春がきた。
扉をガラガラと開けた瞬間、あ、と思った。空気がまるでちがう。冬の凍てつく寒さが和らいで、日差しのあたたかさが増している。
新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込む。山頂には白い色がちらつき、雪が残っていた。完全に溶けるのはもっと先になるだろう。
室内のほうを振り返ると、まず囲炉裏が見えた。いつもご飯を食べている場所だ。その向こう側には六畳ほどの和室がある。中心にぽつんと残された布団があり、それは人型にこんもりとした形をしていた。規則的に上下している。膝丸が寝ているのだ。
おこさないように注意しながら草履に足を突っ込んで外に出れば、雪に太陽が反射して目をやいた。眩しさに目を細めながら庭を進み、二股に分かれた道を右に曲がる。そちらは登り坂で、少し行くと畑がある。今は何も育てていないけれど、もう少しあたたかくなったら種を植えて、野菜を育てるつもりだった。何を作ろう。というより、何を作ればいいのだろう。少しだけ悩んで、そしてすぐに思考を放棄した。あとで膝丸に相談したらいい。彼は私よりずっと聡明だから、きっといい答えをくれるはず。
十五分ほど歩いていると、すぐに畑が現れた。手入れをしていないので草ぼうぼうで、これ以上ないくらいに荒れていた。畑の奥は森になっていて、よく熊が出る。熊は苦手だ。
ここらに出る熊は草食で人を食べないということを、私は膝丸に教えてもらった。初めて聞いたときはとても驚いた。彼らは臆病で下手に刺激しない限り襲って来ない。だから河原で出くわしたときも、私がむやみやたらと騒がないように気を張ってくれていたらしい。
下を見ると地面が一部盛りあがっていた。モグラが出てきたあとかもしれない。まるで古墳のように土がめくれていた。しゃがみこんでそれを眺める。ついでに土に触れてみたら、ぽろぽろと零れて地面に落ちた。
指先についた土くれを鼻先にもっていって匂いを嗅いでみる。ほんの好奇心だったけれど、深い香りがした。
一人で夕ご飯を食べたあと、何となくだらだらとしていた。とはいえ何をするでもない。部屋の中にはなにも無いので、ただぼんやりと囲炉裏に残った火を見つめた。油が勿体ないから行灯もつけなかった。春の気配はするけれど、まだとても寒いので、厚着をして火に手をかざしたり、遠ざけたりした。
男は何か作業をしに数分前に家を出てしまった。すぐ戻ってくると言っていたから、あと三十分もしないうちに帰ってくるだろう。彼は嘘をつかない。
パキッと硬質な音を立てて、炭が真ん中から折れる。断面が真っ赤に燃えていた。
今年の冬は良かったと思う。比較的、おだやかに過ごせた。どうしてだろうと考えて、すぐに納得してしまう。こんなに心が穏やかなのは、きっと膝丸が一緒にいてくれるからだ。
そんなことを考えていると、扉が開く音がして、冷たい風と共に男が部屋に滑り込んでくる。まっすぐに歩き壁際の手洗い場に向かった。桶に入れている水で軽く手を洗うと、早急な動きで振り返る。視線が合えば、ほっと目じりをさげた。
「もう寝る?」
答えは聞かなくても分かっていたので、ゆっくりと立ち上がりながら尋ねる。彼は静かに頷いて、奥の布団へと向かった。
日が高くのぼった頃、鎌を持って外に出た。弱い春の風が吹いている。土手を見ると、よもぎがたくさん生えているのが目に入った。でも、今回の目的は違うものなので、無視をして進む。太陽の光がぽかぽかとしていて気持ちが良い。
先日、膝丸がにこにこしながら、手に何か持って町から帰ってきた。細長い筒状の物体を慎重に顔のところまであげて、「いいものをもらった」と言う。
「野菜は……?」
彼ははっとした顔をして固まった。手にそれらしいものはなく、代わりに籠を持っていた。近づいてみれば、竹筒が五本ほどある。
野菜が竹筒になってしまった理由を尋ねると、町に大きな狼の化け物が出たとのことだった。街中で暴れていた狼はとある屋台に目をつけると突進した。その屋台は天ぷら屋で、化け物が油をぶちまけようと口を開けたところを、膝丸が止めたのだそうだ。
「初めて見る相手ではなかった」
忌々しげに呟きながら、男は手についた油を近くにあったボロ布で拭って、縁側にそっと籠を置いた。籠を挟むようにして座り中を覗き込む。薄い黄色の竹の、節になっている所までなみなみと液体が満たされていた。匂いを嗅いで正体が分かった。油だ。
「屋台の親父殿が下さった」
私は目を丸くして、五つあるうちのひとつを手に取る。油はとても貴重だ。野菜を買ってくることを忘れて、肩を落としている男ににこりと笑う。
「こっちのほうが、ずっといい」
彼はぱっと顔をあげ、安心したように目尻を下げた。
そんなやりとりをしたのが数日前。私たちは油をどう有効活用するか考えて、やっぱり天ぷらだろうという結論にいたった。
なので、こうして鎌を片手に土手を歩いている。三月も中頃になると山菜が沢山生えていた。地面ばかり見て歩くのですこし腰が痛い。
「あった!」
しゃがんで、まだ残っている雪をかきわける。顔を出していたのは、山菜のふきのとうだった。根元に刃を当てて手前にひくと、ざく、という小気味いい音と共に、蕾が地面から離れた。山菜を鼻先に持っていく。苦いような、青い匂いがした。
横に置いていた籠に放り込むと、ほんの少し離れた所にもうひとつあるのが見えて、手を伸ばす。転々と生えているふきのとうを追って行くと、空気が柔らかいものに変わった。知らないうちに山を途中まで降りてしまった。このまま下るか、それとも戻るか少し悩む。
膝丸はいまごろ起きているだろう。部屋に誰もいないので不安に思っているかもしれない。残してきた男の寝顔が浮かんで、足を家の方に向けた。来た道を戻る。
途中で、脇に流れている堀で手を洗った。水は肌を刺すような冷たさだった。反射的に手をひっこめたくなったけど、我慢して手を洗う。雪は半分以上が溶け、足元でぐしゃぐしゃと濡れた音が鳴る。ところどころ地面が黒くなっていて、少しだけ寂しく思った。今年の冬は楽しかったような気がする。
古屋につき軋む扉を引くと、布団から体を起こして不安そうな表情を浮かべた男と目が合う。夕闇みたいな色が、ぱっと明るくなった。抗議の声にあいまいに答えながら、手に持っていた籠を玄関に置いた。男はひとつだけ身震いすると布団から抜け出して玄関口までくる。裾からのぞく剥き出しの足首がみるからに寒々しく、「まだ寝てたら」と声をかけた。
「これは?」
興味津々といったふうに男が尋ねる。
「ふきのとうだよ」
膝丸はあまりよく分かっていないようで、ふむ、と言いながら頷いている。
「この間、もらってきた油でてんぷらを作ろうと思って。それはたぶん、ぜんまい」
さきがくるんと丸まった、魔法使いの使う杖のような形をした山菜を鼻先にもっていった男は、くんと匂いを嗅ぐと、「春が来たのだな」と嬉しそうに呟いた。
現代では夕ご飯は多分夜の七時とか、または二十一時とか、そのくらいにとるものだと思う。でも、今いる時代の常識は少し違う。日の入りと共に夕食を囲んで、日が沈んだらすぐに眠る。
それは、もともと違う時代に生きていた私たちも同じで、だから夕方になったら早々に、夕ご飯の準備をした。竹筒に入った油を片手に鉄の鍋とにらめっこをしていると、いつのまにか男が傍に来ていて、恐る恐る声をかける。
「無理をしないほうがいいのでは」
「大丈夫。できる」
「人には向き不向きがあると、俺は思う」
それどういう意味、と不機嫌を隠さずに言えば、膝丸は、「そのままの意味だ」と小さく答えた。それには無視をして、大きく息を吸い込む。
壁側にぴたりと配置されたかまどに向き合う。下の開いている部分に火をつけて(火をつけるだけで一時間はかかっていた)、うどん粉を水で溶かしたものに、ふきのとうをくぐらせる。そのまま鉄の鍋へ、ごうかいに油をまるまる一本入れた。隣から息を飲む音が聞こえたがもうあとには引けない。数分すればぷつぷつと空気が生まれて油のはじける音がしたので、ころものついた山菜をぽんと投げた。
油を熱するところまでは良かった。でも、きっとその後がいけなかった。ぼちゃんと高温に熱せられた油の海に飛び込んだ食材は、けたたましい音を立てた。
驚きのあまり固まっていると、よこから手が出てきて、食材を一度取りあげる。かまどの下の木を組み替えて火力を弱くしながら次の食材を準備した膝丸は、綺麗にふきのとうを揚げてくれた。
「料理は得意だ。俺に任せてくれ」
「やだ」
ぼそりと呟くと、男は箸を片手に空中を見上げた。何か考えるような仕草をしたが、聞かなかったことにしたのか作業に戻った。手持無沙汰になったので手元を覗く。細くて長い指だった。男のひとの手。数年前までは鉄の塊だったのに。物である彼は、私よりずっと器用に、綺麗に天ぷらを揚げてくれる。
木で出来たお皿には、半分が真っ黒に焦げたものと、黄色く美味しそうにからりと揚がったものの二色がある。膝丸はひとつを箸で挟んで顔の前によこしてくる。悔しさと、わくわくとした気持ちが綯交ぜになったまま、ひな鳥みたいに口をあける。まだ熱いうちのそれに噛みつくと、苦みと向こう側に甘さが口に広がった。
「春の味がする」
口の中でじゅわと油が染みた。
「おいしい」
一部始終を眺めていた膝丸は、そっと手を伸ばして、私の唇を指先でなぞった。驚いて目を瞑ると、ふっと息を漏らすようにして笑う。
「唇が油で光っている」
くすくすと笑いながら男は火と向き合う。じゅわじゅわと音を立てる油はときどき跳ねて、その度に驚いて膝丸の後ろに隠れる。が、膝丸は熱い油が肌についても一切動じていなかった。火から生まれたから、熱さには強いのかもしれない。
数分もすると、すべての食材が綺麗に揚がったので、囲炉裏のある部屋に移動して夕ご飯にした。膝丸はさりげなく、焦げすぎたものを食べてくれた。私が最初に作った、火加減を間違えてしまったものだ。捨ててかまわないと言ったのに、小さく首を振って、「これはこれで美味しい」と、優しい声で答える。
◇
桜の花びらが舞っている。
薄い桃色の花びらが青空を背景に雨のように降り続いている。
河川敷沿いに並んだ桜並木は果てもなく続いていて、天国に続く光の道だった。
眠るときにぴたりと寄りそうようになったのはいつからだろう。記憶はあいまいにほどけて、よく分からない。おやすみと言って目を閉じたときには二人とも行儀よく布団に横になっている。でも、数時間経つと必ず違和感に目を覚ますのだ。自分のものじゃない腕がお腹にまわっていて、首のうしろで深い呼吸の音が聞こえる。
今日も、深夜に体を襲った違和感に目を覚ました。後ろから前にかけて腕があって、ベルトみたいにがっしりと拘束されている。強い力ではないけれど、それなりに苦しい。それに、たびたび目が覚めてしまうから、最近はうんざりとしていた。
動物の名前に由来があるものや、逸話によって性格が引っ張られている刀はいて、なかでも私のもとに来てくれた膝丸は盛大に逸話に引っ張られていた。顔つきも蛇によく似ていると思ったけれど、口に出したら深く傷つけてしまう気がしたので、心の中でとどめていた。瞳のまるいかたち。執念深さ、それ以外にも似ている部分はいくつかあった。例えば寒さに弱いところ。もう春の足音がしているけれど、ここは山奥で日の光があまりささないからか、朝と晩は空気が冷たかった。そんな日はこうして巻きつかれる。きっと無意識だし、不眠にさせようという気持ちは無いのだからと今まで黙っていた。でも、それも我慢の限界だった。
男の足がふとももの間をこじ開けて絡みつく。体温が冷たいのと、距離が近すぎて息が詰まった。心拍数があがる。悩みの種はもうひとつあった。それは彼が男の姿をしているということだった。目が覚めたときから、おしりのあたりに何か当たっている感触がしていた。もうすでに起ちあがっているそれは獰猛な大きさで、服越しにこすりつけられるとぞっとした。眠ったまま男は無意識に腰を押し付ける。う、と細い息を発して首筋に吐息が滑ったとき、もう駄目だと思った。
「起きて、起きて。膝丸」
べり、と腕をはなしてゆさゆさと肩を揺さぶると、男はすぐに目を覚ました。素晴らしい動きで体を起こし、枕元に置いてあった本体を掴む。鋭い眼差しを扉のほうに向けながら、「敵か」と小声で呟いた。
