしかして死んでいるんじゃないかと、そんな失礼なことを考えていると、こんのすけが男の耳元でなにか喋る。薄目をあけた男が焦点の合わない目でこちらを見た。口がゆっくりとひらき、視線が下に落ちる。布団をかるく持ちあげると一瞬考えるしぐさをみせたが、のろのろとした動きで体を動かした。

入れ違いに布団から抜け出すと昨日と同じ巫女服で、やっぱり運んでくれたのは彼だったのだと確信する。

 

 

かぎりなく昼に近い朝風呂に入り、気持ちを切りかえて仕事道具を机に出していると、襖が勢いよくあいた。男が荒々しい足取りで隣に座る。頭を抱えて動かない男のまわりでこんのすけがせわしなく動いている。筆談用のペン紙をしずかに引き寄せる。

――もう少し寝てたら?

そっけないな、と自分でも思いながらペンを置いて目の前に置いた。和泉守はうろつくこんのすけをつかみ膝の上にのせると、すこし困った顔をした。起き抜けの男はぼうっと前を向いていた。力のまるではいってない手つきで狐の背中を撫でている。

 

 

珈琲がなくなったので厨に行ったらめずらしく黒い服に身を包んだ刀がいた。こちらに気づくと、驚いたように目をまるくしたので軽く会釈をする。若干の気まずさを感じながら豆を取り出してお湯を借りる。豆の種類がいくつかあったけど面倒だったので目についたものにした。湯が沸くのを待ちながら、邪魔にならないようにさりげなく壁のほうに寄る。燭台切光忠は困ったように私を見つめていた。体の前で組んだ手は落ちつきなく動いている。部外者である自分がキッチンを使うことに対して、刀はよく思わないだろう。早く立ち去りたかったけど、残念なことに湯が沸いているのかよくわからない。普段は音で判断していたし、いつもは和泉守が用意してくれていたのだ。湯気が出ているので沸騰していると予想して手を近づけてみる。決して触ろうとしたわけではない。だけど、他人からすれば、自ら熱湯に触れようとする、愚かな行いに見えたようで、挙動を見守っていた光忠は私の動きに素早く反応した。長い足で一気に距離をつめ手を掴む。

男は何か言いかけて口をつぐんだ。手袋は古びていた。自分の本丸にいる同じ姿の刀を思いだす。きっと彼なら、服装に対して、少しの乱れも許さない。自由なほうの手で男の内番着をゆっくりと捲る。男の体が一瞬痙攣したかのように感じたが手を止めることはしなかった。手首に散らばるまだらの模様が目に飛び込む。それは肘に近づくにつれてだんだんと濃くなっている。痣は触ると熱を持っていた。光忠は逃げるように顔を背けて俯いている。

いちど手を離して、沸騰しているヤカンを移動して台に置く。光忠は目を合わせず、ひたすらに下を向いている。

横目に観察すると体のいたるところに傷がついていた。自分でも処置をしているのかもしれないが、全体的に廃れた雰囲気を醸し出している。意識してみると煤けた匂いがよぎって、すんと鼻を鳴らすと男は絶望的な顔をした。

頭のなかには、ある三文字がちらついている。いまなら――と思ったと同時に、普段持ち歩いているノートへ殴り書きをした。紙をわたすと彼は文字を読み、時が止まったように硬直して、ゆっくりと頷いた。

 

 

執務室に戻ると、和泉守兼定が壁に背を預けるようにして座っていた。内番着ではなくきちんとした戦装束に着替えている。彼は目が合うと、やっと来たか、という顔をしたが、連れてきた人物に気付くと驚きで口をあけた。それにはかまわずに、押入れをあけ道具がまとめられている木箱を取り出すと、和泉守とこんのすけを呼んで手入れ部屋に向かった。

 

 

