雪が降ると何となく嬉しい。首が痛くなるほどに上を向いて真っ白な空を見つめる。空気は肺を切るように冷たい。吐く息は白く形を変えて、やがて消えていく。
どのくらい経ったのだろう。じっと空を見つめていたら、上から白い花びらのような雪のかたまりが落ちてきた。手のひらを上にして受け止めると、とけるように消えてしまう。
雪はあとからあとから降ってきた。手に持っていた箒を握りしめる。境内の入り口にある長い階段を掃き清めてひと段落したところだった。指先は白くなっていて、もうずっと前から感覚が無い。
膝丸と喧嘩をしてから早いものでひと月が過ぎていた。木々の葉が紅葉に彩られたと思った数日後に徐々に落ちはじめ、やがて枯草ばかりになった。季節が過ぎるのはあっという間で、いつも取り残される。
結局、仲直りはできなかった。あれからだいぶ平穏を取り戻すことが出来た。最初は不安で眠れず、寂しさで心臓が潰れそうだった。ひと月、いや、もっとかもしれない――そのくらいの時間を一人で過ごし冷静になってみると、膝丸と過ごしていた期間のほうが夢だったのではないかとさえ思えてくる。やはり大切なものなど無い方が気楽でいい。離れてからなおのことそう感じた。
両手を広げてみる。ひび割れて女らしくない手のひらだ。これでいいのだと自分に言い聞かせる。
遠くから神主さんが呼ぶ声が聞こえた。それに返事をしながら、薄く雪の積もった階段をのぼる。
本殿の手前で神主さんが立っていた。初老の男性で、頭はほとんどが白髪にかわり、笑っていても普通にしていても、目がたれている。彼は雪の中で細かく震えながら、私が来るのを待ってくれていた。
「お待たしてすみません」
急いで駆け寄ると、彼はいいと首を振って、くるりと背を向ける。そのままぐんぐんと庭を突っ切って行ってしまうので、手に持っていた箒をどうしようと考えていると、「戻してきなさい」と声を掛けられた。
一度物置に箒を返してから神社の奥にある自宅へと向かった。もうすでに神主さんの後ろ姿は無かった。寒さに耐えられなかったのだろう。冬が来る前から、寒さについて憂いていた。
小屋の引き戸を開けて靴を脱ぐ。部屋の中も相変わらずに寒かったが、気にせずに壁沿いに備え付けられている洗い場で手を清めた。振り返った先には背を屈めて火鉢に手を当てている姿が見え、何となく実家を思い出してしまった。
一段上がった居間へと向かい、比較的清潔な畳に腰を下ろす。何となく緊張しながら正座を作っていると、神妙な顔をした彼は、重々しく口を開いた。
「悪いが、出て行ってくれないかな」
一瞬、何を言われたのか分からなくて言葉に詰まった。聞き間違いで泣ければ、出ていけと言われた。どうして。先日はあんなに喜んでくれたのにと思っていると、彼はまたもや口を開いた。
「貴方は神に魅入られやすい。ここへ呼ばれたのも偶然じゃない」
いまいち何を言われているのかわららなかった。どこかで聞いたことがある気がする。
「ここの神様も、貴方を気に入っておる」
言いながら、彼は天井の端から端までを見渡す。まるで誰かに聞かれているのを怖がっているようだった。右へ左へ、ひっきりなしに目を配る。嘘ではないと感じた。恐怖が伝染し寒気が襲ってくる。
「そんなに悪いものですか」
確かに誰かにみられているような気がしていた。濃厚な気配がする。障子の向こう側から視線を感じる。
「神といってもいろいろある。神格の高いものも、そうでないものも」
囲炉裏の炎がゆれ、どんどんと細くなっていく。糸のような炎が風の無いのにぐらぐらとゆれる。あっけにとられていると、白衣の上から誰かの手を感じた。
「あっ」
肩口から確かめるように二の腕をすべる、大きな手。
「分かりました。早い方がいいと思います」
気配を振り切るように声に出す。蝋燭の火は元通りの大きさになっていた。