「違うの」
「どうした」
ほっとしたように息を吐きながら、男は脱力して問いかける。どうしたものかと視線をうろうろとさせていると、手が伸びてきて髪にふれた。体の感覚に鈍感なのか、それよりも心配が先に立っているのか、金色の瞳は不安をたたえて見つめていた。
「あの、暫く別々に寝よう?」
視線を遠くの畳に固定しながら言えば、膝丸は酷く狼狽えた。
「なぜ?」
「あの、言いにくいんだけど……」
目だけでちらと下を見て訴える。今更になって体の異変に気が付いた膝丸はばっと両手で下腹部を隠し、何度も謝罪を口にした。
「いいよ。生理現象だし」
涙目になりながら必死におさめようとしている男が哀れに思えて、そっと肩に手を置く。ゆっくりと顔をあげた膝丸は羞恥で目の端を赤く染めて、口をあけたり閉じたりしていた。こういうときなんと言葉をかけていいか分からない。小さい頃に審神者に選ばれて男の人ばかりの本丸にいたけれど、刀たちは欲とうまく付き合っているようだった。夜遅くに外出して朝方に帰ってくることもあった。きっとうまく発散していたのだと思う。対して膝丸はそういう方面に疎いのかもしれない。
「ずっと言えなかったんだけど、絡みついてくるから、今までよく眠れてなくて。あと、あたるし」
ストレートに言い過ぎたかもしれない。膝丸は雷に打たれたような顔をして、でも次の瞬間に俯いた。何か悩むようにしながらそわそわとしている。
「すまない。しかし、君の近くにいると心地が良い。許してくれるなら、今までのように傍にいたい」
ぎゅっと目を瞑って絞り出すような声を出している。とても不憫だった。
「こういうとき、どうしたらいいか知ってる?」
問いかければ、男はふるふると首を振った。それもそうかと頷いて、いい機会なので教えることにした。正座をして、硬く握り込んでいる手をそっとどける。
「男の人って、色々とたまるから、自分で処理しないといけないんだよ」
人差し指をそっと立てて、はちきれそうになっている部分に触れる。布の上から線を描くように中心を撫でると、男は驚いて体を震わせた。様子を見て、嫌がっているようには感じなかったので、ごくごく優しい力で握る。手を筒の形にして、服のうえからしゅっしゅっと扱くと性器はすぐに張り詰めた。
「う、きみ」
呼ばれて顔をあげれば金色の瞳と目があった。苦しそうに眉を寄せて、下唇を噛み締めて何かを耐えている。太ももはびくびくと震えていた。握る力を少しだけ強くして敏感な部分を小刻みに刺激すると、子犬のような声をあげて腰を引いた。膝丸は恥ずかしいのか視線を合わせなかった。暗い部屋に荒い呼吸音が響いている。
腰の脇にある紐を引っ張ってしまえば簡素な下着はすぐにほどけてしまう。凶悪な形をした性器が目に飛び込んできて言葉を失った。陰茎には血管が川みたいに浮いていて、時々ひくひくと勝手に動いている。張った亀頭の先から透明な雫が生まれていた。
「気持ちが悪いな」
不安そうな声にはっと意識を戻す。それを直接見た途端、黙ったままピクリとも動かなくなってしまった私を見て、男は悲し気にそう呟いた。俯いて表情がよく見えない。髪の毛が重力にそって垂れている。
「ううん。少し、びっくりしただけ」
言いながら手の動きを再開する。先の段差になっている所を引っかけるように刺激すると、腰がびくびくと震えた。のけぞる男の首元があらわになり喉仏がごくりと動く。手の動きを早めると、腰が吊られるようにあがる。汗が噴き出して首筋を伝った。
「あ、あ。もう出る、出てしまう」
「いいよ。いって」
今度は手のひらを猫の形にして丸く張った亀頭を包み込み、ぐりぐりと刺激する。男は細い悲鳴をあげて体を硬直させた。手の中でぐんと膨らむ感覚がして、数秒遅れてはじける。吐精したあとも何回か扱くと、残っていた精液がぴゅっと出てきた。
近くにあった布で手を拭って、白濁で汚れてしまったお腹周りを丁寧に拭う。膝丸は疲れたように脱力しながら、綺麗になっていく腹を見つめた。性器はくたりと横になっていた。でも完全には力を失っていない。また刺激してしまったら元気になってしまうかもしれない。あわせめを閉じて、はだけた浴衣をそれとなくなおした。
「えっと、多分こんな感じなんだけど。やり方は分かった?」
今更になって恥ずかしさがおそってくる。反対に、こころもちすっきりとした男は真面目な顔をして頷いた。今までどうしていたのかときけば、放置していたとのことだった。人の体についてよく分かっていなかったらしい。
「これからは、こうして自分で処理をしてね。それかやっぱり、別々に寝たほうがいいよ」
項垂れている男にそう声を掛けると、彼は「もう一度チャンスをくれ。努力するから」と言った。
努力でどうにかなるのだろうか。そんな疑問を胸に抱きながら、布団に潜り込んで向かいあう。暗闇の中で、金色の瞳が二つ光って見えた。
「眠くなるまでお話しよう」
「そうだな」
さっきまでの空気を払拭するみたいに努めて明るい声を出せば、男は安心したように脱力する。
「どうしてそんなに一緒に寝たいの?」
思いついた疑問をそのまま口にすると、膝丸は気まずそうに唸った。言葉を探すように上のほうを見つめて、小さく口を開く。
「とても安心する。触れているところから君の霊気が滲んで心地が良い。それに、共に寝ていると悪夢を見ない」
ふぅん、と呟く。自分から聞いたくせに興味のない声色が出てしまって申し訳なく思った。膝丸はそんなのちっとも気にしていないふうに優しく微笑みながら、頭をひとつだけ撫でてくれた。
花の中で何が一番好きかと聞かれたら、桜だとこたえる。まず色が綺麗。近くで見ると白いのに、それがたくさん集まると薄桃色に見える。薄くて軽い花びらが風に吹かれて雨のように降り注ぐ光景には、いつも感動させられる。
田植えが無事に終わったので、少し休んでから、二人でお花見に行くことにした。
庭を出て、通路を右に曲がる。そのまま下に歩いて行って暫くすると町に出る。その手前に大きな川があった。
「あ、ほんとにあった」
川のそばにはぽつんと桜の木が生えていた。まだ半分くらいが蕾だ。近づいて下から眺めた。薄い緑色の葉っぱが太陽の光をすかしている。木漏れ日が眩しい。葉脈まで見えるような気がして、目を凝らしていたら、そっと手を引かれた。
「こんなものではない。向こうはもっとすごい」
瞳を輝かせて膝丸が言うので、半信半疑になりながら頷く。川を背にしてなだらかな土手をのぼった。視界が少しずつ高くなる。遠くに山が連なっていた。もうほとんど雪がとけて青い色が空との境界で滲んでいる。
人は殆どいなかった。ここは山の近くだからそもそも人が少ない。道を歩いていても、めったにすれ違うことが無かった。
膝丸は普段、町に出る時は髪を黒く染めていたけれど、それ以外のときは自然体でいた。風にゆれる若草色の髪をななめ後ろから眺める。横顔がシャープだなと思った。長い前髪が顔の半分を隠しているから、片側からだと冷たい印象を受ける。でも、中身は全く逆だということを、私は既に知っている。
昔、誰かに言われたことがある。人は外見によらない、と。全くその通りだと思う。私は人の表面しか見ていない――というか、騙されやすい所があるから、今までたくさん悲しい思いをした。
例えば演練。同い年くらいの女性の審神者と仲良くなった。ふんわりとした雰囲気の人だった。ときどきご飯を食べに行ったりして、愚痴を言い合う仲になった。きっかけは、今はよく思い出せない。
ある日、その人と戦うことになった。模擬練習のようなもので、重傷になっても、戦いが終われば傷は癒えてしまう。
幸か不幸か、勝ちを取ることが出来た。血が流れている男士たちを見ても顔色ひとつ変えない私を見て、その子がぽつりと「人の心がないの?」と呟いた。今まで聞いた声よりもずっと低くて冷たい言葉が心に爪跡をたてる。でもどこかで肯定していた。自分でも、大切な何かが抜け落ちている気がしていた。それらに言葉をつけるなら、”思いやり”が一番しっくりときた。それから、その人とは疎遠になって、それっきりだ。
風の色が視界をよぎって、反射的に横を向くと、二つの金色と目があった。膝丸は不思議そうな顔をしている。
「どうした? 浮かない顔をして」
感情の読み取れない静かな声だった。なぜかほっとする。膝丸はとてもやさしい。
「なんでもない」
なお心配している男を横目に握った手に力を込め、ぶんぶんと子供みたいに手を振って歩いたら、「落ちついてくれ」と焦ったような声が追いかけてくる。
いつのまにか遠くに見えていた薄い桃色が段々と大きくなっていた。土手に沿って桜の並木が続いている。視界がやわらかい色につつまれた。
「きれい」
光の道を二人で歩いた。嘘のない感嘆の声に、隣の男はうれしそうに頷く。桃色の雨がたえず降り続いていた。
「また来年も来よう」
膝丸は驚いたように目を丸くした後、にっこりと笑う。
変な時間に起きてしまった。部屋の暗さから早朝だと予想する。まだ太陽の昇りきっていない、透明な空気が辺りを満たしている。隣で寝ている膝丸をおこさないようにゆっくりと体を起こし、そろそろと静かすぎるほどの動きで布団をめくり、体を引きぬいた。
細かい雨の音がしている。室内は暗く静かだった。ぼんやりとしたまま、小屋を見渡した。最初に来たころより物が確実に増えている。奥に引き戸があって、視線を左にずらせば、壁際に小さな台所があった。玄関からは土足で行けるようになっているので、料理するときは靴を履いたまま作業できる。
一段上がったところに、囲炉裏のある八畳ほどの部屋があって、隣にはの和室がある。そこで二人で寝ていた。囲炉裏の部屋は何か作業をするときにつかっている。
障子を引いて縁側を歩く。毎日掃除しているので床は綺麗だった。掃除はなかなかに大変だけれど、いい暇つぶしになる。今の生活は暇のひとことだった。田は一日のうち数時間作業すればいいし、仕事もしていない。自給自足のような生活なので、お金は手つかずのまま、箪笥にいれてある。
廊下の中腹まで来たところで縁側に腰を下ろした。床が冷たい。どんな体制になろうか少しだけ迷ったけれど、たち膝をつくる。片方の膝を抱えるようにして庭を眺めた。草木が自由に伸びて視界を覆っている。元はきちんと手入れのされた庭だったのかもしれない。丸くて大きな石がぽつぽつと置かれて、道のようになっていた。
緑色の葉っぱが雨に打たれ揺れている。地面も、木も、どこもかしこも濡れていた。立てた膝に頭を預けながら静かに目を閉じる。暗闇の中で水の音が響いている。
小さい頃。――確か、あれは小学生のときだった。早朝に、こんな風に起きてしまったことがある。その時はリビングで一冊の詩集を読んだ。黒い表紙に押し花がプリントされた本だ。小学生だったし文体が古めかしかったから、いまいち内容は理解できなかったけれど、詩を読んでうかんだ風景は心の中に残っていた。新聞屋さんすら動き出さない午前四時。みんなが寝静まった世界。その日も今と同じように雨が細かくふっていた。非日常的で、神秘的な空気にどきどきとしながら、葉の響きだけを味わった。
暗闇のなかで唐突に思い出す。そうだ。あれは心について語った詩だった。
最近の胸の痛みについて、膝丸は考える。心臓の辺りを握られるような感覚。想像のなかで、心臓を両手で柔らかく包み力を込める。臓器は悲鳴をあげ、ばくばくと喚いて血液を送る。ちょうど、いまのように。
膝丸は気配に敏感なので、女が起きて身じろぎした瞬間に目を覚ましていた。しかしすぐに目を開けたら気持ち悪がられると思い、寝たふりを決め込む。意識はぐらぐらとしながら、でもしっかりと女の挙動を捉えようとする。
そっと布団を抜け出した女は、座ったまま、ぼうっと室内を眺めていた。どうしたのだろう。彼女は、ひたすらに壁というか、玄関のほうを向いていた。何も面白いものなど望めそうにないのにと、規則的な寝息を作りながら膝丸は考える。疑問が心配に変わる頃、女はそっと腰を上げた。薄目を開けて布団の中から静かな背中を見つめる。線が細い。ついでに足首も。あれでよく長旅を出来たものだと感心する。
女は迷うことなく障子を引いて、廊下の向こうへと姿を消した。暗闇に溶けてしまうような気がして、焦燥に駆られるままに、布団から抜け出し、足音を立てないように畳を踏む。この小屋はとても小さくて、歩き回れるくらい広くはない。縁側もついているが、一目で見渡せるくらいの距離しかなかった。