部屋は外とおなじくらい寒かった。光忠は中傷程度の傷だったので布団を用意しようとしたが、いらないと顔を振るのでやめておいた。離れた場所、畳の上に直接膝をつけ座布団を渡す。彼は足を庇いながら正座しようとしたので、こんのすけに目配せする。こんのすけは素早く意図を汲み取り、光忠に楽な姿勢で構わないと伝えてくれた。

道具を準備していると和泉守の姿がなく、障子をあけて廊下に出ると隣の部屋との境目にいた。立ったまま背を柱に預けて腕をくんでいる。袖を軽く引くと彼は苦笑いを浮かべた。ここで待つつもりらしい。

部屋に戻り、光忠から本体を受け取った。ずしりと重い刀を握ると懐かしさを感じる。手入れをするのは久しぶりだった。光忠は座りながらじっと手元を見つめている。かるく崩した足の先で、こんのすけが同じように前足をそろえていた。

観察されていることへの緊張感を胸に抱えながら鞘から刀を抜いていく。分解していくと、最終的に刀身だけが残った。鉄の表面の錆と汚れを取り、また新しく油を塗る。慣れると十分もかからないが丁寧に作業をした。札を使ったほうが傷はすぐになおるので効率がいいと思うけれど、直接手入れをしたほうが刀たちからの評判は良かった。

作業が終わり振り返ると光忠は座ったまま眠っていた。こんのすけが寄ってきて片手をあげてきたのでハイタッチをする。眠るのは手入れがうまくいった証拠だった。

起こすのもかわいそうなので、仕舞った布団を横に敷いてから廊下で待機している男を呼んだ。流石に成人男性を運ぶのは無理なので和泉守にお願いすることにする。男は寝ている光忠に目をやると頷いて軽々と抱える。そんなことをされたら、普通なら起きそうなものなのに、光忠は目をさまさない。よほど疲れていたのだろうと思う。光忠を寝かせたあと、見守る役目はこんのすけにお願いして、私たちは手入れ部屋を出た。

 

 

 

しばらくするとこんのすけが戻ってきた。口に小さな紙をくわえている。小さく折りたたまれたそれは手紙だった。なかには、手入れに対するお礼と、お詫びに私の好きな料理を作りたいと書かれていた。

役割を果たしただけなので気遣いは無用だ。だけど、気持ちは純粋に嬉しかった。好きな料理を思い浮かべたがいまいちでてこない。猫に似た動きで胸の毛をなめている狐を見て、油揚げ、と書いた。

ふと思い立ちノートを手にして壁際に向かう。和泉守はいつものように外を眺めていた。雪見障子の窓から庭が見える。外は真っ白で氷の世界だ。

見下ろす位置に来て初めて、彼は庭から目をはずす。眉をよせながら組んでいた手を膝に置いた。そばに膝をついてノートを見せる。

――あなたの好きなものはなに?

青い目が右から左に文字をなぞって止まる。男は困惑したように首を傾げた。そんなに変な質問だろうか、と、メモを見てから間違いに気づいて、もの、の文字を二重線で消す。食べ物となおしたらやっと意味が通じたみたいで、納得した顔をする。ペンを押し付けながら隣に座る。正座は苦手なので足をのばした。男は一瞬、体をかたくしたが嫌がるそぶりはなかった。膝を引き寄せるように抱えながら手元を眺める。悩んでいるのかペンを握ったまま揺らしている。別に思いついたものを書けばいいのに、と心の中で呟く。だけど、自分も浮かばなくて丸投げしているのだからおあいこかもしれない。

ここは壁に近い場所だからか、部屋全体が見渡せる。いつも私がいる席は思いのほか遠くにあって、いまは空いた座布団のうえで管狐が丸くなっている。さらに奥には、空っぽの花瓶がひとつ。殺風景な部屋だ。