本音を言えばすぐにでも立ち去りたかった。しかし荷物を纏めているうちに次々と仕事が舞い込んで、出発の日にちはずるずると伸びていった。
今日も、神事や、はたまた占いじみた依頼などが立て続けに入った。話し合いをしてから急にこうなったので、神主さんと二人、目だけで語った。あきらかにおかしい。見えない意図を感じる。だけど、それを口に出したら現実味が増してしまいそうだったので、お互い気にしてないふうを装った。
夜になり、重苦しい気配の中でうとうとと微睡んでいると、部屋の景色が歪んだ。意識が夢と現実を彷徨っている。そうしているうちに闇は深くなっていった。
気が付くと目の前に囲炉裏があった。ここはどこだろうと周りと見渡す。夢を見ているのだろうか。ぼんやりとした頭で考え、ここがどこかすぐに思い至る。少し前まで住んでいた小屋だった。
不思議なことに、記憶よりもずっと部屋は散らかっていた。あまりの変わりように、目を丸くしてしまう。
立ち上がり、草履を履いてから釜戸の近くへ向かった。そこはとくに酷いありさまだった。鍋は悲しく地面に落ちて、傍に置いていた干物はなぎ倒されて床に散乱していた。そっと調理台に触れる。長く使用していないためか、うっすらと埃が指についた。心を奇妙にかき乱されながら部屋の主を探す。案外すぐに見つかった。
奥の寝室の壁際に体育座りをしている男がいた。黒っぽい戦装束を身に纏っている。懐かしい姿だと思った。刀は目の届く場所に横向きでおかれている。つるりとした鞘が外からの光を受けて輝いていた。
閉め切られた部屋のなか、時間さえも止まったような空間で、男は一人体育座りをしたまま扉の方を見つめていた。とはいえ焦点が定まっていない。
何となく視界に入るのが嫌で、大回りをして近づく。自然と足音を殺した。所詮夢なので、そんな気を使わなくてもいいのに。ばかばかしいと思いながらも、なぜか心臓が早鐘を打った。
傍にしゃがみ込んでまじまじと観察する。明らかに顔色が悪かった。何日も寝ていないのか、目の下には隈がくっきりと浮かんで、唇はところどころさかむけていた。
袖から覗く腕が目に入りぎょっとした。酷く痩せている。これで刀を握れるのか心配になるくらいの細さだった。そっと手を伸ばして、薄く柔らかな色の肌に触れる。普段だったら反応を示すだろうに、彼はピクリとも動かない。
肌の感触が懐かしい。指先でほんの少し触れただけで、左の手首がちくりとしたが、かまわずに瞼の下を静かになぞった。
「こんな風になるなら、一緒にいるべきじゃなかったね」
思わず零れた言葉のあまりの残酷さに自分自身で打ちのめされながら、手を引き抜こうとする。が、それは叶わなかった。手首をしっかりと握り込まれている。体に電気が走ったように動けない。
二つの金色が闇の中で輝いている。ぱちと瞬きをすると、彼は握った手に顔を寄せた。驚いて猫のように固まる私を置いて、流れのままに頬に触れさせる。
「これは夢か。それとも現実か」
震える声で問いかけられて、思わず反射的に頷いてしまう。すると男の腕からすっと力が抜けた。これは私の夢だけど、と心の中で呟きながら、あいまいに笑った。膝丸はひとしきり手を握ったり裏返したりして感触を確かめていたけれど、それもやめて、改めて向きなおった。暫く迷っていたけれど、静かに身を寄せてくる。
上から影が落ちてきて、優しくて懐かしい香りがした。男の肩に顔を埋めて広い背中に腕を回した。温もりや、匂い、声。全てが懐かしかった。
「君、聞いてくれるか」
「うん」
何度か深呼吸をして男は腕に力を込めた。
「酷い事を言ってしまって、本当に申し訳なかった」
「うん」
「八つ当たりだった。もう二度としない」
「私の方こそごめんね」
震える体を撫でながら返す。肩口に冷たいものが落ちてきて身を竦める。男が泣いていたのだった。
「ちがう、違う……。君は誤解している。俺は何もしていない」