廊下を歩いていた女は真ん中あたりで腰を下ろした。立てた膝に軽く頭を乗せる。そして庭を見つめたあと、静かに俯いて、目を閉じてしまった。
この感覚は何だろうと再び膝丸は考える。雨に濡れた庭。早朝のかたく、清らかな空気。まだ早すぎる時間帯なのか、動物たちの気配は無い。雨が降り注いで、音をすくい取っている。世界は薄い膜に覆われている。
振り向いて欲しいと思うと同時に、どうか気付かないで欲しいと心の底から願った。しかしそんな願いも空しく、主は何の前触れも無しに顔をあげた。驚きで体が情けなく跳ねて、内心で舌打ちをしたくなった。なぜと自分に問う。敵と戦う時ですら、こんな風に怯えたりなどしない。それなのに、主といるときだけは平静を保てない。
「どうしたの?」
思いのほか柔らかい声だったので、ほっとしながら足を冷たい床につけた。ほんの数歩、動かせばすぐにたどり着いてしまう。
じっと一部始終をながめていた女は、膝丸が隣に座ったのを見届けると、興味を無くしたように視線を庭に向けた。自分で聞いてきたくせに答えを求めない態度に少し傷つきながら、同じように庭を見つめる。が、取り立てて美しい景色ではないと思った。木はぼうぼうと自由に枝葉をのばしているし、花も咲いていない。玄関から出て少し歩いた先は崖になっているので、そこからだと美しい山並みが見渡せるが、庭からだと木で邪魔されている。
「君こそ、こんなところで何をしているんだ?」
何となくはぐらかすような声色になってしまったが、相手は何も気にしたようすもなく、少し考えるように上を向いて、ゆっくりと振り向く。
「雨の音を聞いてた」
「そうか」
会話が終わってしまい、どうしようと思っていると、主はぼんやりとしながら口の中で何かを呟いた。だが、雨音にかき消されて聞き取れない。僅かに体をよせると、右側に重みを感じた。
石のように固まってしまった膝丸を見て、女は楽しそうに笑った。髪の毛が首筋をくすぐっている。主が寄りかかっていた。立てていた膝はいつの間にかまっすぐに伸びて、手はだらんと垂れている。
毎日一緒に寝ているのにどうしてこんなに動揺するのかともう一人の自分が呆れている。答えは自分でもよく分からなかった。ただ体の半分が熱い。神経が全てそこに集まってしまったみたいだ。
喚きだした心臓を宥めるために深呼吸する。膝丸のことなど気にもせずに、女はあきずに雨を眺めていた。
「見て」
微かな音で彼女が呟く。全身を耳にしていた膝丸は、その言葉通りに視線を前に向けた。雨粒が光って葉を震わせる。狐の嫁入りと言うのだろうか。地平線の向こう側からきた光が庭にまで届く。朝日が昇ったのだ。
「きれいだね、膝丸」
つい先ほどまで視界に広がっていたのはただの土と雑草だった。それなのに、彼女のたった一言で、世界は色を変えてゆく。鮮やかな変化に心が震えた。
「あぁ。とても綺麗だ」
それだけでは胸を満たす感情は伝わらないと思って、そっと手を重ねる。主は体を固くして、でも次の瞬間には脱力した。優しい呼吸の音がしている。
膝丸は出会った日のことを思い出していた。あの日もこんな風に雨が降っていた。最初は土砂降りだったのに、主が錆びを取り除いてくれた瞬間から世界は光に包まれた。
たったひとりの言葉でこんなにも世界が変わってしまうなんて、恐ろしいことだと思った。それと同時に、幸せなことだとも。
水の張った田に躊躇なく足を突っ込むと、指の間に泥が入り込む感触がした。ねちゃねちゃと粘土のように緩い土を踏みながら歩く。田植えなんて生まれて初めてするので、始めた頃は全てが珍しかった。でも悲しいことに、それも回数を重ねるごとになれてしまう。
家の裏側をまわると高くなっている土地があり、小さな田の跡のなごりだったので、せっかくだから使ってみることにした。近くに流れる堀から水を引く。淵にそれらしい穴が開いていたから、前に住んでいた人たちが使っていたのかもしれない。
籠に十五センチほど育った苗を乗せて、手で持てるぶんだけ片手にもち、数本を泥に埋め込んだ。驚いたアメンボが水上を跳ねるみたいに泳いでいく。それを横目に、一体私は何をしているのだろうと疑問に思った。政府から指示が無いまま冬を越えてしまった。五月の空は気持ちよく晴れている。暑すぎもなく、寒すぎない、ちょうどいい天気だった。ほんのひと月前は満開だった桜も、ほとんど散ってしまった。
次々と苗を泥に突き刺し、ときどき休憩がてら腰をあげる。腰をエビみたいにまげて作業することになるので、終わる頃にはへとへとになった。昔の人は偉いとしみじみ思う。
ふと前を見ると、見慣れた山が視界に飛び込んでくる。隣と比べて大きな山だった。月に一度、本当にたまに町へ向かうとき、村人にあの山は何かと聞いた。彼らは呆れたような顔をして、名前を教えてくれた。
山頂にしか雪は残っていない。いや、まだと言うべきだろうか。だってもう春なのだ。いまだに残っている雪は、まだ冬を終わらせたくないと未練がましく叫んでいるように見えた。
そんなことを考えていると、もう一つの足音が耳に届く。ちゃぷちゃぷ、とした音はだんだんと近づいてきた。
籠に入れた苗を抱えて近づいてきたのは膝丸だった。汚れてもいいような麻の着物に身を包んでいる。裾は腰の下あたりで絞られなるべく泥がかからないようにしてあるが、泥水が跳ねてさっそく膝の部分の色が変わっていた。
「あとどれくらいだ」
「ここまで」
ほとんど同じタイミングでため息をつき、作業を再開した。これはいつまで続くのかと思っていたけれど、黙々と手を動かしていればやがて終わりがくる。最初は三枚もあった田んぼが残り僅かとなっていた。面積にすると畳十二枚分くらいではないかと思う。腰に手をあてて、そらしながら歯を食いしばる。そんなことを繰り返していたらあと畳一枚分にまで減っていて、必死に手を動かした。
終わる頃には体のいたるところに泥が付いて、しかも固まって白くなっていた。ぬかるんだ地面から足を引き抜くようにしながら進み、畔までたどり着くと、どさりとその場に腰を下ろす。
あらためて視線を遠くに向ける。稲の子供たちが等間隔に並んでおり、細く尖った葉が肩をよせあうようにしてゆれていた。
体がすみずみまで疲れていて、衝動のまま後ろに倒れ込んだ。背中にちくちくと草が刺さるけど、それには構わずに息を深く吸い込む。強い草の匂いがした。空はどこまでも高く、白い雲が泳いでいる。
滝の流れるふもとで長襦袢のまま川に入る。最初に足を差し込み、水の冷たさに少しだけ震えた。川は岸の近くは水深が浅いが、中心につれて深くなっていく。
水に濡れた所から襦袢は肌の色を透かして蛇の皮のように体に張り付く。滝の近くまで行くと、轟音が耳に飛び込んできた。地面を震わせるような、体の奥の何かを呼び起こすような響きだった。顔をあげれば、白い大きな滝が目に飛び込んでくる。十メートルくらいの水が、上から絶えず流れ、水面に叩きつけられた水の塊は細かいしぶきになって、白い霧に変化していた。
足元で魚が猛スピードで泳いでいくのが見えた。両足の間を流れ星のような速さで通り抜けていく。驚いてしまい、変な声をあげながら、ぜんぜん間に合わないのに片足をあげる。ふと我に返ると、遅れて恥ずかしさが襲ってきた。
お腹辺りまでしゃがみ込んで、髪の毛を洗った。手でひたすらに水をすくって、頭皮を指の腹で擦る。初めの方は細かく洗っていたけれど、途中から面倒になって、ざぶんと川の中に入った。
音が遮断される。薄く目をあけて、魚みたいに泳ぐ。もし、私が本物の魚だったら、そこら辺のざらざらとした石に体をこすりつけていたかもしれない。でも、残念なことに人間なので、手足をまんべんなくのばしたり水かきみたいに動かしながら、ゆらゆらと進む。すぐに息が持たなくなったので、ぱっと顔を水面から出した。
木が空を覆っている。蝉の鳴き声が雨みたいにふった。でもあまり煩くない。本丸の夏はもっとずっと煩かった。後ろに倒れ込み力を抜く。ぷかぷかとしながら頭上を見つめた。枝葉が差すような日差しのほとんどを遮って、木漏れ日だけが地面に落ちている。ここは光がほとんどささず、薄暗い。
暫くそうしていたけれど、いい加減帰ろうと思って体を起こした。岸に向かって歩く。陸に戻るにつれて体が重くなる。少し疲労を感じた。
濡れた長襦袢の裾を絞って、上から軽い着物を羽織った。足元から水が滴るけれど、構わずに足を進める。夏なので道に出れば自然に乾いてしまうだろう。同じ理由で、髪も濡れたままにした。
一本道を暫く進んでいると、木の数が減っていった。夏の日差しが瞳を焼く。
予想通り、水を吸った服は少し歩いただけでどんどんと乾いていき、家に着くころにはすっかり元の状態に戻っていた。すがすがしさと、少しのだるさを感じながら、膝丸の姿を探した。
探し人はすぐに見つかった。玄関ではなく庭へ足を向ける。右手側に縁側があって、そこから二つの足がにょろりと突き出ていた。静かに足音を殺しながら、靴を脱いで縁側に乗りあがる。そのままぺたぺたと進み、大の字に寝ている男を上から眺めた。
薄い若草色の前髪は横に流れて、薄く口が開いている。形のいい唇だとも思った。ゆっくりと肺が上下している。
縁側は半分、日があたるけれど、もう半分は庭に木が鬱蒼と生えていて影が落ちていた。暗くて静かな側で、膝丸が大の字で寝ていた。ぺたりと横に座ってまじまじと観察する。まず肌。つるりとしていて、薄い象牙色で、なめらか。指先で触れてみたいと思ったけれど、そうするとすぐに起きてしまいそうなのでやめておいた。
衝動のまま、顔を横にして胸の鼓動を聞く。どくどくと内側から響くような音に耳を澄ませながら目を閉じた。夏の暑さのせいか着物はしっとりと湿っていて、微かに汗の匂いがした。でも全然不快じゃない。その理由を、私はよくわかっていない。くたりと力を預けた途端、ぐっと腕が回って、視界が反転した。横から強い力が加わる。半分乗り上げる形になって、駄目押しのように横っ腹に衝撃がくる。
「うわっ」
気がつくと男に乗っかっていた。うつ伏せで、綺麗な顔が近くにある。薄い色素のまつ毛が瞬いて、不思議な色をした瞳がじっとこちらを見つめていた。
木々が風に揺れるたびに、地面にステンドグラスのように木漏れ日が落ちる。起きてしまった膝丸は何も言わない。ひたすらにじっと見つめている。無理な体制に腕が限界を訴えていた。体重をかけまいとして、廊下に両手をつく。
元々力は弱い方だった。必死に体重をかけまいとする私を見て膝丸は薄く笑っている。腕はぶるぶると震えて、限界を超えると、ぷつんと糸が切れたみたいにして倒れ込んでしまう。
ふんわりと優しい香りが顔の横をかすめて脱力した。腰の辺りで組まれている男の両手。ぐっと拘束が強くなって、ぴたりと体が合わさる。
心臓の鼓動はネズミのように早くて煩い。でも薄い服越しに伝わるもう一つの音も同じくらいの速さで肌を打つので、何となく安心して身を任せた。
「冷たい。どこに行っていた?」
鎖骨の下、ちょうど平たくなったへこみのような骨の所に顔を横にして乗せると、世界が横になった。心地よい疲れとだるさに眠ってしまいそうになりながら、何とかこたえる。
「川。滝のあるところ」
「あそこか」
膝丸は濡れた髪に指を絡ませる。ほとんど独り言に近い声色で、「今日、花火を見に行かないか」と言った。
「はなび?」
がばっと体を起こすと、男は顔を歪めて苦しそうに呻いた。
「どうしたの」
「痛い」
無言で下のほうに視線を向ける。すぐに思い至って、謝りながら慌てて体を起こす。すぐに膝丸も追いかけるみたいに体を起こして、何となく向かい合った。
「花火をするの?」
「あぁ。村の者から聞いた。見に行かないか?」
言いながら膝丸はひょい、と私の体を持ち上げると、胡坐をかいた足の間に横向きに座らせる。夏は息をじっとしているだけで暑いのに、よくこういうことをするなと、頭の上のほうに顔を押し付けている男の熱を感じながら思った。
太陽が地平線に落ちるのと同時に山を下りた。くりぬかれたような道を歩く。町へ行くのは久しぶりだった。下山するのはとても大変で面倒だ。ゆうに二時間は歩かないといけない。