膝を抱えてなんとなく丸まっていると和泉守がノートを渡してきたので、どれどれと中を開いたら、ひとこと、

――肉とか野菜とかあって、とろとろしてるやつ。名前は忘れた。

と書いてあった。なんだろう。いくつか頭に浮かんだ料理を下に書く。一緒に覗き込んでいた男が頭を振る。違うらしい。これは時間がかかりそうだ。それらしい食べ物を書き連ねる。紙の半分が埋まってしまうが正解には辿りつけない。これで最後にしようと、白身魚の甘酢餡と書くと、横から手が伸びてペンをとる。

――だから肉だって。あとそんな難しい名前じゃなかった。もっと短い。

ひとつの単語が浮かんでさっと書きなぐる。

――酢豚?

ぱっと顔をあげた男と目が合う。なんども頷いていた。達成感とともに脱力すると控えめに手を出してきたので、軽く握ってこたえた。

 

 

朝、身支度を整えると、審神者は本丸のいちばん奥の部屋へと向かった。障子の枠を軽く叩いてから入室する。空っぽの部屋を見渡し、刀かけの前に座り、人差し指を少し曲げてかるく鞘を叩いた。刀はただしく刀のまま、うんともすんとも言わない。審神者はため息をついた。こんのすけも困ったように下を向いている。女は、正座を崩して、力のない手で鞘を撫でる。感触を確かめるみたいに。

柱に寄りかかりながら眺めていた和泉守が、ぼそりと呟いた。

「……乱から聞いたおとぎ話で興味深いものがあるんだが。眠り姫っていうのがいて、そいつを目覚めさせるには、王子さまの口付けが必要なんだ」

こんのすけが怪訝そうに振り返る。目だけで合図して話を続けた。女は当然聞こえていないので無視をしている。

「つまりだな。キスすれば目が覚めるんじゃないか」

ちょうどタイミングよく女が刀を取って抱えた。空気がざわついた。ぴりぴりとした緊張が伝わってくる。笑いが顔に出てしまいそうになるのを堪えながら真剣な表情を作った。沈黙を貫いているふうだが、きっと“彼“には聞こえている。

審神者は何かを確認するように表面を撫でると、かたん、と音をたてて刀を戻す。流れるような動きで立ちあがると廊下へ出ていった。歩くたび、朝の光を透かすように髪の毛がゆれている。

 

 

翌日、執務室にたずねてきたものは予想もしない人物だった。

「元気でやってるかい?」

軽い声かけと共に入ってきたのは鶴丸国永だった。答えないでいると、

「うー、さぶ」

といいながら審神者の後ろに置いてある火鉢に駆け寄っていったので、刀をもつ手に力が入る。彼は面白そうに目を細めるだけで動揺したりはしなかった。彼は帯刀していない。安心させて油断させようとしているのだろうか。鶴丸はこちらの考えていることなどお見通しとばかりに両手をあげ、ひらひらとさせるのでカチンときた。

気配に気づいた女が振り返ると鶴丸と目が合い、驚きで目を丸くさせる。

「おっ、いいねぇ。その反応」

胸の位置まであげた手を今度は審神者に向けてふるので、女は困惑しつつも会釈をする。鶴丸はそれでもしつこく振り続け、眉を寄せながら審神者が同じように手を振ると、男は間髪入れずに白い手を掴んだ。ひゅっ、と、審神者の喉奥から風のような音がでる。

「てめぇ……!」

「なんだよ番犬。握手してるだけだろう?」

首筋に刀を添える。鶴丸はニヤニヤしながら力を抜いた。女の手が力なく畳に落ちる。刀を向けられているにもかかわらず、一人で納得したようにうんうんと頷くので、皮膚が少し切れて血が滲んだ。