「私だって! 無実だよ」
体を勢いよく離し抗議すると、膝丸は話を遮るように手を顔の前にやった。
「分かっている。全て。だから、こんな場所で喧嘩するのは止めよう」
それもそうだと頷いて、開きかけた口を閉じた。
「膝丸。ここなんか変。別の場所に行こう」
寒々しい和室に目を配って、手を取りながら腰を浮かせる。ここにいては駄目だと直感的に思った。閉められた扉の間から細い光がさしている。
のろのろとした動きで立ち上がると、男は立ちくらみを感じたようにぐらついていた。慌てて体を支えると、小さな声ですまないと呟く。危なっかしいので手を引き、靴を履いて、外にでると光が目に飛び込んできた。かさかさと足元で音がして下を見ると落ち葉が敷き詰められていた。
「ここはどこ?」
いつのまにか隣に並んでいた膝丸は空いている手を顎にあてて考える素振りをしていた。そしてはっとして振り返る。
「京都かもしれない。俺は君と紅葉を見たいと思っていた。それまでに帰ってきてくれないかとずっと願っていたんだ」
せっかくなので散歩をすることにした。最初の風景は完全に山の中だったけれど、道を曲がったら唐突にお寺が現れる。奥の方に朱色の橋があり、奥には大きな湖が広がっていた。しゃがみ込んで落ち葉をつまむ。枝が針みたいに細くて五枚の葉っぱが付いていた。
「こんなタイミングで言うことじゃないかもしれないけど……仕事、首になっちゃった」
「本当か⁉︎」
「ひっ」
急に肩を掴まれて驚いて振り向くと、目に涙を浮かべた膝丸が見つめていた。戸惑いながらも頷くと、桜がひとつこぼれた。
「だから、戻ってもいい? 膝丸が許してくれればだけど」
「良いに決まっている!」
両手に力がこもっている。痛みに顔を顰めると、男は慌てて力を抜いた。申し訳なさそうに肩を撫でながら、緊張した面持ちで息を吐く。
「君に直接会って、言いたいことがあるのだ」
「なに? 気になる。今言ってよ」
子供みたいにねだるが、彼は頑として譲らなかった。
「君はどこにいる。迎えに行こう」
「町から外れた先の――」
言葉がとぎれる。鈴の音が聞こえて、ものすごい力で手首を捻られた。吊られるみたいに体が伸びる。振り向いて確認するが何もない。確かに掴まれている感覚はあるのに、肝心の姿が見えなかった。体が森のほうへと引っ張られていく。何もない空間に裂け目が生まれていた。
「主!」
必死に手を伸ばしたけれど、後少しで届かなかった。腰に見えない手が腰にまわり強い力で引っ張られ、足が地面から浮いてしまう。
膝丸が刀を抜いている。
手を伸ばしたけれど、あと少しで届かない、
紅葉は消えて、闇で満たされた。
内臓が浮くような浮遊感を目を閉じてやり過ごしていると、ふいに地面の感触が手のひらに伝わった。遅れて重力が戻ってくる。カサカサと風の音が聞こえ薄く目を開けると、視界にさっきとは違う赤色が飛び込んできた。彼岸花だった。
うつ伏せの状態になっていると気が付いたのは、意識が戻ってからすぐのことだった。体を起こして辺りを見つめる。田舎の風景が広がっていた。近くには敷き詰められたように赤い彼岸花が咲いている。ここはなだらかな丘になっていて、下を見れば一本の道が見えた。そこを越えると大きな川が流れており、対岸に民家が二、三軒並んでいる。だが人の気配がほとんど無かった。田んぼがあり、さらに向こうには山が連なっている。
カナカナと蜩の鳴く声が響いてきて、夏の終わりころだと肌で感じた。流れる空気は少し冷たかった。太陽は地平線の向こう側へと沈もうとしていて、空を赤く染めている。上も下も真っ赤で、違和感が襲って来る。血みたいで、恐怖すら感じた。
ここはどこだろう。混乱していると、後ろから風が吹いて濃厚な獣臭が過った。立ち上がりざまに振り向く。体が緊張と恐怖で硬直した。