もうひとつの理由が頭をよぎり、少し上をちらと覗く。男のシャープな横顔と、向こう側に淡い色の空が見えた。空は群青から下にいくにつれてピンクになって、見事なグラデーションを描いている。まるで水彩絵の具を溶いたみたいだった。天には親指の爪のように細くて薄い三日月が浮かんでいた。
男のさらさらとした髪は炭をかぶったみたいに真っ黒だった。昼に、苦労しながら黒染めをした。薄い緑色は浮いてしまうし、もしかしたら時代に影響するかもしれない。まちがってもそれはあってはならない。髪の色を差し引いても、膝丸からは人外な雰囲気がにじみ出ていた。身に纏う空気が違うのだ。外見が美しいこともそうだし、どこに居ても目立った。ただそこに居るだけなのに、みんなの視線があつまってしまう。そんな不思議な魅力が彼にはあった。
花火を見に行くことに決まったあと、私たちは一度家を出て、納屋に向かった。手前のあいているスペースに二人でしゃがんで、手の中にある小さな瓶を眺めた。少し触れたらボロボロと崩れていきそうな和紙に、「黒油」と書いてある。蓋を開けると嫌なにおいが鼻を掠めて、反射的に鼻頭に皺を寄せると、膝丸は拗ねたように下を向いた。
「仕方がないじゃないか」
ぼそりと呟きながら粘性のある液体を躊躇なく手のひらに乗せて、べたりと毛先に付けていく。春の風を乗せたように綺麗な髪の毛が黒く塗りつぶされていくのが勿体なくて、「この液体って、いつまで持つの?」と尋ねた。
「せいぜい、二、三日といったところだ」
長い前髪を両手で押しつぶすようにしながら膝丸が答える。皮膚が汚れないように真剣になっているためか、より目になっていた。残すところは後ろの髪だけ、という段階で声をかける。
「後ろ、やってあげる。その……謎の液体を貸して」
両手を差し出しながら言うと、今まさに追加で塗ろうと瓶を傾けていた膝丸は驚いて目を丸くした。
「いや、いい。一人でできる」
「見えなくて大変でしょ」
「君の手が汚れる」
押し問答を続けるうちに、ほんのちょっぴり手伝う気持ちが冷めてしまって、気付かれないようにため息を吐いた。もしかしたら――もしかしなくても、私はせっかちな性格らしかった。それに、うじうじしていたり、必要以上に遠慮する人が苦手だった。そんなことを考えていると、隣の男に伝わったみたいで僅かに体がこわばった。無言で手を差し出せば、相手はしぶしぶとした動きで小瓶を斜めに傾ける。どろっとした感触がした。
後ろにまわって、柔らかく毛先を握る。次は中心を握って熊手の形にした指を毛先まで滑らせた。何度か繰り返しているうちにコツが掴めてくる。多分、思ったより薄く伸ばしたほうがいいのだ。
慣れてくると楽しむ余裕が生まれて、作業を再開した。軽く口の中で歌いながら仕上げに頭を撫でるように手を動かしていると、男の体ががちがちになっているのに気が付いた。
「どうしたの。具合わるい?」
心配になって覗くと、歯を食いしばって首をふる。熱中症になったのだろうか。ここは日陰だし、山奥なので比較的涼しい部類に入るけれど、夏真っ盛りなことには変わりが無かった。
どうしていいか分からずに手をだらんとしたままでいると、膝丸は大きく息を吐きながらゆっくり目を開けた。
「昔を思い出してしまった。戦場や、遠征から帰ったとき、君は労いの言葉をかけ、ひとりひとり頭を撫でていた。俺は一度もそうされたことがなかった」
「でも、それは」
遠征から帰って来たとき頭を撫でるのが流行った時期があった。たぶん短刀にふざけてやったのが始まりで、どんどんと広まってしまって、打刀や太刀にもやるようになった。
膝丸は近寄ってこなかった。広い玄関先で、歌仙が生けてくれる月替わりの花(とても大きくて、一メートルくらいあった)の隣に立って、戻ってきた彼らを出迎えた。姿を見るとほっとして、頭を撫でて、お疲れさまと声をかけた。嫌がる人がいたらすぐに辞めようと思っていたけれど、幸いなことに一人もいなかった。
膝丸は少し離れた所から見ているだけで、けして近寄っては来なかった。感情が読み取れない瞳で、私が屈んでいるさまを見つめていた。普通に顕現したわけではないし、特に身に覚えも無いのに避けられ、ときどき睨みつけられて、どうしていいのか分からなかった。てっきり嫌われていると思っていた。
何か言葉をかけようと思い――浮かんだもののほとんどが言い訳だったけれど――とにかく何か弁解をしないと、と身を乗り出した私を、男は片手で制した。
「そんな顔をしないでくれ。主は何も悪くない。臆病な俺は傍に寄れなかった。ただ、ずっと羨ましかった。それだけだ」
ゆっくりと下げられる手を目で追う。そんな顔とはどんな顔だろう。押し黙っているうちに、膝丸は恥ずかしそうに咳ばらいをした。
「今のは忘れてくれ」
答えられずにじっとしていると、膝丸は心配そうに顔を覗きこむ。
「何を考えている?」
心配と僅かな恐怖が乗った声で言われて、首を振った。そのまま両手を前に出す。
「手が汚れていなかったら、今すぐに抱きしめてあげられるのに。今までできなかった分、髪がぐしゃぐしゃに乱れるまで、思いきり頭をなでてあげたい」
膝丸が嫌がるくらい、と言いながら笑う。彼は無表情で、ほんの僅かに、口の端がぴくりと動いただけだった。表面は凪のように静かだったけれど、確かに彼が胸を打たれているのだと分かった。
「君はどこまでもやさしい」
ため息のような声を内側から絞りながら男は言った。顔をあげる。太陽が地面をじりじりと焼いている。ここは屋根が上にあるので日が影っている。光が強い分、影は底なしの闇みたいに暗かった。
「そうでもないよ。もう終わったから、手を洗いに行こう」
立ち上がって、手を差し出す。汚れていたのだと、すぐに気が付いてひっこめようとしたけれど、男はそんなことは気にせずにしっかりと握り返して、腰を上げた。
「大丈夫か?」
横から気づかわし気な声が聞こえて、はっとして意識を現実に戻した。曖昧に笑いながら、なんでもないと答えると、膝丸は寂しそうな表情を浮かべた。
しんみりと沈み込みそうな気配を察知して、慌てて話題、話題、と思っていると、夕闇に染まった空が目に入った。
「そういえば、最近、雨降らないね」
指折り数えて気が付く。梅雨の時期に一回降ったきりだった。隣で膝丸が、静かに言葉を発した。
「昨日、裏の野菜を見に行ったら、少し枯れていた。給水しようと思ったが、堀の水位が下がっていたから、あまり水をやれなかった」
そっかと返事を返すも、思ったより不安が乗って心細い声色になってしまった。膝丸は慌てて、「だが、妖の仕業ではない。たまたま日照りが続いているのだろう」と言った。
天気はどうすることも出来ない。もし、このまま雨が降らなかったらと、想像して、背中が寒くなった。
「大丈夫だ。仮に畑のものが無くなっても、俺が外からとってくる」
勇気づけるようにいうと、さらに手まで握ってくれる。反応が遅れてしまって、ぼんやりとしていると、彼は今さら恥ずかしさを感じたみたいに俯いて、そっと指先を離した。
町には人が沢山いた。トンビの鳴き声によく似た篠笛の音色が耳を掠める。太鼓の音もしていた。通りを歩いていると、急にそれらの音が大きくなって少し驚く。ドンッ、ドンッとお腹に響くような音を立てながら、やぐらがすぐそばを通り抜けていった。
途中で甘酒を買って(夏に呑んだのは初めてだったけれど、よく冷えて美味しかった)何となく路地の暗がりで立ったまま休憩した。人の塊が右から左へと流れていくなか、気になるお店を見つけて、目だけで合図をした。
膝丸は片方の眉を綺麗に上げたけれど、特に断る理由もないようで、子供のように手を引っ張る私のあとをついてきた。たどり着いたのは金魚屋さんだった。桶の沢山の金魚が鉢の中で泳いでいる。暖簾には「掬い」とだけ川の流れるような文字で書いてあった。
お金を渡して木で出来た桶の近くにしゃがむ。少し離れた所で子どもが指をくわえて興味深そうに見つめていた。金魚すくいは数少ない特技だった。見ていてごらん。一匹でも二匹でも、何ならいくらでも――金魚をすくって見せる、と心の中で思いながらにやりとわらうと、子供は怯えたように父親と思われる男性の足に隠れてしまった。
気を取り直して金魚と向かい合う。水の中で彼らは自由に泳いでいた。赤や、白や、黒のぶち柄。全身が緋色のもいて、みな、飴玉みたいに小さかった。
網はどこかと思って淵を覗いたりしていると、隣にしゃがんだ膝丸がくすくすと笑った。
「素手ですくうのだ」
予想外の言葉に驚いて口を僅かに開けて見つめてしまう。男は口角を上げたまま、本当だ、と頷いた。
確かにまわりにそれらしいものは無かった。嘘はついていないみたいだ。水の底に金魚の細い紐みたいな糞が沈んでいるのが目に入って一気にやる気が失せてしまったけれど、気のよさそうな店のおじさんがニコニコしながら見守っているので、苦笑いしながら袖を捲った。
手づかみだなんて思っていなかった。人差し指と、中指を水面に触れさせる。波紋が生まれて、それが桶のはじに行くより先に、金魚はものすごい早さで四方八方に逃げてしまった。ずいぶんと元気な金魚たちだ。水の中でぐるぐると動かしたけど当然のように金魚は掬えなかった。――いや、すくうというよりは掴む、というほうが正しい。半場諦めかけていた時、指先に、つんと微かな振動が伝わった。
目を向けると、一匹の丸い金魚がこちらを見上げて口をパクパクとさせていた。体はピンポン玉のようにつるんとしていて、そのかわりに尾ひれはずいぶんと長かった。カーテンのようにゆれている。手を離しても付いてくるので、可愛いなと思いながら暫し戯れていた。
もういいかな、と思ったところで右手を水から抜くと、追いかけて来た金魚が名残惜し気に水面から鼻先だけを出していた。一部始終を見守っていた店のおじさんは驚いたように目を丸くして、何かを思い出したように後ろを向いた。
横に置かれていた布切れで簡単に手を拭きながら待っていると、彼は振り返り、手に持っていた何かを、ざぶん、と水の中に入れた。そのままぐるぐるとかき混ぜると、慎重に持ち上げる。
お金はいらないと言いながら差し出してくれたのは、さっきの金魚だった。相変わらず水面から口を出して、しきりにパクパクとさせている。
「ありがとう」
お礼を言いながらお店を後にする。手に持ったままの金魚を眺めていると、横から膝丸が教えてくれた。金魚すくいでは、金魚は持ち帰らずに返すのが暗黙の了解なのだそうだ。なので今回は特別な事らしかった。
河原沿いを歩くと、人が集まっている場所がみえた。みんな直接地面に腰を下ろしている。私たちもそれにならって汚れていない地面に座る。ちいさな石が薄い布越しにおしりを突き刺すので痛かった。
「大丈夫?」
「……君は?」
「すごく痛い」
「俺もだ」
笑いながら、やっぱり別の場所にしようと腰を浮かす。一度土手をのぼってみることにした。河原よりも見えにくいかもしれないけれど、ここら辺にしようかと斜面に座る。晴れていたからか地面はよく乾いていて、さっきよりも、何倍も座り心地がよかった。
「移動して正解だったね」
と呟きながら金魚のはいっている湯呑を横に置いた。でも、倒れたときのことを思って、やっぱり持っておこうと考え直す。もしここでぶちまけてしまったら、なかにいる金魚はすぐに動かなくなってしまうだろう。
「名は何にするのだ」
「名前をつけるの?」
不思議に思いながら尋ねると、逆に彼は目を丸くして「あたりまえだろう」と呟いた。改めて手中にある湯呑を見つめる。小さなピンポン玉くらいの大きさの金魚は、狭そうに、でも大人しく、水の中でじっとしていた。
「きんちゃんにする」
咄嗟に頭の中に浮かんだ言葉をくちにする。理由は簡単だ。――金魚だから、きんちゃん。膝丸は簡単すぎると不服そうだったけれど、「いいの。もう決めたから」と言うと、すぐに口を噤んだ。
そうしているうちにパン、と火薬の鳴る音が聞こえて俯いていた顔をあげると、遠くで火の玉が見えた。それは数メートルだけのぼると、途中でくたりと力を無くして、川に落ちてしまった。じゅっと、鎮火された花火の断末魔のような音が耳に届く。唖然としている私たちをよそに、周りでは歓声があがった。
「ちょっぴり控えめだったね」
だいぶオブラートに伝えると、膝丸は隣で首を傾げた。