「光坊が言っていたとおりだな。この人間、いい霊力だ」

「何がいいたい」

「いやなに。手入れを受けてみたくてな。そのためにはまず刀をどけてもらわないといけない」

刀を握る手に力がこもる。突如、甲高い声が空をさいた。

「和泉守様! 刀をはなしてください! 彼らには役目を全うしてもらわないといけないのです。せっかく手入れを受けようとしているのですから」

鶴丸は楽しそうに二人のやりとりを眺めている。こんのすけを見て、次に審神者と目を合わせるとにこりと笑った。女は表情を変えなかったが、首元に添えられた刀に手を伸ばしたので、和泉守は仕方なく刀を首から離した。女は鶴丸の手に触れると見聞するみたいに手のひらを上にした。指の付け根をぐにぐにと押している。

「案外、乗り気みたいだぜ」

「勘違いすんな。いまのこいつの仕事なだけだ」

鶴丸がぐっと身を乗り出すが、審神者はまるで無視をして、手のひらを観察していた。おそらく、刀の霊気を探っているのだろう。

「なかなかどうして、可愛いじゃないか。ひたむきに生きてる人間は、応援したくなる。なぁ」

鶴丸が手を伸ばす。女は俯いているので気づいていない。白い手が髪の毛をひとつすくって玩具のように毛先をゆらした。

「それ以上なれなれしくしたら、その指、切り落とす」

「おお、怖いな」

持っていた刀を握りなおす。こんのすけが怒って和泉守を呼んだ。だけどそれも遠くのほうに聞こえる。

「まるで、ほんとうの番犬みたいだな。だがひとつ疑問があるんだ。どうして最初に来たとき刀の姿だった? 人の姿のほうが守りやすいだろう」

「あんたには関係ない」

鶴丸は楽しそうに目を細める。

「本丸でいちばん、関わりが薄かったりしてなぁ。もしかしたら破壊されるかもしれないだろ。そんな場所に大切な刀を持ってくるわけない。あんたは一番、この子から、遠い刀だったんだ。違うかい?」

刻みつけるように区切りながら男はいった。和泉守は動揺を隠そうと眉間に力をこめる。反論はできなかった。

嫌な沈黙が流れる。こんのすけもどうしたらいいか分からずに尻尾をゆらしていた。女は妙な空気を感じ取ったのか、わずかに首を傾げる。

そして、そっと手を伸ばすと、何を思ったのか鶴丸の頭のうえに手をおいた。突飛な行動にその場にいた全員が驚いた。鶴丸すら、珍しく目を丸くしている。そうしているうちに女は控えめに手を動かした。やさしく頭を撫でている。

「おいおい。急にどうした? 俺は童じゃないぜ」

「主様……?」

こんのすけが気遣わしげにたずねるが、女はただかるく手を動かしていた。鶴丸は最初こそ驚いていたが、だんだんと脱力していく。男の距離がだんだん近づいていく。あ、と思ったときには、鶴丸は女の肩に頭をこつんとつけ、「つかれた」と小さく呟いた。

審神者はいつもとかわらないようすで、今度はぽんぽんと背中を叩いた。ぐっと距離が近くなり、男は息をつめる。鶴丸はしばらくされるがままだったが、ため息を吐くとそっと体を離し、

「哀れに、見えたかい?」

と呟いた。女はわずかに首を傾げる。意味がわからなかっただろうに、首をふるので男は少し笑っていた。

「ありがとう。もう大丈夫だ。楽になった」

そう言って手を握った。

 

 

 

 

 

鶴丸の手入れが終わってしばらくたったあと、訪ねてきたのは意外な人物だった。大きなシルエットが障子ごしにうつる。そこにいたのは小狐丸で、薄く笑いながら審神者を見つめる。作業の手をとめた女は目を合わせると体をかたくさせた。

「今日は駄目だ。もう何振か手入れしたんだ。疲れてる」

「……そのようには見えませんが」

赤い目が女の線をなぞるように動くので、舌打ちをしたくなった。確かに女は直接手入れをしたにも関わらずぴんぴんしている。彼女の霊力は、中傷程度の手入れでは減らない。あれから何振かの手入れを行った。しかし、刀たちは自分たちで傷の処理をしていたので重症に近い者もおり、後半は手入れ部屋に篭り切りで、やっとひと呼吸ついたのだった。

