返事をしない男に、一期一振は呆れたように笑う。
「情が移ったんですか」
そんなことはないと噛み付きたかったが言葉は出てこない。たった数日ともに過ごしただけだ。特に思い出があるわけでもない。だが、ふとした姿がちらついて心を騒つかせる。女は心から心配してくれた。肩に触れる手のひらはあたたかった。
一期は、力なくのびた男の腕をそっと握った。
「実は喜んでいたのではないですか? 今はほら、人間の体に入っているでしょう。我々には欲がありますから」
「黙れ。殺すぞ」
「今の弛み切った貴方にあの女は殺せない。だけど覚えていてください。私には出来る」
長谷部は諦めたように脱力して手に取った刀を腰に戻した。弱々しい声で「俺は協力したからな」と呟く。
疲れて眠っていると、どこか遠くで男の人の声がした。意識が中途半端に引き戻される。不快感に眉を寄せて、身じろぎをする。遠くで虫みたいに響く声に耳をすませると、なんとか言葉が聞きとれた。それはたったひとこと、起きるな、と言っていた。
首に冷たい感触が伝わる。とっさに逃げようと身をよじると、金縛りにあったように体が動かなくなる。体が重い。何かが腹部に乗っている。薄目を開けると、男の影があった。夜の闇のなかでシルエットが浮かぶ。意識がはっきりとしてくるのと同時に心臓が跳ねあがった。
男の手には刀が握られていて、それは真っ直ぐに首へと向かっている。
目があった男は僅かに目を細めた。
「起きてしまいましたか。失敗しました。私は術をかけられているので、審神者である貴女を直接殺せない。だから自滅してもらおうと思ったのに」
薄い肉に刀が触れている。少し動かせば頸動脈が切れて大変なことになる。
「自分から起きてください、ほら」
目を見開いていると、どこからか枝を割ったような音が鳴った。早くしろと男は急かすが、部屋の隅で響く音に気を取られる。一期一振も同じだったようで、体を捩って振り向く。自然と壁際に視線があつまる。そこには一振りの刀があった。この本丸のものではない、自身の本丸から持ってきたものだ。
「なるほど。あれが助けてくれたのですか。先に処理しておくべきだったか」
男の意識は完全に壁側へと向いていた。すっかり油断したのか、ほんの少し刀が浮き空間が生まれる。チャンスだった。右手を思い切り突き出したが、男のほうが数枚上手で、手首を捻るようにつかまれ、頭上で固定される。
「私は貴方が嫌いなのではありません」
耳元に顔を寄せた男は、低い声をだした。
「人間が、憎いのです」
心臓の音がやけに煩く響いている。わずかにあいたままの障子から、まっすぐに光がさしこんでいる。夜が明けたのだ。だが気づいていないのか、うえに乗ったまま男は動かない。静かに伸びる光の筋が体の近くにきて、外の景色が目にはいる。地平線近くが赤くなっていた。今まさに、太陽が山の向こう側から出てこようとしている。
庭へ顔を向けた男の瞳が大きく見開かれる。
「燃えている」
震えた声でそう言った男は顔を手で覆い、衝動を紛らわすように髪の毛を握りつぶす。人が変わったような反応に混乱した。頭がついていかない。体が動かない。ただ、自分の内側からする、血が逆流するような、心臓の音が聞こえていた。
また部屋のすみで物音がした。はっとわれに返り、渾身の力で体を捻る。自由になった右足で男を蹴りあげた。続けて横腹に叩きつける。良い場所に入ったみたいで、男は畳に崩れ落ちた。布団を飛ばすようにして起き、壁際にある刀をひったくる。あとは廊下をひらすらに走った。
外に出るともう完全に日がのぼっていて、眩しさに目を細める。運動不足の体はすぐに息が切れた。吐く息が白く染まり、空気にとけていった。頬が冷たくて、反射的に指先でふれて自分で驚いてしまう。私は泣いていた。理由はわからない。だけど胸に浮かんだのは誰にたいしてかわからない怒りで、手のなかにある刀を強く握りしめた。