「あぁ。俺が本丸で教えてもらったのは、こう、もっと――火花が弾けて、眩しく、音が四方八方からするものだった」
身振り手振りで説明する男に頷きながら、次の花火を待った。でも、一向に二発目は打ち上らない。そうしているうちに数分、数十分が過ぎてしまった。
「花火、あがらないね」
ぶち、と手持無沙汰に近くに生えている雑草を抜きながら独り言のように呟くと、隣で膝丸が申し訳なさそうに「すまない。こんなはずでは」と呟く。
「どうして謝るの」
塩をかけられた青菜のように元気が無くなってしまった男に笑いながら、ふと周りを見渡した。よく見ると男女が一組になって集まっていた。その小鳥みたいに身を寄せ合って、みんな高揚した顔をしている。
花火が思うように夜空を彩らなくたって何も問題なんて無かった。少しの間、湯呑は地面に置いて、手をぱんぱんと叩いた。横でしょげている男を覗き込む。ちら、と目があった瞬間に恥ずかしそうに逸らされてしまった。
「楽しいね、膝丸」
すっかりリラックスした気持ちでそう口にする。オレンジ色の提灯の光が闇夜に浮かんで、楽しそうな笑い声がそこかしこから聞こえてくる。男の肩にもたれかかりながら力を抜く。驚いた膝丸は体を跳ねさせたけど、すぐに腰に手が回る。
家に持ち帰った金魚はすくすくと大きくなった。花火から帰ったあと、すぐに家の裏の堀に向かった。そこは比較的流れが穏やかで、さらに水が溜まる部分があった。
茶碗を洗うついでに、残った米粒とか野菜の屑をあげた。野菜はあまり食べなかったけれど、ご飯は好きみたいだった。小さな口で、掃除機みたいに水ごと吸い込む。頬のあたりの切れ込みから水と共に細かいゴミが吐き出されて、金魚はもっと、というように水面で口をパクパクとさせた。
何度か足を運ぶうち、金魚は名前を呼ばずとも現れるようになった。足音や、振動でわかるのもかもしれない。普段は水草に隠れているため姿は見えない。そして不思議なことに、膝丸に対しては態度が違うのだそうだ。呼んでも一向に出てこなくて、何度も声をかけると、いかにもしぶしぶといったようすで水草の奥から顔を出す。
「この金魚は君を慕っているのだ」
と、面白くなさそうに男はいった。子供みたいな発言に笑ってしまう。
「そんなわけないよ。だって魚だよ」
心なんて――と、言葉を続けようとして、慌てて口を閉じた。膝丸が思いの外真剣に見つめていたからだ。
「生き物にはみな魂がある。長く使われた物だってそうだ。大切に思われ、心を向けてもらえたら、それに応えたいと思う。口がないから伝えられないかもしれない。だが、だからといって感情がないわけではない」
またある日、堀に向かった。天からさすような太陽の光が地面に降り注いで、蜃気楼のように揺らいでいた。雨が降らないのでどんどんと水が少なくなっていく。裏の山に湧水があって、口にする水なんかはそこからもらっていたのが、それもちょろちょろと頼りない量になっていた。
堀が見えたと同時にぞっとした。もう水深が数センチしか残っていなかった。いつもは出迎えてくれた金魚も、今日は姿を見せない。
「きんちゃん? どこにいるの?」
水が無くなって、からからに乾いてどこかで死んでしまったのだろうか。そんなことを思いながら何度か呼びかけていると、水草がゆれて三角の口が見えた。――いた。良かったと安堵の気持ちでため息を吐く。
水は流れがほとんどなくて、どんよりと濁っていた。こころなしか金魚も苦しそうだ。
「どうしよう。雨が全然ふらないと、私たち途方にくれてしまうね」
手が汚れるのも構わずに指先を水に触れさせる。すると影から完全に姿を現した金魚が、尖った口でつんつんと突いてきた。
「金魚に言っても、仕方のない事だけれど」
自嘲気味に笑いながら、そっと綿に触れるような優しさで尾ひれに触れる。金魚は感情の読み取れない瞳でただひたすらに尾ひれを動かしていた。
そんなやりとりのあと、数日も経たないうちに、金魚が消えてしまった。また隠れているのかと思いそこらへんを探してみたけれど、とうとう最後まで見つからなかった。
猫に食べられてしまったのか、それとも水が無くなって、本当にどこかで干からびてしまったのか。誰も知らない場所。ひび割れた地面に横たわるようにして死んでいる金魚を想像すると、しばしば夕食の箸が止まった。
どんよりとした空気を体から発している私を見て、膝丸は勇気づけようと、珍しい木のみを取ってきてくれたり、光る石を見つけてくれた、花を摘んできた。しかし心が晴れなくて、あいまいに笑うことしか出来なかった。
「落ち込まないでくれ。何もそうと決まったわけではない。もしかしたら、もっと川の近くに非難して、今頃元気に暮らしているかもしれない」
「でも」
「いいほうに考えよう。それに君が悲しそうにしていると俺も辛い」
頑張って気持ちを奮い立たせる。何も死んだと決まったわけではない、という男の言葉を胸に抱きながら、すっかり冷えたご飯を口に運んだ。
不思議な夢を見た。
真っ暗な空間に、一人で佇んでいた。見渡す限りの闇だ。でも、不思議と嫌じゃない。手を伸ばすと、白い肌が浮かんだ。目が段々と暗闇に慣れてきて世界の輪郭が生まれる。まわりは木で囲まれていた。そのうちにしっかりとした水の音が聞こえる。川が近くにあるみたいだ。
そっと両手を耳の横に持っていく。川のせせらぎを越えて、自分を呼ぶ声が届く。子供みたいな声だった。小さな男の子。何度も、何度も同じ言葉を繰り返している。
「どこにいるの? 姿を見せて」
声を発したとたん、呼びかけは聞こえなくなってしまい、闇の中で途方にくれた。川に足を踏み入れようとすると、ドンと地響きのような音が体の表面を震わせる。
――見に来て。
「だからどこに?」
必死に暗闇に向かって声を張り上げる。水面を叩く轟音が響く。車酔いのような感覚がして、思わず口を押えた。意識が現実に引っ張られる。次に目を覚ました時には、見慣れた天井が広がっていた。
「行かなくちゃ」
やけにリアルな夢だった。隣で寝ている膝丸をおこさないように注意しながら、ゆっくりと布団から抜け出す。
浴衣のまま外に出た。予想よりもずっと明るい。空を見上げると、まるまるとした月がのぼっていた。今日は満月だった。
ぺたぺたと足音を殺しながら夜道を歩いた。しばらく下って、分かれ道を左に曲がる。そのまま真っ直ぐに行けば町につくが、整備されていない獣道を選んだ。昼でも頭上を木々が覆っていて暗かったから、あるていど予想はしていたけれど、森の中は真っ暗だった。真夜中の森は怖い。幹の間から化け物がこっちを見ているような気がしてならない。途中で野生の生き物にあったらどうしようかとも思ったけれど、そんな心配は無用だった。生き物の気配が少ない。森は静かでひっそりとしていた。
闇の中を黙々と歩いていると、ふと空気が一段冷たくなって、水の気配がした。どどど、と音がして、歩みを続けると、次第におおきくなり最後は轟音に変わる。
藪を越えると川のほとりにでる。木が空を覆いつくしているけれど、丸くくりぬかれたような場所から満月が見えた。月の光がスポットライトのように川面を照らしている。砂利を踏みながら川の際まで歩く。しゃがみ込み耳をすませた。が、水の音しかしない。
やっぱり帰ろうと腰を浮かせたとき、ちゃぷ、という水面を叩く音がして顔をあげる。流れのゆるやかな場所で、尖った口を水面から出している金魚がいた。
「きんちゃん! こんなところにいたの」
手をさしのべると、ゆらゆらと近寄ってきた。これが猫や犬だったら迷わず抱きしめているのになと思いながら、指先で軽く尾ひれを撫でる。
てっきり、一人ぼっちで干からびてしまったと思っていた。堀の水位が日に日に下がっていくから、自分から川に避難したのだろう。実に賢い金魚だ。
金魚は感情の読み取れない瞳で私のことを見つめていた。どうしてか分からないけれど不安が胸を満たす。
――見ていて。
唐突に頭の中に声が聞こえて、びっくりしてしまう。まわりを見渡すが人の姿は無かった。視線を水面に戻して、今度こそ驚いた。金魚がいなくなっている。
どこに行ってしまったのだろう。また消えてしまった。左から右へと視線を動かしていると、遠くに赤い小さな何かが浮かんでいるのが目に入って、ほっと息を吐いた。奥に滝があって、金魚はその数メートル手前にいた。ピクリとも動かずにいる。どうしたのだろう――と思っているうちに、金魚は前に進んでいった。
「駄目だよ! そっちにいっちゃ!」
言葉など耳に入っていないように、金魚はすいすいと進んでいく。もう見ていられないと、立ち上がって片足を川に突っ込んだとき、左手をぐっと掴まれた。
振り返ると膝丸がいた。おこさないで家を出たと思ったのに。驚いたけれどすぐに金魚のことを思い出し身を捩る。男は静かに首を振った。
「はなして!」
「駄目だ! 邪魔をしてはいけない」
左手をがむしゃらに振っても男の力にはかなわない。ぽちゃんと水の音が後ろから響いて振りかえれば、もうほんの数センチのところまで滝つぼに近づいてしまった金魚がいた。
どうすることも出来ずに見つめていると、金魚は一瞬のうちに濁流の中へ呑まれていく。上から叩きつけるような白いしぶきに体を打たれて、川の底へ押し流され、消えてしまった。
心が深い悲しみで満たされる。それを向ける相手は、一人しかいなかった。
「どうして止めたの!?」
どん、と空いている手で左腕を叩くと、膝丸は苦しそうに眉を寄せる。手は外されなかった。苛立ちに突き動かされるまま川の中に向かったが、後ろから体を拘束された。
「やめろ!」
「探しに行くの! 放してよ!」
夜の森に場違いな喚き声が木霊する。遠くで梟が鳴いた。何か反論の言葉でも口にしようと息を吸い込んだとき、赤い色が視界に過る。金魚だった。生きていたらしい。滝の数メートル前で浮かんで、静かに滝つぼのほうを向いている。数分前と全く同じ光景に少し面食らったが、すぐに異変に気が付いた。鱗が三分の一くらい無くなっていた。きっと、滝の衝撃をもろに受けて無理やり剝がされてしまったのだろう。
またもや真っ直ぐに滝に向かって行くのが目に入り、大声で叫んだ。
「だめだよ! 戻ってきて!」
振り切るように滝つぼに突っ込んでいくと、今度は濁流に跳ね飛ばされて、小さな体が宙を舞った。途中で岩肌に体を擦ってしまったのか、鱗の塊が一瞬でずる剥けになって、ぷらぷらと体に引っ付いている。棒物線を描いて水面に落ちた金魚は、水面で横になったが、また暫くすると滝に向かっていく。
後ろから膝丸に拘束されているので助けに行くことが出来ない。恐ろしいくらいの力だった。シェッとコースターの安全装置みたいにがっしりと腕を回されてお腹の辺りで固定されている。身じろぎすることしか出来ない。少しでも川に入ろうとすると、ものすごい力で戻される。
金魚は気が狂ったように何度も何度も滝をめがけて突進していく。自殺に似た行為をすぐにやめさせないといけない。
「よく見てみろ」
腕にかぶりつくかと口を開けたとき、背中から声がした。目を凝らして赤色を探す。それはすぐに見つかった。違和感が襲ってきて首を傾げる。
金魚の体がひとまわり大きくなっていた。ついでに体が黒っぽく変色し、少し横に伸びている。ひらひらとした尾はずいぶんと短くなってしまった。いつの間にか姿が変わっていて、鮒のような見た目になっていた。力を付けたように滝に突進すると、水の壁にぶつかって空中に巻きあげられる。だが、今度は垂直に上に跳んだ。とどまりながら、流れに逆らうように必死に泳いでいた。
滝をのぼるたびに体が伸び、体がうねりだす。鮒はやがて鯉の姿になった。尾は月の光を受けて内側から発光しているみたいだった。口の横からはえている二本の髭がぐんぐんと伸びて、同時に体は蛇のようになる。
彼が何をしているのか、ここへ来て初めて分かった。
「がんばれ……!」
水が弾ける。唸り声が聞こえる。もう金魚の姿は無かった。そこに居たのは一頭の黒い龍だった。
龍はたくましく滝を昇りきると、そのまま空を泳いでいく。水しぶきが細かくはじけて、光の粒が水面に降り注いだ。
それらが完全に消えるまで、呆然としながら見つめていた。
朝の光で目が覚める。腰に回っている手をそっとはがしながら、昨日の出来事を思い出した。膝丸ははじめから、普通の金魚ではないと気が付いていたそうだ。