女は和泉守の心配をよそに、さっさと机に広げていた道具をまとめて盆にのせ立ちあがる。和泉守もため息をつきながら重い腰をあげた。小狐丸は相変わらず口角をあげ、面白そうに眺めている。

 

 

「安心してください。今日は私で最後です」

部屋の真ん中で正座をした小狐丸が告げた。審神者は淡々と準備をし、刀を抜いたとたん眉を寄せる。刀は半分くらいが錆びていた。

「体はなんともないのか」

「苦しいですよ。それなりに」

覗き込みながら呟く。審神者は、熱いものに触れたときのように刀を床に置いた。それ以上、持っていられないかのように。

「懸命な判断です。さて、これをどうしますか」

どこか諦めたように男が言う。女は少しのあいだ悩んでいたがとにかく手を動かしてみることにしたようで、油を拭う、シュッという音が部屋に響く。女は黙々と作業を続ける。小狐丸は苦しいのか額に汗が浮いていた。いつも直している損傷は刃こぼれで、さびた状態の刀を手入れすることは少なく、審神者は慣れない作業で大変そうだった。ときどき、刀を太もものうえにおいて休憩をしていた。

 

 

ほかの刀が手入れされるさまを眺めているのは変な気分だと和泉守は思った。作業の際、以前は外で待っているのだが最近は室内にいることが多い。審神者の集中を妨げてはいけないと、なるべく視界に入らい場所でじっとしている。

この本丸の刀たちは人の手に飢えている。ふとしたとき――たとえばそう、手入れが終わってひと段落ついたときなどに、どさくさに紛れて女の手を握る。ありがとう、助かったよ、などと言って。最初こそ、霊力やらなにやらを試すために触れているだけかと思っていたがどうやら違うらしい。鶴丸なんかは出会いがしらに抱擁したりするのでおもわず閉口してしまう。お前たちの主じゃない、馴れ馴れしくするなと言いたくなるが、管狐から、これはいい兆候だから堪えてくれと釘をさされているので言葉を飲み込む。吐き出せない不満は胃の底に落ちてぐるぐるとたまる。気分は最低だったが、わずかに救いなのは、審神者があまり嬉しそうでないことだった。いかにも作っていますという笑みを口に貼り付けて、(あるいは糸で口のはじを引っ張られたのかというぎこちなさで)無理矢理にやわらかい表情をつくると、そっと体を離す。刀たちはそのたびに少しばかり傷ついた顔をした。彼らは拒絶されればされるほど躍起になるから、これ以上拗れる前に帰ったほうがいいと強く感じる。神様の執着心を侮ってはいけない。だから、和泉守はいつでも警戒を怠らなかった。

手入れの終わった小狐丸がふらついて咄嗟に審神者が手を伸ばす。刀は鞘に入った状態で、畳の上に置かれていた。男が手を伸ばせばすぐに届く距離であることに気づき、喉の奥が鳴った。

小狐丸は赤い目で一瞥すると予想外の動きをした。支えた女の頬に口を寄せる。審神者は驚いたように目を見開いた。

頭の奥でなにかがはじけた。

「なんのつもりだ」

肩を掴んで止める。男は目を細めるだけだった。その僅かな隙に、女はおもいきり身を引いた。腹のなかで飲み込んだ言葉たちが暴れている。足元でこんのすけがくるくるまわりながら小さな声で、「和泉守様、耐えてください、刀をおろして!」と連呼している。耐える――それは実に努力を有する作業だった。理性という名の鎖がなかったら、きっと右手が刀を振り下ろすだろう。

そんなことを考えていると、横から衝撃がきた。みると審神者が引っついている。顔は伏せられているからよくわからない。握られた服の袖が軽く引かれる。たったそれだけのことなのに、触れられたところからどんどん熱が下がっていった。