道の先に奇妙な生き物がいた。全体の形は人に似ているが、人ではないことはあきらかだった。身長が二メートル以上と大きく、でも僅かに腰を屈めていたので、きっと姿勢を伸ばしたらもっと大きい。服は色とりどりの布を合わせたような着物で豪華だ。裾が長くて手が隠れている。白いお面をかぶっているので顔は分からなかった。
じっと見つめ合ったまま、気付かれないほどのさりげなさで自身の腰に手をあてるが、いつも持ち歩いている刀がない。困惑しているうちに手が伸びてくる。長い裾がめくりあがって、細い枝みたいな指が見えた。動物の指だ。ちょうど猿の手に似ている。きちんと五本の指を揃えて、上から下へとすくうように動いている。
手をとれと誘っているのだとすぐに分かった。でも頷くことは出来ない。白いぬっとしたお面を見つめながら力なく首を振ると、手の振れ幅が大きくなった。しわがれたような老人の声が耳に届いて、俯いていた顔をあげた。
「ごめんなさい」
一歩後ろに後退ると、相手は二歩距離を詰めてくる。血のめぐる音が体の奥で鳴っている。風が止んでいた。目の前の生き物は足を一切動かしていないのに、するすると影のようについてくる。
「ついてこないで!」
揺れる枝のような指先が鼻先を掠めたところで相手の動きが止まる。奇妙な間のあと、視界が反転した。
群青色の空が広がった。あれ、と思った時には体が空中に放り出されていた。うつ伏せの体制で空中に浮いている。
かとおもえば、重力に沿って石ころみたいに落ちていった。体を捻って下を向けば、遥か下に彼岸花が咲き誇っていた。悲鳴は言葉にならない。地面が恐ろしい速さで近づいてくる。口を堅く引き絞って、頭を抱える。
地面がどんどんと近づいてくる。花びらが視界に収まったと同時に、襲い来る衝撃に備えて体を丸めた。
耳の奥で水を叩きつける音が響く。息が出来ない。目を開けると水の中にいた。訳が分からなくて混乱する。天井を見上げると光がカーテンのように差し込んでいた。無意識に空気を吐き出してしまって、さらに水を飲み込んでしまう。塩辛い水が喉奥を焼くようだった。さっきは空にいたのに、こんどは海の中にいる。訳がわからない。飛び出る空気の泡を押さえるように口元を塞いだ。
どうにかして上に行きたい。息が吸いたい。その一心で大きく手を動かしたとき、体が沈んだ。
見ると右足が引っ張られている。だが足には何も絡みついていない。只、掴まれているという感触だけが残っていた。
必死であたりに視線をめぐらした。隣は絶壁になっていて、むき出しの岩肌がある。出っ張った石を掴んだが脆く崩れてしまった。ひっぱれる力に抵抗するように手荒り次第にガリガリと爪で岩の壁を擦った。空しい努力だった。爪は割れて、針で刺されたような痛みが体を貫く。水に血の赤が滲んで糸のように揺れた。
悲鳴はごぼごぼとした水音に紛れてかき消えてしまう。嫌だ。死にたくない。よく分からない妖怪に殺されたくなんかない。
水面は果てしなく遠い。体は重く、海の底へと沈む。諦めと絶望が胸を満たし、海水の逆流する音の向こう側で、懐かしい声が聞こえた。
走馬灯が浮かび、いよいよかと覚悟する。よく見知った横顔。伝えたいことがあると言っていた。直接会ったら、必ず伝えてくれるとも。
突き出た岩に体を叩きつけられたけれど、必死に手足を動かした。空気がごぼごぼと吐き出される。
力が抜けて、瞼の裏に星が浮かんだ。
ちかちかと点滅する光を求めて手を伸ばす。咄嗟に星だと思ったけれどそうではないみたいだ。縋るように、岩肌に沿って手を伸ばすと、指先に硬い物に触れた。
それは刀の柄だった。良く見知った色。半分が崖に突き刺さっている。
助けて下さい。力を貸してください。
お願いします。神様。
