見渡す限りの砂丘を見つめていると、どこか違う国に来た感覚がした。隣にいる膝丸が眩しい物を見るように瞳を細くしている。砂の山の間に白い線が伸びていて、手を広げて深呼吸をすると、潮の香りがした。
「海は初めて?」
膝丸は頭を振ったきりこたえなかった。かたくひきしぼった口元が緊張をたたえている。腰に差さっている太刀を目にして、昔の記憶がなだれ込んできた。
膝丸は自分で顕現した刀では無かった。彼を見つけたのは本当に偶然で、不思議な出会いだった。
彼は戦場にいたのだ。それも、崖に突き刺さっていた。出陣した男士たちが帰り道に刀を見つけてくることは時々あったが、自分自身で拾ったのは初めてだった。
あの日、私は政府の手伝いをしていた。全てが終わったあと、なんとなく丘を登った。さんざん雨に打たれながら草を踏みしめる。
何も考えていなかった。ただ高い所に行きたくて、帰る前に一目でいいから海が見たかった。世界は血にまみれて、おまけに空は黒雲が立ち込めていたけど、海だけは綺麗なのではないかと思ったのだ。
実際、海は綺麗だった。崖の上にたどりついたわたしは鳥のように手を広げる。遠くで雷が鳴っていた。雨は勢いを増し、容赦なく肌を叩き痛いくらいだった。落ちてくる雨粒が、染み付いた返り血を洗い流してくれる。
ずっと耳鳴りがしていた。
崖のぎりぎりまで足を動かす。つま先が海に溶けていきそうだと思った。後ろから風が吹いたら海に落ちてしまうだろうという場所で立ち止まり、心臓の鼓動に耳を澄ませる。思いのほか静かで穏やかだった。唐突に分かってしまった。自分がどうしたいのかを。
少しばかり前のめりになって崖の下を覗き込んだ。鋭い光が反射し、そこにあるはずのないものが目に飛び込んできて、眉をよせる。
崖に刺さっていたのは、一振りの太刀だった。
どうしてこんなところに。疑問とともに胸をみたしたのは純粋な好奇心だった。場所が悪くて触れるだけでとても苦労したし、何度か海に落としてしまいそうになったけれど、腹を地面にべたりと付けて何とか刀を引っこ抜いた。
大きな刀を空にかざす。潮風にあてられていたせいか、まんべんなく錆びていた。茶色く濁っていて、とても使い物にはならなそうだった。
無理だ。この刀は使えない。ここまで錆びていたら何も宿っていないはず。
残念だけど置いて帰ろう。そう思い静かに切っ先を地面に向け元の場所に戻そうとすると、右手に痛みが走った。
急に触れている所が燃えているように熱くなる。驚きに目を見開いて刀を見つめた。いまだ熱は収まらない。明確な意志を持って訴えかけているように感じた。置いて行くなと訴えているみたいに。
深呼吸をして、左手を刃に這わせる。柄から先のほうまでなぞっていくと、触れた所から錆が取れて見違えるほどに綺麗になった。
どんどんと気が吸い取られていく。もしかしたら全ての力が無くなって気絶するかもしれない。こんな戦場のど真ん中で眠ってしまったら、きっと命にかかわる。
だけど、手を止めることはしなかった。数分前の自分を思い出す。別に崖から飛び降りても、ここで倒れても、結果は同じだと思った。
とうとう左手は切っ先まで届いて、刀は錆が取れて本来の輝きを取り戻した。ため息が出てしまうほどに美しい。瞳を閉じて普段のように暗闇へ問いかける。心の中で呼ぶと、微かに答える声が聞こえた。
やわらかな風を感じて瞳を開ければ、目の前に一人の青年がいた。まっすぐな瞳でこちらを見つめている。薄い緑色の髪が片方の目を隠しているが、海から風が巻き上げて両目が露になった。
透明な瞳に息を飲む。強い意志を感じた。心が持っていかれそうになってしまいそうだと思った。
無言で対峙しているうちに、雨が激しさをましていく。みるみるうちにお互いの髪が濡れ、服の色が濃い色に変わっていった。しかし、男はそんなことなど気にしたようすもなく静かに佇んでいた。
口がきけないのかと思った。硝子みたいに澄んでいたけれど、まるで本当の刀のように瞳に色が無かったし、なにより、言葉を話そうとしなかったから。