「髪の毛がついていましたので」

よいしょ、と立ちあがりながら小狐丸が言った。一連のことなどなかったかのように、あるいはなんてことないかように平坦な顔つきで、

「他意はないですよ」

と言った。手に持っていた髪の毛を、ふっと息だけで飛ばす。女はそれには目もくれず、ぐいぐいと和泉守の腕を引いて外に出ようとする。執務室は逆だといぶかしんでいると、急に手を離され、後ろ側にまわった女につんのめりそうなほどの力で背中を押された。とはいえ人間の力などたかが知れている。振り返れば女がすぐそばの部屋に消えていくところだった。世界を分断するかのようにぴしゃりと障子がしめられる。

「主さま」

前足で障子の枠をかりかりと引っかきながらこんのすけが声をかける。返答はないと思ったが、予想に反して障子があいた。こんのすけがおそるおそる足をだすとすぐに障子が閉まってしまう。

締め出されたと気が付いたのは数分が経ってからだ。しかも自分だけ。押し入ることは簡単だ。しかし同時になにか大切なものが消えてしまう気がする。――たとえば信頼、とか。審神者のことはいまだによくわからない。彼女のなかに押してはいけないスイッチがあって、とりわけ慎重に接していた。一緒に過ごすうちに、ある程度ひとりで好きにさせるほうがいいということが分かって、それからは適度な距離を保つように気をつけていた。

あたりを見渡したが人の気配はない。ときどき、こんのすけが心配そうに呼びかけている。審神者を置いて自分だけ戻るわけにもいかないし、そのつもりもないのだが、どうしても心に影がおちる。そのとき、障子の向こうから名前を呼ぶ声が聞こえた。

「どうした」

「こっちに来てくれませんか。助けてください。大丈夫です、たぶん」

多分では困るのだと思ったが、狐の切迫した声に、静かに障子を開けると女は隅のほうで膝を抱えていた。体育座りの姿勢で、膝とお腹の間にこんのすけを押し込み背中に頭を埋めている。若干潰されている狐は和泉守と目が合うと、「助けてください」と訴えた。

隣に膝をつく。女は俯いたままだった。こんのすけがわずかな隙間から手を伸ばしてきたので脇をむんずとつかむ。そのとき少しだけ、女と肩がぶつかった。

それからはあっという間だった。弾かれたように顔をあげた女は手を伸ばすと襟元を掴む。え、と思ったときには天井がまわって、畳に転がされていた。

反動でボールみたいに飛ばされたこんのすけが、ぎゃっ、と獣のような声をだした。女は荒っぽく息を吐いていた。手はまだ襟を掴んで離そうとしない。目線がなかなか合わない。自分を見ているのに、別のなにかを見ているみたいだった。

退かすことは簡単だった。組み敷かれたとき、ほとんど反射的に跳ね飛ばしそうになったが堪えて力を抜く。審神者のほうは様子が一転して今度は片手をこめかみにあてていた。つらそうに俯いている。吹っ飛ばされた狐が駆け寄る足音がする。

「眩暈がするらしいです。すぐ治るから静かにしていると言っていました」

「それで急にここに来たのか」

体を起こしながら呟く。女は和泉守の上から降りようとして、バランスがうまく取れないのか、くずれかけの積み木みたいにぐらぐらしていた。咄嗟に肩を支えると、今度は後ろに倒れそうになったので、反射的に引き寄せる。女は拒絶する元気すらないのかおとなしく身をまかせている。こんのすけが、安心させるように女の足に手をあて、しきりにさすっている。わざとゆっくり片手をもっていき頭に乗せると、びくりと肩がゆれた。

「悪ぃ。ぶつかっちまって。驚いたろ」

ゆっくりと顔をあげた女と目を合わせる。別に怒ってないと伝えるために、軽く頬をつねるとぎゅっと目を閉じた。体を離して膝立ちになる。女は畳に座ったままぼうっと前を見ていた。