「猫のように懐いている時点でおかしいと思っていた。君のことを相当気に入っていた。滝登りのあと、本当は連れ去りたかったはずだ」
俺がいたから叶わなかったがなと得意げに続ける。そうだったのかと驚いていると、膝丸は複雑な顔をした。
不思議な光景を見て興奮していたからか、全く眠気が訪れなかった。暫く金魚の話をして、やっと眠りについたのは、日が昇ろうとしている頃だった。朝日と共に眠るのもたまにはいいなと思いながら、静かに目を閉じる。寝ていたのは二時間やそこらだったかもしれない。腰をあげたとき、鼓膜に優しい音が届いて、真っ直ぐに障子に向かった。薄い障子を引いて、縁側に出ると、雨が降っていた。
糸のように細かい雨が庭を濡らし、さあさあと静かな音がしている。でも、奇妙なことに空は晴れていて、薄い雲がかかっていた。
縁側のぎりぎりに立って手を伸ばす。手のひらを上に向けると、水がくぼみに溜まっていった。数か月ぶりの雨だ。
空には虹がかかっている。その下を細長い、龍のような形をした雲が泳いでいた。
季節は秋になった。
お盆を過ぎると夏の暑さがぐっと落ち着く。木はまだ青色を残していた。あともうひと月したら山は紅葉で彩られるだろう。
田舎道をのんびりとした足取りで歩いた。歩く度に袴がさらさらと揺れている。隣には膝丸がいた。刀は立派で少し目立つから、ボロボロの布に入れて背負っていた。
「鼠が大量発生しているんだってさ」
道中で説明しておこうと思って口を開いた。男はちら、と横目を向けるとすぐ視線を前に戻す。まだ機嫌が直っていないらしい。ため息をつきながら話を続けた。
「鼠が稲を荒らすから、どうにかしてくれって頼まれたの」
膝丸は答えない。空気は固いままだった。理由は簡単で、一人で対処しようと思ったからだ。ちょっと出かけてくるね、とだけ伝えて扉を開けると、居間でくつろいでいた男は慌てて後を追ってきた。
何処へ行くのかと聞かれたときに初めて、内容を話した。野鼠が大量発生してせっかく育った稲が荒らされていること。鼠殺しの団子を作っても駆除は追いつかず、もう神頼みしかない。山のふもとの人たちは噂好きで、どこから漏れたのか知らないが、得体のしれない私が話題に出たそうだ。先日見知らぬ男が尋ねてきたときは本当に驚いたけれど、事情を知ると気の毒に思った。
だがこれは他人事では無かった。昨日、田んぼの稲を確認したら、数カ所かじられた跡があったのだ。
ちょうどそのとき膝丸は出かけていてその場にいなかった。とりあえず話をしようと支度をして、戻ってきた膝丸に声を掛けると、ついてくると言った。それからずっと、こんな調子だった。
「まだ怒ってる?」
下から顔を覗くようにして尋ねると、膝丸は口を引き絞って「あたり前だろう」と、お腹の底から低い声を出した。
「なぜ何も相談してくれない。俺では力になれないか」
「ごめん……。命にかかわるようなことでもないし、自分で解決できそうだなって思ったから」
村の人から頼みごとをされることは何度かあった。今回は猫を放つことになるだろう。それくらいしか鼠を捕まえる方法が見つからない。自分の他にも数名、巫女に声をかけているとのことだった。それくらい切実なのだ。
「そう簡単に済めばいいがな」
馬鹿にしたように言われて、むっとして睨んだが、相手は涼しい顔をしている。
そうしているうちに大きな屋敷が見えてきた。長屋門は招くように完全に開いている。一応声を掛けたが応答はない。膝丸と目を合わせて頷く。彼はさりげなく背負っていた刀をおろし、いつでも抜けるように片手で持った。
足を踏み入れると、遠くで作業をしていた女の人が顔をあげる。一瞬眉が顰められたが、姿を認めると、納得したような表情を浮かべた。本当は話を聞く段階で巫女服なんて着てこなくても良かったのだけれど、正解だったと胸の中で呟く。色々と説明する手間が省けた。
「お待ちしておりました」
彼女は屋敷へと案内してくれる。平屋だった。ここらの農家の中で一番大きい家かもしれない。一声かけてから靴を脱いで座敷へと進む。ここへ来て改めて、自分たちが暮らしている家がとても小さいのだとあらためておもい知った。
奥の囲炉裏のある部屋に人がいた。四十代くらいの男性で、太りすぎ、という程ではないが頬がやわらかそうだった。そして、袖から覗く腕がたくましい。彼は白衣を見ると、顔を明るくさせた。
「話の大体は伺いました。詳しい状況を教えてもらえますか」
単刀直入に切り出すと、さっと顔に影がさす。男はやや下を見つめながら、鼠が大量発生しだしたのは先週からだと言った。
「先週」
「多少、害虫が多く出る年はあったが、ここまでのことは無かった。太陽に干した稲のほとんどが食い破られている」
来た時に見た風景を思い出す。ちょうど今は稲刈りの時期で、田んぼの中でいくつもの人影を見かけた。収穫をしているのだ。
情景を思い出していると、男が言った。
「そうそう。土地の神様に祈るのはもうやったから、別の方法にしてくれ。猫を解き放つこともな」
そうそうにアイディアを潰されて言葉に詰まる。膝丸がそらみたことかと冷たい眼差しを向けている。
曖昧に笑いながら頷いて、その場を後にした。
数日後。結果は惨敗だった。屋敷から帰る途中に土蔵の隅に鼠が三匹いるのが目に入って、思わず睨みつける。人の気配に敏感な彼らはすぐに気が付くと、近くにあった穴に身を滑り込ませて姿を消した。
「どうしよう。おてあげだよ」
手に持っていた細い枝であたりに生えているすすきを切りながら呟くと、隣から手が伸びてくる。そっと枝を持つと、脇に放り投げた。
膝丸は何か言いたそうにしている。しかし言いにくそうに、口を開けたり閉じたりしていた。
「何かいい案でもあるの?」
「あぁ。これ以上いいものは、俺にはちょっと浮かびそうにない」
苦虫を噛みつぶしたような顔を浮かべた膝丸は「実に不本意だが」と唸った。
次の日。動きやすい服に着替え、少し休んでから外に出た。もくもくと山道を登る。どこに向かえばいいのか全く分からなかったので、また術を使った。子狐の父親捜しに使ったときと同じものだ。長方形の白い紙はすぐに蝶の形になった。ひらひらと薄い羽根を動かしてはためいている。
「そういえば、俺を探すときも、この方法を使ったのか?」
「あの時は獏が教えてくれた。まるで警察犬みたいだったよ」
ぎょろぎょろとした目玉を思い出す。彼とは最近あっていない。暇なときに姿を見せてくれたらいいのにと思う。
膝丸は納得したように頷いていた。
「あの時は本当に嬉しかった。見つけてくれてありがとう」
面と向かって言われると体の奥がむずむずする。気持ちを隠すように「ほら、早くいかないと真夜中になっちゃうよ」と告げ足をはやめる。
案の定、日はあっという間に落ちて、辺りはすぐに暗くなっていった。虫の声と、遠くで野良犬の遠吠えが聞こえる。朝になってから来た方が良かったかもしれないと思ったけれど、一刻も早く解決しなければならなかった。農家の蔵の三分の一は、鼠にやられてしまっていたからだ。
手に持った麻の袋から揚げ物の香りがのぼってくる。中には野鼠の唐揚げと、油揚げが入っている。事情を聞いた村の人が作ってくれた。野鼠は退治した中から数匹を選んで、てんぷら屋が捨てる予定の油を使用した。最初は断られるかと思ったけれど、膝丸の顔を見たら覚えてくれていたみたいで、快くその場で揚げくれた。
数時間を歩いていると、ずいぶんと高い場所にたどり着いた。山が見下ろせる。少し道をそれると急な崖になっていた。足を踏み外したら大変なことになる。緊張しながら足を動かした。
唐突に洞窟が現れた。深さはあまりなくて、一目で中が見渡せる。先導していた蝶はくるくるとまわると、役目を終えたように羽の先から消えてしまった。膝丸と目を合わせて、ゆっくりと足を踏みだす。中には大きな影があって、上下にゆっくりと動いていた。背中を向けているため顔が良く見えないが、白い毛並みが僅かな光を受けとめて光っている。
「こんばんは」
ぴくと耳が動いて、顔だけこちらに向ける。目があった途端、彼は赤い糸みたいな瞳を限界まで大きくさせた。
「ごめんなさい。急に訪ねてしまって」
「何の用だ。というか、なぜここが分かった」
言いながら自分で気が付いたみたいで、白狐は黒い爪で前掛けを摘まんだ。「これのせいか」と呟き、これ見よがしにため息を吐くと、のっそりと起き上がる。犬がお座りをするような姿勢になった。
「まぁ座れよ。出すものは何もないがな」
礼を言って、その場に腰を下ろす。地面は平たくなっていて、思ったより痛くなかった。白狐はじろじろと不躾に視線を走らせ、くすくすと笑った。
「あんなことがあったのに一緒に居るなんて、お前たち面白いな」
「黙れ。半分はお前のせいだ」
刀に手をかけた膝丸を見て、ぎょっとしながら腕を押さえる。白狐は面白そうに一部始終を眺めていた。
「物騒だな。で、用件は?」
「実は、野鼠が大量発生してしまって」
「あぁ、なるほど。それは大変だ。米がとれなくなるもんな。だが俺には全く関係ない」
くわっと口を大きく開けて欠伸をすると、尾をばらばらと動かした。いちいち気に障る言い方だった。いらいらとしていると彼はチラと横目に見るから、こちらの反応を見て楽しんでいるのだとすぐに分かった。
「お願いします」
両手をついて頭を下げると、横で膝丸が悲鳴に似た声をあげた。
「やめてくれ主。こんな妖風情に頭を下げないでくれ」
「いいのかなぁ、そんなことを言って」
ぐっと顔を近づけながら狐が言う。彼に対して頭を下げることに抵抗は無かったので、地面に額をこすりつけるようにして呟く。
「お願いします。どうか、貴方の力を貸してください」
「いいぞ。話をきいてやろう」
白狐の声色が変わった。ゆっくりと顔をあげる。となりで膝丸が、ショックを受けたような表情を浮かべながら私を見つめていた。彼は知らない。この狐がただの妖でないことを。それは二人だけの秘密だった。
「どうしてほしい?」
さっきの砕けた口調はどこかへ行ってしまっていた。白狐は赤い瞳を細くして品定めをするように私を見ている。
「助けてほしい」
「俺たちは無償では動かない」
稲荷にお参りに行くときは注意が必要だと小さい頃に聞いたことがある。何か願いをしたとして、後で感謝のお参りをしないと怒ると教えられた。子供の頃、稲荷は力の弱い神様かと思っていたけれど、それは間違いだった。
ぼんやりとしていると、視界に白色が過った。尾が鼻先を掠める。隣で男が刀に手をかける鋭い音が耳に届いて、慌てて止めながら、後ろに置いていた包みを取り出した。
「そう言われると思って、これを持ってきた」
「お、美味そうだな」
鼻先を近づけて白狐は嬉しそうに笑った。瞳が糸のように細くなる。「気に入ってくれた?」と尋ねると、彼は鼻を鳴らして「そうでもない」と言った。尾が楽しそうに揺れていたので、喜んでいるのだと予想する。
「交渉成立?」
おずおずと尋ねると、彼はふん、と小馬鹿にしたように鼻で笑った。
「明日の午後、外に出ていろ」
言い終わらないうちに、かぶりと歯で揚げ物の入った包みを咥えこんで、洞窟の奥へ戻ってしまった。そのままごろりと横になり、長い尾を体に巻き付ける。
「膝丸、行こう」
なお警戒している男に声をかける。何か言いたそうな顔をしていたが、静かに頷いて腰をあげた。
まるまると実った稲穂は重そうに頭を下げて、風に吹かれて左右にゆれている。
山から風が吹いていた。風が通るたびに光が流れて、金色の海のようだった。田の中心で所在投げに立ちながら、静かにときを待っていた。白衣が空気をはらんで膨らみ、また元に戻る。隣には腰に刀を携えた膝丸が立っている。いつでも刀を抜けるようにしながら、緊張した面持ちで遠くの山を見つめていた。
田は春には水が張られていたが、今はからからに乾いていた。視界の端に一匹の鼠が過って、僅かに顔を顰める。気配に敏感な彼らは、すぐに稲の間へ体を隠した。
「どうやって鼠を追い払うんだろう」
遠くにいる農民を横目で見ると、彼らは手を揉むようにして拝んでいた。天敵となる猫も駄目だった。毒餌も効果が無かった。もし、白狐の言葉がはったりだったら。彼は人間を揶揄って楽しんでいる節がある。このまま解決できなかったら、どうすればいいのだろう。