こちらも特に話すことも無くて――というより疲れていたのであまり頭が回らなかった。何となく見つめ合っていた。男の美しい顔に雨が容赦なく降りそそいで、目の端を伝い頬へ落ちていく。流れる水の筋が、まるで涙の跡のようだった。
男士が顕現されたときの文言を口にすると、相手は小さな声で了承する。曖昧に笑いながら、動揺を悟られないように静かに背を向ける。本丸に戻ろうと足を踏み出すが物音がしなかった。不審に思って後ろを振り向くと、男はその場に佇んだまま地面に視線を落としていた。体が小刻みに震えている。寒さのせいか、もっと別のものからか分からなかったけれど、心に訴えるものがあった。
「どこか痛いの」
男は答えない。
困惑しながらも左手をそっと差し出せば、気配に気が付いた彼はゆっくりと顔を上げ、手のひらに視線を落とした。暫く迷ったように瞳を揺らして、恐る恐る手を伸ばしてくる。
乗せられているだけのそれを引き寄せるようにして強く握る。大丈夫だという意味を込めて一度だけ力を込めれば、膝丸は安心したようにほんの少しだけ笑った。
いつの間にか雨は勢いをなくして、世界が明るくなっていた。細い雨が、糸のように地面に落ちている。黒い雲が割れ、切れ間から光が差し込み、天使の梯子みたいに降りていた。
すがすがしい気持ちのまま、優しく手を引いて丘を駆け下りる。
記憶の波に身を任せていると、気づかわし気に呼ばれる。何度目かのそれでやっと意識が現実に戻ってきた。取り繕うように笑うと、膝丸は苦笑いを浮かべる。
「今回も笛を?」
珍しく明るい声で男がたずねる。否定しながら荷物をまさぐった。膝丸はそうなのか、と落ち込んでいた。前回の笛吹きをよほど気に入ってくれたみたいだった。
指先に硬い物がふれて、風呂敷の中からあるものを取り出す。
「今回は、舞を踊ります」
ごにょごにょとした口調になってしまったのは、頭の奥で、過去の記憶が蘇ったからだ。神楽は取り立てて得意な方じゃなかった。むしろ苦手だったかもしれない。いつも兄のほうが上手いと言われていた。――うまくて、優秀だと。
芋づる式に、他人から告げられたあれこれを思い出して、気分はどん底になってしまったが、そんなことはつゆとも知らない膝丸は、顔をぱっと明るくさせた。
「舞か。いいな。今から楽しみだ」
「プレッシャーになるから、あんまりそういうこと言わないで」
奥にあった一本の榊を取り出してしげしげと眺める。まだ実のついていないそれは、先端が針のようにとがっている。葉に付いた細かいゴミを取りのぞきながら幼いころのことを思い出していた。小さい頃の自分は地面ばかりを見つめていた。顔を上げても現実は暗かったので、まだ土を這うミミズとかを見ていたほうが、気が楽だった。
「膝丸は目を瞑っていて。今回だけは、お願い」
「しかし……」
「お願い」
決定事項のように告げると、膝丸はびくりと体を震わせ、分かったと勢いよく頷く。彼はいつも悲しい気を使っている。鬱陶しいと思うことも沢山あったけれど、(例えば距離が近いこと。ときどき無意識に腰に手をまわしたりもする)物の宿命かと思って割り切っていた。個体差もあるのかもしれないが、自分の拾ってきた彼はとりわけその意識が強いようだ。
すでに巫女服に着替えていたのであとは実際に踊るだけだった。なお未練がましく視線を送ってくる男を睨みつけると、渋々と言った様子で瞳を閉じる。
踵をかえし浜に向かった。
風の音が聞こえる。そして砂の音。
砂丘が朝日を受けて光っている。――風の通る道筋のままに筆でかいたような線がいくつも生まれていた。少しだけ歩いて平たい場所へ向かう。振り向いて後ろを確認するが、膝丸は先ほどと同じ場所にいて、眉間に皺を寄せながら律義に目を閉じている。別に目を開けていてもばれないのに、その誠実さは好ましいと思った。
ここだという場所で足を止める。
榊を持って深呼吸をひとつすると、途端に音が遠くなる。
記憶も、過去も、潮騒が攫っていってしまう。