「立てるか」

自分の腿を叩きながら訊くと、意図を汲んだ女はのろのろとした動きで近寄る。腰掛けたところで膝に手をまわし、体を持ちあげた。両手が塞がっているので行儀が悪いと知りながら足で障子をあける。

 

 

 

 

やわらかな風が頬を撫でていた。カサカサとした音が遠くからやってきて足元を通り抜ける。足元を見ると枯れた細い草が揺れていた。

自分は丘の上にいて、遠くに知らない家がいくつか見えた。外に突き出ている煙突から煙が出ていて、人が生活している気配がする。脛にあたる草をわけるようにして降りていく。どこか懐かしい感じがする、田舎の風景だった。遠くに山が延々と連なっていて、日没に近い空と夜の闇が、カクテルみたいに混ざりあっている。

疲れたので畦道でしゃがみ休憩した。田んぼには水が張られていて鏡のようになっている。近くにあった石を投げてみると丸い波紋がいくつも生まれた。ちいさな波はこちらに向かってくる。縁を目で追っていると水面に誰かの足が映った。もうひとつ石を掴むと上から声が降ってくる。

「手が汚れますよ」

穏やかな声に、持っていた石を置きなおす。すぐ近くに大男が立っていた。白い髪がかすかに風にゆれている。目が合うと赤い瞳がぎゅうっと細くなって、そうするとたしかに狐とよく似ていると思った。

いつのまにか空に月が出ていた。しかし、山の近くにもうひとつおなじものを見つける。現実ではありえない光景で、疑問が確信に変わる。

「ここは私の夢?」

「えぇ。流石、気づくのが早い」

答えずに膝を抱える。小狐丸は薄く笑ったまま突っ立っている。昼に合ったときとは別人みたいな雰囲気をしていて、居心地が悪い。

「貴女と話がしてみたいと思いまして」

「夢を渡ってまで、ですか?」

小狐丸はわずかに目を丸くしたが、すぐに無表情に戻った。

そもそも、夢を渡るなんて、簡単にできることなのだろうか。

近くにあった細い草を水にいれてぐるぐるさせると、写っていた月が歪んだ。手を止めるとすぐに水面は平坦になって、元通りになる。疑問を察したかのように、男は口をひらいた。

「全員ではありませんが、可能です。ちなみに私はこれをつかいました」

鼻先へ急に手が伸びてきて身を引く。いつのまにか小狐丸は隣にしゃがみ込んでいた。袴の裾が汚れないのかと心配になったが杞憂で、土も泥もついていない。彼が摘んでいたのは細い糸のようなもので、よくよく見れば髪の毛だった。よほど怪訝な表情をしていたのか男は少しだけ笑って、かるく手を振る。指からはなれた髪は水の表面に落ちてゆっくりと沈んでいった。