足を壁に押し付け、全身の力を振り絞って引き抜く。見た目に反して、刀は面白いくらい簡単に抜けてしまった。水の中、刀身が光を受けて輝いていた。海の底は深くて暗く、闇の中から細い手が伸びて足を掴んでいる。切っ先を下に向けて、足首に絡まる黒い影を斬り捨てた。
風のような音が鳴り右手に衝撃が来た。
弾かれた衝撃で手から刀が抜け重力に沿って闇の中へと落ちていってしまう。海水の匂いが強くなった。体から離れた途端、美しい刀は先から錆びていく。
上を向けば水面が見えた。このまま上に行けば助かるだろう。どんどんと落ちていく刀が視界に過る。助けなければ。でも、これは夢だと言葉が頭の中をぐるぐると渦巻いている。
息が苦しい。もう何も考えられない。新鮮な空気を吸いたい。生きたい。
早く、早く、はやくはやくはやく。
岩を蹴り上げて白い光を見つめたとき、耳のすぐそばで声が聞こえた。
体が熱くなる。下を見ればほとんど錆びた刀が見えた。未だ落ち続けているそれはもう十メートルは距離がある。
体を下にして、底に向かって蹴り上げる。馬鹿だと思った。
体は沈み、ひとつ水をかくごとに意識は遠くなっていく。
荒い呼吸の音が響いている。視界に光がちらつく。土の匂い。潮騒が段々と遠くなり、変わりに蜩の声が迫ってきた。
手のひらから土の感触が伝わる。体が重い。肺が大きく膨らんでまた縮む。ひたすらに呼吸を繰り返した。息が吸える。むさぼるみたいに空気を吸った。
視線を落とすと、右手にはしっかりと刀が握られていた。良かった。安堵の息を吐きながら目を閉じる。
ガサ、と草の踏み締める音と共に顔をあげると、化け物がいた。夕日を背にして立っている。逆光で表情がよく分からない。だけど、怒っているということだけは伝わった。内側から発せられている怒気で空気が揺れている。枯れ枝のように細い指が伸びて刀を寄越せというように手を振っている。腰が抜けて動けない。
ゆらゆらと上下に動く指が近づいてきたとき、右手に素早く視線を送った。
本来の自分は、刀なんて扱えない。術でなんとかやり過ごしてきただけだった。今度こそ死ぬかもしれない。
「あげない。これは、私のものだ!」
力を振り絞って右手に力を入れる。深くて暗い緑の鞘。縋るみたいに手を伸ばしたとき、知らない手が視界に入った。後ろから手が伸びてくる。制するみたいに自身の手の上に重ねられた。
「間に合った」
いるはずのない人の姿が目に入って、思考が停止する。時間が止まったみたいだった。膝丸がすぐ近くにいた。この場の雰囲気に似合わない、優しい顔つきをしている。
空気を裂くような咆哮が響いて、細長い影が落ちた。体が強い力で引っ張られる。膝丸は腰を抱えたまま素晴らしい瞬発力で後ろに跳んだ。さっきまでいたところの地面が捲れている。彼岸花がぐちゃぐちゃに折れてしまっていた。
刀を手にした男はそっと腕の拘束を緩めると、左手に鞘を持って抜刀した。刀は太陽の光を受けて輝いている。
それからは一瞬だった。
長い腕を振り上げた敵の懐に弾丸のように突っ込んでいった膝丸は、持っていた刀を大きく斜めに振り落とす。流れ星のような筋を残しながら、獣の喉元に刃が食い込んでいき、小さな破裂音のあと、首が宙を舞った。
「目が覚めましたか!」
頭の上から声が聞こえる。
だるい。風邪をひいたときのように頭が重いし寒気がする。頬に手を当てると、酷く熱を持っていた。
あらためて周りを見れば、思ったより多くの人に囲まれており、驚いた。額に流れてくる汗を拭きながら何事かと聞けば、高熱に侵されて寝込んでいたのだという。神主は普通の風邪ではないとすぐに悟り、遠くへと運んでくれた。そしてありったけの人を集めてお祓いしてくれたとのことだった。よく見れば四方に白い物体があった。それは盛り塩だが先が暗く焦げて、使えなくなっていた。
ぼうっとしていると、休んでいる暇はないと彼らはくちぐちに言った。私が眠っている間、古屋の周りを黒い物体がウロウロと歩いて、中に入ろうとしていたのだという。