妖と対面したときとは別の意味で体を震わせていると、横で目を細めていた膝丸が刀に手をかける。
「何か来る」
向こうだ、と顎でしゃくる。前方には大きな山があった。じっと目を凝らしていると、無数の鳥肌が立った。景色はなにも変わっていない。稲穂はのんびりと揺れていて、空には羊雲が浮いていた。長閑な田舎の風景だ。
膝丸が庇うみたいに一歩前に出る。足の間を何かが通り過ぎでいく感覚がして、叫び出しそうになってしまった。
大小さまざまな鼠やモグラが、一斉に山と反対側へと逃げていく。風が鳴った。突風が奥から渡ってくるのが目に見える。轟音と、稲が波のように倒れていくからだ。波のような波紋が届くと同時に腕で顔を庇った。まるで風の壁だ。音が凄い。耳が痛い。恐怖で体が硬直する。
それは山の方からやってきて、そしてあっという間に通り過ぎていった。
「なに、今の」
膝丸が眉間に皺を寄せて鼻を鳴らす。獣の匂いが帯のように残っていた。
あんなに沢山いた鼠は次の日から嘘のように忽然と姿を消した。村人たちからは大層喜ばれて、命の恩人だとまで言われた。私たちはその度に困ったように顔を見合わせる。違うのだと言いたかった。本当は白狐がやったのだとばらしてしまいたいと思うことが、何度もあった。
沢山のお礼の品を家に持ち帰り、その中から日本酒を取り出して、再び山に登る。二回目は何となく道が分かったので、朝の早いうちから黙々と歩く。会って、直接お礼をしようと膝丸と話していた。
しかし、いざついてみると、洞窟の中はもぬけの空だった。もしかすると、私たちに見つかってしまったから移動してしまったのかもしれない。そんな考えが頭に過り日本酒を奥の岩壁のそばに置いておく。誰も居ない洞窟にぽつんとお酒が置かれているのは、なんだか物悲しい景色におもえた。
家の裏にある田んぼの稲刈りを終えて、稲を天日干しているあいだ外を散歩した。秋のからっとした風が頬をなでる。もうすでに空気が冷たくなっていた。のんびりとしていたら収穫の時期が遅れて稲が枯れてしまう所だったと、小さく反省しながら足元の落ち葉を眺めていると、黒くて大きな爪が視界に入る。
顔をあげた瞬間、突風が吹いて、ものすごく近い場所に動物の鼻先があった。大きな白い狐がドアップで現れたので、驚きのあまり後ずさると、よろめいた背中を柔らかな尾が支える。白狐はにんまりと笑いながら真っ赤な口を開けた。
「酒をありがとう。俺の活躍を、ちゃんと見ていたか」
「う、うん。すごかった。助かったよ」
お礼を告げると、彼はこれ見よがしにため息をついて、肩をごきごきと鳴らした。
「千里を走るのは大変だったな。とんだ安請け合いをしてしまった」
なんて言っていいか分からずにあいまいに頷くと、彼は、そうだ、と思い出したように言いながら上を向いた。
「少し時間をもらおう」
え? と聞く前に、ぐっと後ろから押されて、気が付いたら背中に跨っていた。反射的にしがみつく。首元の毛を掴むと同時に、風景が後ろに流れていった。
「ちょっと! どこへ連れていくの!」
彼は答えずにぐんぐんと道をかけていった。素晴らしい速度だった。走るたびに足元から風が生まれて、木の葉が巻きあげられる。
こうなったら何を言っても無駄だろうと諦めて全身の力を抜く。抵抗しないということが伝わったのか、彼はスピードを緩めた。馬の駆け足くらいの速度で滑らかに走って行く。道が険しくて越えられないときは、びょん、と跳ねるように飛びこえた。その度に内臓が浮く感覚がして気持ちが悪かったが、慣れると遊園地のアトラクションみたいで楽しかった。
ぐらぐらとした揺れに身を任せながら風景を眺める。周りには何もない。風景がみな小さかった。枯草だらけの山道をもくもくと歩いて行く。
何度か訪れた洞窟が見えてきて、やっと足を止めた。身を屈めてくれたので、無言で背中から滑り落ちる。
「そこで待っていろ」
白狐はゆっくり奥に歩いていた。入り口を見ると、半円型にくりぬかれた風景が見えた。空の面積が多い。太陽が落ちかけていて、高い場所に一番星が輝いている。
「待たせた」
どさ、と近くに誰か座る気配がして慌てて振り返れば、一人の男性がいた。今回は三十代前半くらいの姿だった。でもベースは同じらしくて、髪は銀色だし瞳は細くて赤い。
「老人じゃないの?」
「まあな。基本的に老人の姿をよく使う。狐はみんなそうだよ」
ふうん、と言いながら手を地面につける。さらさらとした感触が伝わって驚いて下を見つめた。いつの間にか茣蓙が敷かれている。乾いた草の匂いがしていた。
「地面に直接座るんじゃ、痛いだろ」
言いながら彼は手を伸ばし、先日持ってきた日本酒を引き寄せる。木で出来た栓を抜くと軽い音が洞窟に響いた。不安げに暮れていく空ばかり見つめている私を見て、白狐は面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「心配しなくても夜には家に帰してやるさ」
「ほんとう? 良かった」
途端に力を抜いて、いつの間にか用意されていたお猪口を手に取る。白狐は一升瓶を傾けて注いでくれた。乾杯、と小さく挨拶して口に運ぶ。透けるような日本酒は辛口で美味しい。
なんとなく考えていたことが伝わったのか、彼は独り言のように呟いた。
「一人で飲んでも面白くないだろ」
「そういえば、もう会わないんじゃなかったの?」
「何を言っているんだ。先に訪ねて来たのはお前だ」
それもそうだと頷いた。どうやって鼠を追い出したのかときけば、山から全力で走っただけだという。人間には風の音しか聞こえなかったが、威嚇するように鳴き声を発しながら駆け抜けたそうだ。
「別に鼠は好んで食べようと思わないが、野生の狐には食料だからな。走りながら、ここに鼠がいるぞ! と教えてまわった」
「そうなんだ。白狐は賢いね」
彼は答えずに、瞳だけ細くした。
「何かあったか?」
なんの脈絡もなく聞かれて考えこんでしまう。最初に浮かんだのは夏の出来事だった。隠しておく必要も無いと思って、ありのままを伝えた。夏祭りで拾った金魚がすくすくと大きくなって龍になってしまったこと。雨を降らせてくれたこと。
気が付くと自分ばかり話しているような気もしていたけれど、彼は黙って聞いてくれていた。
「お前は好かれやすいほうだからなぁ。充分気をつけろよ」
「そうかな。自分ではそう思わないけど」
酌をしながら否定すると、彼は分かってないな、と首を振った。銀色の髪がさらさらと揺れている。男が指をパチンと鳴らすと、空中に火の玉が浮かんだ。気が付くと辺りは真っ暗になっていた。
「俺がこうしてお前を連れてきたのも、どこか、惹かれているからかもな」
と、揶揄うように狐が言う。
家に着く頃にはすっかり夜になっていた。早く帰ろうと思っていたのに、気が付くとお猪口に酒が注がれて流されるままに飲み下して、そんなことを繰り返していたらこんな時間になってしまった。白狐は妖のくせに話がうまい。
帰り道は送ってくれた。背中に乗せて、風と同じ速度で駆ければ家まですぐだった。森を走り、ときどき空を飛んだ。高く飛びあがると月に手が届きそうで、思わず右手を伸ばす。あと少しというところでふっと体が沈んで、地面に降り立った。またね、と言って手を振る。白狐はにやりと笑って風と共に消えた。
緩やかな上り坂をもくもくと歩き、家が見えるとほっとした。疲れたのですぐ布団で寝たい。扉を引いて目に入った人影に驚いて、声をあげそうになった。
灯りも無い真っ暗な部屋で、膝丸が囲炉裏の前に座っていた。彼を中心に不穏な空気が生まれて落ち着かない。普段ならなにかひとつくらい声をかけそうだが、それも無かった。怒っている。ものすごく。垂れた前髪一本一本から怒気が放たれている。
「だから嫌だったのだ」
ぽつりと呟きながら身じろぎ顔をあげる。気を落ち着けるように本体を手にした。殺気に似た風がここまで届き身が震える。
「彼奴を頼るのが」
立ち上がり向かい合う。瞳の瞳孔が開く。
「どうだった」
一歩ずつ近づいてくる。足取りはふらふらとしている。
「君がそんな人だと思わなかった。それほどまでべったりと匂いを付けて帰って来るとは、予想外過ぎて言葉を失う」
何を言われたか理解したとき、頭にカッと血がのぼった。何もしていないと言っても、男は力なく頭を振るばかりだった。言われたこともそうだけど、一番心にきたのは相手の態度だった。今も軽蔑の籠った目で批難の視線を向けられている。
苛立ちのまま衝動に任せて背を向ければあざ笑うような声が降ってくる。
「また逃げるのか。いつかのように」
間髪入れずに外に飛び出す。深夜なのに月が出ていて明るいのが、不幸中の幸いだった。暫く山道を下って、途中にある大きな木の根元にしゃがみ込む。肺が苦しい。喉の奥で血の味がした。息が落ち着くまでまってから、目に見えた川べりに沿って歩いた。
もうずいぶんと山を下りてしまったみたいだ。左側に大きな山が、反対には田んぼがあった。ほとんど稲は刈り取られ、尖った根元が剣山のように残っている。冷たい風が腕の表目を撫でていって、寒さのあまり自分の体を抱えた。
腹立たしいのは、と荒々しく歩きながら考える。腹立たしいのは、全く信じてくれなかったことだ。そして、見当違いな疑りをかけられたこと。
月が出ているだけで夜は怖くなくなる。立ち止まり空を見上げる。くっきりと明るい月が浮かんでいる。満月の直前で諦めたかのような欠けた月だった。
冷静になって話せばきっと分かってくれるはず。なによりやましいことは何一つしていない。匂いが付いている、というのもいまいちよく分からなかった。試しに腕を持ち上げて嗅いでみたけれど、何の匂いもしない。
明け方に家へと戻ると室内は暗く、膝丸は居なくなっていた。囲炉裏の火さえも丁寧に消されている。奥の寝室にぽつんと敷かれている布団だけが、やけに現実的だった。
風が強く吹いたので、扉を勢いよくしめる。外から淡く漏れていた月の光が遮られ真っ暗になってしまった。目が慣れるまで静かに空っぽの部屋を見つめた。
擦った指先が震えていて、自分で驚いてしまう。いつもそうだ。失ってからやっと大切なものに気が付く。心は悲しい、寂しいというのに、どこかそれを認めたくないという気持ちもあった。のろのろとした動きで靴を脱いで、簡単に服の汚れを落とす。座敷へと足を進め布団に体を滑り込ませた。表面上は努めて冷静を装っているのに、内側は嵐のようだ。いつか別れが来ることは知っていた。お互いに心があるから、気持ちが離れてしまうことだって十分にありえた。人の形になった彼には、自由にどこへでも行くことが出来る脚があり、両手がある。頭では分かっていた。分かっていたのに、心のどこかで、きっとどこへも行かないだろうと思っていた。求められることは気持ちが良かった。肯定された気がした。
こんな終わり方になってしまったけれど、むしろこれで良かったのかもしれないとも思う。私は弱くなってしまった。人の温もりを知って、脆くなってしまった。鉄のようだったあの頃に戻りたい。でも、その為にはちゃんと話をしないといけない。本当のことを話して、謝って――この町を出よう。
そこまで考えると、すっと心が冷たくなった。
今さら、耐えられるだろうか。孤独な野生動物のような生き方に戻れるだろうか。
自分で自分を慰めるように、大丈夫、と心の中で呟いて、目を閉じた。
後日、一度山を下りた。悩んだけれどどうしても気になったので探すことにした。鼠を追い払ったことで顔を覚えられたのか、人々から好意的な視線を向けられる。最初に会った人に膝丸のことを聞いたが知らないと言われ、次に通りすがった男性にきいたらあっさり居場所を知ることができた。
具体的な地名は出されなかったが、何となく濁した言い方で、男性は道を説明しながら気の毒そうな顔をし、喧嘩をしたのかと尋ねる。それに無表情のまま頷くと、哀れに思ったのか馬を貸してくれた。只で借りるのは申し訳が無いのでお金を渡し、すぐに返すと約束して馬の背に乗る。視界がぐんと高くなった。持ってきた刀の意識がぞろりと動いて、体が勝手に動く。乗馬の知識なんてひとつも無いのに、太ももでしっかりと胴を挟んで合図をすると、馬は素晴らしい速さで道をかけていった。
半日ほど走り続けて、ようやく隣の町へとついた。川で水を飲んでいる馬の太い首を撫でる。あのまま歩いていたら三日はかかった。偶然出会ったあの男には感謝をしないといけない。