「手入れのときに拝借しました。あのときは申し訳ありません。しかしどうしても、邪魔を入れたくなかった」

頭のなかに唯一連れてきた刀の姿が浮かぶ。今頃、彼は寝ているだろうか。

「私は以前と変わらずに戦いたいので、貴女に協力します」

「ありがとうございます。……力を貸してくれるのですか?」

「えぇ、私は武器ですから。それに、貴女が、紛失した刀を取り戻して来たことには、正直驚きました」

「あれは仕事なので」

ずいぶんとそっけない言い方になってしまったが、小狐丸は気にしたようすもなく手を合わせた。

「さて、この本丸ですが、浄化がある段階から進まなくなったのはご存知ですね」

「そうです。やれることはやったはずなのに」

しゃがむのも疲れたので立ちあがると、小狐丸も腰をあげる。手を組んで伸びをする私を彼は眺めていた。

「まだ、探し切れていない場所があるのかもしれません」

頭の奥に本丸の地図が浮かんだ。確認できた場所はすべて行ったはずだが、まだ見つけられていない部屋があるかもしれないと思い立ち、あいまいに頷いた。

田んぼに浮かぶ月はかけ始めている。空にある月のほうはまるまるとしていて、水面は真っ暗で怖いくらいだった。

「一時期、こういう夢を見ていました。真っ暗で、上のほうから光が差すから顔をあげると月が欠けていって、それをぼうっと眺めてる」

「どんな気分でしたか。浮かんだ感情は?」

「特になにも感じませんでした」

そうですか、と小狐丸は呟いたきり黙ってしまう。沈黙が落ちる。自身の本丸の、同じ刀を思い浮かべる。彼はいつも目が合うと微笑んでいた。優しい声で主さまと呼んでくれる。対して、この本丸の刀たちは無機質な感じがする。温度がないというか、心がないというか。

帰りたいな、と思った途端に空が白みだし、夢から覚める気配がした。意識がはっきりとしてくる。背を向けて道を歩き始めたとき、声をかけられた。振り向けば、神妙な顔をした小狐丸と目が合う。

「伝えられていませんでしたが、貴女の手入れは心地よかった。ありがとうございます」

それは素直な言葉で、すとんと胸におちる。律儀な刀だなと思った。

「どうしたしまして」

はじめて男は肩の力を抜いて、わずかに微笑んだ。

風がざあっと吹いて前髪をゆらし、目を瞑って風をやりすごす。瞼をあけたときには、男はいなくなっていた。

 

 

起きたときには昼過ぎだった。空気が白んでいる。襖が少しだけ空いていて、そこから新鮮な空気が流れていた。隣に和泉守の姿は無く、奥の部屋にいるのだと思った。きっと、こんのすけと一緒に。

布団から手を出すと指先が異常に白かった。寒さがどんどん厳しくなっているのは気のせいではなく、実際に気温が下がっている。冬真っ盛りといった調子でふり続ける雪は相変わらず世界を白く塗りつぶしている。まだ寝ていたいという気持ちを消してあたたかい布団からはいでる。服が昨日着ていたものとおなじだった。とりあえず湯を浴びたい。だけどその前に顔だけは見せたほうがいいと直感的に思って執務室に入る。机に覆い被さるみたいにして何か書いていた和泉守は勢いよく振り向くと気の抜けた顔をして、おはよう、と口を動かした。顔全体から安堵が伝わってきて、さらに言うと、突っ込んできたこんのすけが先ほどから脛に向かって執拗に体あたりをしている。もう大丈夫という意味を込めてちいさな頭を撫でた。

 

 

 

こんのすけからは今日くらい休んではどうかと言われたが、体調はなんともなかったので日課を行うことにした。書類が案外たまっていたので続きに取り掛かる。引き継ぎ用に作成しているもので政府に渡すことはないから早く終わるだろうと鷹を括っていたのだが、なかなか量が多い。面倒だと放っておいたが、取り掛かると時間はあっという間で、区切りがついたときに時間を確認すると三時間が過ぎていた。和泉守は隣にいて刀の鞘を手に取り眺め、近くにいるこんのすけと時々言葉を交わしている。眺めていたら顔をあげた男と目があう。集中の糸が切れる音がして、のろのろとした動きで机の上を片付けていると、開いたままのノートに男が手を伸ばした。ペンを取った手がとまる。なんだろうと思っていると、つ、と紙を渡される。そこには、なにか手伝う、と書かれていた。

予想外の言葉に、唖然とした気持ちで横顔を見つめていると、彼はもう一度ペンをとった。

早く終わらせようぜ。この任務。

申し出はありがたいし意見にはおおむね同意だった。片付けた書類をまた広げていくなか、襖がぱっとあいた。冷たい風が流れ込んでくる。視線を向けると予想外の人物がいた。人の姿に戻った、へし切長谷部だった。