朝日が昇ると共に支度をして黒い扉を開ける。目に飛び込んできたものを見て、もう大丈夫だと思った。
すぐ近く、地面の上に茶色い焦げた枝のようなものがあった。鋭利なナイフで斬ったような断面。指は黒焦げて、力なく空を向いている。
落ちていたのは、猿の指だった。
やっぱり緊張する、と思いながらも、なんども通ったはずの山道を登った。今日は雪が降っていなくて、でも、空気は湿っている。山道に差し掛かると雪が道に残るようになり、空気が一段冷たくなる。野生動物の気配はなくて、音が聞こえない。しんと静まりかえっている。
歩きながら、何度も心の中でセリフを練習した。――ごめんね。戻ってきちゃった。仲直りしよう――想像の中の男は、無表情で私を睨んでいた。どんな反応をするだろう。今さら何をしにきたのかと糾弾されるかもしれない。でも、もう平気だった。仮に別れることになっても遠くで別々に生きることになっても、寂しくなかった。もしそうなったら、感謝だけ伝えて、さよならをしようと決めていた。
そうしているうちに見慣れた古屋が目に入り足が止まる。扉は当然のように締め切られていた。
もういないかもしれない。もといた本丸に戻ったかもしれない。足がすくんで動かない。どうしてこんなに恐怖を感じるのだろう。何を恐れているのか、正体がさっぱり分からなくて、ひとりで混乱した。
やめようか。動物みたいに跡を残さずに消えた方がいいのかも――と、扉の前の道の先でうじうじ悩んでいると、庭の奥から足跡が聞こえた。
人が歩いてくる。最初に見えたのは細い足だった。場違いなほどに明るい色の髪の毛が、朝日をうけて輝いていた。男は俯いていて、こちらのことなど気づかない。
手に沢山の薪を抱えていたから、裏の山で薪割りをしていたのと予想する。それでもなお声を変えることもできずに突っ立っていると、男がふと顔をあげた。
時間が止まったみたいだった。膝丸は口を引き絞っている。体を射抜くような視線から逃れたくて、下を向いた。逃げているみたいで嫌になる。
男は何も言わない。笑いもしないし、逆に怒りもしなかった。やっぱり怒っているのだと、何となく思った。たぶん、もう無理だ。
「あの。今までありがとう」
顰められた眉がピクリと動く。体から発せられる空気が恐ろしい。勇気を振り絞り大きく息を吸った。
「こっちも、色々あって。お別れも言えないままだったから。ちゃんと、けじめ付けなきゃ、と思って……」
弾けるように大きな音が響いて、びくりと体を跳ねさせる。何事かと思えば、男の手から薪が無くなっていた。それらは冷たい地面に転がっている。地面を跳ね、転がる薪など気にも止めずに、彼は長い足で踏み込んだ。
ぐんぐんと近づき片方の手が持ち上がる――殴られる、と思い身を竦ませた。仕方がない。さんざん振り回したのだから。当然の報いだ。一発くらい甘んじて受けようと覚悟を決め目を閉じると、不思議な衝撃がきた。
懐かしい匂いと、薄い布越しに心臓の鼓動が聞こえる。長い腕が腰に巻き付いていて、抱きしめられているのだと知った。
力が強すぎで苦しい。抗議の声をあげながら上を向くと、歯を食いしばり目をきつく瞑っている男の顔があった。感情を押し殺して、襲い来る何かに耐えるような表情を浮かべている。
とりあえず体を離そうと手を胸元に置いてみたけれど、無駄だった。逆に強く引き寄せられて壁がなくなる。あきらめて体を預けた。ひたすらに心臓の音に耳を澄ませる。
相手の体は震えている。空いている手を伸ばして背中を撫でると、それは大きくなった。
冬の空気は冷たくて空は白くなっている。もうすぐ雪が降りそうだった。
いくらか冷静さを取り戻した男が顔を寄せて耳元で何か呟く。最初は何を言っているのか分からなかった。声が小さかったからだ。何度目かで理解した私は、背中に回した手に力を込めて、「ただいま」と言った。