「あともう少し頑張ろうね」
声を掛けてから跨ると、馬はこたえるようになく。
村の入口にあった適当な木に馬の綱を繋いで表の通りを歩く。日が暮れて、屋台が店を出していた。お酒が入っているのか、人の話声が大きくがやがやと煩い
お腹のすきそうな匂いが充満していた。内側から寂しい音がして、手でそっと腹を押さえる。一段と薄くなってしまった。膝丸が消えてから何となく食欲がわかなくて、何も食べていない。
一通り歩いたけれどそれらしい人影は見あたらなかった。足取りは重い。奥の路地を右に曲がった。一本それるとがらりと雰囲気が変わる。提灯の明かりに照らされた店をながめながら、足早になりすぎず、かといって冷やかしだと思われないように注意して、ゆっくりと歩いた。
一階は客寄せ場のようだった。若い綺麗な女性が座っている。着物は豪華だったり、逆に質素だったりもした。店によって系統があるのだと何となく理解する。太っている人もいれば痩せている人もいる。花の種類が無数にあるように、沢山の女がいた。
女が一人でこのような場所を歩いているとやけに目立つ。よく思われていないということは、彼女たちの目線から痛い程伝わってきた。こんな所で何をしている。冷やかしなら出ていけと目が語っている。視線を避けるように足を早め、同時に注意深く、すれ違う人を探した。
いつのまにか路地の奥までたどり着いてしまった。奇妙な安堵を感じながら、もう一度探してみようと思ったとき、なじみのある声が聞こえた。
引き寄せられるように上を見あげる。
張り出した床版部分に背中をゆったりと預けて、男が杯を手にしている。完全に背中を向けているが、独特の雰囲気があったので、すぐに膝丸だと分かった。
両隣にはそれぞれ綺麗な女性がいた。彼はすぐ下に私がいることなど思わずに、女が顔を寄せてくるのを何食わぬようすで受け入れていた。
「そういうことか」
言葉は雨のように地面に落ちていった。受付の奥から老婆が出てくる。手ぶらで店の前で突っ立っているから、身寄りのない女だと思ったのかもしれない。どんどんと影が近づいてくる。
老婆が呼んだのと、膝丸が振り向いたのは殆ど同時だった。視線がぶつかった瞬間、相手は信じられないといったように目を丸くした。どんどんと冷たくなっていく心のまま、口だけを動かす。意図は伝わったみたいだった。男の瞳が細くなる。右側から老婆が腕をつかんできた。勧誘めいたことを言っているが何も言葉が入らない。枯れ枝のような手を強引に振り払い暗い路地を突き進む。
視線が背中に突き刺さって痛い。口の中で呟いた言葉を何度も何度も繰り返した。さっきから頬を伝う熱いもののことは、とりあえず今は考えないことにした。
膝丸は体が急激に冷たくなるのを感じていた。どうして、と心の中では同じ言葉がぐるぐると渦巻いていた。隣にいる女は男のようすがおかしいことにすぐに気が付いて、元気を出すようにと、しきりに太ももをなでたり、頬に手を添えたりする。しかし膝丸は反応を返せずにいた。
気の迷いだった。何かの言葉で例えるなら――魔が差した、というのが一番近い。一向に伝わらない気持ちにもどかしさを感じていた所、奴の妖気をこれでもかというほど付けて帰ってきたので頭に血が上ったのだ。
相手との心の距離は遠く、同じ好きでも、彼女と自分とではまるで意味が違う。女は求めればすぐに手に入ると今回の経験で知った。だが空っぽになった心は埋まらなかった。
少し遊んだら帰るつもりだった。体を重ねることは無い。嫌悪がまさり気持ちがまるで乗らなかった。
「ねえ、どうしたの」
しなだれかかった女が甘える。さっきまではいい気分だったのに、今は酷く腹立たしかった。懐から金を引き出して押し付ける。女は戸惑ったようすだったが素直に受け取った。
宴会状態になっている部屋を苦労して歩いて、廊下へ出た。襟元を直しながら階段を降り、店の外へ向かう。ここまで歩いてきたのなら追いつくのに時間はかかるまいと高をくくっていたのが、そもそもの間違いだった。
歩きながら考える。彼女の悲しみに潰れた顔。それを思い出すと胸がほの暗く満たされた。
探しに来てくれた。
早足で歩きながら女の後ろ姿を探した。さきほどは暗がりで良く見えなかったが、彼女は泣いていたような気がした。そんなはずはない、と思う。でも、もし自分が他の女と居るのを嫌だと少しでも思ってくれたなら、と、そんなことを考える。
歩幅は自然と大きくなる。風景がどんどんと後ろに流れていくが、そのどれにも見知った姿は無かった。だんだんと不安が胸を襲ってきて、最後は嵐のように膨れ上がっていく。
目があったとき、彼女は何かを言っていた。夜は目がうまく見えないからなんと言っているのか定かでは無かった。いても経ってもいられずに、早足で村を後にした。ここまできても女の姿は無かった。ちゃんと話がしたい。勝手に居なくなって、しかも当てつけのように匂いを付けてきたのでついかっとなってしまったが、だんだんと冷静になってくると自分も悪いのではないかと思えてきた。何より証拠が薄い。予想で決めつけて頭ごなしに怒ってしまった。店の者にそれとなく話してみたら、明るく笑いながら「最低」と言われ、表面上は笑って流したが内心では焦っていた。
夜道を走り続けて、足はくたくただったが休むことなく山を登った。普通の人間だったらとっくの昔に根を上げているだろう。何度も通った曲がり角が目に入りほっとした。予想よりずっと早く着き、人ならざるものでよかったと、息を整えながら見慣れた小屋に入る。
だが扉を開けた瞬間、絶句した。てっきり先に帰っていたと思ったのに、主はいなかった。室内は薄暗く、人の気配が無い。無駄だと分かっているのに目を凝らして端から端までよく見てみる。
「どこかで追い越してしまったのだろうか」
きっと待っていればそのうち返ってくる。そう楽観し、薄い布団に身を滑り込ませる。全身が疲れているせいか眠気はすぐにやってきた。
それから、数日が経ったが主は帰ってこなかった。一人ぼっちの布団は嫌に冷ややかで、横たわりながら闇を見つめる。朝方になって太陽の光が扉から細く差し込むころに、少しだけうとうとすることができた。
こんな時は決まって夢を見た。夢の中では仲良く笑いあっていて、そのぶん、目が覚めると絶望した。もしやという疑惑は一日が経ち、三日目あたりから確信に変わった。
内側に膨れているのは後悔と自分自身に対する怒りだった。衝動のまま台所に置かれている鍋を掴んで床に叩きつける。鉄で出来たそれはけたたましい音を立てたが、壊れることは無かった。荒く呼吸をしながら部屋を見渡す。
帰ってくるという希望と、もう戻ってこないという絶望が魚のようにぐるぐるとしていた。主がいないなら存在する意味はない。だが元の本丸に戻るという選択肢は無かった。居場所がわからないまま闇雲に探しまわっても見つからないということは、過去の経験で痛いほど身に染みていた。だからここで待つことにする。
じりじりとした焦燥は時が経つにつれて諦めに変わっていく。時間がありすぎるということはまさに地獄だった。四六時中、女のことを考えて、ときどき幻聴まで聞こえた。
カタ、と音が鳴って、勢いよく顔をあげる。いつの間にか主が畳に座っていた。正座をしながら何となしに髪の毛をいじっている。いつの間にと不思議に思ったが、胸は喜びでいっぱいになった。
手を伸ばしてすぐ、相手の左手首に紐がないことに気がついて、気持ちがみるみるうちにしぼんでいった。
「からかいにきたのか?」
式神は答えない。質問の意味が分からなかったのか、小首を傾げている。
「無様だろうな。存分に笑え」
「まだ何も言ってない」
呆れたように女は言った。礼儀正しく正座をしながら楽し気に呟く。
「どうしたの。順調なのかと思ってた」
「順調なものか。主は彼奴と会って、沢山の匂いをつけて帰って来たのだ。あれほどの匂いは、肌を重ねなければつかない」
項垂れる膝丸を横目に、女は空を見つめた。天井の木目を数えているようにも、頭蓋の裏を覗くような仕草にもみえる。
「うーん。そんなことないみたいだよ」
「なに?」
「だがら、主様は、貴方しか知らない」
膝丸は顔をあげる。瞳に困惑が広がった。
「白狐は天邪鬼だし性格が最悪だから、わざと匂いをつけたんだよ。どうせそれも幻。膝丸が嫉妬するのを見越してやったんだと思う。あはは。二人とも、まんまと引っかかっちゃったねぇ」
かわいそうに、と他人事のように呟きながら鋏で薪を突いている。
「そんな」
全て勘違いだった。頭を抱えながら唸る男を横目に式神は薪を囲炉裏に投げ込んでいる。少々勢いが良すぎて、灰が空に舞った。やがてそれにも飽きてしまったのか、膝丸の肩を揺さぶる。
「散歩しない? 今日は月が綺麗だから」
「悪いが、今はとてもそんな気持ちにはなれない」
勝手に暴走して馬鹿みたいだと、項垂れる男にはかまわずに、式神は手をぱんぱんと叩きながら灰を落とす。
「さあ急いで。いくよ」
強引に男の手を掴んで立ち上がらせた。困ったような笑い方が主とそっくりで胸が締め付けられる。結局散歩をすることになり、外に出て、突き当りの別れ道を右に曲がる。式神は本当に彼女とよく似ていた。黒い髪が歩く度に揺れている。手を後ろ手に組んで、リラックスしたようにふらふらと所在なく歩く。上ばかり見ているから、何か面白い物でもあるのかと尋ねたら、流れ星を待っているのだと式神は言った。
暫く歩くと川が流れているのが見えてくる。女はちらりとこちらに視線をやると、すぐに土手の方へ足を向けた。秋の夜風が心地よかった。今日は月の明かりで道が良く見える。虫の声が聞こえる。心が切なくなるような、そんな秋の夜だった。
「私、めそめそした人って苦手なんだよね。主様の居場所、教えてあげようか? 知りたいなら」
しんみりとしながら歩いていると、数歩先を歩いていた女が振り返り声をかける。そういえば忘れていた。洞窟に行った際も、彼女の案内で会うことが出来たのだった。心臓に奇妙な痛みが走ったが平静を装って、品定めするような瞳と向き合った。
「あぁ。知りたい。とても」
式神は何も答えなかった。またゆっくりと歩いていく。後ろ向きのまま、静かに足を動かす。目線は重なったままだ。脇には堀があり、足を踏み外して転んでのではと心配したが、それは杞憂だった。
背中に変な汗が浮かぶ。彼女が何か口にする前に、先に言葉が零れて落ちていた。
「寂しかった。ずっと一緒に居るのに、一人ぼっちのような気がしていた」
自分の口から出てきた言葉に、自分自身で驚いて足が止まった。彼女は不思議そうに、そして半分興味を持ったように首を傾げる。続けて、と、口の形が動いた。
「一度もらえたら、もっと、もっと欲しくなる。自分の向けているものと、同じくらいのものが」
「心が欲しくなったんだね」
たった三文字の言葉が、心臓の真ん中に落ちてくる。パズルのピースがかち合う音が聞こえた。内側に光が差すようだった。
腰に刺さっている刀を握り、膝丸は式神と向き合う。
「主の居場所を教えてくれ」
「だめ。教えてあげなーい」
くるりと回りながら軽い足取りで逃げていく。あわてて後を追った。いつの間にか土手にはたくさんのすすきが生え、白く光っていた。みるからに柔らかそうな穂が風に揺れている。
細くて静かな背中を一生懸命に追いかけた。あともう少しで捕まえられる――という瞬間、彼女は蝶のようにひらりと体を捻って逃げてしまう。必死に手を伸ばして、何度か繰り返していると、手に確かな感触が伝わった。
「やった! つかまえたぞ!」
式神は驚いた顔をして、信じられないというように、掴まれた腕を見つめた。白い肌を握る男の手は、ひび割れてかさついていた。一向に離そうとしない膝丸をみて、式神はくすくすと笑う。
「主様のこともそうやって捕まえとけばよかったのに。……安心して。そんなに遠くには行っていないよ。住み込みで働いているから、すぐには出ていけない」
「どういう意味だ?」
式神はしまったとばかりに口を押さえる。
「だめだめ。自分で探さないと」
もう帰ろう、とにこりと笑いながら、女は手を握る。小さな手だった。
「君。いつもありがとう」
「どういたしまして」
しみじみとした口調に式神は笑い、楽しそうに返事をすると、子どものように繋いた手を振りながら道を歩いた。