そのまま。心のままに動いた。手は空を裂く。または一本の道を生む。時間が経っても、体は覚えているのだとあらためて実感した。何にも見張られず、誰にも評価もされない場所で踊るのは初めてだった。心がどんどんと透き通っていくようだ。楽しい。ずっと、こうしていたい。
夢中で体を動かしているうちに一連の動きは終わってしまい、ぼーっとした、瞑想をしているときと似た感覚になった。充足感に満たされつつ顔をあげる。
はるか遠く、砂丘の頂上に白い虎がいた。毛並みは銀色で、太陽の光を受けて星のように輝いている。足は丸太みたいに太く黒く鋭い爪が覗いていた。
海をうつしたように碧い瞳が私を見つめている。
榊を胸に抱いたまま一礼をすると、海のほうから風が吹き、次に顔をあげたときには姿が無くなっていた。
足元で光が反射したので視線をそこへ向ける。小さな黒い石のような物体が落ちていた。そっとつまみ太陽にかざす。宝石みたいにきらきらと光っていた。爪の先端のようだった。
そっと袂に仕舞っているうちに後ろから「あるじ」と呼ぶ声が聞こえたので、慌てて振り返った。柔らかい砂を蹴って走った。
「ごめんごめん、終わったよ」
駆け足で戻ると、膝丸は歯を食いしばって何かを耐えていた。
「もう目を開けていいか」
今さらながら、今が逃げるチャンスだったと気が付いた。すっかり忘れていた。膝丸は私が置いて行ったのではと不安に感じていたのだ。
何となく気まずくなりながら声をかける。
「大丈夫。成功したよ」
言い終わる前に彼は目を開け、体の中身を出し切るように息を吐いた。目の端が赤くなっている。何か言いたげに口を開いたので、小言が飛び出してくる前に頭に手を伸ばした。
「待っていてくれてありがとう」
ぽんぽんと腕を叩けば、瞳が細くなった。
「童のように扱うな」
と、不満げに呟く声が思いのほか優しいものだったので、ひとまず安心する。
その場で大きく伸びをする。なかなか疲れた。
「次はどこへ」
「うーん、南のほうかな」
膝丸は特に反対もせずに頷く。
あとは、日が暮れるまでひたすらに砂浜を歩いた。太陽が真上に来て、それがまた地平線に沈むころ、休むのにちょうど良い小屋を見つけた。
「誰かいますか……?」
そろそろと引き戸を開けながら声をかけてみる。返事は無く、中はがらんとしていて、人の気配も、生活をしていた痕跡もない。しんと静まり返っている。長い事空き家だったのだろう。いたるところに蜘蛛の巣が張っていた。
「今日の寝床はここになりました」
中に手をさしだすようにして告げると、膝丸は少しだけ笑った。
近くにあった竹の箒で、簡単にそこらを掃く。膝丸は綺麗になった場所にそっと腰を下ろした。布団は無かったので硬い床に直接寝ることになる。でも、屋根があるだけましかもしれない。
「少し外を観察してくるね」
観察というのは建前で、夕日を見たいと思った。室内を見渡していた男の背中に声を掛けると、「俺も行く」と焦ったように言いながら付いてきた。小屋に居るとそこまで分からなかったけれど、外にでると潮騒の音が良くとどく。歩くたびに砂が足にまとわりつく。ふかふかとした絨毯のうえを歩いているようだった。途中で振り返ると砂浜に二人ぶんの足跡が、線路みたいに続いていた。
砂浜の頂上に着いたところで腰をおろす。砂はほのかにあたたかかい。
太陽が丁度海に沈んでいくところで、空が赤く燃えている。
ポケットのなかから、神様が落としていったものを取り出す。黒曜石に似た爪が夕日を反射していた。物珍しさもあり、しばらく眺めていたが、なくしては大変なのですぐに懐に仕舞う。
膝丸は隣で夕日を凝視していた。
「そんなに真正面から見たら目が見えなくなっちゃうよ……って、大丈夫?」
顔面が蒼白になっている。どこか体調が悪いのだろうか。寒気を感じているかのように体が小刻みに震えていた。膝丸は、なんでもないと言いながら俯いた。しきりに指先と刀に視線をめぐらしている。
「本当に大丈夫?」
「平気だ。気にしないでくれ」
「戻って休んだほうがいいよ」
潮風が髪を撫でていく。太陽は海に沈んで名残のように淡いピンク色の光が広がっていた。すぐに暗くなってしまうだろう。でももう少しだ、こうしていたかった。
背中から倒れ込むようにして寝転がり、瞳をとじた。体全体で海を感じていた。砂は柔らかく体が沈みこむ。もし私が野生の生き物だったら、このまま眠っていたかもしれない。
力なく砂に置いた腕に何かが触れ、目を開けると金色の瞳とぶつかった。男が覆いかぶさっている。顔のよこに手が置かれ、細かい砂が握られる音が耳の近くでした。
静かに顔が寄せられて唇が熱くなる。自然と目は閉じた。
閉じた瞼のさき、暗闇の向こう側に赤い丸が浮かんでいる。きっと夕日を見すぎたのだろう。残光は炎のように揺れて、なかなか消えてくれない。
絡めた指先に力が籠る。啄むような口づけは回数を重ねるたびに獰猛なものに変わっていく。
神社での一件から、たまにこういうことをする。手入れの一貫だと思っているのだろうか。何の相談もなしに顔を寄せるのでそれに答える。単なる口づけが深いものに変わるまで、そう時間はかからなかった。
白い手を伸ばして頬に触れると、よく鍛えられた体が大きく震える。瞳が悲しみで満たされて、切なそうに眉がよるのがわかった。
「あたたかい」
白い魚のような私の手を包みながら、膝丸が呟いた。縋るように頬擦りをする。複雑な気持ちで見守っていると、頭がどんどんと落ちてきて、やがて胸元で落ち着いた。心臓の鼓動をきいているみたいだ。
「抱きしめて欲しい」
背中に腕を回し弱い力で抱き寄せる。優しい香りがした。その向こうに、落ち葉のような男の人の匂いがする。
「もっと、もっと強く」
強請るように言われて、まわした腕に力を込める。きついくらいに抱き締めると、男は安心したように目を閉じた。
「どうしたの? なんか様子が変だよ」
「怖い。足元から世界が崩れていきそうで」
何を言っているのだろう。二人ぶんの重みで砂の形が変わる。膝丸は疲れていたのかぐったりと身を預けてきた。成人男性の体はなかなかに重くて、我慢していたけれど、とうとう苦しくなり肩を押せば、相手は名残惜しそうに上体を起こした。
立ちあがり服を叩いて細かい砂を落とす。日はすっかり沈んで、風は冷たいものに変わっていた。空は藍色に変化している。
道を戻る間、膝丸は何も言わずに黙ってついてきた。心配になって横目で確認すると、どこか虚ろな表情をしていた。
ガタガタとうるさい戸を引いて小屋の中に入る。部屋は窓が小さくほとんど光が入らない。戸を閉めると真っ暗になってしまった。
特にやることもないので床に上がり、もう寝てしまおうと横になった。持ちあるいている薄い布を体に巻き付けるが、すぐ隣に横たわる男に同じものが無いということに、今さらながら気がついて、恐る恐る声をかけた。
「あの、良かったらどうぞ」
なんとなく他人行儀な口調になりながら相手の体に布をかける。膝丸は驚いて、いらないと頭を振った。
「君が使ってくれ。ひとつしかないのだから」
「いいから」
「俺は頑丈だから大丈夫だ」
「だって、また震えているよ」
むなしい押し付けあいに止めの言葉をかけた。狼狽える男を横目にある考えが浮かぶ。
「じゃあ一緒に使おうよ。膝丸が嫌じゃなかったら」
男は衝撃を受けたように固まっていた。散々迷っていたけれど、「はやく」とせかせば体をするりと潜り込ませてくる。目があったのは一瞬で、すぐに反対側を向いてしまった。何となく振られてしまったような心地になって、ぼんやりと肩を見つめる。
さっきの言葉を思い出して静かに手を伸ばす。細い腰に触れた瞬間、大げさに体が跳ねた。特に嫌がるそぶりが無かったので回した腕に力を込める。布を巻き付けるようにしながら背中に額を押し付けた。
暫くそうしていたけれど、衣擦れの音がして、優しい温もりに包まれる。気が付くと立場が逆転していた。抱きしめていたはずなのに、今は力強い腕の中にいる。
ぺたりとつけた頬の向こう側から心臓の鼓動が聞こえた。そっと背中を撫でると拘束が強くなって少し苦しい。
「眠ろう」
と、優しい声で男がいう。